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2021年12月29日水曜日

宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち - 安田賢司

福井晴敏のこと

「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」といい「機動戦士ガンダムUC」といい、この人が参加すると必ず長い長い演説が始まる。そのいずれも核心など突いておらず、その安っぽい人間観察に感動などあり得ない。退屈がぴったりである。

人が善良になろうとすれば必ず何かと衝突するものである。その時に起きる葛藤というものは当然ながらドラマになる。その葛藤に悩んだ末に悪を選択する事もある。その程度で感動できるなら犬の死体でも眺めている方がよほど煙草も美味い。

当たり前だが衝突など人が極悪になろうとしても起きるものである。その奥底に何を覗いた所で、何かが必ず見つかる。畢竟、全ては脳細胞の電気信号である。それをまあ、約束を破ったたの、恩があるだの、友愛だの、戦いだのという額縁で装飾する。重要な事はその前後で作品は何も変わっていない事にある。無駄な時間だ。

1mmも浮遊もしなければ落下もしない。ただ疲労だけが残る。では何をこの作品の駆動力とするのか、もちろん、この時間帯に求められるのは観客の忍耐である。時間を埋めるためだけに流れる演説の中に、敵と味方の定義、我々の行動を起こす指針、根拠、強迫、渇望がある。

その定義が如何にも必然を纏っていない。作品を重厚にもしない。演説によって観客に構造を示そうとする。その構造は対立するための必然でなければならぬ。両者に正義がある事を示す。そこに単純な正義と悪ではない構造をロードしようと試みる。

所が対立軸が余りにも陳腐なので、観客はとても許容できない。もしこれに納得できる知性なら世界平和など容易いのである。世界情勢のニュースさえ見た事のない知能であろうか。そこで提案される解決策にどれほどの説得力があるか。もし彼が国際連合で働いた経験が数カ月でもあれば決してこのようにはなるまい。

どちらにしろ物語は破壊し付くすのである。そこで発生する葛藤は、引き金を引くまでの感情の起伏を描くためのものに過ぎない。最後は燃え尽くすのである。

これは先人たちのトレースに過ぎない。富野由悠季が既にギレンで試し成功した事を。ザンボット3の最終話でコンピュータ8号に語らせた事を。何度も何度も自分の作品で試す。本人の自覚とは別に、何度も何度もその追憶を追い求めている姿を見せつけられる。


土門竜介のこと

これみよがしに銃を意識させる演出。このレイアウトは明らかに不安を煽る為である。この先で何らかの役割を演じる事を暗示する。これが今後の展開にエッジを利かす、それ位の意図であろう。

しかし、ドラマとして見ても、演出技法として見てもこれは下手あって、邦画ならいざ知らず海外の優れたドラマでそのような安易な演出は許されないだろう。学生の卒業制作で時間が足りなかったのを見せられているのではないのだが、という疑念が拭えない。

観客は様々な情報から自分の中の閾値を上げ下げする。どこまで推し進められるか、どこは妥協するか、どの点は無視するか、どこまでなら後退できるか、そしてドラマに寄り添うように付き添ってゆく。それが許されるのは物語の終着点に辿り着きたいという思いしかない。

制作者たちが堂々と敗北宣言した所で別に問題などない。デザインされた時点でこのキャラクターには中心を占める何らかの役割が与えられている事は分かりきっている。

不安も希望も、その後の展開で見せてくれればいいのである。不吉な予感を与えるには陳腐すぎる演出。なぜ、そのような演出を敢えてしたのか。全くその心理を測りかねる。本当に大切な作品でこんな演出に耐えられるだろうか、それくらいの気概もなく、なぜヤマトを引き受けたのか。

話が進むにつれて、彼がどうやら憎しみをを持っている事が判明する。それが家族に関する事、そして人と群れる事を嫌い、孤立しつつある事、が明かされてゆく。つまり、このままでは単なる鬱屈した青年になってしまう。

だから物語が必要だ、事件は一人では起こせない。

薮助治のこと

ヤマトを裏切ったキャラクターであるが、2199以降ではガミラス人として生きる道を選んだ人物として描かれる。そういう意味では最も数奇な運命を生きる地球人である。

地球人は2回の絶滅の危機を経験したにも係わらず、相も変わらず人を排除しようとする、友愛も労り合いも絵空事であると描く。作品のテーマを作品に登場する通行人を使って否定する。その情景を描く為だけにガミラスから地球に戻したのだろうか。キャラクターの役割としては2205を支える重要人物になっている。

ヤマトの乗組員の中にもクズがいるよ、と描くのは、それが孤立する事に説得力を持たせるための演出だ。

いや、クズで済ませてはいけない。どういう経緯があれども、今や正式なガミラスからの客員である。その人に対して、馴れ馴れしい態度を取る人間、あからさまに軽蔑する、無視する人間が居る。

本当によく教育された兵隊がそのような態度を取るはずがない。もしそういう兵で構成された隊ならば、相当に将官は舐められている。そういう描写は作品の根幹に係わる芯となる所のはずである。

そのような兵士でどのような戦いが可能であろうか。一応の軍隊を描いているのではないのか。そんな事だから子供のままごとを揶揄されるのである。

同盟国から来た人がどういう出自であれ、また過去にどれだけ激しい敵対をしていたとは言え、他国の人間を蔑むはあり得ない。例えば、敗戦時の日本に日系アメリカ人が戻った時の風景としてあのような態度はあり得るだろうか。

そりゃ、よく思わない者もいるだろう。家族や親戚、仲間うち、街中ですれ違った人々の感情は様々あろう。

だが、場所は軍艦の中である。それを口に出したり無視する事はありえない。叱責は当然、それでも改まらないなら配置換えである。それがあるべき組織の姿だ。そうでなければ戦闘など不可能。そしてヤマトはそのような人間の心理を描く物語ではない。

よってこれらの描写はただ土門と語り合うための御膳立てという意味になる。

そして土門と藪が語り合いを通じて、物語の感情を進めてゆく。遂にヤマトは決断を迫られる。ここまでは陳腐な抑揚の繰り返しであった。


古代進のこと

「おれたちは経験者だぞ。」この台詞で一気にこの作品のベクトルが反転した。

この発言をした古代が叛意を持っていなかったはずがない。そして古参たちがそれを予感していた事も示唆している。

「お前たちが危険を冒さなくても俺たちがやった。それは俺たちの仕事だ。」そういう意味である。お前たちがやらなくても俺たちはそうする気だった。お前たちが動くのに気付いたので成りゆきに任せた。

クーデターはただでさえ面白い。しかもそれが誰かの手のひらの上で踊っていただけという構造になれば尚更。

その瞬間にもうひとつのIfとしての物語が動き出す。古代たちのプランで行われたクーデターは是非とも見てみたい。だから、瞬時に頭の中でその物語が始まる。ふたつの物語が並行する世界観。

こういうものをきっかけの作品の矛盾も詰まらなさも陳腐さも消し飛ぶ。全ては上書きされた。そういう力をたったひとつの台詞が、持っていた。回路が接続され電気が流れる。ヤマトという世界を動かす歯車が動き出した音を確かに聞いた。

この台詞で古代進がきちんと古代になったと言うべきか。富山敬ではない古代が初めて誕生した瞬間だと思った。だから胸を打った。この時に小野大輔の古代進が分岐した。

この先、どれほどこの作品群に失望しようと、もう決して見失う事はない。その瞬間を通過した。

2021年12月26日日曜日

不知為不知、是知也 - 孔子

巻一為政第二之十七
子曰(子曰く)
由誨女知之乎(由よ、汝に之を知ることを、おしえんか)
知之為知之(これを知るをこれを知ると為し)
不知為不知(知らざるを知らずと為す)
是知也(是れ知る也)

知らなかった事を知るとする為には、知らなかった事を自覚しなければならない。知らなかったを過去形にするには今は知っている必要がある。つまり知らないと知るは互いに等しく、これは知識の有無の問題である。

知らなかった事を知らなかったと自覚する為には、新しく知っているという状態を獲得しなければならない。もし誰も知らない事を新しく発見したのならば、それは知識の問題というよりも、それを探求した姿勢の問題と言えるだろう。

もし知らない事を確かに知らないと意識したければ、そこに知ると知らないの境界線がなければならない。その為には知らない為には知らない事を知っている必要がある。知らない事を厳密に定義しなければ知る事を知る事さえできない。これは知らない事を定義すれば知ると知らないの境界線を明らかに出来るという事である。

知らない事を厳密に定義すれば自ずと境界線が定義される。それは知っているものを使って定義したものだ。その死っている事の中に知らない事が含まれる。知っている事の向こう側に知らない世界が広がる。そこは全く見えない世界であろう。

知らないの境界線を越えた先に知るがある。知らないの向こう側に知るがある。そしてその知るの向こう側にはまた知らないがある筈である。



知るの中に知らないが含まれる。知らないの向こうに知るがある。

では、と、ふと思う。知る事が決して出来ないものもこの世界にはあるだろう。その中には例え知る事は出来なくとも推理する事は出来るし、想像する事も可能、そういう類の知らないものが先ずある。

知らない事でも知るに迫る事は出来る。という事は、知らない事の中には、何時かは知る事が出来るものと、永久に知る事が出来ないもののふたつがある事になる。

知らない事と、知る事が出来ないものを区別するなら、手順を尽くせばいつか手に入るものと、決して手に入らないものがある。

知る事が決して出来ないものとはどういうものであろうか、その想像さえ拒絶する。すぐ横を通り過ぎても決して気づかない、それが何かは分からない。それを知る事は不可能なのである。そこに辿る道は永久に絶無。だが、そういうものがあるだろうと私は考えている。

由よ、知るという事さえこれだけ違うのだ。人間はなんとも劫の深い生き物ではないかね。