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2019年2月24日日曜日

どっちをどっちで割るんだっけ?

@see
水100cc に 1 g の塩を溶かした時の濃度

問題

50のうちの26を占めます。比率はどれくらいでしょうか?

比率は割ればいいに決まっている、という事は、どちらかの割り算のはずである。

50 ÷ 26 = 1.9230769230769230769230769230769...



26 ÷ 50 = 0.52



結果の意味

比率 n:m を求める割り算は二つある。

それぞれが示すのは数の比率であり、グラフの傾き(y/x)である。それは線対称でもある、ベクトルのようでもある。



何故こんがらがるのか

比率や濃度の計算でこんがらがるのは割り算だからである。

足し算や掛け算ならばどっちがどっちという問題は生じない。どっちがどっちでも答えは同じだからだ。足し算、掛け算を使うと理解した時点で問題は解決したも同然である。

引き算は少し違って、引く向きを考えないといけない。所が、間違えた所で変わるのは正負の符号だけだから、計算は無駄にならない。引く方向を間違えても符号を変えるだけでいい。答えの絶対値 |A-B|=|B-A| は等しい。これは、引き算の余りを求める場合でも、同じである。

割り算だけが、順序を間違うと答えが全く変わる。A÷B と B÷A は違う答えになる。なぜ、割り算だけがそうなるのだろうか。

割り算を理解したい

ふたつの数がある。人間の脳は、これを区別するために、勝手な意味づけをしようとする。そういう意味付けをした方が理解しやすいからである。この意味付けは、計算する上では何の役にも立たない。ただ式を作るときに、式を理解するときに、少し役に立つ場合がある。

算数、数学には、自由に式を立てられるという利点がある。だから、意味を持ち込むことは基本的にしない方がいい。意味は数学を束縛し、その自由度を損なう恐れがあるからだ。

人が理解するために様々な意味付けをする。意味付けと言っても、基本的にはそれらは人間の勝手な思い込みや妄想である。

そう考える方が式が立てやすいと思う人には役立つだろうし、そうでない人には役に立たない。だから誰もが同じように理解する必要はない。無益だと思う人は忘れていい。

人間にとって、理解できない多くの場合は勝手な思い込みや偏見である。意味付けすることで、時にその思い込みを払拭できる。また、同様に、その意味付けによって思い込みや偏見が生まれる。

数の大小関係に注目する

さて、割り算。計算する順序で答えが変わる。答えが変わるのは、数の大きさが違うからだ。

ふたつの数があれば、その大小関係は3つある。
ケース関係割り算では引き算では
1AよりBの方が大きいA<BA÷B<1, B÷A>1A-B<0, B-A>0
2BよりAの方が大きいA>BA÷B>1, B÷A<1A-B>0, B-A<0
3AとBは同じ大きさA=BA÷B=1, B÷A=1A-B=0, B-A=0

引き算では大小関係は0を基準とするのに、割り算では1を基準にしている。何故だろうか。

[NOTICE]
上の例は正の数の場合。負の値が入ると大小関係が変わってくる。例えば、2>-2 では 2/-2=-1<1, 2-(-2)=4>0 など。

引き算による大小の把握

大小関係を知るだけならば、どちらでどちらを引いても構わない。
もし答えが0より大きいならば式の最初にある数の方が大きい
もし答えが0より小さいならば式の後ろにある数の方が大きい
もし答えが0ならば数は等しい

この時、引き算は、例えば 100-1=99、10000-9000=1000 などのように数の(差)を教えてくれるが、ふたつの数がどれくらい大きいか(何倍であるか)は教えてくれない。

割り算の意味

割り算は何倍かを求めることができる。
A ÷ B = C
A は B の C 倍である。
1倍のとき、ふたつの数は同じだ。

割り算を掛け算の逆と考えてもいい。
A * B = C
掛けられる数 × 掛ける数 = 答え

C ÷ A = B
C ÷ B = A
1倍しても、元の数は変わらない。

掛け算には、掛けられる数(A)と掛ける数(B)がある。割り算にも、割られる数(A)と割る数(B)がある。これは式の構造に着目した呼び方である。
A ÷ B = C
割られる数 ÷ 割る数 = 答え
[NOTICE]
この呼び方は、式の中で「作用する数」と「作用される数」があるとする考え方である。この考え方は極めて言語的で、形容詞が名詞を修飾するように、式の中にもどちらかからどちらかへと作用する関係があるという考え方に基づいている。この考え方は多くの解釈の中のひとつであることに注意。数式の中に作用する側、される側という区別があるわけではない。

等分という考え方。
A ÷ B = C
A を B等分したら、ひとつあたりは C になる。
1つに分けるのなら、ぜんぶを独り占めだ!

割り算のよくあるシチュエーション。
具体例
何倍か、大小を比較する9個の飴と3個の飴のどちらが多いかを個数で判断する。
1kg の肉と500gの肉のどちらが重いかを判断する。
5平方mと四畳半のどちらの部屋が面積で広いかを判断する。
等分する、同じ大きさに分ける9個の飴を3人で分ける。
10kgの肉を4人で同じ重さで等分する。
1つのケーキを25人で同じ体積で等分する。

個数(50個と26個)


面積(一辺が2と10の正方形)。



なぜ比率や濃度はこんがらがるのか?

割り算は、何倍や等分を求める時だけでなく、濃度や比率を求める時にも使用する。
100ccの水に溶けた1gの塩の濃度(101ccの塩水)。
1(塩) ÷ 101(塩水) = 0.00990099009...
百分率にして 0.9% と呼んだりもする。

濃度とは何か。「溶液中の溶質の割合」「量を全体積で除した商」などと書かれるが単位を見るのが一番だろう。単位はそのまま式になっている。
濃度の単位 [重さ/体積] g/L, g/cc, mol/m3 など。

重さ:mol, mg, g, kg, t など。
体積:m3, L, mL, uL, cc など。

割り算に単位をつけると、式で求めた答えの意味を示すことができる。
割られる数割る数答え単位説明
飴10個2人10/22個/人一人当たり2個の飴
塩1g塩水101cc1/1010.009g/cc1ccに0.009gの塩

塩水の濃度は、塩水の中に溶けている塩の量を求める事ではない。溶けている量は 1g と分かっている。これが水 100cc の中に溶けている。濃度とは 101cc の塩水から 1cc だけを取り出した時に溶けている塩の量を求めることになる。

1ccあたりの濃度を知れば 150cc の水に何gの塩を溶かせば同じ濃さの塩水を作ることができるかが計算できる。ふたつの塩水の濃度を求めれば、どちらが辛いかを知ることができる。

舐めて調べるのではなく、数値にして大小を比較する。これは大切な事だ。

数式と単位

算数の数式は必ずしも単位を必要とはしない。単位がなくても計算はできる。だけど日常に出てくるたくさんの数には単位があって、時間、長さ、重さ、面積、体積、個数、濃度、速さなどが普段の生活では省略されている。

10 ÷ 5 という式は算数だけど、10km / 5h だと物理になる。これは速度かもしれない、一時間で歩いた距離を求めているのかも知れない。

もし濃度を求めるのに、逆の順序でやってしまうと 101cc ÷ 1g になる。この時の単位は cc/g となる。これは 1g が溶けている食塩水の量という意味になる。例えば 5g の塩が解けた 1000cc の食塩水がある。1g の塩を取り出したければ 200cc だけ汲めばいい。濃度は 5/1000=0.005g/cc だから 1g/0.005g=200 とすれば 1cc*200=200cc と同じ結果が得られる。

比率

50 のなかに 26 があるなら、50 の中に 26 が含まれているという事になる。比率は「含まれている」というイメージで、「含まれている方」を「含む方」で割る。これは「含まれている方」が、全体の何%を占めているか、を求めるのと同じだ。
26 / 50 = 0.52
含まれている数 ÷ 含む数 = 比率

ミカンとリンゴの値段が4:5の比になっている。ミカンの値段が200円のとき、リンゴは幾らか?

200円に対するリンゴの値段が知りたい。知りたいのはリンゴの値段なので、ミカンの値段はリンゴの値段の中に含まれていると想像してみる。すると、200(ミカンの値段)÷リンゴの値段で比を求める事ができそうだ。

200:リンゴの値段=4:5
200÷リンゴの値段 = 4/5 = 0.8

両辺にリンゴの値段を掛ける
200 = 0.8 × リンゴの値段

両辺を0.8で割る。
200 ÷ 0.8 = リンゴの値段

計算する。
200 ÷ (4/5) = 200 × (5/4) = 200 × 1.25 = 250

比について、全体の中でどれくらいを占めているか、というイメージで説明してみた。

終わり

割り算はなんとなく「大きい数÷小さい数」というイメージを持っていた。それはそのまま「全体の数÷部分の数」という風に考えていた。この考え方は何倍とか等分する場合には何も問題がない。ところが濃度の式だと「小さい数÷大きい数」となるので、何か不思議な感じがする。

濃度が分かりにくいのは、それが割り算だからではなく、濃度だからだった。濃度への理解が足りていなかった。それは単位についての理解が不足していたと言ってもよい。大切なのは適切な割り算ではなく、適切な単位の理解であった。