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2020年1月19日日曜日

西郷隆盛

西郷隆盛という人がいた。

今の若い人は見たことないだろうけど、そりゃ偉い人だった。

で、この人、若いときは算盤もできて、事細かな仕事ぶりで、情にも熱く、とっても有能な官吏だったのだ。

所が、年を取ってきたある日、そういうのを止めた。身を引いたという方が近いか。

たぶん、思う事があったのだろう。

若い連中に仕事をまかせて自分はぼんくらな振りをし始めた。いやもしかしたら上に立ってみたら本当に何をやっていいのか分からなくて、若い連中に仕事を奪われただけの、本気でぼんくらな人だったのかも知れぬ。

だが、上に立つとはそういう事だ、上に立つ人間に求められるのは実務ではない。上に立つ人間は分からぬものを受け止めるのが仕事である。分かる事はぜんぶ部下に任せればよい。

分かる仕事はぜんぶ止めた。そこから、ただ胆力を練ることだけに注力した、そう何かの本に書いてあった。

もちろん、部下の仕事ぶりを見ていれば色々と思う所があっただろう。自分と比べれば全くの不出来さにやきもきもしたであろう。俺の方がもっと上手く確実に早くやれる。そう何度も思ったはずだ。

だが、それは言わない。胆力を磨くとは黙ったまま見過ごす事だ。

たぶん、大きな事をなそうとした時、自分ひとりの力では出来ないと悟った時、だれかの力に頼らねばならぬと知った時、それまでの立場ではどうしようもなく、上に立つものがいないと瓦解すると見た時、その日から人の上に立つ在り方を練り始めたんだと思う。

もともと命の在り方など天に返上していたような人だ。躊躇なく錦江湾に飛び込むような所がある。もちろん、彼が生き残りのための算段を施していたとしても驚くには値しない。一緒に飛び込む深淵さだけで十分だ。

坂本に「少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響く」と言わしめた人である。「もし馬鹿なら大きな馬鹿で利口なら大きな利口だらう」そう坂本は海舟に語った。

馬鹿には馬鹿に見え、賢者には賢者に見える。まるで叩いた人の鏡となるような人だ。すると、彼そのものはどこにいるのだろうか。その縦深さが見えない。どう叩くのが正解なのか、底が知れない、馬鹿か利口かさえ判別しないが、叩けば鳴る事だけは確かだ。その確かさだけで十分である。

大将というものは黙っておく方がよい。相手が何もしなければ何も返さぬでよい。算盤を弾いても答えの出ない問題を見出した。分かるくらいではどうしようもない世界を見た。だから、至誠天に通ず。それだけを頼りにするしかないと決めた人のようだ。

彼はその先に何を見ていたのか。それは知らない。国を作るという点では大久保利通が主導した。

大将の器なら西郷が勝る、これが大久保の実直な感想だろう。だから実務で俺がぬかりなくやり抜かなければならない、そういう気迫さえ感じる。

歴史に名を遺す二人の友人は、互いへの信頼だけが輝いている。

西郷という人にどのような国造りのビジョンがあったかは知らないが、あの国難にあって、彼がいなければ維新は全く違った帰結をしたであろう。それは確かだ。それは大久保にしろ、木戸にしろ、伊藤、高杉、坂本、吉田、勝、云々、誰れもが同じはずである。考えれば、取り返しのつかないたった一度の事が、変わったかどうかなど、時間に対する考えが足りぬ。時間は決して巻き戻せない。

要は西郷という人は苦労して馬鹿に見せ、心胆を練って仕事ができない振りをしたのであって、仕事ができない人間ではなかった。だからあれだけの事を成した。

明治になってなお、問題は山積していた。彼はそこでまた実務家にならざるを得なかった。自ら問題に飛び込む。彼には彼のビジョンがあった。だが、それは傍流であった。

なぜあの西南戦争が起きたか。西郷がもし鹿児島にいなければ、これはただ平凡な、その他の乱と同様の不平不満の乱に過ぎなかったであろう。ただ西郷がいたから、今でもこの乱には何か異様に訴えてくるものがある。

恐らく、西郷とは何かの象徴なのだ。それが何であろうと、それは実在した西郷とは何も関係ない。そもそも歴史とはそういうものかも知れぬ。我々は、鏡に映った自分自身の顔を史実と呼んでいる。もうフィクションなんだかノンフィクションなんだか。

歴史において、そこはお間違いなきように。

2020年1月3日金曜日

エリ・エリ・レマ・サバクタニ

エリよ、エリ、なぜ私を見捨てるのですか

神は全知全能であると理解するならば、彼であれ、彼女であれ、それ以外であれ、如何なる事も可能であるし、その意思であれ、意図であれ、全ては万能である。それは不可能がない事を意味する。

例えば、勝敗の決した残るは詰めるだけの囲碁であっても、そこから逆転する事が可能である。神ならば、全知全能で不可能がないとはそういう意味だから。もし、そうでないならば、それを神とは呼べない。

神はあらゆるものから強制も制約も受けない。だから神はどのように振る舞う事も可能である。それは人間が関知できる場所ではない。人間の認知など凌駕している。よって、例えば、矛盾をもって神を否定する事は、初めから前提が誤っている。神はA=BとA≠Bの両方を同時に成立させる事が可能である。それをどう実現するかは誰も知らない。だって人間だもん。

当然の話だが、それをやろうがやるまいがそれは神の自由であり、人間が求めに応じるような事ではない。神の自由意志は全知全能と同義であるから、人間の側に証拠を見せろと問う自由はあっても、それを見せる義務はない。ましてや、信仰心の深さで何かを叶えてもらおうという考えを、神がどう扱おうが、それも神の自由である。そんなの勝手気ままではないか、だが全知全能とはそういうものである。神の全知全能は完全な自由の事である。

人間の忖度は人間の勝手だが、それは神の自由に何ら影響を与えない。もし、何かを叶えてくれると思っているのなら、その人にとっての神とは、究極的には召使いであり、奴隷である。それは小さな子供が親の前でぐずるのと何も変わらない。大人なら子供とコミュニケーションを図り、状況を改善しようとするだろう。だが、神は人間の親ではない。神は人間の従僕か。否。

全知全能という仮定さえあれば神の存在はあらゆる広がりと一致する。Aでありzである。イでもありンでもある。何もかもが矛盾していながら、何もかもが矛盾していない状況を作り出せる。人の意志をどう扱おうと自由であり、2000年前に人間に語った言葉を、いつどう変えようが神の自由である。そのまま変えなくても神の自由である。そこに人間の自由はない。まして、それを人間に伝えるかどうかなど、全くもって神の自由である。

人間は神になんら影響を与える事ができない。神は一方的に人間に介入する。当然だが、神は死ぬことも可能だし、復活する事も可能だ。永遠に死んだ神は神が消滅した証拠にはならない。全能であるから、死ぬと生まれる、存在すると消滅する、は同時に成立する。そうでなければ全知全能とは言えない。とすれば神は時間の外の存在と考える必要がある。時間に束縛されないから、同時に複数個所に異なる状態で出現する事ができる。

そんな神をよく信仰できるなと蛮族は笑うだろうが、そんな蛮族にも恐れる神がいるのはまた自明である。人が何を恐れ、何を敬うかは人間の自由であるが、それは神とは何の関係もない。神は鰯の頭にも宿る事が可能である。人を生み出そうが葬り去ろうが見捨てようが、神の自由である。

キリストが、なぜ私を見捨てるのですか、と問うた時、後世がこの言葉をどう解釈しようが、彼は神に対して反意を示していた。彼の行動が神の意図から外れていたから十字架に打ち付けられたのだ、そう解釈するのが一番自然だろう。でなければ、キリストが、なぜ見捨てるのですかと問うた理由が分からない。

私はどこまでもあなたの御心に沿うように歩んできた。なのに何故なのだ。この仕打ちがあなたの御心なのか。この疑問は当然と思われる。恨む時、最終的に人間は神を恨む。何故なのだ、と問う時、その最後は神に向かってである。何一つ神の意図から外れていないのに、あなたが遣わした私を、なぜここで切り捨てるのか。それには理由が必要ではないか。それを説明する義務が神にはあるではないか。人間は理由を問う事を止める事ができない。

もちろん、全知全能の神にとって、行いの全てに理由がある。当然、全知全能であるから、行いの全てに理由など不要だ。何かをするのに理由が必要だとすれば、それは神の全知全能を束縛している。それではもう全知全能とは言えない。何かをするのに理由があろうがなかろうが、伝えようが伝えまいがどうでもよい。神は人間に嘘を付く事もできる。もし嘘が付けないのなら、その神は全能ではない。

キリストが聡明なのは自明だから、神の自由についても知っていたはずである。ならば、知っていて、敢えてこのように問うた、と解釈するしかない。すると、キリストのこの問いには何の意味もなかった事になる。神は問いに答える必要などない。例え答えたとしても本当である必要もない。嘘であっても構わない。

よって、神から聞いた言葉に、神から聞いた以外の、その事実以上の意味はない。その真実の重要性と比べれば、何を語ったかなど些事である。神が語ったという出来事は重要だが、その言葉の内容は空疎である。

聖書の示す所では、神は何も答えなかったようである。キリストは問うても答えがない事は知り抜いていた。彼は神を試してはならない、と答えた男である。

ならば、なぜこの言葉を吐いたのか。人間として苦しみの中で朦朧として出た言葉なのか、それとも、人間たちに聞かせるために敢えて口にした言葉なのか。復活したキリストの表情は、このような言葉を吐いた人物とは思えない感じがする。まるで別人のように、長い苦しみの果てに、何もかも忘れているかのような印象を受ける。

いずれにしろ、この言葉がなければキリスト教が今日まで残らなかったのは確かであろう。この言葉によって、キリストはただの予言者から、神と三位一体する立場に引き上げられた。

このような反逆の言葉を発するキリストが矛盾なく神の御子として存在するためには、彼自身が矛盾しない存在でなければならない。ならば彼を神と解釈するしかない。もし彼が神でないなら、単なる棄教に過ぎず、槍によって死を迎えた罪人ではないか。それ以外の理解は不可能なはずだ。

この言葉を発した彼の本当の気持ちは誰も知らない。彼にだけ聞こえた神の声があったかも分からない。堕天使はその言葉から生まれたのかも知れない。しかし、神に対して最後に疑ってみせた事がキリストの最大の功績であろう。人間は神を疑ってもよいと示したからではない。神以外は神を疑ってはならぬと示したからだ。キリストが神と対等とされる所以である。

人間にも神に問う自由がある。疑う自由を持つ。だが、それは神とは何も関係ない。神が存在しないと存在するは同時に成立する。神に問う事など無意味である。それでも問う相手が神しかいない、人間はなんと孤独か。だから、問うてみたのではないか。