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2018年8月25日土曜日

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 VII (第三十六条~第四十条, 刑罰)

第三十六条  公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第三十七条  すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
○2  刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
○3  刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
第三十八条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
○2  強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
○3  何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第三十九条  何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
第四十条  何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

短くすると

第三十六条 公務員による拷問、残虐な刑罰は、絶対に禁ずる。
第三十七条 公開裁判を受ける権利。
○2 証人を求める権利。
○3 弁護人を依頼できる。依頼できないときは、国で附する。
第三十八条 自己に不利益な供述を強要されない。
○2 強制、拷問、脅迫、不当に長く抑留、拘禁された自白は証拠とできない。
○3 唯一の証拠が自白である場合は、有罪を科せられない。
第三十九条 実行の時に適法であつた行為、既に無罪とされた行為は、刑事上の責任を問はれない。同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
第四十条 無罪の裁判を受けたとき、国に補償を求めることができる。

要するに

刑罰は復讐ではないという。なぜか?

考えるに

熊が出て、村人を襲い殺していた。それは理不尽であり、残虐であり、許容できない。その凶暴性を甘受できないから、村人は物理的な対抗を模索した。その結果が殺す事になっても、ほんの少しの痛みで済むだろう。

熊に向かって話せば分かるというのは、勇気のある立派な行動かも知れない。だが相手も同様の考えとは限らない。ウィルスをどれだけ諭そうと治癒はしないだろう。それが可能なのはお釈迦様だけのはずである。

相手と理解しあえるという信念は常に真実だと思う。だが常に通用するとは言えない。それを貫くには力がいる。または勇気がいる。凶弾に倒れた人のなんと多いことか。同じ人だから、同じ民族だから、友人だから、そのような信頼に基づいて行動した人が倒れた事例のなんと多いことか。いわんや熊が相手ならば。

人間は誰でも凶暴さを憎む。憎むならば、それを排除するのは当然の要求である。そのために暴力が必要ならば、それも当然の権利に含まれなければならない。我々は暴力の前に屈服する事はあっても、それを許容することは最後までありえない。

よって、正義には暴力が必要だ。正義が自分の行動を正当化するのなら、暴力を正当化するのも正義である。正義だけが暴力を正当化する。我々は撃退する力を持っているならば何ら恐れる必要はない。

我々は誰もが反撃する権利を有する、これを正義と呼ぶ
熊に襲撃されたならば、これを迎撃するのは当然の行動である。なぜなら、これは生存を賭した戦いだからである。時に、相手を追い返すだけでは不十分かもしれない。二度と来ないだけのダメージを与える必要があるかもしれない、それが致命傷であってもだ。これも当然の権利に含まれなければ道理が通らない。

熊に襲われたならば、きちんと生き残り、熊が二度と襲えないように対処しておく。どのような方法があるかは模索していたとしても基本的な考え方は変わらない。ただ森に返して再び襲来するようでは対策が不十分としか言えない。次が無事である保証はないのだから。殺してしまえ、という意見も十分な説得力を持つ。それは猟師が狩猟で生計を立てるのとは違う。

かように集落に降りてきた熊を追い返す事に異を唱える人はおるまい。そのまま人間が殺されてしまえ、熊のために命を捧げよと主張するのは余程の場合だけである。村の人を襲い、暴れる熊を殺したとしてその正当性の何が揺らぐか。だから、小笠熊、このような凶悪な男を殺した所で何の罪に問われるだろうか。

復讐
人間がやることは野生動物もやっている。野生動物がやることで人間がやらないことはない。よって、人間が野生動物に対してやることは、人間に対しても行う。

熊と人間の違いは、宗教の違い、人種の違い、国家の違い、文化の違いと何ら変わらない。それは死んでゆく人の数を数えれば明白である。野生動物のように扱われた人間のなんと多いことか。別に過去の話ではない。

我々は生き残るための権利を行使する。正当防衛も、集団的自衛権もその延長線上にある。この正当性の延長線上に復讐もある。こう考えてみればよい。復讐とは、正当防衛と全く同じ論理で構成されている。復讐とは、報復のためでも、憎しみのためでもない。

正当防衛と復讐の違いは時間軸に対する置き場所の違いだけである。前に置かれたものを正当防衛と呼ぶ。後に置かれたものを復讐と呼ぶ。

終わった後に行使できる正当性
誰かに傷つけられ、相手が逃げたなら、何も終わってはいない。いつ戻ってくるか分からない。次に傷つけられるのが誰かは分からない。その中にまた自分の大切な人が含まれるかも知れない。

相手が存在している限り、その危険性は残っている。そのような状況が放置されるならば、危険性は消失していない。ならば、こちらから先に出向いて相手を征伐しておくのも正当防衛に含まれるだろう。

復讐は危険な状況が何も去っていない、という認識に基づく行動だからだ。だから、その後であろうが、どこまでも追い続け、二度と危険が及ばない状態を回復すること、そのために相手がどうなろうと構わない。大切な人が傷つけられた時から異常状態はずっと続いている。次の被害など絶対に認めない。これを終わらせるためには、目の前の危険性を、その可能性をゼロにするしかない。

そうなって始めて人は安心して寝られるのだ。ただ追い返すだけでは不十分である。そういう認識が復讐を支えている。

では、どこまですれば安心な状況が手に入るのか
復讐の心理には、例えば死んでしまった愛する人を二度と汚れさせない、という気持ちを含まれるだろう。その犯人が生きている限り、汚され続けていると考えるならば、復讐は当然だが、一刻も早く相手を殺す必要である。これは決して傷ついた心を癒やす話ではない。

もし犯人が再び現れて危害を加えるかもしれない。そうしたら、人は自分と被害にあった人を重ねるだろう。その可能性が1%でもあるならば、それは相手からの攻撃が今も続いている状況と認識すべきなのだ。だから、今も反撃しなければならない状況にある。どうして復讐を止めろなどと言えるだろう。

その者はアルプスの奥深くまで連れてこられた。周囲には数人の屈強な男たちがいる。ご神託は彼を許すと出た。しかし、長の娘と交わった事を我々は許すことなどできない。雪の山中で彼を開放した。これで彼が解放されることは成就した。逃げてゆく彼に向かって男たちは次々と弓を放ち始めた。男の肩を弓矢が突き刺す。振り向いた時、次に彼の右目が貫かれた。声を上げてその場に倒れた男に近づき斧を振りかざした。霊魂を神の世界へと返すためである。男たちは血まみれになった肉塊を雪氷の崖に投げ込んだ。

どうして近代刑法は復讐を禁じたのか
そのような人間の自然性に対してなぜ刑法は復讐を認めないのか。

その答えはひとつしかないと思われる。そのような状況をいつまでも放置することを我々の社会は断固として拒否しているからだ。そんな状況に置かれた人をいつまでも、孤独に放っておくは許されない。復讐という異常状態に置かれている人、ずっと眠れずに夜を過ごしている人、その人たちをそのままにして置くことを、我々の社会は看過してはならぬと考える。

我々は決められた手続きにより犯罪者を監禁する。必要なら一ヶ月、必要なら10年、死ぬまで。それでも安心できないなら命も奪おう。それは国がやる、あなたたちは手を汚してはならない。あなたが一生を幸せにするのに、それはあなたでなければ出来ない事ではない。あなたを早く安心させるのに必要ならば、そういうことは国がやる。

我々の社会は安全ですと宣言しなければならない。速やかに回復されなければならない。そのためになら加害した者は収容する。決して二度と危害を加えられないように。少なくともあなたの傷が癒えるだけの十分な時間は。これが近代国家の正義だろう。あなたの手を憎しみの連鎖で汚させない。そういうことは我々がやる。これが近代国家の回答だ。これが不可能ならば、そのような国家は瓦解すべきだ。

だから、あなたが安心して眠られるように国家が罰する。間違いが起きないように正しく公平に罰する。もし、これが実現できないならば、社会の正義は崩壊する。もし崩壊しているならば、我々は我々を我々の手で守るしかない。その時、あなたに復讐を禁止するものは存在しない。

後年、もし釈放された者が再び犯罪を犯したら
人間は神ではない。だから罪を償い、やり直そうとする者にはチャンスを与えたい。一方で再犯するものは後を絶たない。再犯した被害に合ったものはなぜそれを許容しなければならないか。それはなくてもよい被害ではなかったか。人が立ち直る可能性と、再犯する可能性を、正しく両立させることは人間には不可能だ。だからそれはどうしようもない。許容するしかない被害ということになる。だから、許されるのは数回まで、という考えが生まれる。

この問題には現実的に対処するしかない。理念は方向性は教えてくれるが距離まで教えてくれるわけではない。可能なら、全ての人にチップを埋め込み、あらゆる行動を記録する。それを AI が監視するようになれば、どのような犯罪も逃しはしないだろう。AI の監視から逃れられる人間はいない。それが抑止力となって社会から犯罪を一掃できるかも知れない。冤罪の可能性もぐっと小さくなる。罰則はより公平になる。例え犯罪がゼロにならなくても今よりもずっとましな社会が来る。人間を権力から完全に排除した社会は、決して絵空事ではない。

国家の正体
国家は犯罪者の権利を制限する。それが法の罰である。彼/彼女らは多くの自由が制限される。だからそこには何かの正当性が必要だ。なぜなら、人間には誰かの権利を制限する力は与えられていない。そのような自由を持たない。

近代国家はそれを国家の行使させる形で構築された。誰も、他の誰かを自由にはできない。もししたければ契約を結び、対価を払いなさい。それでさえ無制限の制約など認めない。そのように法律に書いた。

社会は全体の安全のためにそれを行う。多くの人に安心して眠ってもらうために。

だが、待ってくれ。国家を動かすのは人間ではないか。国家という冠を掲げ、帝王になろうとする俗物が生まれないとなぜ言える。彼/彼女が法律を書き換えて、合法的に独裁者になった例は幾つもあるではないか。

国家といえども、実際には公務員という人間が、他の誰かの自由を制限している状態である。常に公務員の前で市民は奴隷にされる危険性を内包しているではないか。

だから民主主義は歩みを遅くした。人間は間違えるという事を前提として制度を導入した。大切なことは一度では決めない。どれだけ確からしくとも三回は裁きを受けなさい。とことん審議しなさい。問題を訴えられる仕組みを残しなさい。誰かが誰かを助けられる余地を組み込みなさい。権力は3つに分離しなさい。ひとつが駄目になっても他の手が残っています。すべての法は誰に対しても平等に効力を発揮させなさい。

あなたにも弁明する権利がある。しかし国家は時にあなたの権利を制限する。その時も国家は繰り返し繰り返しそれを説明する。それを義務として負います。それを軽んじる事も、ないがしろにすることも法の理念がこれを許さない。

人間が運営する国家だから憲法がある。もし神が、AI が国を運営するなら、こんなもの必要ない。

我々は復讐を支持する。これが人間の心性だ。それを近代国家は禁止した。なぜか、そのような悲しみを一人で抱え込むことを拒否したからだ。あなたの悲しみを私も背負う。私はあなたのそばにいる、だからそれをしないでくれ、それをするのは私だ。

こうして国家は正義を掲げた
正義の対義語は正義である。誰かを悪と見做すのは、反対側にある正義だからだ。

正義という仮面を被らなければ誰かを打てるものではない。これが性善説の慧眼であろう。正義と悪は同じものである。これが性悪説の慧眼であろう。人は誰かを討つために正義を掲げる。同様に誰かを守るためにさえ正義を必要とした。

左の頬を打たれたら、という時、彼は正義そのものに挑もうとしていたのではないか。そう考えて何が悪いだろう。必要なら彼はこう言ったであろう。命でさえその者たちに奪わせなさい、その生命さえあなたのものではない。と。

その延長線上に国家の正義があるのだろうか。違うように思える。正義を信じなれけば、誰が悪人を討てるだろうか。復讐でなければ誰が人を傷つけられるだろうか。

正義など持たなくとも生きて行けるのならばそれが一番いい。正義は時に多くのものを死に追いやる。その上で堂々と自分自身を正当化する。

だから正義を掲げる者は自分を疑わなければならない。逆に言えば、自分さえも疑わなければ、それは正義ではない。正義だけが、自分を疑う事を、自分を疑う事から逃げない事を、支えてくれる。正義は決してあなたを拒絶しない。正義だけが正義とは何かを内省する力を持つ。この性質だけが、国家が矛盾の中で圧し潰されずに済む理由になっている。

国家の矛盾、我々の社会には幾つもの正義がある。ただひとつの正義ならどれだけ簡単な話であろうか。それは時に悪と呼ばれる。もし悪でなければ正義ではない。正義でなければ悪にはなれない。そう言い切っても悪くない。本来的に、そういうものだから、世界は動き続ける。