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2012年2月6日月曜日

風が吹くとき - レイモンド・ブリッグズ

When the Wind Blows

原爆を扱う話しは作者がどれだけ工夫を凝らそうとも話しは次の3つに集約する。
原爆が落ちる前、落ちた時、そして落ちた後だ。
話しの起伏はこの3つしか考えられない。

今なら原爆と原子力発電の事故は似たように受け取る事も出来る。
しかし確実に世界を破壊し人を死傷させるために造られたこの兵器が落ちる時というのは
チェルノブイリや福島第一のような原子力発電所の事故とはやはり違う。
それはストーリーを破壊する瞬間であり、観客は自らそれが来る前に時間を停止させる。
その瞬間に映画の中に居られる者など一人もいやしない。

これは映画なのだとこれほど思い込まされる瞬間など
他にありやしないのだ。

ラジオから聞こえてくる政府が交戦状態になりました。
あと3日で戦争になりますの声。

あわてて夫は政府が配布した戦争時の過ごし方のマニュアルを手にする。
家中のドアを外し小さなシェルターを作る。
爆弾が落ちてきたらそこで過ごすと妻に語りかける。

この物語に登場する老夫婦は確かに無知であるかも知れない。
そんなバカな、なんて事をしているんだ、見る者は思うだろう。
こんな無知でどうするのだと。

しかしこの映画を製作したスタッフは無知ではない。

無知でない登場人物を出せば何かが変わっただろうか。

仮にあったとしよう。
放射能についての知識も豊富であり
核兵器も廃絶すべきだと信じている初老の夫婦だったとしたらどうだろう。
シェルターは地下室に作るだろうし
食品の備蓄も万全である。
降ってきた雨水で紅茶を作りはしないだろう。
それで。

彼らも脳裏にそれを思い浮かべなかったはずはない。
そして直ちに思い知るのである。
それは映画を作るうえでは邪魔にしかならぬ。
最後は結局、同じじゃないか。

作者たちはこの作品に登場するものをぎりぎり最低限にまで削ぎ落した。
核兵器反対というメッセージさえも削ぎ落している。
そんなテーマはこの映画のどこにもありはしない。

「はだしのゲン」は怒りのマンガであった。

「この世界の片隅に」には哀しみがあった。

しかしそれでも未来はあった。

この作品はどうだ。
登場人物は二人とラジオの声。
そのラジオの声も爆発とともに止まり
世界と繋がるのは政府が発行したパンフレットだけ。

夫と妻の日常である生活をひたすら紡ぐ。
それをフィルムに収めただけの風景なのだ。
そして森繁久彌と加藤治子の声が大変にいい。

この風景は恐らく実写では描けない。

妻に声をかける夫の話しがリアリティを持つには漫画にするしかない。
吐き気と下痢が止まらないと語る妻に「疲れているんだよ」と声を掛ける夫。
その一言に納得する妻は漫画でしか描けなかったはずである。

福島の原子力発電所の事故からこの物語を
無知の恐ろしさだとか、原子力の怖さの物語と見る人もいるだろう。
我々は何故原子力という力を手に入れてしまったのだろうかと。
生れ出た作品である、どう受け取るかは見る人の自由である。

しかし見終わってから暫くして不意に気付くことがある。
見ている者はこの夫婦の悲しい生活、破壊された世界、悲しみそういう気持ちを味わっている。
だがこの老夫婦は最後まで幸せであったのだ。

この老夫婦は決して不幸ではなかった。
悲しみは僕達の側にだけある。

彼らの幸せを悲しみと受け取ることは断じて許されない。
淡々と放射能に侵されてゆく夫婦を見続ける事は悲しい事だ。
次第に弱ってゆく足取りを見続ける事は耐え難くもある。

だがこの作品をどこに連れて行こうとしているのだろうか、というその一点だけで
この作品は見る者が目を背けることができないように出来ている。

作者たちはどこに連れて行くのか。

Rock-a-bye, baby, on the tree top. (眠れよい子、木の上で)
When the wind blows, the cradle will rock. (風が吹くとき、ゆりかご揺れる)
When the bough breaks, the cradle will fall, (木の枝折れたら、ゆりかご落ちる)
And down will come baby, cradle and all. (ゆりかご落ちたら、赤ん坊も落ちる)
-Mother Goose-

この作品を見て、その無知に悲しむのはいい。
しかし無知でなければ悲劇でないと考えるのには賛成できない。
ましてや我々は何をなすべきか、など老夫婦は語ってはいやしない。

この映画が反核だと信じ、戦争の恐ろしさに恐怖し、遂には
誰も信じず己を信じ自らを賢いと信じ政府が馬鹿に見えて仕方なくなるくらいなら
政府を信じ無知のまま死んでゆく方がいい。

我々の世界から核を廃絶する、それは紙袋を被ってシェルターに入り込んだ夫婦と何が違うのか。
そんな所にこの作品の価値はないし、心に残るものは観念ではない。
己の観念で都合の良い作品を勝手に上塗りしてはならぬ。

この作品は、ただ人の好い夫婦が放射能に侵されてゆく、
その先でどう落とし前をつけるか見たかっただけだ。

最後はどうだった?

その終った所から、その先を安易な言葉にしない事だ。
誰か、彼らに神の祈りでも捧げた者はいないのか。

この作品を見た人もいれば見ていない人もいるかと思う。
別に見なくてもいい作品だとは思う。

しかし、もし見る機会を得たならば必ず最後まで見てしまう。

そして例えば、火垂るの墓を見た者にとってあの兄妹がいつまでも心に残るように

この初老の夫婦、多くの人にとっては自分の両親、は長く心に残る事であろう。

未だ生を知らず 焉んぞ死を知らん 2 - 孔子

巻六先進第十一之一二
季路問事鬼神 (季路[きろ]、鬼神につかえんことを問う)
子曰未能事人 (子曰わく、未だ人につかうること能わず)
焉能事鬼 (焉んぞ能く鬼につかえん)
曰敢問死 (曰わく、敢えて死を問う)
曰未知生 (曰わく、未だ生を知らず)
焉知死 (焉んぞ死を知らん)

神を信じていますか。
死後の世界を信じていますか。

そう問われた孔子は返答に困ってしまった。

私は死というものを何も知らぬ。
考えてみれば知らぬものを答えようもない。
死んだらどうなるかなど私には分からぬ。

分からないものに対して人は
信じるか信じないか二つの道を選ぶしかない。

と世間では思われている。
だから孔子は口をつぐむ。

しかし弟子の言葉に沈黙で答えるわけにもいかない。

そこで彼はこう答えた。

人の世で起きる事さえ分かっていないのに
神のことなど私には分かりませんよ。

この世の事さえ分かっていないのに
死後の世界の事は私には分かりません。

分からないと語っただけであり
信じるとも信じないとも答えはしなかった。

これは詰まり、口をつぐんだという事なのだ。

彼は何も答えなかった。

沈黙をもって答えとした。

僕達は今、幾つもの答えにならない問いを前にしている。
信じるか、信じないかで答えなければならぬ問いが目の前にある。

分からぬがこう考える、自分はこう行動する、と自分で決めている人々がいる。
そして説明など出来ぬが故に沈黙する人々がいる。

ただ黙って行動する、そういう人達がいる。
信じるも信じないともそういう言葉を使うことを嫌い
肯定もせねば否定もしない。

沈黙はなんと雄弁にその人の考えを語るものであるか。