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2020年9月19日土曜日

日本国憲法 第六章 司法 II (第七十七条~第八十条)


第七十七条  最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
○2  検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
○3  最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
第七十八条  裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。
第七十九条  最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3  前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
○4  審査に関する事項は、法律でこれを定める。
○5  最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
○6  最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

短くすると

第七十七条 最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律、司法事務処理について、規則を定める。
○2 検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
○3 最高裁判所は、下級裁判所規則を定める権限を、下級裁判所に委任できる。
第七十八条 裁判官は、公の弾劾によらなければ罷免されない。
第七十九条 最高裁判所は、裁判官で構成し、長たる裁判官以外は、内閣で任命する。
○2 最高裁判所の裁判官の任命は、衆議院議員総選挙の際国民の審査に付す。
○3 投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、罷免される。
○4 審査は、法律で定める。
○5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
○6 最高裁判所の裁判官は、報酬を受ける。この報酬は、減額できない。
第八十条 下級裁判所の裁判官は、内閣で任命する。任期を十年、再任できる。法律の定める年齢に達した時に退官する。
○2  下級裁判所の裁判官は、報酬を受ける。この報酬は、減額できない。

要するに

なぜ罰しなければならないのか。

考えるに

判決は人間がやる事だから、間違いは必ず起きる。やむを得ない場合もあれば、明らかな過失の場合もある。時に、政府におもねる裁判官、暴力に屈する裁判官も歴史の中に存在する。それを恥じた者もいれば、最後まで正当を主張した者もいる。

明らかに、時代遅れの判決、人類が獲得したであろう宝石をどぶに捨てる判決もある。苦渋の中、現実と理想の橋渡しに努めた判決もあれば、明らかな無能な判決もある。歴史を突き動かす判決も事欠かない。良い結果であれ、悪い結果であれ、それを許容する事を人類は選択した。例え、何百万もの人の虐殺が始まる判決であろうと、それを否定できる者はいない。

司法は何ら力を持たない制度である。ただ判決を出すだけである。ナイフひとつ分の力さえ行使できないのに、なぜ歴史を動かす事ができるのか。クーデターの前では無力で憲法が停止すれば全ての根拠を失う制度であるのに。

逆に言うなら、司法が存在している事が、その政体が憲法に則って運用されている事の証拠となるのである。現実がどうであれ、司法が存在するから法治である事を証明する。現代では、司法の存在が、その政体の正統性を保証する、恐らく唯一の方法だ。

司法の限界

冤罪を起こした裁判官を罰する法はない。そんなことをすれば、全ての裁判官が罰せられないように判決を出すに決まっている。だから裁判官は法に守られた上で冤罪を起こす。そうなった時に、自らを罰する者もいるだろうが、それでも罰則を制度化する訳にはいかない。そうなったら冤罪を回避するために全ての犯罪者を無罪にすればよい。それが人間の道理である。

そのような命題を孕む以上、ひとつの疑問が浮かぶ。司法制度は我々人類の手には余るのではないか。我々が司法を維持するのに求められている事は人間の限界を超えているのではないか。

それでもこの制度を維持しなければならない。ならば司法制度は不完全しかありえない。よって、司法制度はその統治機構の総力を象徴する。裁判官に、国家の平均的な人材を、その文化の代表的な価値観の凝縮を見る。司法はその国の底力に他ならない。

司法制度が人間の能力を超えているからこそ、人間の有り方を常に問い続けている。その問いの前では何人が血を流そうがそう大きな問題ではない。それは許容すべき犠牲だ。そう司法は語っていると思える。

裁判官は常に正しい判断ができるのか、否。冤罪に対して失われた時間、生命を回復できるのか、否。罰則は復讐の変わりを担うか、否。刑罰は、果たして人間を更生するか、否。では、それでも罰則を与えるのか。

韓非子によれば、肯。言いつけを守らない人の首を跳ねたら、みんなが見違えるように動くようになった。人は罰則に従う。そこに価値がある。反抗する人もいるだろうが、それは討てばよい。問題は人数なのである。罰則によってその大部分が従うなら価値がある。

しかし、それは罰則の実務上の効果である。そこに司法の理念も理想もない。司法の本性が脅迫であってもよいのか。脅迫による統治が正しい姿か、恐らく否。その延長線上に独裁者の方法がある。それを首肯するのか。断じて否。

それでも、人間は誰かを罰する正当な権利を持っていると言えるのか、人間が不完全である以上、そのようなものがあるとは思えない。ならば、国家はどのような正当性で人を罰しているのか。

自由

おそらく、人間は規則を無制限に順守できない。仮に奴隷であっても。我々の自由はそういう意味だ。決して無制限の自由がないように、零の自由もない。我々は有意などこかで妥協した自由で生きている。世界はそれを決める争いであろう。だから法は基本的に守られる。なぜなら自由の線引きした所に法は生誕するからである。初めから合意する仕組みなのだ。

故に法には自由を制限する力がない。自由の境界線上に生まれたものだから、それを超える人は必ず存在する。だから罰則を決めるのだと言うなら、本論では違う。法の優れた点は、罰則がなくとも守ろうとする性質にある。人間は道徳を形成してきた。倫理を追求してきた。罰則がなくとも守られるものが誰にもある。

それでも事故は起きる。如何に気を付けても起きる、悪意のない犯罪も発生する。正義は容易く人を傷つける。そして起きた被害には、原状を回復できない以上、罰則が必要である。罰則とは報復か賠償である。法律は予めそれを人々に知らしめる。

よって、罰則とは自由の対価である。自由に振る舞った結果に対する、被害の等価交換である。自然界で保存則が働くように、自由の行使もまた代価が発生する。理想を言うなら、全ての人が自由にして罰則なしの状態である。人々が自由に振る舞ってもなんら被害が起きない社会が理想である。矩を踰えぬ事の困難さを孔子は語った。今はその過渡期か。

選択

自由意志とは選択である。自由とは選択の自由に等しい。よって自由について考えるとは、選択肢の数量から始めなければならない。どれくらいの選択肢があるか、ある数以下では自由とは言えない。ある数量を超えたら自由であろう。そして常にこの選択の中には選択肢にないものを選ぶ自由がなければならない。

そして、自分が自由と感じる事と、本当に自由な状態にあるかは別の話だ。自由意志によって選択したつもりであっても、そうとは言えないのではないか、という話は残る。

もし選択肢がひとつしかない場合でも、それを好む者にとっては何も困らない。それを選びたくない人にとってはそれは自由とは言えない。しかし、選ばない自由があるなら、選ばなければいい、そこには自由がある。だがその自由を行使する事が危険と隣り合わせならば、その選択は強制としか呼べない。少なくとも、それを選んだ当人にとっては。

時に人間はそのたった一つを選んだ事を、自分の意思で選んだと考える。選ばないという選択が出来ない場合に、それを拒否するより自分の自由意志で選択したと自分を納得させる方がいい。選べない事に絶望する位なら、自由選択をしたと納得する方がずうっといい。少なくとも自分に嘘を付かなくて済む。世の中には命を賭けて拒否する自由もあれば、選択して命を賭ける自由もある。

AIの登場

優秀なAIに司法制度を委ねればどうなるか。AIは判決をするのに情報を欲する。可能な限りの情報を収集し細かく判定を重ねたいからだ。その事故は回避可能であったか、不可能なら、どのような事情があるか、社会的な背景の影響はどの程度か、その人の生まれてからの全ての履歴と突き合わせて判断したい。それを踏まえて量刑を決定したい。

機会、動機、方法のいずれもが揃わない限り無罪である。これは刑法の鉄則だが、裏を返せば、我々が如何に情報が欠落した状況で判決を重ねてきたかの証拠でもある。もし全ての情報が明らかになればそのような考慮は必要ない。だから、人間が生まれたら体内にチップを埋め込む。それをAIがずうっと監視する。

チップから個々人の行動から感情からまで収集し、各チップのロケーション、他の監視機器が提供する情報と組み合わせて、誰が、何時、何処で、何を見たのか、話したのか、読んでいたのか、聞いていたのかをトレースする。こうすれば人間の殆どをデータ化できる。こうして、人間のプライバシーはAIに対して全て公開され、その情報があれば、誰が何をしていたかは明瞭である。アリバイ崩しなど必要ない。

こうしてAIが完全に情報を把握すれば冤罪はなくなるはずである。のみならず、犯罪の発生をみすみすAIが逃すはずがない。全てがAIに把握されている世界では、人が心の内に秘めたもの以外、全てがAIの前で明らかになっている世界である。

そのような世界では犯罪を起こす事が不可能になる。あらゆる人間の行動がAIを通じて律せられる。犯罪をしようとした瞬間に警告音が鳴る。それを無視すればチップが阻むように働く。それを超えて犯罪を犯す事は不可能である。もちろん、それらの情報は完全に人間には非公開なのである。誰もAIからそれらの情報を盗む事はできない。

そのような世界にあっては、AIは警告し禁止する。決して人間の自由意志を侵害する気はない。ただ法を超えようとするものをガイドするのである。決して人がAIの言う通りに生きる必要はない。完全な自由意志はある。AIによって人は心の赴くまま生きても矩を踰えぬように生きられるようになるのである。

人間の自由意志は、自分が思うほど、自分である必要はない。選択肢の数が10や20は必要と思うだろう。だが多くの場合、1億の選択肢は必要ない。多く、自由意志で選択したつもりのそれは最初から選択肢の中に用意されていた。自由を感じる事と自由である事は関係ない。まして自由意志が何もかもを自由にできる訳ではない。

何より重要な事は、このような世界が、現在の技術の延長線上にあって実現可能な事だ。このリアリティは必ず到来する。

そのような存在になったAIは、神と同格になる。神への信仰心が人を神の前で謙虚にする。神殿を破壊する者も、また別の神を信仰する者である。それはただ人の心だけを拠り所としてきた。

AIは人の信仰心の代わりにチップを用意した。あらゆる事を神が見通すのとほぼ同じ現象をAIが実現する、だれもそれからは逃れられぬ。よって全ての人間はAIの前で謙虚にならざるえない。信仰心のようなあやふやなものに頼る必要はない。チップを埋め込めばいい。

そのような世界が到来した時、我々の世界に罰はなくなるはずである。犯罪の起きない社会が到来するはずである。罰の存在しない世界。

ならば、罰とはこの世界が不完全だからある。そういう結論になる。神が人間を罰するのは、この世界が不完全だからだ。完全であるなら罰はないはずである。

それでも起きる

そのような世界でも人間は死ぬ。例えば津波が。地滑りが。洪水が。飛行機の墜落が。病気が。

津波から逃げようと車を走らせている人がいる。その先に道路を歩いて逃げている人がいた。この人を追い抜かなければ自分が津波に飲み込まれる。車を止めてその人を助ける余裕はない。急いで逃げようとしているのにその人は道を塞いで助けてくれと言っている。助かるためには速度を緩めずに轢き殺すしかない。この時、これはどのような罪に問われるか。車を運転しているAIは、どのように振る舞うべきか。

まず考えてみなければならない。この問いの背景を。このような世界で津波の到来が遅れたとは考えられない。よって、この人が逃げ遅れた理由は何なのか。Aiはもっと早いタイミングで警告を出していたはずである。なのに、このようなシチュエーションに巻き込まれたのは何故か。どのような正当な弁明があるのか。

そこで考える。その理由によっては轢き殺す事は罪に問われないのか。その理由によっては罪に問うべきであるのか。それは誰が決めるのか。目の前に確かに救える命がある。それを救うためには誰かを犠牲にしなければならないとして。その行動を選択するのは個人である。どういう理由付けをして納得しようとそれは個人の選択の自由を行使したに過ぎない。

しかし、それを罪に問うのなら、そこには誰かの介入がある。その善悪の基準を他人が決めている。それを問うているのは当人ではない。その正義は何が支えているのか。法律に書いてある、馬鹿を言ってはいけない。

ひとりなら救えても、ふたりは救えなかった。そういう状況は常にある。その選択の中で、伸ばした手に触れた指先がある、触れられなかった手がある。そういう苦しい経験をして今日も眠れない人が世界中にたくさんいる。今だけではない。過去にもそのような思いを抱えて生きぬいた人は大勢いた。

罪と罰

如何なる状況でも、助けられない命はある。人間の腸の中では日々数億の細菌が死んでいる。それは、罪であるのか、罪でないのか。罪だから罰する。罰っするには理由が要る。

罰は罪を犯したからだとして、では、その罪を決めたのは誰か。それが罪とされるのは何故か、その罰則は本当に合理的か。罪に対して等価な罰であると本当に言えるか。それらは明らかにした方がいい。

罪には基準が必要である。それを超えたから罪になる。違反したから罰を与える合理性はそこにある。違反には必ずオンライン、グレーゾーンがある、それをどちらかに決めなければならない。罪にはそういう二値化の特徴がある。

AIがどれだけ発展しても変えられない特徴である。誰が決めた罪なのか、それによって罰が決まる。罰するためには罪がいる。逆に言えば、罪を感じる時、それは如何なる状況であれ、罰して欲しいという事になる。時に人は罰せられる事で初めて許される。

そして、誰かを救えなかった時、誰も悪くないと言われても、当事者には忸怩たる思いがある。眠れない夜を過ごす時、救われるためにはいっそ誰か罰してくれないか。その方がずっと楽になる。

人間は不完全である。私が完全であったならこんな事は起きなかった。だから悔やみきれないのだ。自分の不完全さを変えられるならなんだってする。人間は原理的に完全を希求する。だから神がいる。

不完全だから罰がいる。不完全性を罰で埋めるのは完全を求めるからだ。ぽっかりと開いた空白を充填するには罰しかない。それを扱うには神が必要だ。AIではその役割を担えない。罪の意識は法を超えている。

罰とは何か

この星の野生は、他の命を奪うのに躊躇しない、絶滅する種の最後の個体を食べる事を止める理由がない。彼らに言わせれば、それも原子・分子の大循環の一環であろう。命のやり取りはエネルギーの循環の加速に過ぎず、循環は何も破壊していない。それは現象のひとつである。ひとつの現象が他の現象に変わっただけだ。なのになぜ生命は失われた命を悲しむのか。

いずれにしろ我々は罰せられたから罪があると考えている。それをヨブは神に問うた。すると神は、それは罰ではないと答えた。罰でなくとも不幸は幾らでもある。悪を試す事を神は許したのである。

では神は人を救うためにしか罰しないと言うのか。

人間は愚かだ。SNSでこれだけ広く知らしめても、飲食店で悪ふざけをする人間は後を立たず一生かけても返せない損害賠償を背負う。煽り運転する者も後を絶たず逮捕されニュースに顔を映す。

これらの事例から分かる事は、人は罰では変われない。罰を味わって始めて恐れる。ならば神であれ罪であれ、それを現実のものとして恐れない限り、罰には意味がない。そして、それに気付いた時は、既に罰からは逃れられない。

人は完全を思い込む、だから不完全を知るのに罰がある。

我々は自分の不完全性を完全によって乗り越えられると信じている。だから神を我々を超えた存在と仮定した。そうしなければ完全を思い描けないからだ。しかし、多くの神話を見れば分かるように、この世界には完全な神と不完全な神がいる。そこに人間の何かが投射されているはずである。

不完全性を繰り返し訂正してゆけば完全に近づくと予想する。または完全を仮定せず、ただ我々を圧倒する力を持つ神でさえ超えられない何かがあると想定する。完全なる存在は単調な砂漠からの帰結であろうし、我々を圧倒する存在は豊かな森林からの帰結だろうと思う。

我々はこの不幸を罰と理解してきた。この世界の不合理を不条理を理解するのに不完全という仮定が必要だった。それが罰でなければどうしてこんな運命に見舞われなければならないのだろう。神話はそれに様々な英雄譚を語る事でも応じてきた。運命に呪われた物語を読み、人々はこの世界を理解してきた。

そこから脱却する手段はあるのか。もしないならば人はどのように生きるべきか。不完全であるから罰がある、完全であれば罰はない。完全なる神は罪もなく罰せられない存在である。運命に翻弄される神々もまた罰せられたのでも罪を犯したからでもない。

人間だけに罰がある。屠殺場に赴く牛や豚は罰せられている訳ではない。恐らく、罰は人間のエゴイズムだ。