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2015年7月4日土曜日

衆生仏を礼すれば、仏これを見たまふ - 法然上人

衆生仏を礼すれば、仏これを見給たまふ。
衆生仏を唱ふれば、仏これを聞き給ふ。
衆生仏を念ずれば、仏も衆生を念じ給ふ。

かかるが故に阿弥陀仏の三業と、
行者の三業と、かれこれひとつになりて、
仏も衆生も親子の如くなる故に、
親縁と名づく。
『往生浄土用心』(『拾遺和語燈録』巻下)

私たちが頭を下げたのを、見ています。私たちが唱えたのを、聞かれています。私たちが願えば、それは届いています。そして仏もまた私たちを願われます。

では何故どれほど願おうと私たちの目の前に姿を現さないのですか、なぜその声を聞く事はできないのですか。本当に存在していると言えるのでしょうか。

見てくださろうと、聞いてくださろうと、念じられようと、それは無力です。見るだけなら地面を這う虫でもできます、聞くだけなら鳥でも森の中でしています、念ずるだけなら子供でもできます。なぜ仏だけが尊いと言えるのですか。

見ることは聴くことよりも匂うことよりも味じわうことよりも強烈な体験です。ですから犯罪捜査は目撃証言を重視します。しかし近年の研究から、犯罪現場や事故現場の目撃証言の多くは正確性に欠けるものでした。印象が強いことは正確性の保証にはなりません。人間の記憶は全体像を捉えようとする時、細部を曖昧にします。記憶は写真ではありません。強い印象は映画とは違います。

思い込みや記憶の置き換えが簡単に起きます。そうなるのは人が世界を自分なりに切り取り再構築するからでしょう。それが脳の働きだからでしょう。全てが正確性である必要はなく、大切なのはその強烈な体験が自分に何を強いるかでしょう。ライオンと対面した時にライオンの姿形、毛の色などあまり重要とはなりません。どう生き延びるかは、どう行動するかに掛かっています。

見る、聞く、匂う、触れる、味わう、いずれも生きるために必要です。ですがそれは正確さのために進化した器官ではありません。仏を見たと言う者の体験はその通りなのです。ですが仏を見たことが仏の存在証明にはならない。その体験だけでは存在証明となりません。

私たちは物理法則さえまだ理解していません。神は全知全能です。我々の如何なる試みも否定できますし、如何なる試みも肯定できます。あらゆる私たちの試みも神が自由にできます。その結果に神の作為が入るならば、その結論は信用に値しないはずです。

ところが神にさえ自由にならぬものがあります。それはルールです。例えば囲碁の勝負、例えば数学の証明、科学の知見。ルールに基づくものは神と雖もルールに従う限り自由自在ではありません。神と雖も無理がある。神と雖も勝てぬ囲碁がある。神にさえ不可能がある。ルールに従う限り。ルールの範囲内であれば神と雖もルールに縛ることが可能なのです。

私たちは未来どころか過去さえも知りえません。歴史書はどれひとつとして同じ内容でなく、人の数だけ歴史があります。視点の数だけ物語があります。視点が変われば風景が違う。絶対の正しさも視点の数だけあります。

私たちには途切れることなく問い掛けてくる存在がある。だれであろうと関係なく、私たちの心に問いかけるものがあります。それが外の世界の存在なのか、それとも私たちの心の働きなのか。なぜ私たちの心の問題であれば、神が存在しないと言えるのでしょう。

ジョルダーノ・ブルーノ(1548 - 1600)
神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではない。神はどこにでも存在するのであるから地球だけを特別な星とする理由もない。神が宇宙の一部だけに特別に心を配る必要もない。ならば宇宙は地球と同じ物質から出来ていて、地球上でみられる運動法則は宇宙のどこにでも適用されるはずだ。さらに宇宙と時間は無限であるならば、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間とする必要性はない。太陽も決して特別な存在である必要はなく、他の星々と同じひとつに過ぎない。ブルーノは地球のような太陽系が宇宙の基本的な構成であると考えた。

ブルーノは彼の合理的な思索を進めました。そこで誰とも異なる結論に達した時、彼は異端者として火あぶりにされます。彼はただ神という前提を置いたに過ぎない。それは当時の人々にとっても常識な所でしょう。

同じ場所に立っていたはずなのに彼は他の人たちと違う風景を見ました。彼が仮定した神は今の私たちの科学的知見ともよく合います。神を仮定しても間違うとは限らない。今の時代に彼が生まれていたら?どこかで普通の人生を歩んでいることでしょう。

私たちはこの世界に境界を置きます。それは様々な問題を引き起こします。しかし境界がなければ問題が解決されるわけではなく、境界は問題を顕著にしているだけです。

この世界には明確な境界があるのでしょうか。腕と肩の境界を細胞単位では決められないし、細胞壁には外部と物質をやり取りをするための穴が開いています。穴のどこが境界か分かりますか。あなたはドーナツの穴だけ残して食べられますか。免疫は外と内を区別していますがそれは境界ではなく、お互いで決めたサインに従うものです。

閉じていない系に境界はあるのでしょうか。しかし量子の世界まで小さくなれば原子のほとんどは真空であり、小さな原子核と遠く離れた場所にある電子のどこが原子の境界になるのでしょう。ゲージ粒子が飛び出る時、どこからが境界になるのでしょう。プランクセルより小さい世界のどこに境界があるのでしょう。

境界を作り出すものは言語です。言葉は物の名前だけではなく、機能や形態、概念さえ表現できます。人間のサイズに合うように生まれてきた言葉が、大きさや長さが変わっても同じように通用するとは限りません。場所が変わっても同じように通用するとは限りません。

私たちは心を自分のものだと感じます。その奥底にユングの言う集合的無意識があります。その表層だけを私たちは自分と見做しているのです。私たちが浮かんでいるこの海はどれほど深いのか。

心で起きていることを空想と呼べば何か分かった気がする。私の個人的な経験にこの社会は価値を置きません。世界を探求し社会に還元するものは大切にしますが、個人の体験には関与しません。それが心の自由というものです。仏はどこに居ても、誰の心にあると言っても、それが個人的経験である限り価値を持たなくなりました。

一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうと言った所で、空に感謝する人など居ないでしょう。空気に感謝するものは居ないのです。それは溺れるまで分かりません。

誰かを論説で打ち負かすために相手を偽物にします。一部に誤りを見つければ勝てるのです。相手を打ち負かすために弁論術を学びます。それは誰かを説得する技術です。それは正しさを追究したり真偽を証明する方法ではありません。なぜ人は相手を打ち負かしたいのか。相手を打ち負かすことで安心できる。なぜ安心したいのか。

菩薩は誰をも救うと誓いました。それは私たちが望もうが、望むまいがです。もし悟りというものに誰かを救う力があるのなら、釈迦が悟りを開き、釈迦に涅槃が訪れた時に、この世界の、全ての生命、時間、場所、他の星に住む生命も含め、全てが救われたに違いありません。

ならばこの世界は既に救われた世界でしょうか。それとも釈迦は悟ってなかったのでしょうか。それとも釈迦の悟りも解脱も救いとは関係なかったでしょうか。もし解脱したのなら既にこの世界から去り、もしこの世界に住むなら仏ではない。とすればこの世界に仏が居るはずがない。

私たちが仏に求めなくとも救おうとする存在がいます。私たちは仏に現世の利益を求めます。それでも救おうとする存在がいます。仏は私たちの奴隷でもなく召使でもありません。それでも私たちを救おうとする存在がいます。

何から救おうとするのか。何から救って欲しいのか。この世界のほとんどの不安はお金で解決できます。飢えた子どもには先ず一切れのパンが有用です。

望まない。欲しない。救ってもらおうとさえしない。礼しても、唱えても、念じても、答えなど返ってきません。もしどこにでも仏が居るのなら、なぜ礼し唱え念ずる必要がありますか。目を開けても瞑っても仏の姿が変わるはずがありません。願おうが願うまいが救って下さるのが仏です。

空は大地の全てと繋がっています。この空ではない空がどこにあるでしょう。ここではない別の空があると信じるのなら、本当は何を探す旅ですか。なぜ解脱を望み、なぜ悟りを得ようとするのですか。

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