stylesheet

2023年11月22日水曜日

人類史俯瞰、ポストモダン - 経済学 IV

概要

宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス──「母性のディストピア」の突破口を探して(中編)|PLANETS

宇野常寛が"ゼロ年代の想像力"で語る「決断主義」は先行き不明な状況で決定的な情報がなくとも決めてゆく行為に価値を見出す。それは単なる状況分析ではない。時代が求める生き方、生き様であり、指針である。

無明瞭なものに基づく決断は、人間、いや全ての生命がこの星に誕生してからずっと強制されてきた事である。地球はその点では容赦しなかった。雨降り後のアスファルトを進むミミズは自分がどの方向に行けばよいか、知っている訳ではない。命を賭けた決断がある。

世界がスクリーンで遮蔽されているように感じる。先は見えず、後は霞んでいる。光の距離より遠い過去は観測不能であるように。幾ら進歩しようが超えられない法則はある。

世界がいつ始まったのか、神が世界を作ってからと言う者もいれば、キリスト以降と答える者も居る。マルクスが共産主義の理想を見出した時からと答える者もいる。

世界が始まる前に何があったのか。理想に取り憑かれれば、過去を濁流で押し流し、振り返ってももう価値はない。理想が照らす以前は世界は闇であったはずだから。孔子は過去に理想を見出したが、まぁ、話しの大筋は同じだ。

サブカルチャ

90年代からだろうか、サブカルチャという言葉が目立ちは始めた。スキゾパラノ(浅田彰:1984)という言葉もその頃に話題になった。それが何かは知らないが、時代を切り取った最先端のファッションだったとは思っている。マスコミを中心に特に首都圏で取り上げられた印象がある。その頃、柄谷行人の名も聞いた。

おたく(中森明夫:1983)という言葉は膾炙したが、おたくはある特段の分野を指す言葉ではない。この手の人は江戸時代にも幾らでもいたのである(国学等)。これをアニメーション、漫画という特定分野に照準しメインカルチャーとの対比で語ったのがこの時代である。浮世絵の価値は海外からの逆輸入であるが、アニメ、漫画の発見は少しハイブリッド気味である。海外から輸入した哲学をアニメ、漫画を題材にして語ったような所がある。

社会は変革する、その端緒を捉える最先端にファッションがある。新しい思想を語るには新しい服で決めなくちゃ。社会の変革を時代を代表するファッションで語る。ファッションが時代を彩るモチーフになる。批評家たちが持つファッションは時代の雰囲気を代表する。

80年代は、学生運動の明確な終焉期に当たる。敗戦の終焉でもあり、共産革命の終わりでもあり、冷戦の終わりも重なった。日本赤軍のあさま山荘(1972)で運動は潰えた。吉本隆明(転向:1959,わが転向:1994)は割と早く負けを見抜いた。

最後の転落(エマニュエル・トッド1976)、ソビエト帝国の崩壊(小室直樹1980)、などの預言通り、ソビエト連邦は解体された(1991)。

共産革命は日本だけを覆った思想ではない。アメリカもマッカーシズム(1945-1954)は避けえなかった。冷戦という時代に、マルクス主義の理想と実体は世界を席捲し、社会の深くにまで食い込み、そして終焉した。

マルクスの夢

マルクスは資本の独占がこの悲劇の原因と喝破した。経済を分析し労働や価値を研究し独占が起きない経済体制を考案する。何を独占するか、その結果として何が促進され何が停滞するか。それが社会をどう変えてゆくか。独占を補助線に社会、歴史、経済を考察した。

だから共産主義には歴史史観を置き換える力まで秘めている。資本の独占に対抗するには生産には資本だけでなく労働も必要である。ならば労働を使って資本の独占は防げないか。

そのためには労働者の力が資本家の力に匹敵する必要がある。なぜ資本家の力が強力であるか。それは資本家は資本だけでなく生産設備も独占しているからだ。この所有が労働力を設備に包括してしまう。

ならば、生産設備を資本家から切り離せばよい。

マルクスは共産主義を資本主義の次の到来する当然の革命と見做した。その慧眼は見事に外れたのであるが、ロシアで起きた革命は共産主義という経済体制を社会主義という政治体制で実現する試みである。

社会主義という政治体制で共産主義経済を運用する陣営と、民主主義という政治体制で資本主義経済を運用する陣営の、重化学工業の発展をもって決着する争いが冷戦であった。

社会主義は生産設備の国有化で資本家を制限する。必然的に資本家の所有権も国家に帰属する。これで富の寡占も労働者の悲惨な状況も原理的には起きない。国家という手段をもって資本家の独占を禁止したのだから。

共産主義という敵がいるアメリカの資本主義はそれと対抗する為に資本家の独占を自発的に抑制する事になった。冷戦期に必要な重化学工業を発展させるには工業力を発展させなければならない。そのための労働力を供給する中産階級が発展しなければならない。

労働者の権利は基本的人権として憲法の中に組み込まれる。それが資本家の独占を抑制し労働環境を改善する根拠となった。資本主義の中にもマルクスの憂慮は取り込まれていった。それ以前のイギリスの資本家たちこそが異常だったのである。奴隷の廃止から労働者の人権へと、経済システムは進んでいった。

共産主義なき世界

共産主義は世界の殆どを支配した思想である。その理想は人間的であるし、その挫折を誰も知らなかった。社会主義の多くは独裁政権で採用された。この背景にソビエトがいたからだろうか。社会主義は国家を独占するのに便利だったしその方法論もよく知られていた。

生産設備を支配する事、その独占により重化学工業を発展させる事、このふたつに成功したソビエトモデルは世界中で採用される。しかし、詳細な研究は知らないが、農業では上手く機能しなかったようだ。

独裁者への恐怖が駆動力となって国家を動かしていた。その多くは一代限りで消え数多の犠牲者と貧困がマルクスと独裁者の夢を潰した。このシステムに後継者は出現しなかった。

生産設備の国家所有はその時点での生産性向上には極めて有力であろう。注力する点では民主主義を凌駕する。その効率を発揮するために社会主義は独占の手段を手にしたのである。その頂点に構造上、一つまみの指導者がいる。その一点から国全体に力が波及する。

指導に従う事で国家は健全に機能する。よって、今ある機械が動き続ける限りこのモデルに破綻はない。もし原料が不足したら、もし機械が壊れたら、何か新しい事を始めなければいけない時は。

自由に任せておけばいつの間やら自動で勝手にうまい具合に適応する柔軟性のある経済システムではなかった。首輪を嵌めた為に力が失われていたのか。どうにも復元性が弱い。そしてソビエト連邦は停止した。

何が足りなかったのか。決して自由ではない。自由だけでは不足だ。自由に任せておけば自発的に平衡状態を獲得しようとするメカニズム、変化も厭わずシステムを機能させ続けようとする動き。そのような経済モデルとなるにはどんな行動原理が必要か。

まず欲望は欠かせない。だが欲望だけでも足りない。完全な自由は野生状態と変わらずマルクスの嫌悪が再来する。

マルクスの悲しみ、貧困はあらゆる経済発展で忌避されるべきものであろうか。重化学工業ではそれは負のものとして排除された。しかし南部の綿花農業には奴隷が欠かせなかった。貧困が常に経済発展の足枷になるとは言えない。

南部の奴隷たちもあと100年もたてば機械化によって戦争などしなくとも解放はされたのである。奴隷よりも機械の方が安くすむ。それだけの理由で十分だ。低価格は理想を実現する最大の手段である。

資本主義の貧富

共産主義の敗北が資本主義を正しいと証明したのではない。共産主義なき世界で資本主義は富の寡占を進めに進め強烈な格差を生んだ。その結果として米国の民主主義は青息吐息である。民主主義の本当の敵は資本主義だったのではないのか。

ソビエトなきアメリカでは中産階級が存在する理由がない。競争すべき相手は同じ西側諸国の工業国であり、アメリカは重化学工業を主要産業とは位置付けない。目の前で金融と情報革命が起きていた。経済の中心は情報産業へ遷移しつつあった。

中産階級をどうするか。この課題をアメリカは実にアメリカらしくマーケットの自由に託した。たぶん、上手い所に落ち着くはずである。経済の中心がどこへ変わろうとそれは人間の自由にできるものではない。

日本のバブル経済はかつて世界一の富を生み出した。それがアメリカの変革を促したと思う。逆に日本の変革は遅延させた。日本は不動産の高騰によって富を得たが、土地が競争力を高く訳ではない。

日本も馬鹿ではないからあり余る資本を様々な活動に投資した。芸術から基礎科学の分野まで。伝統工芸から未来を切り開く革新の研究まで。先進的な製品も多く生み出しそれが世界に様々な刺激を与えた。世界の未来に対して明らかに日本は牽引し後押しし並走した。

しかし、未来を独占したのは我々ではなかった。VHSは世界を独占した。その次の規格もほぼ満足する形で世界を席捲した。ではその次は?恐らく世界を席捲している。ただその頃には中心ではなかった。世界の中心は最早インターネットである。我々の技術は局所的にも全局的にも、必要不可欠ではあっても、我々にイニシアチブはない。

農業と工業の争いが帝国主義と資本主義の形をとり二つの世界大戦で決着した。共産主義と資本主義は冷戦で決着を付けた。現在は重化学工業から情報産業への端境期と思う。この先に世界はどうなるか。

この時代の変化と不安を人々はポストモダンと呼んだ。

転向

共産主義の終焉に伴い、多くの批評家が職を失った。共産主義を捨てた後に共産主義を語っても飯は食えない。それまでの殆どを共産主義の研究に費やしていた人々はどうしたか。

共産主義は職業の名である。転向するとは転職するの意味である。人は住む場所は簡単に変えられる。が、自分のやり方はそう簡単に変えられるものではない。

他の場所に行っても、頼むべきはそれまでの自分の経験であり、知識、方法論、手わざである。得意の分析力を他の分野へ転用するのに何の疑問もない。

マルクス研究の対立軸には資本主義がある。共産主義は絶対である。その神聖は疑う能はざる命題であった。それは信仰なのである。だから神は死んだと語ったニーチェに多くの共産主義者は慰められたのであろう。

マックスウェーバー(1864-1920)は資本主義の精神をプロテスタンティズムの禁欲と結び付けた。批判的評論もあるそうだが、同様に共産主義を成立させる精神的な何かもある筈である。

富が蓄積するのが資本主義ではない。資本主義には社会が満たすべき要件がある。よって経済システムとは様々な要素を必要とする現象なのである。それらの現象には発揮させる因子がある。

資本主義の因子は勤労である。なぜ勤労か。勤労が神への信仰と合一するから。神と相対する以上、誰も自分を誤魔化せない。だから勤労は自律的なのである。同じ構造が日本にもあると小室直樹(1932-2010)は語っていた。キリスト教以外で成立した稀有な例であると。

幾つもの合理的理由があるとは言え、天動説を理想として現実世界を再構築すれば、そこに精緻な論理性を導入すれば、エカントを生み出す事になる。この仮説は地動説が否定するまで多くの人々を強く説得してきた。

ある仮説を持ち出すととてもよく説明できる例は経済学にも沢山あるだろう。例えば神の見えざる手など。

80年代から90年代は共産主義を論じていた人々がマルクスを見限り、自分たちの手法を他分野へ応用する時代であった。サブカルチャーという議論はその流れの中にあると思う。

サブカルチャ

だからサブカルチャと共産主義は深く関係していると感じる。社会分析を行い理想社会と比較し、過不足を足掛かりに世界を再構成する。

漫画やアニメーションを通じて社会に切り込む。よく見てみろ、既に世界のメインカルチャは違うじゃないか。この社会の変化に注目しなくて、どうして世界について論考できるか。

これらの社会現象には一種独特の匂いがあった。胡散臭くもあった。所詮はファッションであった、そんな気もする。結局、サブカルチャとは、サブカルチャを使って共産主義の失敗を語る事ではなかったか。

アニメーション、漫画、特撮、戦隊等の作品は、敵と味方の戦いを描いていた。そして敵に勝利し終劇する。この構造から、共産主義が失敗した理由は、理想に辿り着けたからではなかったか。

必ず結末を迎える物語構造が共産主義の敗北の理由と類似する。敵を倒した物語にその先はない。同様に理想を実現した共産主義にその先へ駆動する力はない。

資本主義の勤労は永遠に到達しえない理想である。何故なら神は永遠に実現しないから。神が存在するから永遠に到達できない理想が可能なのである。その永遠性を到達できない理想を共産主義は持っていない。

スタックした時代に我々は模索している。あらゆるものが、時代の風を受けて進む舟だから、何を見てもそこに答えを見つけても不思議はない。

世界に対してどう影響をしてゆくか、または影響を受けてゆくか。DNAの構造は同じでも多くの生物が異なる形質を獲得してきた。言葉も同様の多様な葉を開いてきた。それは命の発現に見える。

同じ風が吹いている、答えはどこにでもあるはずだろう。同じ船に乗っているのだ、当然と言えば当然だ。

次世代の評論家たち

その頃から30年近くが経った。次世代と呼ぶべき新しい評論家たちがテレビでパフォーマンスに忙しい。共産主義の流れを汲まない新しい救世主たち。マルクス研究を通過していない次世代の論客たち。

新しい批評家たちはテレビやインターネットで名前を広め、集客する能力を発揮する。それはエンターテイメントであり、Youtubeなどのライブ感を使って、格闘家の如く一瞬の瞬発力で勝負を決める芸が披露する。

時間も短く、端的に切ってしまえる事。小説を長々とよむくらいなら箇条書きで十分だ、余白は読者である我々が想像力で埋めるから。

インターネットが人々の距離を近づけようとしている。一方で現実の距離の遠さが安全を担保してくれる。一時的である事と恒久的である事の混沌の中で、新しい空間の出現に対応しようとしている様に見える。これはとても過渡的な現象と思われる。

距離を近づける事は時間を短くする事でもある。刹那的なら瞬間的な熱量は高くしたい。その為には人間を情報化する方が都合がいい。

企業の最終目的は、人間に幸せホルモンを放出させる事だ。可能なら常習性のある方がいい。サブスクリプション万歳。スマートフォンの中毒性はもはや依存症である。情報が世界を覆う。これに適応するためにはもっともっと浴び続けてみるしかない。

サブカルチャは死語となり今や日本のカルチャである。時代は変わったが人々が武器を求める状況は変わらない。啓蒙が知識の力を広く知らしめた。知識と情報の差は何か、今はその答えが出る瞬間である。

共産主義というマクロの考え方からミクロの個々人が利益を追求する運動に変わった。これは格差に対する有力な処方箋のひとつである。個人の欲望に取り憑くミクロ派も社会の制度を変えて全体を変えたいマクロ派も双方ともここからの脱出方法を探している。

国家はこれから貧困化する。其れに対して有力な社会保障はない。そういう時代に如何に生活基盤を構築するか、その解決に社会主義は使えない。だから個々人で対処するしかない、その先には先富論しか待っていない。それでは格差だ。

この先にどう対処してゆくか、そこで必要となるのはどれだけ多くのプランを持っているか。どれだけ被害が大きくなろうと打てる手がある限り人は絶望しない。その犠牲者さえも。

マルクスは死んだ。彼の理想は消去されたと思う。それでも我々が貧困に手を差し伸べようとする感情を有する。プランBはあるか。