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2025年3月1日土曜日

メカニカルの郷愁

バイクのメカニズムは剥き出しで、ひとつひとつの構造に理由が見つけられるので、想像を刺激する。最近のデザインは虫に近づいており、プラスチックの甲虫感が強い。かつては鉄馬と呼ばれ、鉄の味わい、錆び感に朽ちてゆく美学もある。実際に乗るならカウルの機構は捨てがたい。が快適を求めるなら車でいいではないかとも思う。ともあれ事故にあえば百パーセント相手が悪くてもライダーが全てを引き受ける乗り物なのである。そこが馬とは違うと思われる。だから馬はどちらかと言えば車だ。いずれにしろ郷愁とは出会いの時期のとても強く引っ張られているものだ。とても上書きする気にはなれない。

KAWASAKI ZXR
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KAWASAKI ZEPHYR
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YAMAHA R1-Z
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SUZUKI BANDID 250
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HOND CB250 CLUBMAN
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YAMAHA SDR
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YAMAHA SRX 250
YAMAHA SRX 250
YAMAHA RZ250R
YAMAHA RZ250R

HISTORY
KAWASAKI GPX250R
HONDA JADE
HONDA CB400 SUPER FOUR

my favorite
SUZUKI GSX750E
SUZUKI RG250E

2020年11月5日木曜日

真似する事とコピーする事

似た製品が出るのは車のデザインでは頻繁である。走る機構は殆ど同じと言ってよい。殆ど同じをエンジニアの言葉では全く違うと言うが、それでも基本的な物理法則まで違う訳ではない。創造は細部に宿る。少し似るが全く違う場合もあれば、全く違うが殆ど同じ場合もある。

模倣は人間の最も基礎的な能力の一つで、この能力によって人類はこの星の広範囲に存在領域を拡大した。石器時代の革新も広範囲に伝達されたと言う。これはネアンデルタール人には見られない特徴だと。どうやって当時の人々は考えを伝達していったか。

我々の予想を超えた交易が既に確立されていたのか。それとも同時多発的に発生したのか。インカ帝国に車輪はなかったと言うが、それでもあのピラミッドを作るのに困りはしなかった。ユングはシンクロニシティの存在を想い、シェルドレイクは共鳴仮説を提唱する。量子脳という考えで情報の伝達を考察する人もいる。生物が量子的現象を自らの生命活動に利用しないと考えるのは余りに浅はか過ぎる。

状況が似ていれば、その後の展開も似たようなものである。それは想像に難くない。コップに既に溢れる程の水が注がれていれば、ほんの少しの振動でも水はこぼれ落ちる。同じものを見て、同じものを聞き、同じものを味わい、同じ不便さを感じる。人々は違う感想を持ち、違う感情に揺れ動く。これを敷衍すれば、人の数がそれなりに増加すれば、同じ事を感じ同じ事を思う人も当然ながら出てくるという事である。

ならば、それを理解する人も同時に登場するはずである。そういう発想はなかったと感嘆する人も、その発想が理解できなかったというケースは少ない。受け入れる準備も十分に整っていれば自ずと拡散する。拡散から何を思っていたかの逆算も可能だ。

例えば、フランス革命の自由、平等、友愛。17世紀のヨーロッパで開発された「民主政」。これらはあっという間に世界を席捲したが、その範囲は西洋を超え異なる歴史を持ち異なる統治思想で政治を磨きに磨いてきた東洋をも巻き込んだ。それを知る前から既に知っていたと考えるべきだし、それが到来する前から殆ど同じだったから可能だったと考えるべきだ。人間は自分たちが思うよりも全然違っていなかった訳である。そうでなければこんなにも短時間で世界に拡散できるはずもない。ベースが同じ。

逆に考えれば、違うと考える事が悲劇の始まりか。神が違う、肌が違う、歴史が違う、言葉が違う、細部を見れば全部が違って見える、横を向けば全く同じに見える。その違いがどれほど同じらしいか、どれほど違うらしいか。原子は全部同じに見えるかも知れない。どれもが違う場所にあるかも知れない。おとめ座超銀河団のどこかから宇宙を見れば、この銀河は、この星系は、何か特別だとは思えないはずだ。せいぜい辺境地区に左遷された神様の嘆息か。

違って感じる為には、それに見合う大きさが必要なのだろう。そこから外れれば同じに見えたり違って見えたりする。だったら動くな、という事になる。そこから動かなければ、何も変わらないであろうから。

我々の進化は一匹のサルから、だた一匹の新しい種が生まれて広まったと言うより、ある状態に置かれた群れの中で複数の固体が複数の新しい種を一斉に同時に生み、どんどんと置き換わっていったと考える方が自然だと思う。遺伝子が十分に変化しやすい状態にあれば、新しい種が次々と生まれるのに不思議はない。

ただ一つの本物があると仮定するから、それ以外の違いが許せなくなる。その一つのものが揺るぎようのない確かなものなら、どのような視点からでも唯一のものでなければならない。そんなに確かなものならば、誰かに侮蔑されたくらいで貶められるはずがない。そう信じられないなら、自分の中に揺らぎがある。

新しいものが登場すれば、それを真似るのは当然の事である。そうするしか人間は理解する方法を知らない。世界を脳の中に取り込む事でしか人間は世界を知る事はできない。

つまり、我々は誰もが世界を脳の中にコピーしているのだ。ならば、模倣だけがコピーなんかじゃない。岸和田のふぐ博士がふぐを解剖するのも、音楽家が楽器を叩いてみるのも全て脳へのコピーだ。そうやって始めて人は世界を知る、少なくとも知ったと信じられる。

すると模倣とは脳の中にコピーしたものを外部にアウトプットする行為になる。3Dでスキャンしてプリンタで印刷するのと何も変わらない。それを人間の肉体を使って行っているに過ぎない。模倣する以上、コピーは既に終わっているのである。真似るはアウトプットの出来不出来の程度に過ぎない。入力が同じでもアウトプットは様々な条件によって変わるだろう。元来、如何に真似ようとしても違ってしまうものなのである。

しかも、絵を描いた当の画家さえ自分の絵を完全コピーする事などできはしない。同じ絵をもう一枚描けと言われても不可能である。作者でさえ自分の絵をコピーできないのに何故他人なら可能だと思うのか。それは他人だからである。そこにアウトプットの技術がある。

中途半端に真似れば冷笑され、本物に匹敵すれば犯罪者になる。贋作家でさえそっくりに描くのにどれだけ慎重を要するか。本物を越えるには、別の本物になるしかない、違っている事が重要か、目の前にある本物と一体何が違うのか?

遠い昔の壁画に色を塗り野牛を彩り豊かに描いた人達にオリジナリティという意識はあっただろうか。表現のどうしようもない発露があったと信じたいが、その人たちの思いというものはただ空想するしかない。しかし、どのような表現であれオリジナリティなど勝手に付いてくる、吐く息の如しだ。それが嫌で捨て去ろうとした作家だって居たはずで、詫び寂びとはオリジナリティという俗世を掻き消した手の跡ではないか。

この世界の事象は全て一回しか起きないはずである。全く同じではないから本人にさえ同じ絵は描けない。時間の流れは再現不可能な方向に進んでいるようなのである。全ては一回しか起きない世界だから古い方に権利が着くのか。ならば、いつか人類のあらゆる創作物は既に誰かがやったコピーになってしまう。この世界が有限であるなら、論理的にはそういう結論にしかならない。

近くにあるもの、遠くにあるもの、同じもの、違うもの、その間にあって、眺める者、調べる者、模倣から始めて、新しい何かを生み出そうと努める者、この星の生物が進化で編み出した有性という方法は、真似が最も有力な戦術である事を証明している。基本は同じ、少しだけ違う、これが模倣の基本戦術。

その基本を繰り返せばあっと驚くほど違って見えてしまう。なぜ少しずつでいいのか。大きく変えると絶滅するリスクが高いからである。変えるリスク、変えないリスク、元に戻すリスク、少しずつ対応する方が確実である。

一歩ずつ前に進めば、時間経過によって莫大な場所に到達する。真似をしてはいけないと言う物理法則はこの世界に存在しないし進化上の制約もない。人類がこの星で大きな顔をしているのは、生物学的に絶滅過程に入っておらず、技術的に脅威となる競争相手がいないだけの事。

また同様に、細胞分裂という方法を40憶年続けてきた微生物たちの存在も忘れてはならない。その基本設計の確かさに驚愕し、決して変化を拒んだのではない仕組みに驚嘆し、ただ緩やかに変化するだけで十分であるという現実の前に、ひれ伏せばよい。彼/彼女?は他の種を生み出すベースとしてずうっと今も残っている。この生物種さえ残れば、地球はもう一度くらい最初からやり直す事が可能なのである。模倣は決して唯一の方法ではない。

最初に世の中に出た時には革新であったものが、みんなに影響を与え模倣され、広がって、いつかその独自性はありふれた普通に変わり、社会に浸透し刷新されてゆき、古い世代にとっての革新が、次の世代にとっては普通となり、新しい世代には陳腐で凡庸な退屈に変わる。そういう繰り返しの中にも発見がある。

孔子はそれを遠来の友と例えたのではないか。この世界の中にある当たり前のどれほどに、誰かが命を賭し火あぶりにされても貫いた意地や理念や理想が後世に伝えたものがあるか、今は想像するしかない。

人間にとってアウトプットは、社会や国家の先行きに直接的に影響する。入力が同じであって、アウトプットが違えば大きく異なった所に辿り着く。そしてよく考えれば、入力と呼ぶものは、次々と伝わる以上、誰かのインプットは、誰かのアウトプットだったのである。その信号の連続が脳の中に蓄積され、ループバックしてゆく。

虎に食べられそうになった猿が死ぬ思いで、みっともなく糞尿を垂れ流しながらも逃げきったから今の人類がある。

2018年6月16日土曜日

TOYOTA Design

SUPRA

スープラの美しさがある。当時見た時には何の印象も残さない変哲のないデザインであったのに。時代が過ぎると美しさだけが迫ってくる。

(TOYOTA SUPRA)

なぜであろうか。今では美しいこの車も当時は、ただ美しいだけの車であった。少なくともそう見えた。その頃は革命を求めていた。時代を切り開くデザインを待っていた。これまでにないデザイン、今日を過去にするデザイン、明日を一色に染めあげるデザイン。それが自分の基準であった。

存在するだけでは、美しいだけでは革命と呼べぬ。時代の最先端にある限り、先端を切り裂かねばならない。これはスープラの美しさとは何も関係ない話である。時代はひっくり返らなければならない。時代を新しいステージに上げないものに価値はない。そう思っていた。

この車の美しさというものは、もちろん、全体がそうなのではない。非常に美しいひとつのカーブが側面にある、それが全体の中ではっきりと存在し、美しさが、様々な部分へ流れてゆく。ひとつの流れが別の流れを規定する。まるでこのパーツはそこになければならぬ、というような主張をする。

美しい花とは、ひとつの美しいラインのことだ。そのラインによって全体が支配されるそのか弱さを花の美しさと呼んで何の差し支えがあろう。

デザインの本流

デザインには二つのアプローチがある。

ひとつは平面を組み立てて構成する立体、ひとつは曲面を組み合わせて構成する立体。ひとつは骨組みで形成する立体、ひとつは面で形成する立体。ひとつは平面を削って中から取り出す彫刻、ひとつは固まりを加えて大きく造形する彫塑。ひとつは輪郭で見せる立体、ひとつは影で見せる立体。

絵の上手い人は二次元に三次元を再現する。二次元空間の中に三次元を投射する。ということは三次元の中に、二次元を見出す道もあるはずだ。

人間の目もカメラであるから、脳に送られる瞬間の像にはフォーカスの合っている鮮明な場所と、ピントの合っていない不鮮明な場所が混在しているはずである。だが、我々が見ている世界にピントのずれた場所などないはずである(近視など理由あるものは除く)。

脳はそうならないように自動で処理している。短い間隔でフォーカスを変え眼球の向きを変え、複数の画像から一枚の世界を作り出している。不鮮明な箇所は鮮明な像で置き換え、盲点は別の画像で補完する。だから錯覚も起きる。

意識は加工後の画像を認識する。無意識にはもっと多くの情報が存在しているが、それを意識に上げないのは、その方が進化的な選択に適ったからであろう。

特に意識しない限り、我々はこの世界を二次元として脳内に構成している。それが証拠に片目で見ても世界は何も変わらない。眼鏡などのガラス越しだとその感じはより一層強く感じられる。三次元だと認識するのはそれ自身が既に錯覚なのである。

二次元空間として構成された世界を三次元空間に再構成するのが上手な人は、この無意識下の仕組みに意識が鋭敏な人、または訓練によって鍛錬した人であろう。

三次元的に空間を把握するのに、一枚の画像では足りない。

全てのピントが合っているとまるでCGのように感じられて遠近感は得難い。だがそれが動けばCG独特の空間が得られる。これは交差による遠近感の獲得と思われる。

これに、ピントのぼやけを組み合わせれば、物造の輪郭は際立ち、遠近感もより鮮明に得らるだろう。複数の画像があれば、それぞれの画像の差異から空間が識別できる。二次元では遠近法が最も有力な三次元空間の認識手段であるが(その他にも上にあるものほど遠いなどがある)、複数の画像があれば他の方法もある。

RAUM

ラウムを悪くないと感じるのに十年かかった。

この穏当にパッケージングされた車がもつ特色も面白みもない平凡さは、まるで目立つ事を恐れるかのようなデザインである。だから詰まらないと思ったのが早計であった。細部をじっくり見ると決して悪くない。それぞれの曲線が実にきれいに仕上げられている。トヨタ車の特徴のひとつである後部ドアが持つカーブの美しさも際立つ。

(TOYOTA RAUM)

AQUA

AQUA の展示を見たとき、驚いた。まるでタイヤの軸を目線としてそこから見上げる時に最も美しくなるようなデザインされたのではないか。日常生活では決して目にできない視線。まるで整備士のためだけに美しく仕上げたのか。

(TOYOTA AQUA)

リアガラス

AQUA は後ろの屋根で調和している様な所がある。あそこを無残に切り落とせばこの車のデザインは全て台無しになる。

多くのトヨタ車はリアガラス上部の断ち切りが直線である。すべてのトヨタ車に共通するこの直線的な切り取りは、機械で無機質的に切り落とされたかのように感じる。なぜこの直線なのか。

リアバンパーの丸みやランプ類などの柔らかさ、かわいらしさ。しかしリアガラスの直線。後ろ姿を構成する曲線とはまるで別世界にある調和を拒絶するような直線。もしかして、ここに TOYOTA らしさを感じるのだろうか。

ほんの少しの丸みでもあれば全く違う印象を与えると思うのだが。製造工程でどうしても回避できない問題でもあるのだろうか。

(TOYOTA PASSO)


(MITSUBISHI i)


(HONDA Fit)


(NISSAN NOTE)

TOYOTA FT-1

FT-1を見て、初めてトヨタらしさを感じた。これはスープラに違いない。そう思えるデザインを見た気がした。


(TOYOTA FT-1)

パッケージングのこと

トヨタのデザインは無個性である。空力だけで決定したような面白みのなさがある。だから機能美を感じない。どれもこれも与えられた包装紙に過ぎない。セダン、ワゴン、ファミリーカー、多種多様な車の中に TOYOTA の主張は聞こえてこない。この姿形は機能を単にパッケージングしたに過ぎない。

多くの人の意見を漫然と取り入れた、角もなくえぐ味もない最大多数の調和、誰もが納得する妥協、多くの人の不快を取り除いたデザイン、誰もが一定以上の満足はする、不満のないデザイン。

わずか数ミリ違う。その数ミリの差が全体の印象を変える。ここがこれだけ離れているのなら、あそこはもっと狭くなくては辻褄が合わない。一貫性のないデザイン。そういう印象を受ける。

部品毎に違う人がデザインしてものを寄せ集めてまるでひとつにしたかのような。分業でデザインし、それをひとつに纏めるパッケージングの力量。まるでメッセージに欠ける。誰かの声が聞こえてこない。そういう印象。

デザインのこと

12神将を見た時に感じた。日本のデザインはシルエットで魅せると。シルエットにどうしようもない美しさがあって、服だの顔立ちは表面の模様である。シルエットを際立たせるためにある。模様は服飾だろうが装飾品だろうが目鼻立ちだろうが何でも構わない。一方のヨーロッパのデザインはどうか。それは影がとても大切な役割をしているように思える。


だからTOYOTA SIENTAが影の代わりに太い線を入れたのには納得できた。

(TOYOTA SIENTA)

スープラのシルエットがある。

立体としてのフォルムがある。シルエットはフォルムからすれば二次元的な一場面に過ぎない。角度を変えれば、様々に異なった輪郭が表出する。フォルムが三次元ならば、シルエットは角度によって変わる二次元である。

日本はこのシルエットをフォルムの影として造形する。ヨーロッパはフォルムそのものが持つ影で造形する。この違いが車のデザインに影響しないはずがない。そう思っている。

トヨタのデザインにはヘッドライトやウインカーなどの付属品をぜんぶ取っ払ってみなければ分からない美しさがある。その理想とする形に余計な付属品を取り付けた形で走らせている。トヨタはそういうデザインをしている。


2014年10月5日日曜日

カラー版 国芳 - 岩切友里子

歌川国芳 、江戸時代末期の浮世絵師。ねこの浮世絵師。

国芳の浮世絵を見ていると、その絵の前後の動きが見えて来る気がする。この絵の前にはこういう動きがあって、この後はこういう風に動きそう。この想像が国芳の楽しみかも知れない。

国芳が今も生きていればアニメーションを描いたのではないだろうかと思えてくる。どんなアニメーターになったことか。アニメーターが国芳の浮世絵を見たならば、動かしたくて堪らなくなるのではないかと空想する。こんな空想は不遜だろうか。

かぐや姫の物語を思い出しながらそんな事を想うが、平成狸合戦ぽんぽこで高畑功が既にやっている。

国芳の人生に触れたければ「ひらひら 国芳一門浮世譚」も面白い。

なぜこうも江戸期の人たちの描く作品は斯くもユーモラスなのか。

2013年1月25日金曜日

エル・グレコ展 - ~ 2013年4月7日 東京都美術館

エル・グレコは本名をドメニコス・テオトコプーロスというギリシャ人である。その後半生をスペインのトレドで過ごした。1541 年に生まれ 1614 年にトレドの地で死んだ。


受胎告知

誰かの評価で良いのであればエル・グレコはマニエリスムの巨匠であり、パブロ・ピカソが再発見し、印象派の技法の先駆的な画家である。20世紀初頭に児島虎次郎がパリで購入した『受胎告知』は日本が保有する奇蹟とさえ云われる。そういう逸話で十分に満足できるならそれも良い。

しかし恐らくそんな事は絵を見る上で何の役にも立たぬ。画家が持っていたであろうキリスト教への信仰も何ら関係せぬ。目の前の色彩に佇むだけで幸せになれるのだ。およそ描かれたものがキリストであれ聖人であれ伯爵であれ鳩であれ、意味ない。


聖衣剥奪

嵐のような雲の流れ、炎のゆらめきと評した筆致、マントを色彩する発色、目線の動きがキャンバスの中に散りばめられ、停止した時間の中であるにも係らず、見るものが眺める様、顔の動きに応じて構図も変わってゆく。

パッと見ればグレコの赤が印象的だ。しかし眺めていると気付く。黄色を下地にして、赤は対比するために配置されている。グレコが書きたかったのは本当は青ではないか、と。黄赤青の対比が面白くて途中からマントを見るだけで楽しくなってきた。


聖母子と聖アグネスと聖マルティナ

この画家の絵を見ていると僕には漫画かアニメーションが思い浮かぶ。動きがあって色彩の単純さがあって物語があってデフォルメがある。天使が何人もいるが頭だけを描いているのにはおかしみを感じる。顔を描きその下に羽根を付け加え、ほらこれでもう天使に見えるだろう、と笑っているかのようだ。

カメラの視点というものは一つ場所の固定されている。これが絵になると顔が動き異なる幾つもの視線が一枚の絵の中に同居できる。映像がパンで表現するものを一枚の絵の中に表現する。エルグレコではそれは縦に伸び下から上へと動く顔の流れをも含むのではないか。

マントの皺の省略の仕方がまたいい。まるで、ああ面倒臭いと言いながら描いている様が目の前に浮かぶようだ。もしこの画家が今の時代に居たら。きっと漫画家であり映像作家であり画家であったろうと想像が逞しくなる。


無原罪のお宿り

筆致の楽しさ。それが印刷では分からない。本物を見るべきなのは、まさに私と絵の間にグレコが立ち筆が流れている幻想を想像できる所にある。ここをどう描いたのだろうか、という興味とは、画家が蘇る事の言い換えだ。

展覧会において、グレコは地の底から蘇り、絵の前に立ち、筆を振るっているはずなのである。それが画家と出会うという事なのかも知れない。

だからこの機会を逃すべきではない。

もちろん、長い人生であれば再び見える事はあるだろう。しかしそのためには世界のあちこちに足を運ばなければならない。

もうひとつ。エルグレコの描く鳩は上手くない、どちらかと言えば下手。JR 上野駅で駅弁を楽しみに、鳩を見に行くのは悪くない時間の過ごし方だと思う。

東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
2013年1月19日 ~ 4月7日
月曜日休館(2月11日は開、12日閉)
9:30~17:30(金曜 20:00)

2013/03/15
エル・グレコ展
ラファエロも円空も見ずにグレコ

芸術家の自画像、襟の白いひだひだがいいね。

燃え木で蝋燭を灯す少年。口の周りの白い色が白粉に見えて好きだけど灯りだね。


白てんの毛皮をまとう婦人。毛皮と背景の境目がいい。女は肌とかも綺麗に描かないといけないから嫌いだといってそう。

フリアンロメロと守護聖人。甲冑の間から見える緋色がすてき。左にある手書き文字のうますぎない感じいい。

聖パウロ。赤が聖なる色なのかしら。右手の表情がいい。

聖ペテロ。ヨハネ。パウロ。赤に飽きたのかな。水色と黄色、緑と赤、赤と青。色の組み合わせと印象が面白い。ヨハネ悪い奴そう。

聖アンナのいる聖家族。この空色と雲、まるでラピュタみたい!


聖ラウレンティウスの前に現れる聖母。あの振り向きでは聖母が目に入るわけはないのである。気配に気づいてあたりを探しているという感じかしら。

悔悛するマグダラのマリア。青の大地が不思議。


絵画は模倣である。フィルムは模倣であるか?

羊飼いの礼拝。もっともらしいかも知れない。暗闇の感じもいい。

受胎告知。赤青黄登場。

受胎告知1600。縦長の方がいいね。岩の壁に見えるものは全部顔ですからね。

羊飼いの礼拝。漫画家が模写しないかな。


十字架のキリスト。四つに分割された割合が不思議な構図。

聖母戴冠。ほら羽根から顔が生えてる天使が。


聖母戴冠。二つの大きさの違いが、大きさの表現の違いとなっているのかな。

聖アウグスティヌス、ヤコブ、フランチェスコ。オレンジ色。フランチェスコの空もいい。

あーあ天使の顔を踏ん付けちゃって。

聖マルティヌスと乞食。首が死ぬほど長いのは愛嬌として主役は馬に違いない。


聖母のエリザベツ訪問。青と青の対比がいいね。

無原罪のお宿り。羽がかっこいい、雲がかっこいい、衣がかっこいい。

グレコって兎に角かっこいい画家なんだよ。

どれが傑作とかあまりないな。このタッチかあればどれでも。それでストームを描いてもらいたい。どんな絵になるか想像してみる。

画集にはタッチがないから。

2012年5月25日金曜日

もっと知りたい曾我蕭白―生涯と作品 - 狩野 博幸

うちの母親は狩野永徳について面白い意見を持っていた。

織田信長の前で絵を描くとは命懸けであった。彼の癇に障るといつ命が飛ぶかも分からなかった。そんな命懸けが絵に出る。その迫力に圧倒される。

絵描きが絵をお披露目するときの緊張感を想う時、その絵には覚悟があったはずだ。この絵で殺されるならどうしようもない。だから狩野永徳を見る時はそれが命懸けであったと想うて見るのがいい。その迫力に圧倒され、緊張感のうち、色々な思いに捕らわれる。

時代を超えて残るものは解釈をし過ぎて困る事がない。どのような解釈も出来るし新しい見方も拒絶しない。だからそれは見る者を映す鏡と呼んでも困る事がない。

だが息子である僕の好みは時代が少し違う。

江戸時代である、江戸時代のユーモアこそが骨頂である。この時代に描かれたあちこちに見られるユーモアがこよなく好きだ。じいっと見ていると思わずプッと笑ってしまう。それはにらめっこしていたら遂に新しい所を発見してしまって笑わずにはいられなくなるような、そんなのが幾らでもある。

美術館で刀剣の鍔であるとか根付とかを見ていると職人の笑い顔が見えてくる。なんだこのかわいさは。目に入ってしまえば途端に笑ってしまう、カエルの開いた手や牛ののんびりするなんとユーモラスな事か。この、江戸時代独特のユーモアがなんとも謂えずにいい。

ユーモア、と言うしか表現のしようがない世界がある。ユーモアな人物はあちこちに居る。ユーモラスな会話というもの本になっているほどにある。しかし工芸品や絵などがユーモラスであるとは、これは珍しい事ではないか、日本ではない、江戸時代だけに見られる不思議な世界に思えるのだ。

ユーモアは恐らく意識的な造りであろう、狙って落とす先ではあるが、作為的ではない、しかし、天然でもない。さらっとしてないといけない、作者の舌を出した笑い顔が思い浮かなければいけない、それを、後から気付くようでなければいけない。そうでなければそれはユーモアではない。

きっとこれを「ああ愉快」と言っていた。

そして曾我蕭白。

絵について語ると言うのも可笑しな話ではある。見ればわかる、と言うべきだ。しかし、どう見るかを語るのも悪くない。面白さは人によっても時間によっても変わるのだから、それぞれが一つの道標みたいになる。人それぞれが見付けるものだとしても、こういう見方もあるよ、というのは、絵の解釈に等しいだろう。絵を言葉にするだけが絵を語る事ではない。どう見ているか、どこに注意しているかを語るのも絵について語る事だろうと思う。

さっと全体を見て終わるのではなく、ざっと見る方がいい、そのあと、どこか一点を注意してみる、そこは何気なく魅かれたり気になった所でいい、たまたま目の言った所でもいい、そこを見ていると線の伸びる先に目をやったり、対角線に目が移ったり、色や筆使いが気に成ったり、色々な妄想が湧いてくる。あちこちに目を移してみて、筆使いだの書き順などにも想像が膨らむ。

そうこうして絵の中を彷徨っている時に見つかるのだ、この絵の中に、その片隅に、何気ない曲線の中に、こんな曲線が隠れていたのかと驚いたり、どんな真剣な表情でこの絵を描いていただろうかと空想してしまう視点が。それは、長き年月を経たとも思われず、想像を超えた遥か昔であるとも信じられず、今も僕の目の前にあるじゃないか。

なんともユーモラスな顔や目や線がそこにある。こちらの事など何一つ気にするそぶりを見せずにそこにいる。鉄で出来たうさぎだったり、ささっと書かれた童の顔だったり。それに気付いて、ああここに居たのかと笑ってしまう。このユーモラスさは心地よい。それを見付けた時にすとんと腑に落ちる。

真剣さとユーモアの対比がある。真剣にこのカエルの顔を描いていたのかと思うと飄々とする。

本書の表紙をじっくりと見てみよう。女の人の目が寄っているのはおかしさをぐっと我慢しているからに違いない。老木のような仙人がくすぐったいのを我慢しているようでもあり気持ち良さそうにしているようにも見える、ところで、ふと目に入るこの白いカエルに気付くだろうか。この頭にちょこんと乗ったカエルの表情。何を考えるともない澄ましている。何の理由もありはしないが笑みがくるカエルではないか。

商山四皓図屏風の服の描画はどうだ、この太い線が生む白の雄弁さはどうだ、こんな描き方があるのかと訝る。酒吞仙人図を見ているとディズニーの白雪姫の7の小人にも見えてくる、驚きだ。

蝦蟇・鉄拐仙人図

http://ja.wikipedia.org/wiki/曾我蕭白 より


左の絵、なんとなしに見ると口から何かを出ている。ピューーと何かを吹き飛ばしているのかな。人か、近付いて良く見てみよう。すると、なんて顔をしているんだろう、小指が立ってる。なんともおかしな唇のカッコ、ああこれは面白いよく描けた口だ。右の絵は、笑っているようだな、おっと、一本足のカエルが見栄を切ってるぞ。これは愉快。


本書に楽しさを加えている一つに著者である狩野博幸が付けたキャッチがある。

こう言いたくなる理由は絵を見れば分かる。この人がどういう風に絵を見ているかもよく分かる。誰の言い分も講釈も信じちゃいない、自分で見て、その感覚に信頼を置いているのだろう、自分に自信があるという事ではない、自分の目を信じてみようと決心した人の言葉だと思う。

あっち行け!しっ!蝶を怖がる百獣の王

怯える獅子と困惑する虎、ガリガリガリガリと岩に爪たてる音がする。

亀よ、その小さな手で何を掴む

この亀の手がポツネンとしてユーモラスでたまらない。

マンガ的擬音語を添えてみたい衝動に駆られる

これは物理学ではないか、宇宙と重力の関係式が見えてくるような。

ピューッと風を切って走る音が聞こえてきそうなスピード感

この絵を見た時に、手塚治虫の新宝島の逸話を思い出さない者がいようか、スピード感という表現で時代を超えて二つの作品が交わったかのようだ。波も岩も草原も漫画のスピード線で描かれているに違いない。

とぼとぼと雪の上に続く幾重にも重なる足跡は数多の絵師たちの通った跡であり、そのどれもがいい、その景色さえ一幅の絵のようだ。

こちらも併せてどうぞ。

根付
耳鳥斎 (にちょうさい)
仙厓義梵(せんがい ぎぼん)
白隠 慧鶴(はくいんえかく)

2012年5月23日水曜日

日産サニー Design - デザインと名前

道を歩いていると、お、いい車じゃん、これ。

よく見れば実家に同じ車がある。

日産サニー!


http://ja.wikipedia.org/wiki/日産・サニー より

どうよ、この車らしい、車。車の絵を描いてみなさいと言われたらきっとこうなる最大公約数のデザイン。ポルシェだのランボルギーニだの、そういうのに憧れる年頃から見れば、侮蔑の極み、堕落の象徴、一般化の具現、面白みのない大人、皮肉、そう言った声が聞こえてきそう。まさに、僕も最初にこの車を見た時はその平凡さに落胆した。

この車。

今みると悪くない。

美しいという称号を与えたいなら、この車は不適格かも知れない。細部に美が宿るからも遠そうだ、綺麗ではあるが美しいとまでは言えない。これが感嘆できる曲線であるかは微妙だ。

しかし、ここにも一つの意志がある、平凡かも知れないが、車という道具に与えられた形がある。全ての虫が煌びやかに多彩に迷彩されている訳ではない。地味な虫は美しくないのか、そういう感性は神の創造物であるには欠陥のように思える。虫がではない、その感性の宿り主が。

存在に与えらえたデザインとは何とも不思議なものである。

と、国道に目をやればふと来る車、次に来る車、一台づつ見ていると。。。

どれもこれも、 十分個性的で愛らしい。まるで、色々な虫が歩いているのを観察してるようだ。楽しい。最悪のデザインに見えていたTOYOTAまでもが悪くない。TOYOTAの車はどれもこれも、後部座席ドアの流れるような曲線の良さが見えてくると面白くなってくる。これらの車に与えられているのはデザインではない、パッケージングであろうと思われてくるから不思議だ。

ブランド
昔の車が良く見えてくる、古い時代のものの存在感を感じる。そういう事はデザインでも良くある話だ。石器時代の石器にロマンを感じるが、ジャングルで生活する人が使っている石斧にどれだけの感想を覚えるともない。

デザインの何に興奮するかは非常に変動的なのだろう。それはバックグランドや思い込みも含めて感傷的なのかも知れない。如何にも日本車のデザインは何かの影響を強く受けているように見える。あの車を真似たのか、という思いに捕らわれる。似ていないなら、あの車に対抗しようとしたのだという思いに捕らわれる。デザインに影が見えてくる。

これは名前のリンクでもある、サニーとカローラ、この二つのリンクが切れればそれぞれが美しい。しかしこの二つが切れていなければ、それはサニーはカローラの真似というフィルターから逃れる事が出来ない。

だから車の名前やメーカーも全部を忘れてただ眺めてみればどれもこれもよく思えて来るんだろう、と思う。

名前ってのは解剖学で定義するようにある一部分、どこかを切り出す行為だ。だから名前がある限りは空間なり領域なり境界なりで何かから何かを切り取っている。それは世界であるだろう、ではそれを切る道具は何だろうか。きっとそれが価値観というもの。

ステータス
有名なメーカーだの、排気量が大きいだの小さいだの、金額だの新車か中古だの。謂わばブランド。

ブランドがあれば価値で染まった姿が見える。後ろ盾のある人物が大きく見えたり、落伍した人が小さく見えたりするのと変わりはしない、デザインの価値観を入れる箱物という側面は否定しきれない。ステータスとデザインには深い繋がりがあるはずだ。

そういうものを全て忘却してみればどれもこれもよい車。過去が価値観を洗い流してくれた訳だ。どれにも個性がある。

この失われたステータスはビジネスが生み出したものだ。であればビジネスとは名前を付ける行為なのだろう。何かに新しく命名する。商品を作っては名前を付ける。仕様を提唱して名前を付ける。

パッケージ
従来とは違った切り口を見付けたなら其れに名前を付ける。これが新しい価値の提案と言える。逆も真。名前を付けたならそれは新しい価値の提案なのだ。既にある名前でも再発見という事もあるし、Version 2.0やRevision、Season、Seriesとするのもある。

少なくとも今やっている事に名前を付けてみよう。ビジネスとは名前を付ける事。それがビジネスの恐らく第一歩だ。そしてデザインとは名前に仮面を与える事である。それは価値観と強く結びついてデザインされる、何故なら、価値観は名前と表裏一体だからだ。それが次第に時間の経過により名前が忘れられてゆく、その時に、名前を失ったデザインというものがもう一度姿を現してくる。

時間の経過とデザインが関係するなら若さや老いもデザインと深い関係にあるはずだ。若い野心がステータスと無関係ではいられるはずがない。若い時こそ物事に色を付けて見る癖が強くでる。それは己の価値観をぶつけたものだ、好き、嫌い、使える、使えない、得になる、ならない、金になる、ならない、如何に行くべきか。彼らは名前に反応し、新しい名前はないかと探す。

ビジネスだけではない、呪いも名を必要とする。相手の名が分からなければ呪う事さえ出来ない、何故なら、名前によって相手を世界から切り離すからだ。名前に取り憑きその重みで人を殺すに至る。遠い昔、既に忘れられた名前の人々の物語がそこにある。

造形
それらが流れ過ぎてゆき今もこの世界に残っているものは何であろうか。

デザインに美しいも美しくないもありはしない。それはブランドという価値観に酔った感性に過ぎない。デザインはただ存在する。その存在に感性が畏怖したならば、それはデザインだけではない何かと出会った事になる。

このサニーも家族の思い出だけが残ったような姿をしている。

誰もがデザイン以外の形を目で見るなど出来ない。だから、この世に残るものはデザインだけなのだ。

人は去る、デザインだけが残る。