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2011年9月19日月曜日

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや - 親鸞

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

善人においてさえ往生できるのだ、悪人に出来ないわけがない。

善人が往生するのは得心できる。
しかし悪人も往生するとは納得いかない。

いはんや悪人をや

まるで悪人こそ当然そうなると言っているようだ。
これを何度読んでもするりと得心できまい。
だからと言って悪人になろうと発起するわけでもない。

いや善人こそが往生する、ならば悪人である必要はない。

自分はたぶん善人だよな、悪人というほどじゃあるまい。
どっちかにしろってなら善人だろ、なら往生する組だ。

これが一応の感想なるものだろう。

だから、その意味する所に思い至れない。

自分を善人と捉えるものは、この言葉には納得がいかない。

では悪人ならばどうか。
救っていただけるのであればありがたい。
でもどうして救っていただけるのです。

そう問い返すしかできないだろう。

悪人においても、やはりこの意味する所が分からない。

往生とは何か。
それを仏の御心と仮定してみる。

すると往生するのは、善人や悪人という主体がするものではなく、
仏がそれを行うからそうなるのとわかる。

何故なら誰もどう往生するかは分かっていない。
よってどちらであれ従うしかないはずである。
何に従うかと言えば、それは仏にであって、ただ仏がその御心で決めたものに従う。

往生する主体は善人や悪人であっても往生というものは我々の手の内にはない。

さすれば、こうなる。

善人なほもて仏により往生をとぐ、いはんや仏において悪人をや。

いはんや

この言葉は、悪人に係っているのではない。
仏に係っている言葉なのだ。

何故か。

仏は全ての人の救済を願っているに決まっているからだ。
善人だけを救うに仏などいらぬはずだ。

全ての人が等しく罪人であるように、全ての人もまた悪人とも言える。
いや、そういう解釈を取らぬとも、悪の道に染まり、仏の教えに背いたものを見捨てることを良しとしない。

私が生涯をかけて信じるにたる仏は悪人さえも往生させたいと願う存在である。
少なくとも、そうでない仏に心を惑わされる必要があるだろうか。

全てを救うと言われた以上それを信じる、他力、本願であろうが、仏様の前では全てが詳らかなはずだ。

善人でさえ救いたいと願う仏様であります、何故に仏様が悪人をほっておかれるでありましょうか。

2011年9月7日水曜日

閑さや岩にしみ入る蝉の声 - 松尾芭蕉

しずけさや岩にしみ入る蝉の声

参道を登りきり木々に囲まれたひっそりとした木陰の中を歩く。手水舎に流れる水は透明でせせらぎは穏やかだ。静けさが人を襲う。

ただ静かであり、蝉の鳴く声だけが聞こえてくる。その音は切り裂くように人を通り抜け林の中に消えてゆく。

蝉が鳴けばうるさく感じるものだ。だが、静けさと蝉の音は矛盾しない。

何故それは矛盾しないのか。

境内にはとても遠き昔からそこにあったかのような岩がある。この岩に染み入るのは果たして蝉の声なのか。岩に染み込んでいるのは私自身の心ではないだろうか。

私が岩に染み込んでみれば、私の心には蝉の声はすれども、岩のように静かな心持ちでいる。

遠い昔から蝉の声を聞いていて今日も聞いている。明日もその次の日も聞き秋の初めまで鳴き続けるだろう。この蝉たちも夏の終わりにはどこかに消えてゆく。

そんな彼らの鳴き声は次第に音としては消えてゆき、鳴き声として響くだけになる。風が吹き抜けるように蝉の声が周りの木々を揺らす。

私は岩と同じようにただ静かにここにる。

その心持ちを静けさ、と呼ぶ。

参拝に向かえば風が吹く。汗ばんだ顔をひんやりとし木々の匂いが立つ。私は参拝し何を拝もうとしているのだろうか。

この静かな心持ちをありのままの姿であれば良いような気がする。

蝉の鳴く林に消えてゆく落つる汗