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2015年7月23日木曜日

他星系破壊活動者に対する申請書

事件番号272272

本事件は、銀河辺境第32管区で起きた恒星系文化に対する宇宙連邦非加盟星系からの侵略は、紛争を未然に防げず、その被害が拡大した事例である。本事件の結末は悲劇というしかなく、ひとつの恒星系文明が滅亡した。

以下にその事件の概略を記載する。なお、本事件の当時の責任者は不作為による業務上過失惑星崩壊罪により懲役12年の実刑を受けている(控訴中)。

彼はこの方面での事件を担当していたにも係らず、学術興味を優先し、必要な措置も取らず、犯罪の成り行きをただ観察するに留めていた。裁判でも「事件の推移があまりに面白く私にはどうしても介入することが出来なかった」と発言している(裁判記録32)。彼の個人的な興味のために滅びた星系の生物に対してはどのような謝罪も無意味である。

さて、事の起こりは、宇宙連邦非加盟星系のひとつがその母星の命数を使いきろうとしている所から始まる。この星系文明をAと呼ぶ。Aは数年のうちにも自星が崩壊することを知り新しい移住先を探し始めた。Aは(C+2ランク)の文明であり、銀河間航法も可能であった。

我々はAの動きを遠くから監視し、また彼らの移住先にふさわしい星系も幾つか見つけ、メッセージも発信した(非加盟星系接触法第12条487項)のだが、コンタクトには失敗した。それは多分にAの政治体制が原因であったと思われる。

Aは移住計画を成功させるために強力な指導者を仰ぐ独裁型中央集権の統治機構を採用した。その体制は彼らの好戦的でかつ英雄的行動を好む性質ともよく合っていたようである。しかし我々からの接触はこの指導者によって一蹴されたのである。

Aはこの指導者のもと幾つもの星系を侵略した。宇宙連邦はAとの軍事接触は避けていた。彼らの宙域には、宇宙連邦加盟星は皆無であったし非加盟星系も強く保護を必要とする星系はなかったからである(警察行動法第32条12項による)。Aの活動が辺境宇宙に限られていたことから強い対応は認められなかった。

Aが銀河辺境の惑星系文明に侵略の触手を伸ばした時のことである。この星系文明をBと呼ぶ。Bは百年前までは惑星内文明に留まり、惑星間でさえ無人機探査のみを飛ばし有人飛行もできないレベルであった(F+2ランク)。彼らはそこから百年で惑星内文明から恒星内文明へと発展した。(E-3ランク)。

その頃にBは不幸なファーストコンタクトをAと経験する。Aはこの星系を移住先に相応しいと考えたようである。Aは侵略を開始した。ここで我々も驚くべき事態が発生したのである。

最初に起きた惑星間海戦においてEランクに過ぎない恒星系文明(B)が銀河間航海も可能であるCランクの文明(A)を撃破したのである。これは我々の常識でも考えられない事例であった。この海戦の詳細は添付したレポートに詳しい(レポート9-1)。

この最初の海戦に勝利したBはその後にも数年の間は十分にAを迎撃し続けていたが、それでも技術の圧倒的な差は何時までも通用するものではなかった。

いかなる作戦上の工夫も圧倒的な技術力の前では抗えるものではない。技術の差は結局は総合的な物量の差となってはっきりとするものである。

Aは惑星内海戦による直接的侵略から遠距離攻撃を主体とした環境破壊に切り替えて攻撃を続けた。これに対抗できるBの技術はなく、それは高高度から爆撃を受けるのに唾を吐いて対向するようなものであった。

Bの敗北はあと数年と思われた。ここで次の事件が起きる。Aは二重惑星であり、姉妹星にIがあった。AとIは異なる文明であり、IはAに対してではなくBに対して援助を申し入れたのである。

IはBに対して銀河間航法に必要な技術を教え海図も渡した。Bは惑星系航法から恒星間航法を飛び越え、一気に銀河間航法を手に入れたのである。Eランクの文明が数年でCランクの文明になった事例は極めて珍しい。

Bは航法を手にいれただけでなくそのエネルギーを武装に応用した。そして一隻の強力な宇宙船を建造しAの星系へと発進したのである。Bが建造した宇宙船は宇宙連邦で言えば軽巡洋艦サラミスと同等の戦力である。

Bには戦闘の天性の才があるようだった。数に劣る戦力だが圧倒的なロバストネスと作戦の妙により勝利を重ねていった。

侵略したAには戦力の著しい片寄りが見られた。彼らの装甲や武装は同程度の文明の中では非力な部類である。特に防御が弱く、その作戦は人命軽視、勇敢さを頼りに相手の意表を突く突撃を繰り返すものであった。

Bは作戦の単調さに気付き何度も相手の意図を挫き勝利を収めた。遂にBはAの母星に到着した。侵略されていたBと侵略していたAの立場は逆転したのである。話し合いが持たれることはなく、Bはあっという間にAの星に襲い掛かった。

Bは今や侵略者となった。Bは巧みな方法でAの母星に地殻変動を起こしその星の生命99%を死に至らしめた。Bが救出活動をした記録はない。ひとつの文明を滅亡させた後、BはAの姉妹星であるIにまで侵入を開始した。

後日、我々が行った被害調査によれば、Aの母星は壊滅しわずかな生命のみが生き残っていた。Iにはまだ多くの自然が残っていたが、知的生命体は居らず多数の墓と思えるものが残っていた。Eランクの星が僅か数年でCランクのふたつの文明を滅亡させたのである。

我々はこのような悲しい事件を防止できなかった事を深く悔いるものである。

Bはその後も異星人とコンタクトするが常に相手を滅亡させている。どうもBは異星人との争いを好むらしく、常に相手を侵略者と認定し自ら進んで相手を滅亡させることを繰り返す。それをBはAIと呼んでいた。AIがどういう意味かはまだ不明だ。

銀河辺境第32管区地方検察庁はBを武装依存症と見ている。このまま放置すれば被害者が増えるのは明白である。彼らをシリアルキラーとさせないためにも今こそ強引な捜査介入が必要である。それには盗聴、おとり捜査、惑星内捜査が必要である。裁判長殿にはこれらの令状をお願いするものである。

2015年7月4日土曜日

衆生仏を礼すれば、仏これを見たまふ - 法然上人

衆生仏を礼すれば、仏これを見給たまふ。
衆生仏を唱ふれば、仏これを聞き給ふ。
衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給ふ。

かかるが故に阿弥陀仏の三業と、
行者の三業と、かれこれひとつになりて、
仏も衆生も親子の如くなる故に、
親縁と名づく。
『往生浄土用心』(『拾遺和語燈録』巻下)

私たちが頭を下げたのを、見ています。私たちが唱えたのを、聞かれています。私たちが願えば、それは届いています。そして仏もまた私たちを願われます。

では何故どれほど願おうと私たちの目の前に姿を現さないのですか、なぜその声を聞く事はできないのですか。本当に存在していると言えるのでしょうか。

見てくださろうと、聞いてくださろうと、念じられようと、それは無力です。見るだけなら地面を這う虫でもできます、聞くだけなら鳥でも森の中でしています、念ずるだけなら子供でもできます。なぜ仏だけが尊いと言えるのですか。

見ることは聴くことよりも匂うことよりも味じわうことよりも強烈な体験です。ですから犯罪捜査は目撃証言を重視します。しかし近年の研究から、犯罪現場や事故現場の目撃証言の多くは正確性に欠けるものでした。印象が強いことは正確性の保証にはなりません。人間の記憶は全体像を捉えようとする時、細部を曖昧にします。記憶は写真ではありません。強い印象は映画とは違います。

思い込みや記憶の置き換えが簡単に起きます。そうなるのは人が世界を自分なりに切り取り再構築するからでしょう。それが脳の働きだからでしょう。全てが正確性である必要はなく、大切なのはその強烈な体験が自分に何を強いるかでしょう。ライオンと対面した時にライオンの姿形、毛の色などあまり重要とはなりません。どう生き延びるかは、どう行動するかに掛かっています。

見る、聞く、匂う、触れる、味わう、いずれも生きるために必要です。ですがそれは正確さのために進化した器官ではありません。仏を見たと言う者の体験はその通りなのです。ですが仏を見たことが仏の存在証明にはならない。その体験だけでは存在証明となりません。

私たちは物理法則さえまだ理解していません。神は全知全能です。我々の如何なる試みも否定できますし、如何なる試みも肯定できます。あらゆる私たちの試みも神が自由にできます。その結果に神の作為が入るならば、その結論は信用に値しないはずです。

ところが神にさえ自由にならぬものがあります。それはルールです。例えば囲碁の勝負、例えば数学の証明、科学の知見。ルールに基づくものは神と雖もルールに従う限り自由自在ではありません。神と雖も無理がある。神と雖も勝てぬ囲碁がある。神にさえ不可能がある。ルールに従う限り。ルールの範囲内であれば神と雖もルールに縛ることが可能なのです。

私たちは未来どころか過去さえも知りえません。歴史書はどれひとつとして同じ内容でなく、人の数だけ歴史があります。視点の数だけ物語があります。視点が変われば風景が違う。絶対の正しさも視点の数だけあります。

私たちには途切れることなく問い掛けてくる存在がある。だれであろうと関係なく、私たちの心に問いかけるものがあります。それが外の世界の存在なのか、それとも私たちの心の働きなのか。なぜ私たちの心の問題であれば、神が存在しないと言えるのでしょう。

ジョルダーノ・ブルーノ(1548 - 1600)
神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではない。神はどこにでも存在するのであるから地球だけを特別な星とする理由もない。神が宇宙の一部だけに特別に心を配る必要もない。ならば宇宙は地球と同じ物質から出来ていて、地球上でみられる運動法則は宇宙のどこにでも適用されるはずだ。さらに宇宙と時間は無限であるならば、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間とする必要性はない。太陽も決して特別な存在である必要はなく、他の星々と同じひとつに過ぎない。ブルーノは地球のような太陽系が宇宙の基本的な構成であると考えた。

ブルーノは彼の合理的な思索を進めました。そこで誰とも異なる結論に達した時、彼は異端者として火あぶりにされます。彼はただ神という前提を置いたに過ぎない。それは当時の人々にとっても常識な所でしょう。

同じ場所に立っていたはずなのに彼は他の人たちと違う風景を見ました。彼が仮定した神は今の私たちの科学的知見ともよく合います。神を仮定しても間違うとは限らない。今の時代に彼が生まれていたら?どこかで普通の人生を歩んでいることでしょう。

私たちはこの世界に境界を置きます。それは様々な問題を引き起こします。しかし境界がなければ問題が解決されるわけではなく、境界は問題を顕著にしているだけです。

この世界には明確な境界があるのでしょうか。腕と肩の境界を細胞単位では決められないし、細胞壁には外部と物質をやり取りをするための穴が開いています。穴のどこが境界か分かりますか。あなたはドーナツの穴だけ残して食べられますか。免疫は外と内を区別していますがそれは境界ではなく、お互いで決めたサインに従うものです。

閉じていない系に境界はあるのでしょうか。しかし量子の世界まで小さくなれば原子のほとんどは真空であり、小さな原子核と遠く離れた場所にある電子のどこが原子の境界になるのでしょう。ゲージ粒子が飛び出る時、どこからが境界になるのでしょう。プランクセルより小さい世界のどこに境界があるのでしょう。

境界を作り出すものは言語です。言葉は物の名前だけではなく、機能や形態、概念さえ表現できます。人間のサイズに合うように生まれてきた言葉が、大きさや長さが変わっても同じように通用するとは限りません。場所が変わっても同じように通用するとは限りません。

私たちは心を自分のものだと感じます。その奥底にユングの言う集合的無意識があります。その表層だけを私たちは自分と見做しているのです。私たちが浮かんでいるこの海はどれほど深いのか。

心で起きていることを空想と呼べば何か分かった気がする。私の個人的な経験にこの社会は価値を置きません。世界を探求し社会に還元するものは大切にしますが、個人の体験には関与しません。それが心の自由というものです。仏はどこに居ても、誰の心にあると言っても、それが個人的経験である限り価値を持たなくなりました。

一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと言った所で、空に感謝する人など居ないでしょう。空気に感謝するものは居ないのです。それは溺れるまで分かりません。

誰かを論説で打ち負かすために相手を偽物にします。一部に誤りを見つければ勝てるのです。相手を打ち負かすために弁論術を学びます。それは誰かを説得する技術です。それは正しさを追究したり真偽を証明する方法ではありません。なぜ人は相手を打ち負かしたいのか。相手を打ち負かすことで安心できる。なぜ安心したいのか。

菩薩は誰をも救うと誓いました。それは私たちが望もうが、望むまいがです。もし悟りというものに誰かを救う力があるのなら、釈迦が悟りを開き、釈迦に涅槃が訪れた時に、この世界の、全ての生命、時間、場所、他の星に住む生命も含め、全てが救われたに違いありません。

ならばこの世界は既に救われた世界でしょうか。それとも釈迦は悟ってなかったのでしょうか。それとも釈迦の悟りも解脱も救いとは関係なかったでしょうか。もし解脱したのなら既にこの世界から去り、もしこの世界に住むなら仏ではない。とすればこの世界に仏が居るはずがない。

私たちが仏に求めなくとも救おうとする存在がいます。私たちは仏に現世の利益を求めます。それでも救おうとする存在がいます。仏は私たちの奴隷でもなく召使でもありません。それでも私たちを救おうとする存在がいます。

何から救おうとするのか。何から救って欲しいのか。この世界のほとんどの不安はお金で解決できます。飢えた子どもには先ず一切れのパンが有用です。

望まない。欲しない。救ってもらおうとさえしない。礼しても、唱えても、念じても、答えなど返ってきません。もしどこにでも仏が居るのなら、なぜ礼し唱え念ずる必要がありますか。目を開けても瞑っても仏の姿が変わるはずがありません。願おうが願うまいが救って下さるのが仏です。

空は大地の全てと繋がっています。この空ではない空がどこにあるでしょう。ここではない別の空があると信じるのなら、本当は何を探す旅ですか。なぜ解脱を望み、なぜ悟りを得ようとするのですか。