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2018年1月21日日曜日

原子力発電所を停止させる方法

概論

原子力発電所の停止について議論するなら、実効性のある停止方法を考えねば意味がない。停止するのにも条件がある。そしてこれは、北朝鮮の核武装放棄を論じる事とリンクしている事に気付いた。

停止するための方法を検証する事から始めよう。我々の言葉に魔力はない。口に出しても雨は上がらない。風も吹かない。だが条件が揃えば、何をしなくても自然とそうなる。

事故による停止(物理的理由)

事故が起きれば原子力発電所は停止する。これは既によく知られた現実である。物理的に設備が破壊されれば、運転したくてもできない。同時に、安全性への根拠が失われれば、政治的にも停止せざる得ない。

喉元過ぎれば熱さを忘れるの言の通り、数年も経過すれば、再稼働するのも自然である。再稼働の条件も、ただひとつで良い。刑罰によって人を律するのは韓非子の時代から真理である。

一度目の事故では仕方がないと責を問わなかった事も、二度目は通用させてはいけない。もし次に同程度の事故を起こしたなら極刑に処する。それだけで十分である。

すると、再稼働の問題とは、再開に関するコストの問題になる。何人の命と引き換えならば、妥当な対策を実施するかという問題になる。取締役程度の命では軽すぎるなら、数を増やせば良いだけである。当人だけでは効果が薄いのならば、その家族、一族にまで刑を及ばせばよい、これは古い形の処罰であるが、今も有効であろう。

近代法は、個人を基礎に構築したものだから、このような刑罰は受け入れられまい。だが、もし、何らかの利益を引き継いだのであれば、例えば遺産など、それは処罰の対象になっても良いはずである。ここまで強い刑罰を施行しない限り、原子力発電が停止することはない。

破壊による停止(物理的理由)

全電源を失えばStation blackout1日でメルトダウンする事が分かった以上、原子力発電所を停止させるには電気さえ奪えばよい。電気を生み出すものの弱点が電気であるとは皮肉である。原子力発電所は停止した時に外部電源を必要とする。

20mの津波には耐えられても、恐竜が絶滅した時に発生した1kmの津波には耐えられまい。そのような津波は想定外であろうが、想定を超えるから事故になるのだ。断層や地割れ、取水口の閉塞、建物の倒壊、すべて対策されているだろうが、対策されているとは、詰まり、それは超えうるという事だ。

原子力発電所を破壊するのは自然災害だけではない。外部電源を切断したければ、どこかの山奥にいってケーブルをチョッキンすればいい。復旧を遅れさせたければ山火事を起こせばよい。

そのうえで、敷地内で発電用のディーゼルや発電車を破壊する。三日間その状況を維持できるだけの武力を持っていれば原子力発電所は自壊する。

  • 自然災害
  • テロリズム(平時)
  • 攻撃目標(紛争時)
  • 操作ミス(ヒューマンエラー)

どこかの国と紛争状態になれば、巡航ミサイルなどを使用して破壊するターゲットには、空港、港湾、高速道路網、新幹線、架橋、トンネル、商業施設、工場地帯などが想定される。終戦後にその地域を利用しないと決めれば、原子力発電所もターゲットにできる。

例えば、滅亡と報復として原子力発電所を狙う可能性は高い。たった一基の発電所でさえ大混乱をきたす。敵国を混乱に陥れさせるためには有効である。

デモによる停止(制度的理由)

デモでは原子力発電所は決して止まらない。なぜならデモは政治的圧力にはならないからだ。

しかしそれでもデモには価値がある。小さなうねりが止んで、穏やかな凪になった後に、大きな嵐がくる。ほんの小さな兆しは見逃すものである。デモというものは、デモが必要なくなった時に、初めて思い返さるものだ。

このデモは今回の選挙には影響しないかも知れない。しかし、それはデモに行かなかった人の中に残る。数万の人々が一斉に蜂起すればそれを防ぐ手段を政府は持たない。デモと暴動の間にあるものはほんと僅かだ。だからデモの根底には必ず恐怖が宿っている。

デモンストレーションのもっとも有名な成功例はガンジーの運動であろうか。非暴力という人類の長い歴史の中でも狂気の沙汰と思われる手法がなぜ有効であったのか。20世紀だから成功したと思う。前時代ならば一人残らず殴り殺されて終わっていたであろう。

その古い時代とは比べものにならないほど20世紀の暴力は突出していた。だから、呼応するように非暴力の価値が高まったのではないか。暴力が増大すれば、非暴力で死ぬ人の数が増大する。そうなって初めて人々はその数に躊躇したのではないか。

デモの最大の効果はガス抜きである、デモが無事に解散すれば、為政者たちはほっとするだろう。そこに最大の効果がある。緊張状態を作り出すこと。もし羊たちが非暴力のデモを飼い主に対して起こしても、捕まえられ毛を刈られ野に放たれるだけである。

技術革新による停止(経済的理由)

原子力発電所が経済的要請で稼働している以上、それを停止させる第一の候補は経済的要請である。何がどうなろうが、経済的に無理なものは停止する。原子力発電所の維持運用コストが、他の発電を超えた時、原子力発電所は自然とその役割を終えるであろう。

世界は再生可能エネルギーに邁進している。日本以外の各国がこれに最大限に注力するのは、この次世代の発電テクノロジーには世界を征服できる可能性があるからだ。たったひとつの技術特許が、どれだけの財を生み出すかと考えた時に、これに参加しないビジネス判断はあり得ない。官庁にはそのような嗅覚はないかも知れない。

世界の潮流は、原子力発電所の次であって、原子力発電の未来ではない。

これを実現するために、さまざまな発電方法と蓄電技術の組み合わせが研究されている。それが他分野における技術革新を促進する。また社会基盤を否応なく変える圧力になる。もちろん、既得権益に対してもその圧力は加わる。

だから、古いインフラを持たない地域では早く促進される。発展途上国の方が次世代のインフラを導入しやすい。それが新しい競争力を生む力になる。

そのような流れで世界の潮流が変わっていくとき、この国の古いインフラは足枷になるかも知れない。この国の原子力行政が見直される頃には手遅れかも知れない。夜空に隕石の発光を見た時、恐竜でいることを悔いても遅い。

火力発電が温暖化のために抑制されるとき、原子力発電の需要が高まった。しかし事故のリスクを考えた時、再生可能エネルギーの利用にシフトした。この流れは止まるとは考えられない。例え石油が枯渇しなくとも、原子力発電は衰退する。

保険制度による停止(経済的理由)

このような未来の技術に託すにしても、原子力発電を停止する即効性はない。そこで即効性のある経済的圧力に、原子力発電所の保険加入がある。事故が起きた時に損害を補償できるように保険に加入することを義務付けるのである。

自動車に自賠責保険と任意保険があるように、原子力発電所にも保険加入が必要なはずだ。そのような保険を引き受ける保険会社があるかどうかは別にして、少なくとも見積もりをしてみればいい。

レベル7の事故が起きた時に、これをカバーする保険はどの程度の金額を想定するか。福島第一原子力発電所の場合40兆円でも少ないように思われる。一基当たり10兆円であろうか。それを保険制度として実現するにはどれだけの保険料が必要であるか。

それを含めて原子力発電所の正しい運用コストでである。保険加入せずに安いというのは誤魔化しであろう。たかが1200億円程度(原子力損害の賠償に関する法律)。それ以上の損害は税金で補填するのなら、運用コストが安いのは当然であろう。

これは事故が起きない前提で作られた制度である。その前提が崩れたのだから、見直しする。車が初めて公道を走り始めた時には保険はなかった。車が増えたから保険制度ができた。

保険料を含めて原子力発電のコストを算出しなおす。それが正当な発電コストだ。保険料が増大すれば原子力発電は経済的理由から自然と淘汰される。

それでも、この保険料には、放射性廃棄物の処理、維持費用は含まない。

法による停止(制度的理由)

菅直人総理大臣は311を受けて、浜岡原子力発電所の停止を要請した。ここに法的根拠は何もない。もし法的に停止できるならば、そこには十分な調整が必要であり、その結果の合意がなされたことを意味する。

よって法的に停止することは現実にはあり得ない。が、規制を強化する事で、コストの上昇を誘い、その結果として停止させることは可能である。しかしその場合でも十分な調整と合意は必要であるから、この方法は緊急的措置、世論の強い後押しがある時しか無理であろう。

倒産による停止(制度的理由)

どれほど設備が優れていても、資本主義では運用する企業が倒産すれば停止する。しかし、それは原子力発電所の場合、何の解決にもならない。原子力発電所は停止してからも何十年も維持しなければならないのだから。

すると最も恐れるべきは企業が倒産することであって、野良の原子力発電所が誕生することにある。政府はそれをもっとも恐れ、よって企業が横柄になる理由も理解できるのである。

それも、単に企業が存続するだけでは不十分で、解体するための専門家も育成しなければならない。原子力発電所は停止すれば問題が終わるものではない。ただの途中経過だ。
  1. 変わりの発電をどうするか
  2. 解体をどうするか
  3. 放射性廃棄物をどう管理するか

石油への恐怖

日本がこれほど原子力発電に執着するのは、もちろん、石油に依存するエネルギー行政の危うさにある。この大前提を乗り越えない限り、それ以外の選択肢はない、というのが現在の帰着である。原子力発電とは、海上封鎖されればたった30日で干上がってしまう地政学上の要請なのだ。

そして世界でも最高レベルの日本の電力インフラは称賛すべきものだ。それがこの国の経済的復興を生み、その優位性を保ち続けている。

経済の優位性とは、低価格と高品質の両立を目指すものである。日本の経済方針はこれによって輸出量を増やし外貨を入手する事にある。外貨以外に日本の方策はない。

我々はなお石油に依存した文明の上におり、人間が到達したあらゆる物質的享受はすべて石油に支えられている。これを失えば、数百年前に戻る。この文明の脆弱性に対して、人類はあらゆる手段で石油からの脱却を模索している。原子力発電もそのひとつである。

あらゆる分野で安価な石油に変わる代替品の開発が進められている。石油は枯渇しないのではないかという主張があるが、それは石油に依存し続ける理由にはならない。

ひとつだけ確かな事は、石油もまた太陽エネルギーの一形態に過ぎない。この星の生命はみな太陽エネルギーを享受するために生まれてきたと言ってもよい。石油とは過去の太陽エネルギーを取り出しているものである。

原子力が夢のエネルギーであったのは、石油に頼らなくてもいいからであった。それは石油が禁輸されることで無謀な戦争に突入した過去を知っている人々には当然すぎる結論だった。

だから、問題は過去にはない。これからにある。昨日と変わらない今日ならば何も問題はない。だが、今は時代の大きな転換期にあるのではないか。

原子力とともに

我々の知見では、人類に扱えるエネルギーの最高峰は核融合である。その次に核分裂がある。そして、人類が宇宙に出航したときに、欠くべからざるものが原子力発電であろう。太陽光パネルは太陽に近くなくては使えない。木星まで旅するには、原子力発電を宇宙船に搭載する必要がある。もし冥王星まで出航するなら、核融合が必要かもしれない。反物質を安価に扱う方法が見つかれば良いのだが。

正しく怖がらなければならない。これが311の教訓だ。原子力発電も正しく怖がらなければならない。そして、使用するにしろ、停止するにしろ、この技術は人類の将来に必要なのだ。廃れさせてはいけない。

核兵器もまた核分裂、核融合の応用である。これをどのように廃絶させるのか。そのための条件は何であるか。もちろん、アメリカや中国には許されて、北朝鮮には許されないのは何故か、という議論は進めなければならない。だが、その結論を待つ余裕はない。

物理的理由か、経済的理由か、制度的理由か。そのどれかによって達成できるはずだ。どれほどの血を歴史が欲しようと。大勢の血が流れるケース(戦争)、ひとりの血が流れるケース(死亡)、まったく流れないケース(亡命、容認)、と様々なケースが考えられる。その全てを当事者たちは検討しているはずである。

我々は決断しなければならない。答えを知っているならば決断の必要などない。選択すれば良いだけである。だから、怖がる事もまた決断なのである。可能な限り知る。知れば、知らない事が増える。そうして選択と決断が使い分けられる。

いずれにしろ、我々は原子として生まれ、原子として死んでゆく。太陽の光に温められながら。