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2012年11月22日木曜日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 - 庵野秀明

これは 4 枚の連作のうちの 2 枚目である。並べれば其々が自画像の様である。

それを 4 つでひとつの物語として見るから繋がらない。4 枚の連作された絵画であると見ればそれで十分である。作中の数分間が絵画的であればそれでよい。それ以外の時間はそれを支える額縁の様なものだ。繋ぎ合わせて映画として存在するがこの作品は一枚の絵画である。

それぞれは描かれた年代も背景も状況も違うから色合いもタッチも違っていておかしくない。連続するように見えるのは額縁が繋がっているからだ。それぞれ違う絵だから額縁の繋がり方に矛盾があると言った所で違って当たり前の話しである。同じ主題を調律を変えて奏でた音楽に例えてもいい。

僕の持っている人生観や考え方以外に確実なオリジナリティは存在しない。それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。そこの部分なんですよね。コピーをする時に自分の魂をこめる。まあ、それは人の魂が入っている、ただのコピーではない。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.50

ヱヴァンゲリヲンの雰囲気や肌触りは何かに似ていると思っていたが科学特捜隊であると合点した。ウルトラマンではなく科学特捜隊という物語。ヱヴァンゲリヲンはウルトラマンで代替え可能に思う。

この作品の世界観はどうにでも作り変え可能だ。登場人物さえ同じならエヴァという物語はどのようにでも表現できる。それはテレビシリーズ第 26 話 - 世界の中心でアイを叫んだけもので示されている。庵野秀明が作り直したものでもそれはひとつの作品の解釈に過ぎない。

劇場版は旧作をいったんバラバラにして組み立て直した。作品を詳細に分析すれば単なる旧作の切り貼りではなく、他の作品からの転用があちこちにある事に気付く。何処かで見た風景があちらこちらに散りばめられている。

テレビ万能時代に生きたものの宿命ですね。もっと認識すべきだと思うんですよ、僕らには何もないっていうことを。世代的にすっぽりと抜けている。テレビしか僕らにはないんですよ。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.19

この物語に登場する最前線で戦う戦闘集団は素人の集まりだ。集団としても未成熟であるし指揮系統も脆弱だ。14 才の子供に銃を持たせる。アフリカの少年兵に実際に起きている事が作中で起きる。65 年前にあと 3 ヶ月戦争が続いたらこの国でも起きていた事が作中で起きる。子供に銃を取れという大人が登場する。そこにあるのは架空のリアリティだ。だから素人集団でなければ物語は成立しなかった。

物語が持つリアリティとファンタジーは均衡しなければならない。リアリティをひとつ作り込めばそれとバランスを取る様にファンタジーが必要になる。ひとつのファンタジーを作り込むためにはそれとバランスの取れたリアリティが必要になる。そうやって作品は成立する。描き直された新劇場版の使徒の表現、CGによる洗練されたメカニズム、キャラクターの表情は魅力的で美しく完成度が高い。それは映像のアートだ。そのリアリティに裏付けされ物語のファンタジーも巨大化する。

僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない。それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定できない。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.49

物語は、未解決の課題、作者はこの後をどうするんだろうという謎によって観客を足止めする。作中に現れる思想や説明など取るに足らない、ナレーターのいない世界(ミサトが変わりを担う)で物語を構築するのに最低限必要な骨格だ。

日常会話の楽しさとシリアスな状況での会話を対比してみても苦痛である。この作品は様々に解釈できる。新しい解釈が新しい魅力を発見する。挿話ひとつが多彩な解釈を生む。科学的に宗教的に童話的にアニメ的に世界観が拡がる。それを提供するプラットフォームだ。しかしたかが物語ではないかとも思う。そういうことなら我々人類は聖書でさんざんやってきたではないか。

これらの連作を作るうえで作者が一番苦心した事は何であろうか、それは観客から逃げ出す事ではないかと思う。こうなるであろう、ああなるであろうと勝手な観客の予測を絶対に裏切ってみせる、その為には如何なる手段も厭わない。オリジナルをベースとしながらも作者は観客の前を疾走し遠さがる。

最初のテレビシリーズは藤井に教えてもらった。それは "アスカ、来日" だった。それを見た時の感想は、オタク相手。なんら感心を持てず、後日放送されるテレビ東京の深夜一気見放送まで興味から外れた。第一話。エヴァンゲリオンとは第一話のレイの包帯姿から始まる。なんだこれという心の声。あれを見たから今がある。

テレビ版の最終話の破綻が好きだった。制作が時間的にも創作的にも行き詰りのた打ち回って出した結論。そのケリの付け方は斬新で男らしい。分からないものは分からない、出来ないものは出来ない、と堂々と言ってのけた。謎解きなど全部うっちゃった。全部分かった上で批判を堂々と受け止めた。お前たちの非難なぞ全部知っている、それでもこうするしかなかったと言う作者の苦しみが聞こえた。

この作品の何が面白いのか。旧劇場版は、監督の錯綜ぶりがまるでシシガミが切り取られた顔を求めて森を彷徨うようだった。エヴァンゲリオンは失われた最終回を求めて迷走しているのかと思った。そして薄々と誰もが思い始めている、これだけの期待に応えるだけの物語の終わりなど存在しないのではないかと。

旧劇場版では散りばめた多くの伏線を回収できなかった。それ以前にアヤナミが巨人になった。ファンタジーを通り越してホラーになった。それは陳腐と呼ぶべき造形であった。キリスト教や量子力学の謎もそのまま残った。聖書の解釈が多くの文学作品を生み出した様にエヴァンゲリオンも聖書から生れた作品として、幾つもの解説、解釈、そしてオマージュを生んでいる。その系譜は今も続いている。最終回とは何であろうか、どうケリを付ければ最終回となるのか。物語が終わるとはどういう事か。

旧作の最終話だけを見た。鑑賞に耐えられなかった。この作品は前提を必要とする。最終話だけを切り取って見ても面白くない。最終話への流れが見えていないと面白さは伝わってこない。コンテンツ(中身)ではなくコンテキスト(文脈)に物語の面白さが存在する。

包帯だらけのレイはいきなり目の前に突き付けられた現実である。どうなると言う気持ちがこの作品を先へ押し出す。時計の針が動き始める。時間を切り取った間だけ花を咲かせ、連綿と続く生命の進化の中で遺伝子を次の世代に託すかのように、シンジが綾波を救い出すシーンは太古の地球に最初の生命が誕生するかのようだった、それ以前の生命が全て滅んでも構わず。これは一枚の絵画だ。

ヱヴァンゲリヲンのプロットは退屈である。男が失った妻を生き返らせようとする。キリストの復活ではない。人類補完計画は死から逃れようとする老人の暴走に過ぎない。中世なら処女の生血を飲もうしただろう。永遠の命に絶望し自殺も出来ぬから一体などと言う妄想に走る。この物語を構成する二つの巨大な権力の存在がリアリティを得るために必要であった。だから描きようがない。巨大なリアリティが薄汚れた老人たちの妄想なのだから。

手の内を見せればファンタジーになってしまう。隠しておけばリアリティになる。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、とはそういう意味だ。レイは何故ああまで戦うのか。この秘した花の唯一の現象がレイだ。謎のままでよい。意味など与えない。彼女は何の為に戦うのか、彼女の意志は何であるのか。

それが明かされれば物語が崩壊する。レイは憑代である。コアに閉じ込められたユイのではない、作品の憑代だ。彼女がファンタジーをリアリティに変換している。その花の魅せ方をいろいろな咲き方を劇場版が語っている。

物語の終わりとはファンタジーの量が 0 になる事かも知れない。そこで花は消え現実に戻る。どうやって花は消えるか。ファンタジーの象徴を破壊する以外にどんな方法があるのか。

「綾波を返せ」からの数分間だけが作品である。それが与える感動を増幅する為にストーリーを必要とした。キリストを知らない人にとってヨーロッパの絵画の意味が全く違ってしまう様に背景を必要とした。それを額縁に散りばめる事で成立させた作品だ。美とは装飾が全て消え去っても残るものであるが、人々の衆知を集めるには立派な額縁も必要である。その額物を通してしか見えてこない絵画の風景がある。

ヱヴァンゲリヲンには家族が登場しない。家族を失った者達の物語にさえ見える。家族を失ったものたちが幻想の中で家族と出会う。それが神であったり使徒の姿をしているのかも知れない。幻想の中でヱヴァンゲリヲンは偶像として登場する。

綾波を、返せ!僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波だけは、せめて綾波だけは、絶対に助ける!

誰もが感じている事だと思うがヱヴァンゲリヲンという作品は何かしら病的である。レイの包帯姿が場所を病院である事を象徴している、と強引に見るならば、これを病院での出来事と解釈してもいい。社会から隔離された精神病院での出来事だ。病を抱えた者達の病的な幻想を編集した。妄想の中で襲い来る使徒。母親や家族の思い出でその妄想と対峙する人々。人類補完計画とは自分達に理解できない病室の向こう側の話しかも知れない。

妻を亡くした男が妻を蘇らせたいと望む、父親に虐待されていた少年が強くなりたいと願い、事故で両親を亡くした少女が幸せだった頃を思い出す、仕事や不倫で疲れた女、その人たちの哀しみや強さと向き合う過程の記録ではないか。その隣で付き添うのは分かりあえた友人だろうか、それとも病院のスタッフであろうか。

使徒は妄想であるしヱヴァンゲリヲンも妄想である。ロンギヌスの槍はアスクレピオスの杖から連想された患者たちの妄想だ。あの明るい、素敵な、僕の好きだった最終回は、取り敢えずの退院であろうか。彼らは病と向き合い入退院を繰り返す。おめでとうと拍手で送り出されるシンジ、それは喜ばしい事のように見える、だが彼の帰る社会はどこにもない、病院以外。

病気は快方せずまた入院する。入院しもう一度初めから物語を紡ぎ始める。ヱヴァンゲリヲンとはそういうものではないか。同じ事をループしながら少しずつ違う未来を探している。何回でも最初からやり直す。そういう解釈だって間違いじゃない。

だけど・・・医者の中にも患者の中にレイがいない、彼女は何者なの?

この物語は精神を病んだものが紡ぎ出した妄想なのか、だが作品と妄想の違いはどこにあるのだろうか。世界観がそう解釈されたとしても作り出された物語の正気を担保するものがどこかにある、そうこの作品のどこかに。

P.S.
:Q とはエヴァンゲリオンにおける Z ガンダムかも知れないと何となく思う。

2012年11月13日火曜日

足し算よりかけ算を先にする理由

なぜ足し算の前に掛け算を行う必要があるのか。答えは足し算を先にやると計算結果が変わるから。

3 × 2 + 1 の場合

  • (3 × 2) + 1 = 7
  • 3 × (2 + 1) = 9

どちらが正しい式かと問われれば上記の式はどちらも正しい。では括弧を省略した時はどうすべきか。ここで忘れてはならないのは数学者という輩は少しでも楽したがる動物と言う事である。彼らは膨大な量の計算をするので省略できるなら少しでも簡単にしたいのである。難しいと頭がこんがらがるし。

という訳で 3 × 2 + 1 をどうすれば良いか。

先頭から計算する?

先ずは頭から順に計算するという方法がある。しかしこれは却下。数学者は楽したがるのである。この方式では式の途中に演算を加えたり消したりする度に頭から計算式を書き直さなければならない。こんなのインクの無駄、時間の無駄、人生の無駄。

足算を先に計算する?

次に省略している時は足し算を先に計算すると決める。するとどういうことが起きるか。もちろんメンドクサイのである。例えば。

y = 3 × x + 5 という方程式がある。足し算が優先なら実はこれ展開しきれてないって事になる。 y = 3 × (x + 5) であるからこれを展開すると y = 3 × x + 15 になる。所でこう書くとまた展開しないといけない。つまり展開し終わった時には必ずカッコで括って書かないといけない。

y = (3 × x) + 15

えー展開する度にカッコ書くなんてナンセンス。カッコ書き忘れただけで結果が変わるし危険だよ。というわけで掛け算を先に計算すると決めておけばカッコを書かなくて済む、エコだ。さらには × 書かなくても式として分かるよね、さらにエコだ。

y = 3x + 5

割り算の順序

所で掛け算と割り算の順序はどうか。これは書いてある順序である。ここはメンドクサクないの?という話。

2 × 3 ÷ 5

これ多分だけど、割り算は分数に書けるからじゃないかな、面倒臭くないのは・・・

掛け順の順序問題

掛け算には単位を揃えるために行う側面がある。足し算は単位を同じにしないと出来ない側面がある。しかしそんなの問題次第ではないか。タコが一匹います。ここにプリウスが二台あります。タコの足とタイヤの数は足して幾つでしょうか。 8 + (4 * 2) = 16。単位? 知らない。

本当は算数の掛け順こだわり問題について書こうと思っていた。しかしあれは教える側の都合であって、教わる側には何の関係もない。もう少し言えば楽してお金を稼ぐ方法に過ぎない。

子供達が掛け算を理解しているかを知る為に単位とか掛け順を含む問題を作り出した。先生が子供達の掛け算の理解度を把握しその後に生かす為だ。それが何時の間にか掛け順を守る事に目的が変わった。理解度を計る方法は他にもあるし、問題の工夫にも多々ある。だがそれらは拒絶した。

これは渡れない川、越えられない壁である。算数ではなく教育の技術論なのだ。昔から目的が手続きによって取って変わられる事は良くある。目的の達成のために手段が発明され、目的と手段が同一視される。目的が忘却されても手段は実行される。算数と言う目的が形骸化しても教育と言う手段は失われない。

one of them の手段が他を駆逐し万能になる。この方法で目的に達成するならば、これに全力を払えばよい、他の手段は不要、ただ邁進する。恐らく原子力行政もこのような動きがあった。目的なき技術論ではないか。

目的を達成する為に手段を合目的化する、それで本当に目的を達成できるかの検証は必要ない。達成できないは未だ中途半端だからである。共産圏でも似たような笑い話がなかったか。これは彼らのエネルギーが尽きるまで、破綻を迎えるまで続くのだ。

越えられない壁は補給を絶ち陥落させる、それ以外の方法はない。歴史上の公理である。

2012年11月12日月曜日

非礼勿視、非礼勿聞、非礼勿言、非礼勿動 - 孔子

巻六顔淵第十二之一
顔淵問仁 (顔淵、仁を問う)
子曰、克己復禮爲仁 (子の曰わく、己れをせめて礼にかえるを仁と為す)
一日克己復禮 (一日己れを克めて礼に復れば)
天下歸仁焉 (天下仁に帰す)
爲仁由己 (仁を為すこと己れによる)
而由人乎哉 (而して人によらんや)

顔淵曰、請問其目 (顔淵曰わく、請う、其のもくを問わん)
子曰 (子曰わく)
非禮勿視 (礼に非ざれば視ること勿かれ)
非禮勿聽 (礼に非ざれば聴くこと勿かれ)
非禮勿言 (礼に非ざれば言うこと勿かれ)
非禮勿動 (礼に非ざれば動くこと勿かれ)

顔淵曰 (顔淵曰わく)
囘雖不敏 (回、不敏なりと雖ども)
請事斯語矣 (請う、斯の語を事せん)

人には相手を思いやる心が備わっている。この相手を思いやる心というのは勿論、人間だけが持っている能力ではない。それでもネアンデルタールとホモサピエンスが残した石器を見比べれば交流の違いが分かるそうである。

(ネアンデルタールは未来の我々だ)

相手を思いやる心のその能力は如何と問えば獲物を捕らえたり相手から逃げる為の能力と考えられる。これは未来を推測する能力であって鰯の大群が捕食者から逃げるのも捕食者が追い駆けるのも方向を予測して行っている。

この能力が極めて発達したのが人間の脳なのかも知れない。それを得るために我々は心を必要とした。心があるから相手の気持ちを個々別に管理できる。こういう気持ちでいるだろう、こう考えているだろうと仮定を生み出すものが心であろう。

この能力があるから見知らぬヒトとも交流できるのだろうし、その交流が新しい交流を生み出す事もできる。これはヒトが繋がる力に違いない。と同時にこの能力を使えば巧みに誰かを騙したり陥れる事もできる。この未来を見通す力、誰かから逃げる力、誰かを襲う力は生き抜く上で非常に強力な能力だと思う。

これはそのまま性善説や性悪説にも繋がる気がする。これらは思いやる心が備わっているから起こる現象であってそれを分別するのは社会側からの要請に過ぎない。何が善であり何が悪と決めるかの前にそういう働きをヒトは持っている。

この思いやる心というものはだから全て幻想である。思いやるとは自分側からの推測に過ぎないし、未来は全知不能である。この能力が世界像を己の中に構築する能力である以上、己の中で完結するしかない。推測が当たっているかどうかは分からない。相手との関係を確かめてみないと分からない。幾ら思いやったとしても相手がそうであるとは限らない。擦れ違いもある。本質的には一方的な世界像である。

個々人が作り上げた世界像は決して交わる事はない。それぞれが独立している。それでも人の集まりはこの世界像を重ね合い幻想としての共有を己の中にマークする。

こうして作り上げた世界像は強力である。ヒトは現実と仮想空間を同一視しながら訂正を繰り返す。仮想現実とは別にコンピュータが作り出した世界ではない。初めから我々の中に既に存在している、と言うよりも仮想世界を持っているから我々はヒトで居られる。

ある日この仮想現実が自分自身を襲い始める。まるで免疫システムが自分の体を攻撃し始めるかのように。自分の中にある世界から攻撃され非難され始める。その世界が自分に敵対し終には自分自身を押し潰そうとする。それは現実の世界が攻撃してきた訳ではない。自分の中の架空世界の暴走である。誰かを思いやる心が自分に牙を向いただけなのだ。

ストレスやプレッシャーが切っ掛けになるであろうし、誰かに抱く恐怖であるとか重圧の仕事であるとか様々な抑圧が何かを切っ掛けにして自分を攻撃するのである。過ストレス社会と言えるかも知れない。それは人の性善に頼り切ったが為に起きているとも言える。誰もが大きく誰かに寄りかかり寄りかかられている。その中で行使される権力の濫用に人は弱いものである。善意を権力で支配しようとする関係性は本当は破壊されるべき関係性であるのだ。

論語では礼こそが最も大切な考えだと思う。儒教は礼によって完成する。

礼は我々が漠然と知っているような礼儀であるとか、礼節であるとか、儀礼や作法の取決めではない。お互いの間にある取決めの了解を礼と呼ぶのではない。それらは礼の表現であって、礼を重ねてゆく内に自然と出来たお互いの了解であるとか、手続きの簡素化に過ぎない。お互いに分かりあった上で形式化するのは礼の簡略化であり、それはフォーマット化された手続きであり、礼の上に立脚したものではあるが礼の法ではない。

礼とは行為ではなく心に添う。では礼とは何か、礼の法とは何か。礼を必要とする理由とは何か。それは人とは基本的に恐れる生き物である事を理由とする。

我々生物は常に生命の危険に晒される。他の生命からも同じ生命からも。私たちが身に着けた思いやる心は誰かと繋がる力であると同時に誰かを疑う力でもある。我々は極度に恐れている、人間そのものを。

ストレスがあり、プレッシャーに晒され、暴言を吐き、誰かを罵倒する人々がいる。何かを嘲笑し自分の優位性を確認したい人々がいる。よく見れば彼らは恐怖から行動している。彼らは恐怖の感情をどうにかしようとしている、それは野生動物を彷彿とさせる。

彼らに礼はない、何故か、自らのストレスに気付かずそれに打ちのめされているからだ。

我々は生きようとする。それは恐怖の中に於いても変わらない。自殺でさえ前向きに生きようとする手段である。危機に立ち向かう事も逃げる事も生きる事である、同じように誰かを襲うのも生きる事に違いない。恐怖は暴力に、劣等感は侮蔑に、嫌悪は軽蔑も、嫉妬は優越感に、抑圧は解放に、心の複雑さは意識に昇らない危機までを感知しそこから逃げ出そうとする。

罵倒する者達は確実な者だけを標的にする。それが安心だからだ。そうしていれば不安に苛まれない。つまり彼らは不安に苛まれているに違いない。罵倒する人は不安と格闘しているのだ。なぜ確実なものだけを叩くのか。確実でないものは不安を呼び覚ますからだ。自分は確実に優位性を保持したい。優位であることが生き残る確率を上げると知っているから。

相手を低い場所に貶める。相手と十分な距離を取って安全性を高める、近付き過ぎると危険性が増す。あと一歩近付くと不意な反撃で致命傷を負いかねない。そうして安全を見極めた上で彼らは不安から脱出しようと罵倒を始める。不安の根がどこにあるかを分かっていようがいまいが関係ない。そうする事が気持ちいいのだ。他人を叩く事で心のバランスが得られる。強いストレスがある程に気持ちよくなる。つまり彼らは別の場所で叩かれているヒトだ。

強い心があればそうならなくて済むであろうか。だが強い心とは何であるか。どこにも見た者などいない。自信があれば強い心になれるだろうか。だが自信とは未来に対する心持ちの状態である。絶対であるわけがない。たんに不安に打ち勝つ為の心の持ち様に過ぎない。根拠に裏付けされる必要はない。

自信があれば何かが起きた時でも冷静でいられる。それだけの事だ。落ち着いて行動すれば対処できる可能性が高まる。その為に必要なのが自信であり、慌てても碌な事にならない。自信があるから慌てないのではない。逆だ。慌てないようにと自信を持っておく、手放したら死に至るから必死で握っておく。自信とはそういうものだ。そうやって困難の前で己を律するものである。

であれば困難と対峙していない時の自信など不要であるしそれは強い心とも言えない。誰かと相対する時に相手が見ず知らずの人であれば恐怖を感じるのは当たりだ。落ち着いていようがいまいが相手を思う心がどんどんと相手の虚像を造りだす。それは色々な状況に対応できるようにとアラームを上げている状態に違いない。それに押し潰されないように如何すればよいか。礼とはこの恐怖に打ち勝つ手順だ。傷つく心を隠さず守り抜く己を律する方法でありその行為でありそれを律する心の持ち様である。

人同士が接すれば傷付け合うものである。それを避けるなど出来ないし失くす事もできない。礼とは其れを私が受け入れる為にある。傷付く事を知ってもなおヒトは誰かと結び付くのだ。

この恐怖と立ち向かう為に礼がある、もちろん勝利は約束しない。それでも相手を罵倒する必要はない、蔑む必要もない。

罵倒する人は相手を貶める事で逆に相手から蔑まれる。そのような敵対関係を結ぶ事でお互いが近付き過ぎないクッションのある関係を築く。そう見れば罵倒する者は実は優しい、彼らでさえその関係性の間に知らぬ間に優しさを挟み込んでいる。気に食わなければ俺を憎んで良い、お互いを疎遠にする事でそういう態度を取る事が出来る。罵倒でさえお互いの協調性が存在する関係性が築かれているのである。ヒトとはそういう関係性にさえ最悪を避ける方向で解決しようとする。

人間は笑顔では人を刺せないと言う事をよく知っている。その点で彼は基本的にやさしい、罵倒する相手に憎まれるように仕向ける。そうである理由は実は相手に興味がないから、彼は己の心の危機から己を救いたいだけだから。それは礼によって人前に立てる様になるまで止む事はない。

己を救うためには罵倒ではなく、礼によって相手の前に立つ事である。その結果、相手が理解してくれなくとも、相手から罵倒されようとも、自分は礼を尽くした、その思いが自分を救う。それ以上に己を救う手段などない。礼を尽くせばそれを理解しない人がいて理解する人がいてそれが世界になる。

たとえ無力であろうとも礼を尽くす。

(訳)
顔淵が仁を問うた。
子曰わく、己れの弱さを知り礼で接する事を仁と言う。
一日でも世界に礼を尽くせば
この世界は仁の心が溢れていると知るであろう。
仁を為すのは個々人に属する行為である。
どうして他人に強制できようか。

顔淵曰わく、もう少し教えて。
子曰わく
礼がないのなら相手を視ていない
礼がないのなら相手を聴いていない
礼がないのなら相手に言ってない
礼がないのなら相手と接していない
それまで待ってあげるべきだ。

顔淵曰わく
私にそれが出来るかは分かりませんが
礼で人と接し相手の礼を待ちます。

2012年11月7日水曜日

どうやって我々は進化するのか

すべては合理的に行動した結果である、もしそれが合理的に見えないならば、それは合理的と判断する前提条件がこちら側に欠けているからである。太古 45 億年生まれ生き生き抜いてきた全ての生命の活動は合理的である。命をかけて生きる活動が合理的でない、と考えるのは合理的ではないからだ。

ミミズを馬鹿にするものがいる。だが我々もミミズと同じ感覚器しか持ち得ないなら、彼らの合理性がよく理解できるはずである。足りないのはそれを思い付かない側の問題である。

(ダーウィンはミミズ好き)

藍藻と桜はどちらが進化しているか?ゴカイとヒトではどちらが進化しているか?人の退化したものは何であるか?人の進化したのは何であるか?もっとも退化した動物は何であるか?

地上にいる生命が進化に費やした時間はどれくらいか?進化の過程で変化した回数は優劣を決める因子か?環境に適用した生命は繁栄するし環境の変化により絶滅する。これに対応するためにどのような戦略があるのか?もっとも最後まで生き残る生命は何か?

はっきりしているのは地上に存在する全ての生命はみな同じ時間をかけて進化してきた。39 億年の間に全ての生命は同じ時間を進化に費やしてきた。大きく変わった仲間もあれば当時から変わっていない仲間もいる。変わっていないものは最高傑作と呼んでも差し支えない。彼らの設計図はその当初から完成していたのだ。変わったものは変化を必要とした欠陥品であった。

シーラカンスでさえ変わらないという進化を続けてきたはずだ。珪藻にいたっては 39 億年の進化の記録である。

逆に新しい環境に乗り込むために頻繁に変化を必要としたものがいる。進化は環境から追放された弱者の側により起きた。負けたものは住み易い環境から追いやられる、不利な環境に追いやられた者が生き延びるために変わっていった。

ただこの 39 億年ではっきりした事が一つだけある。どれだけの進化をしようとも宇宙に生物は進出できないと言う事だ。どれだけ鳥が高性能な飛行を手に入れようとも宇宙には出られない。これは生命にとって大変に重要な事実と思われる。生命はどうやって宇宙への進出を果たそうとしているのか。

遺伝子の発祥を知るものはいないが進化という考え方を私たちは知っている。遺伝子は変わりやすい性質を初めから持っている。ウイルスによっても遺伝子の置き換えは起きる。化学物質や放射線によっても進化は促進される。

だが猿の群れの中に突然変異で裸のサルが生まれそれが人となったという説は受け入れ難い。絶滅危惧種を見ても分かる通り一定数以上の個体がいなければ種は確立しないのだ。アダムとイブだけでは産めども増えない。

裸のサルが一匹生まれて群れ中で交尾してヒトばかりになる、というシナリオは考え難い。種が違えば繁殖は出来ないからだ。そんな個体は群れの中で攻撃されて死ぬのかひっそりと消えてゆくのみだ。

(アウストラロピテクス・アファレンシスは名前がカッコいい)

だから思うのだが、進化するにはその環境が整う必要がある。サルからヒトへと進化するのなら準備が整う必要がある。群れ全体がヒトへと変わりやすい遺伝的な準備を終えており、ある条件下で一斉に群れ全体がヒトへと変わってゆくのである。

進化し新しい種が生まれる為には前段階にある種がコップに満杯になった水のように少しの揺れで溢れ出す状態にある必要がある。そこに自然淘汰だの棲み分けのような外的圧力で変化が生起する。遺伝的な準備段階があって、それが満たされた場合だけ新しい種が産み落とされる、だからヒトへと進化したサルは、ヒトへと変わりやすい段階に既にあったのだと思う。今の僕たちが生きるこの世界も次への準備を始めているに違いない。

それがある切っ掛けであちこちに新しい種が生み落される。いつの日か一斉にヒトではない新しい何かが社会に産み落とされても不思議ではない。その種を我々が育てるのを放棄したら新しい種は成立しない。もちろん向こう岸に渡った後に梯子は消える事もあろう。ヒトとチンパンジーが分岐した時、その姿はヒトともチンパンジーとも違うサルだった。お互いに遠くに来たものだな。

人類の変革は 10 万年単位で見れば十分に起きうる。最初のヒトが発生して 400 万年。現生人類の発生が 4 万年前である。我々がある特殊な能力を持って生まれたのは偶然に違いないが生命から見れば可能性である。我々ならば貧弱なりとも宇宙へ進出できる。

ガンダムにはニュータイプという新しい感覚器を備えた人類が登場した。地球へにはミューという超能力を備えた人類が描かれた。それは旧人と新人の対立がテーマであった。我々は進化した種ではないが、この東日本大震災で一斉に人が変わったわけではない。それでも。

(All we need is love)

マスコミを見よ。彼らはこの大震災を受けながら何一つ新しいものを生み出せないでいる。だがあちらこちらに声に出していないが、何かを感じ、考え、思いを新たにした人がいる。誰が産み育ててゆくか。

新しい種が最初に生まれた時に、我々の先祖のサルはその新しい裸のサルを育てたに違いない。我々はどうだろうか。

軽い気持ちでやりました

御白洲場にて

ぬしは軽い気持ちでやったと申すのだな。

うむ、では聞くが、おぬしは自分がやったことの重篤性が分からなんだと申すか。

それがどれだけの重大事かも分からずにやったと主張するのであるな。

実際にやる気なんてありませんでした、悪戯でした。だから許してくださいと。

うむ、では判決を申し渡そう。

ぬしは 28 にもなってやって良い事と悪い事の区別が付かないものじゃ。

その歳になっても、そういう区別が付かないようでは救い難い。

次もおぬしはその重大さに気付かず何かをしでかすであろう、それが今度は取り返しのつかない重大事にならぬと言い切れるか、言い切れはしまい。

軽い気持ちでやっても許される事ではない事をお主はいま知ったのだ、

ただ、それを知るには遅すぎただけじゃ、判決を言い渡す。

不敬罪により島流し。


吟味所にて

お上、あれでよかったのでございましょうか、拙者には厳しすぎるような気がいたしますが・・・

よい、あれはな、見せしめじゃ。

しかし、お上の言い分を聞いておりますと、なんやらその重篤性に気付いてやった者の方が評価できる者であるように聞こえてきました。

うむ、その通りじゃ。己れのやったことの危険性や重大性を知ってやったものの方が、まだ分かり易い。

しかしそういう者は用意周到にやるであろうから、なかなか防ぎきれるものではないのじゃ。

そこに今回のようなお調子ものが重なってみよ、混乱するのは目に見えている。だから軽い気持ちでやるものは根絶すべくキツイ罰を与えるのじゃ、だから見世しめじゃよ。

では志しを持って行う者は如何?

そういうものはわしらが何を言っても気持ちを変える事はあるまい。ましてや次をやらかす時には、必ず今回の失敗を反省のうえ、更に巧妙にやるであろう。

はい。

だらか、死罪申し付けしかないのじゃ。見どころがある者ゆえ、死罪しかないのじゃ。

はぁ。

これも天下国家泰平のため、わしらに申し付けられたお役目じゃ。


なるほど、マッコイ検事補、卓見でありますな・・・

(LAW & ORDER)