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2021年11月20日土曜日

割り算 In this Site

2021/11/20
等分除と包含除

2021/03/21
掛け算と足し算

2020/04/01
なぜ掛け算を先にやるのか

2019/11/24
\(\scriptsize{30 ÷ \displaystyle\frac{1}{3}}\)

2019/11/12
分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 反数と逆数
割り算とは逆数を掛けること。

2019/08/12
割り算を考える
割り算とは基準を変換する演算。

2019/06/22
A+B=B+A 足し算は順序を入れ替えても良い理由
割り算は掛け算、1で割ってから掛けるみたいなもの。

2019/02/24
どっちをどっちで割るんだっけ?
濃度の単位を理解する。

2018/11/19
引っくり返して掛けること - 割り算と掛け算
割り算を逆数で考える。

2018/09/26
割り算とは - 四則演算
割り算は掛け算、除算は掛け算に変換する途中の式。

2017/11/03
水100cc に 1 g の塩を溶かした時の濃度
0除算にならない方が該当する式。

2017/03/17
分数の割り算をひっくり返して掛ける理由
分数には分数を1にする分数(逆数)がある。

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分数の掛け算は足し算にできるか?
分数とは、掛け算の中に割り算を隠す方法のひとつ。

2013/07/26
分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 比や引き算で考える
分数とは、分母を同じにすれば分子の比として考えられる。

2012/04/26
分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 6 割る 4 分の 1
割り算をひっくり返す理由は、そうすれば答えが出てくるからではなく、ひっくり返して掛け算の形にすれば順不同に出来るから。

等分除と包含除

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割り算 In this Site

はじめに

割り算について調べると等分除と包含除の違いみたいな話題に遭遇する。割り算は演算とその作用であるから、形が同じである以上、通常はひとつと見るべきであろう。最小限の定義があれば十分であってそれはひとつの式となって河原をゆらゆらとするのみである。

しかし人間は解釈によって世界を切り取る動物である。酷い目にあうと祠にいたずらしたからバチが当ったのだと考える。これは20万年の進化によって淘汰された脳の役割であり、危険を避ける為には残す方が有利であった可能性が高い。

危険はその前兆を把握しなければならない。二度目のその幸運は訪れないからである。だから現象には必ず兆しがある。例えなくても何かで埋めておく。この生理的な原因と結果と紐づける生理の延長線上に解釈は立脚する。

四則演算の解釈

operateinterpretdescription
足し算増加増えた後の個数を求める
合併ふたつの値が合わさった後の大きさを求める
引き算求残取り除いた時の残りを求める
求差二つの間の差を求める
掛け算伸縮すると何倍になるかを求める
面積を求める
割り算等分除1つを幾つに分割できるかを求める
包含除割る数が幾つ含まれるかを求める

四則演算に2つずつの解釈を施すが強い意味はない。様々に観察すれば、得られた答えの単位が式の中に見つかるものと見つからないものがある。単位を新しく生む式と生まない式がある。それは解釈なのか、それとも定義なのか。それとも方便に過ぎぬものか。

演算の作用は一通りであって、その制約は少ないほど望ましい。なぜなら人間は偏見を蓄積する動物だからである。ある視点を手に入れる事は、それ以外の視点を捨てるに等しい。どんな視点も自由自在は理想であるが人間には難しい。

抽象は、偏見を捨てる事に等しい。具体性を極限まで取り除きエッセンスのみを残す。否、はエッセンスさえ邪魔である。無味乾燥なまま佇み揺れている位で丁度よい。そうであればあるほど応用の制限をしないから。

等分除と包含除

割り算は大抵は等分除から学ぶ。その方が生活の中で良く見つかるからだ。ケーキを幾つに切るか、ピザを何人に切り分けるか。割り算の実用性がとても役に立つのは、人間が本質的に他の者へと分配する生物だからである。

所が等分除では、分数の割り算が出た時に意味が分からなくなる。計算は手順を教えられれば求める事ができる。しかしこの作用はどういうものか、その答えが意味するものは何か。これは解釈の問題である。そして解釈をしなければ使いこなせないと感じる。さて、このこれは他の場所ではどう使えばいいのだろうと。

そこで新しく見つけられた解釈が包含除という理屈になる。\(\frac{1}{3}\)で÷とは、割る数の中に\(\frac{1}{3}\)が幾つ含まれるかを求める事に等しい。そこが3つに切り分ける割り算と少しだけ違う、または違う気になる。

ピザを3人に切り分ければ3つの切れ端が出来る。その切れ端は一人当たり\(\frac{1}{3}\)である。ならば一枚のピザの中にその切れ端は何個あるか。\(\scriptsize{1}\)を\(\frac{1}{3}\)で割れば\(\scriptsize{3}\)になる。3人で切り分けたのだから\(\frac{1}{3}\)が3人分あって一枚のピザになる。当然のように思える。


こうしてみると\(\frac{1}{3}\)で割る事の不思議はなくなった気がする。割るという行為には等分の他に包含という見方もあると知ったからである。

さて、本当にこれで全て解決したのだろうか。

\(\frac{1}{5}\)を\(\frac{1}{3}\)で割るのはどういう意味か。この式の意味は \(\frac{1}{5}\)の中に\(\frac{1}{3}\)が幾つあるかという問いになっている筈である。答えは\(\frac{3}{5}=\scriptsize{0.6}\)。

\(\frac{1}{5}\)の中に\(\frac{1}{3}\)は\(\scriptsize{0.6}\)個ある。これが面積なら\(\scriptsize{60\%}\)を占めている。

分数と小数

\(\frac{1}{5}\)と\(\frac{1}{3}\)の比を取れば\(\frac{1}{5}:\frac{1}{3}=\frac{1}{5}\scriptsize{\times3}:\frac{1}{3}\scriptsize{\times3}=\frac{3}{5}:\frac{3}{3}=\scriptsize{0.6:1}\)になる。

では逆に割った\(\frac{1}{3}\)/\(\frac{1}{5}\)の答え\(\frac{5}{3}=\scriptsize{1.666}\)はどういう意味か。\(\frac{1}{3}\)と\(\frac{1}{5}\)の比が\(\scriptsize{1.6666:1}\)という事は何故なのか?なぜ同じ比であるはずなのに片方は割り切れて片方は割り切れないのか。

\(\scriptsize{0.6:1}\)を同じ比率のまま変えてゆく。\(\frac{3}{5}:\frac{3}{3}=\frac{3}{5}\scriptsize{\times}\frac{5}{3}:\frac{3}{3}\scriptsize{\times}\frac{5}{3}=\frac{15}{15}:\frac{15}{9}=\scriptsize{1}=\frac{5}{3}=\scriptsize{1:1.66666....}\)。

同じ比率\(\frac{1}{5}:\frac{1}{3}\)でも左辺の値を変えてゆくと右辺もそれに応じて変わってゆく。次第に数の差は大きくなるが比率は同じ。左辺と右辺の組み合わせは無限にある。



分数を小数表記にすると割り切れない数が出現する。分数のままなら割り切れないという不思議はない。では分数でずっと数を扱えばいいではないか、という話になる。

しかしそれでは困るのが人類が体験してきた歴史であろう。任意の適当な分数、なんでもいいが\(\frac{12345}{67890}\)という数は大きさが分かり難い。これを小数点にすれば割り切れない事もあるが\(\scriptsize{0.18183826778...}\)と大きさが直感的である。割り切れなくてもおよそが\(\scriptsize{0.2}\)と把握しやすい。

この分かりやすさは誤差を含んでいるにしても捨て難い。そもそも解釈するとは誤差を無視するという意味でもある。だから小数の方が主流になっている訳だ。

割り算の意味を割る方の数を1とした時の割られる数の大きさと解釈したら、割り算の不自然さとは基準とする数が式のお尻の方に出現する事に起因しているとも考えられる。これは式の問題でなく、人間の文字読解がひとつずつ流れるようにしか処理できない生理的な制限に対する脳の混乱に過ぎない事になる。基準が先に来るという思い込みやその方が理解しやすいという生理的現象のちょっとした混乱の過ぎないものかも知れない。

と釈然としない事を新しく解釈してゆく。それを繰り返す。なぜ人間は解釈しないと分かった気になれないのか。というより脳はなぜ解釈という方法でこの世界を切り取るのか?

濃度

濃度25%の塩水と20%の塩水を混ぜたら濃度何%の塩水が出来るか?

なぜ\(\scriptsize{25+20=45\%}\)ではいけないのか。\(\scriptsize{25-20=5\%}\)なら正しいのか。\(\scriptsize{25\times20=500\%}\)は間違いなのか?ならば\(\scriptsize{25\div20=1.25\%}\)なら正しいか?

答え:塩水の量が分からなければ答えは分からない。なぜなら濃度の定義がそうなっている。

濃度は\(\frac{塩の重さ}{塩水の重さ}\)。つまり\(\frac{塩の重さ}{塩の重さ+水の重さ}\)になる。濃度は既に割り算(分数)の形をしている。

100%の塩水とはこの式に従えば\(\frac{塩100g}{塩100g+水0g}\)になる。さて水が含まれていない塩を塩水と呼ぶ事は可能か。それは塩水ではなく塩ではないか?

しかし、現実には塩粒も僅かながらの空気中の水分と結合しているだろう。だから少し湿った塩は極めて100%に近い塩水と呼んでも差し支えない筈である。また空気中にあるのは水だけではないのだから、その他にも溶けている溶液と呼んで少しも差し支えない。厳密に言えばそうなる筈である。

だがそれでは日常生活が余りに大変だ。何かの研究ではそういう小さな点がとても重要となる事もあるだろうが、日常生活では面倒なのである。よってこれも誤差として通常は無視する。誤差は必要となった時に何時でも思い出せるなら、通常は忘れていて差し支えない。

解釈は極めて恣意的に日常生活をスムーズにする為の役割を担う。この解釈が正しいか、それとも他の解釈があり得るか。それが唯一の解釈かも知れないし、そうではないかも知れない。それは各々で解釈すればいいのである。

最初に誰かが言い出した事が広がって連綿と続く。間違っていてもこの解釈で正しいと言い切ってしまう事もある。だからと言って主流である事は正しさの証明にはならない。

等分除と包含除

ピザを切った時に生まれる数字は、ピザの枚数、何人に切り分けるのかの人数、切った時の一人分の大きさの3つある。この時、等分除はピザ一枚に対しての1人当たりが食べられる大きさ\(\frac{ピザの枚数}{人数}=\scriptsize{1人辺りの大きさ}\)であるし、包含除はピザを切った大きさから人数を求めるもの\(\frac{ピザの枚数}{1人辺りの大きさ}=\scriptsize{人数}\)と言えそうだ。

では、ピザの枚数を求めるのはどの割り算を使えばいいだろうか?他の答えも割り算で求まったのである。ピザの枚数も割り算で求まる気がするではないか。

登場した数の組み合わせは以下の通りある。ピザを2枚、人数を5人として計算する。
組み合わせ意味
\(\frac{ピザの枚数}{人数}\)\(\scriptsize{2\div5=0.4}\)1人辺りの大きさ
\(\frac{1人辺りの大きさ}{人数}\)\(\scriptsize{0.4\div5=0.08}\)5人で分けたものを更に5人に分ける
\(\frac{人数}{ピザの枚数}\)\(\scriptsize{5\div2=2.5}\)ピザ一枚あたりの人数
\(\frac{1人辺りの大きさ}{ピザの枚数}\)\(\scriptsize{0.4\div2=0.2}\)意味を見い出せず
\(\frac{人数}{1人辺りの大きさ}\)\(\scriptsize{5\div0.4=12.5}\)意味を見い出せず
\(\frac{ピザの枚数}{1人辺りの大きさ}\)\(\scriptsize{2\div0.4=5}\)人数

全ての組み合わせの中にピザの大きさを求める割り算はない。意味があるのはふたつの割り算だけに見える。

割り算を変形する。

\(\scriptsize{\frac{A}{B}=C}\) から変形可能な式は、\(\scriptsize{A=CB}\)と\(\scriptsize{\frac{A}{C}=B}\)の2つ。3つのうち、ふたつは割り算で、ひとつが掛け算。

ピザの枚数はこの掛け算で求めまる。\(\scriptsize{1人辺りの大きさ\times{人数}}\)(順序は逆でもいい)で求まる。掛け算だ。

これを割り算で表記したら\(\scriptsize{A=\frac{C}{(\frac{1}{B})}}\)になる。\(\scriptsize{\frac{1人辺りの大きさ}{(\frac{1}{人数})}=ピザの枚数}\)。なぜ逆数の割り算だと答えが求まるのだろう。式の変形からは明らかだがこれをどう解釈すればすっきりとした気分になれるだろうか?

この気分の問題は\(\frac{1}{人数}\)をどういう人数と見做すか、の解釈に等しい。逆数で割るのは、ある数で掛けるのに等しい。意味は同じなのになぜ掛け算と割り算では違う式に見えて仕方ないのか。なぜ掛け算のままで納得できないのか。

なぜ足し算でなく引き算を使うのか。なぜ優しやよりも暴力を選ぶのか、なぜ和解より闘争を選ぶのか、逆数を選ぶのにも理由がある筈だ。それはいったい、どういう理由から来ているのだろうか?

何かからそれは始まっている。その結果、これは割り算だと思った。でも割り算と掛け算が同じ姿の裏と表なら、なぜあくまで割り算の形にこだわりたいのだろう。それは割り算の秘密をもっと知りたいという事と同じだろうか?

信仰

割り算には幾つかの解釈がある。分割した後の個数、幾つ含まれるかを求める計算、割る数を1とした時の元の数の大きさ、そういう解釈を重ねて行って、恐らく、誰かが割り算の解釈をふたつに絞った。すると他の演算でもそれに呼応するのが納まりがいい。そういう単純な信仰の果てに、とても切りの良い形が、全ての演算にふたつの意味が与えられたように見える。

それは、天動説が神への信仰を支えるための解釈でなければならない故。その結果としての地動説が神への反逆であると受け取られた如く。

解釈をどれほど繰り返しても神の栄光が揺らぐはずはないのに。そのような力強さを人間は得られなかった。地獄にいようとそこに神はいる筈である、そのような解釈には耐えられなかったのである。

割り切れない数を過去のギリシャ人たちが忌み嫌ったのと同じくらい素朴な場所から僕たちは出発している。