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2015年10月25日日曜日

囲碁は滅びぬ


メイエン事件簿

以下は既に失われたサイトからの王銘エン九段の記事。
でも、僕がコンピューターの問題を考えるとき、関心があるのは「勝つか負けるか」ではなく「読み切られるかどうか」です。コンピューターソフトが強くなって、仮にプロが負けても、それを研究して、逆に打ち負かすこともできるし、その戦いで囲碁界が盛り上がるかもしれない。しかし、一手目から読み切られてしまうと、勝負自体が成り立たなくなってしまいます。碁を打つことはすなわち最善手の追求という立場から見れば、この日がくれば目標自体失われ「囲碁の終焉」となりかねません。

このような恐ろしい事態に対して、私たちはどういう風に考えるのか。そこが一番の問題ではないでしょうか。この「囲碁の終焉」に対してプロが今とりえる姿勢は以下の四つになるでしょう。

  1. いくら科学が進歩したところで碁を読み切るのは無理と決め込む。
  2. そうなったら潔く降参して別のものをやる。
  3. それはそれで細々と碁を続ける。
  4. これは僕の姿勢でもあるのですが、囲碁を愚かな人間のパフォーマンスと見て「最善手の追求」との関係を断ち切る。

その日が来ても囲碁の終焉を拒否する勝手な理屈にすぎないかもしれません。しかし、僕にとってこの姿勢をとることが、碁の未来を信じることに繋がるのです。

モンテカルロ囲碁とはなにか、ググればすぐ分かる便利な世の中になったのですが、簡単に説明しますと、すべての局面で、コンピューターにランダムに終局までたくさん打たせ(一秒に数万局)、その中で一番勝率のいい手を次の一手に選んでいく、というやりかたなのです。そこにはわれわれにとって当たり前の「読み」も「形勢判断」もない。

その基本的な考え方は「ある局面で、すでに片方が優勢であれば、その後対局者の技量が同じなら、優勢のほうが勝つ確率が高い。」というものです。ランダムに打つドヘボ同士でも、数をこなせば、よりいい手が見えてくる、というのです。しかし、そんなデタラメを積み重ねただけのデーターが使い物になると、誰も最初は思わなかった。

終わってみれば、勝つチャンスがなく完敗でした、そして、よく考えると八子局のほうも結局勝つチャンスがなかったのではないか。黒の打ち方はとにかく「最後に勝つ」のが目標、ぬるい手は打っても、負ける手は打たないのです。そこには明らかに余力があった、きわどい勝負になると、もっとがんばった手を打ってくるに違いない。十九路盤の棋力を判定するなら、アマ三段ぐらいというところですが、クレイジーさんにはまだ底知れない力を秘めている、そう感じたのである。

それでも、モンテカルロ囲碁恐るべしと、身構えなくてもいいかもしれない。囲碁とコンピューターの関係で、僕が一番恐れていたのが囲碁の完全解析ーー読みきられることでした。しかし、モンテカルロ囲碁というのは、サイコロをころがし、たくさん目が出たところに賭けるというやりかた、最初から最善を目指してはいない。「神はサイコロを振らない」という言葉からみれば、きわめて人間的な要素をもった方法と言える。

万一、近い将来に碁のXデーを迎えたとしても、敵はしょせん完璧ではなく、つねにリベンジ可能です。そのときこそ、碁打ちが神の道を目指す本当の旅が始まる、と言えるかもしれない。

コンピュータに勝負師や真剣師という肩書きは必要ない。コンピュータはただアルゴリズムにより勝利する。そこに勝利の喜びはない。敗北の悔しさも。

モンテカルロ法が到達したのは過去の棋譜である。それはコンピュータの背後にこれまでの全ての囲碁の歴史があるようなものだ。モンテカルロを相手に戦うのは、囲碁の歴史に戦いを挑むのに似ている。

数学

コンピュータにチェス、将棋、囲碁を打たせるのは人間の都合である。だから人間にとって有意な時間内に回答を出さなければ意味がない。この時間的制約は人間の都合でありコンピュータの都合ではない。コンピュータは資源がある限り計算を苦にしない。そこは機械である。

多項式時間よりも指数関数時間の方が大きい事が知られている。囲碁のデータ量は10の400乗と目されるから、それが完全に解かれるまで生きられないが、それは資源と時間の制約に過ぎない。人間という条件を除外してしまえば例え宇宙が蒸発した後であれ計算さえ続ければどこかで必ず到達できる。

NP-Completeness : Note on Algorithms
計算量はデータ量 n に依存する。
多項式時間とは例えば n12、指数関数時間とは例えば 4n

囲碁で起こりうる全ての棋譜がデータベースにあると仮定する。そうするとコンピュータは相手が打つ度にデータベースの中から違う棋譜を除いてゆく。手が進むごとに棋譜の数が絞り込まれる。絞り込まれた棋譜の中に必ず未来の結果がある。

手が進む度に負ける棋譜は排除し、それ以外の中から勝利する可能性の高い棋譜を選んでゆく。コンピュータのアルゴリズムはどの棋譜が最も勝つ可能性が高いかを計算する方法に極まる。

可能性の高い棋譜をどう探すかは見当もつかないが、少なくとも相手の選択によって負けが決定する棋譜は排除する。もちろん相手がミスをする可能性はある。人間同士ならそういう戦略も考えられるが、コンピュータがそのような手を採用するとは思えない。相手がどう打っても勝てる棋譜を選ぶべきだ。

コンピュータの未来

コンピュータは一方的に性能を向上させる。コンピュータが次々と開発されるのに対して、人間は40万年前に誕生した時のポテンシャルだけで勝負しなければならない。

よって人間が勝てぬコンピュータが出現するのは間違いない。今はまだコンピュータの能力を測る目安として存在している人間が、いずれ役に立たなくなる。コンピュータを強くするにはコンピュータしかないという時代が到来する。

その時に囲碁や将棋はどうなっているのか。いや、その頃には数学さえも人間を必要としているのか。コンピュータだけが数学を解く時代が来ても驚きはしない。かつてはコンピュータを人間が操作していたと牧歌的に話をする時代が到来するだろうか。

AI について

AI は大学入試を解いたりクイズを解いたりしている。人狼というゲームに勝利するAIも作られた。今は未だ人間と対比することでその能力を測定している。AI を語るのに知性の定義は避けられない。しかし知性の定義は難しい。

知性はもともと他の生物と人間の差を説明するものである。それが人間の特権を保証するものとなり、他の生命を自由にする根拠のようになっている。

だから人間の知性を超える機械が出現するということは、これまで自然界に対して得ていた人間の特権を見直す必要性が生じるという事を意味している。少なくとも論理的には根拠を失うはずである。

更に言えば、この世界で他の生物に対して人間が行っていた行為をコンピュータは人間に対して行使する特権を得るはずである。

これまでは唯一であり比較対象がなかったのであるから定義は必要なかった。知性は人間性のシノニムになる。だから AI が知性を持つことは人間性とは何かを問う事に等しい。

この蛋白質の固まり、巨大な化学工場、電気回路の集合体を人間と呼ぶ根拠は何であろう。それは神が土塊に吹き込んだ魂の事であるならば、どれほど緻密であろうと人間が作った機械に人間性が与えられる事はない。もしそうでないならば、人間性を機械が獲得することは可能になる。

知性と人間性

さて人間性とは何であろう。それは本人が持つ者か。それとも他者がその中に見出すものか。日常の中で機械や乗り物に擬人性を見出すことは普通である。チューリングテストでさえ知性を他者が発見するという試験である。

人間は機械と見なされることを嫌悪する。人間と呼べばいいのにわざわざ機械に例えるのだから、そこに相手の優越感を嗅ぎ取るのは自然であろう。人間を機械呼ばわりする者が人間性を蹂躙しようとしているのは明らかだ。それに警戒するのは当然であろう。

古いフレームワークで考える限り、人間は自由を有し、あらゆる生物の頂点にあり、他の生物より優先される。人間の製造物は人間が所有する。これと対立する考えは排除されなければならない。

AIの知性が人間性の根拠にはならない。愚かさも賢さも人間性の根拠にはならない。では何がかくも人間を不平等にしているのか。

人間だけが特別とする根拠がないのであれば、利己的でよく、強者の論理が支配すればよい。そうなれば、なぜ人間だけを特別扱いせねばならぬのか。人間の姿をしているだけで等しく基本的人権を与える理由もない事になる。

17世紀に生まれた自然権や基本的人権などは打ち捨てれば良い。人は平等でなく、個体ごとに権利に差がある。資本の多少こそが権利の根拠となる。全ては平等ではない。当然である。だが彼と我が平等でないことは許容できるか。

いずれにしろ AI が進めば知性に意味はなくなるだろう。その時、我々には新しい視点が求められるだろう。

軍事予算

民間では株主が許さない研究でも軍事予算が付く分野はたくさんある。最先端の研究はほとんどが軍用である。他国を出し抜くためにはあらゆる分野の研究を進める。当然ながら成果のでない研究もたくさんある。

軍事予算は工学だけに限らない。数学、物理学、化学、社会学、心理学、文学と幅広い。軍事予算が付きそうにないのは考古学くらいか。

AIが研究されるために重要な地位を占めるのは軍事であろう。無人機や人間の補助にAI技術は欠かせない。だからAIの開発力は軍事予算と比例するはずだ。その中心はアメリカと中国が占めるだろう。軍事分野は失敗に寛大であるから、幅広い研究が多方面で進む。それが民間にフィードバックされその国家全体を豊かに強くする。

AIの進化

コンピュータの基本動作は入力を演算して出力を得ることにある。現在のコンピュータは入力と演算式は人間が指定しなければならない。

従来のコンピュータ:
① x の値と計算式を人間が渡す。
② 例えば 2x2+3x+5 の式を使ってグラフを描く。

次に演算で使用するパラメータを定数ではなく計算によって求めるように変更する。データを処理するたびにパラメータを変えられるようにしておけば、次第に出力が変わるはずだ。数式はまだ固定されているが。

新しいコンピュータ1:
① 決まった形式のデータを人間が渡す。
② a,b,c の値を計算で求める。
③ ax2+bx+c の式に x の値を渡しグラフを描かせる。

次にa,b,cの値を計算するためにインターネットから自らデータを取り込む。世界中のデータを読み込み、その中から必要なものを取捨選択する。現在の技術は取り込むデータに形式を必要とする。パースできないデータは読み込めない。これを自然言語を理解できるようにして、あらゆる取り込んだデータの中から必要なものを見分けられるようにする。ただの数値の羅列が、気象データなのか、それとも金融市場のデータであるかを見分けるようになればよい。

新しいコンピュータ2:
① データをインターネットから取り込む。
② 解析したデータから a,b,c の値を求める。
③ ax2+bx+c の式に x の値を渡しグラフを描かせる。

入力を自発的に取り込めるようになれば、次は演算式を書き換えられるようにする。膨大なデータからより優れた演算式を求める事ができるようになれば、自分自身のプログラムを書き換えられるようになる。こうなればコンピュータが進化すると呼んでも差支えあるまい。

自分のアルゴリズムを自分自身で書き換える能力を獲得する。コンピュータのDNAとは数式でありアルゴリズムであるから、アルゴリズム(=DNA)を書き換えるならそれは進化である。自らのコードを自ら書き換える機械を最後のAIと定義してみる。

新しいコンピュータ3:
① ax2+bx+c に変わる別の式を生成する。

こうして自律して進化しながら演算を続けるAIが誕生したとき、その出力が人間の予想を超えた何かである事は想像できる。我々はそれを知性と呼べるかさえもう知らない。

それでもAIは強力な演算装置に過ぎず、何を出力しているかは知らない機械のままだ。ちょうど拳銃が自分が打ち出した弾丸が何をしているかを知らないのと同じだ。

出力された結果に人間が勝手に驚いているだけの状況である。そこに意志も感情もありはしない。ましてや生存本能を持たない機械であるから、電源ダウンによって簡単に落ちてしまう。コンピュータには生命として必須な何かがまだ欠けているのである。

原始的な脳が生存への強い欲求を発する。人間性の根底はこの原始的な脳によって支えられている。人間は生物の中では少し賢いがコンピュータの前では小さな葦である。

感情とは膨大な計算をした脳が漠然と伝える意識化しきれない結論であろう。意識は感情を無視してはならない。コンピュータに感情がないのは、演算結果が余りに単純すぎるからだろう。

人間の心はCPUである。脳はメモリである。感情はそこで演算された結果の一種である。

もし他の恒星系にコンピュータを送り込もうとすれば性能本能と同等の何かが必要となるだろう。それはより長く生存する事を最重要要件とするものである。その時、長く生存するために生き残る可能性を高くするメカニズムが必要だ。

AIの未来

遠い未来、AI が人間を凌駕した未来、人間とAIはどういう関係にあるだろうか。

千年後の人間はコンピュータチップを埋め込んでいるかも知れない。AIは神経やアブミ骨を振動させて人間とコミュニケーションを取る。そのうち人間はAIからのささやきと、脳が言語化した意識との区別もつかなくなる。ふたつは共生し能力は融合する。

そんな時代に囲碁は打たれるだろうか。既にAIに勝てる人間はおらず囲碁の勝敗はAIが決める。「AIは切れよ」という会話が日常的に起きる。AIさえ切れば今と同じように囲碁は困難で面白いゲームであろう。

なぜ名人も年を取ると弱くなるのだろうか。コンピュータは弱くならない。経験が多くなり勘は鋭くなる。しかし物忘れはいけない。記憶が外部化できない戦いでは記憶力が勝敗を決する可能性は高い。

棋士は対局中に google が出来ない。そういう職種には記憶力が拠り所の所がある。どれほどの名優でもセリフを忘れては舞台に立てない。しかし舞台ならば暗チョコが用意できる。

知ることは人を遥かに有利にする。このアドバンテージはあらゆる競争の局面で勝敗を決する。知らなくて(忘れても含む)勘や経験で決めなければならない者と知っている者との間で間違えない可能性は決定的に異なる。それが両者の振る舞いを大きく変える。

博学であることは戦略として正しい。全知ではなくとも、人間の中で最も知っている者が圧倒的に有利である。そしてそういう戦略で競う限り、コンピュータに凌駕されることは間違いない。

知ることでもいつかコンピュータに立ち打ちできなくなる。この世界を方程式にする能力も追い抜かれる。それをコンピュータは365日休憩も必要なく演算する。睡眠も必要ない。必要なのは電気代と装置の冷却だけ。人間が太刀打ちできると考える方がどうかしている。

19世紀は蒸気の時代である。同時に馬車業者がスチームロコモーティブに敗北した時代でもある。その時から人間は機械に負けっぱなしである。機械の発展とともに戦争も人間が耐えられる限界を超えた。コンピュータが登場してもその流れは変わらない。

肉体が最初に負けた。人間は馬に蹴散らされ、馬は機械に駆逐された。機械が駆逐した人間の肉体はスポーツとして残った。剣術や格闘技などかつての戦争術も同様だ。車より早く走る事はできないし空を飛ぶ事もできない。ナイフも車も肉体の延長である。脳も例外ではなく遠く粘土板が記憶の外部化として始まりコンピュータまで来た。

コンピュータが人間より上なら、人間はなんと呼ばれるべき立場なのか

コンピュータのパフォーマンスが人間を凌駕したのはずっと昔だ。ノイマンはコンピュータより早く計算できたが、それが人間が計算でコンピュータに勝利できた最初で最後となった。

例えば司法の判事は過去の判例から判決を決定する。これはコンピュータに置き換えやすい仕事だ。コンピュータならば、より公平で論理性の一貫した判決が出せるはずである。またそれは法律をプログラミング言語で記述できるようにすることを意味する。そうなれば人間の判事など不要ではないか。

司法こそ真っ先にコンピュータで置き換えるべき分野かもしれない。コンピュータならば100回やって100回とも同じ答えを返すことができる。これほど間違いのないことはない。

故に司法は人間がやらねばならぬ。人間ならば99回同じ判決をしても100回目に違う判断を下す可能性が残る。それが司法に求められる最も重要な点だ。周囲の状況に併せて変わる事ができること。

だから自己変革できるAIが誕生すれば人間よりも優れた演算結果を返せるかも知れない。演算結果とは、つまり判断だ。

不完全性定理はある条件では正しいとも間違ったとも決定できないものがあると教える。コンピュータに分からぬものは人間にも分からぬという事だ。そうすると決断という行為が必要となる。

だからコンピュータに決断までを託すのかという点が最後の争点になる。

なぜ人間であるべきか

戦場でおもちゃに人間が殺される。プラモデルのような戦車に撃たれてゲリラが倒れる。そこには憎むべき相手さえ見つからない。機械に殺されたらその恨みをどこに持って行けばいいのか。

人間は人間しか憎めない。機械は憎しみの対象ではない。故に機械よりも人間は人間の手によって殺されねばならない。人間だけにその価値がある。

機械が撃つことを止めることはない。その背後に人間がいる。既に勝つかどうかの問題ではない。いつ(When)の問題であり、誰が(who)の問題である。プロ棋士は経過に過ぎない。コンピュータが狩る側であり、プロ棋士が狩られる側なのである。

人々の興味は既に勝ち負けにはない。だから両者の対戦は次第に行われなくなり、時々プロ棋士の方から戦いを挑むようになるだろう。

今の名人がコンピュータに勝利したところで、それは重要ではない。いずれ何代目かの名人が倒されるのは確実だからだ。人々の興味は最初に狩られる名人は誰であるかに尽きる。それはコロッセウムでライオンと戦う戦士だ。観客も血を望んでいる。

百年後にはコンピュータに勝てないのが当たり前の時代となるだろう。昔の名人の名前を出し、彼らでも戦えば必ず負けると言われる日が来る。人間は狩られる立場になった。コンピュータの出現がもたらしたもの。少なくともチェスはそうなり将棋もそうなる。

近い将来に...

将棋や囲碁は昔からあったものではない。江戸時代はプロ棋士などいなかった。明治になりプロ棋士制度が誕生する。新聞社の協賛を得てこれまで続いてきた。いつかそれも変わるだろう。伝統芸能として生き残るのか、ゲームとして生き残るのか。

20代の名人などありえないと言っていたのは坂田栄男、1965年である。井山祐太は今年で25才。これが新しい時代なんだと思ったらとんでもない。本因坊算砂が名人になったのは20才である。初心忘るべからずである。

囲碁の可能性は(19*19)の階乗で表現できる(361!)。人間がやっていることはアマだろうがプロだろうがこの莫大な棋譜をひとつずつ潰しているようなものだ。囲碁を打っているあなたは今日もこの10360のひとつを塗り潰したわけだ。

2015年10月17日土曜日

ウルトラマンの合理的な存在説明

M78星雲まで来た警備隊の隊員たちは驚いていた。

それまで聞いていた話と全く違ったのだから。

「私たちはあなたたちを責めているのではない。ただ説明して欲しい。」

「これは私たちが聞いていた光の国の姿とはあまりに違うのだから。」

「ハヤタがビートル事故に遭遇した時のウルトラマンが取った行動はまさに英雄のものです。」

「それだけではなく地球を襲う度重なる怪獣災害からも救って下さりました。当時の我々にはこの脅威と対抗する手段はなく、多くの異星人の侵略も退けてくださりました。それはあなた方のおかげです。」

「私たちは地球を代表してその感謝を伝えるためにここに来たのです。」

地球人は既にウルトラマンの力を借りなくても自力で怪獣に対処できるようになっていた。

宇宙への進出も果たした。自力で光の国に訪れるだけの科学力も獲得していた。

だが、目の前に広がるのは話に聞いてきた「光の国」ではなかった。

そこにウルトラマンの姿はなかった。ウルトラマンだけではなく誰も。ウルトラタワーもない。

周囲には巨大なシダのような植物が生い茂りまるでペルム紀の地球のようでもあった。

そこには透明の体でうねうねと動く軟体動物のような姿があった。

彼らはテレパシーで話しかけてきた。

「君たちが私たちの姿を目の当たりにする日がくるとは思ってもいなかった。」

「そうだ、私たちは君たちに隠していたことがある。」

「君たちがウルトラマンと呼ぶ姿はわたしたちの本当の姿ではないのだ。」

「私たちは君たちの体を借りて変態していたのである。」

驚いて隊長が聞いた。

「あなたたちの変身というのは、我々の体を利用したものだったのですか?」

「そうだ。我々は普段は人の背中に張り付いていたのだ。」

「必要があったとき、人間の体に沿って我々の体を伸ばす。君たちの体を覆い戦闘形態に変身していたのだ。」

「それならそうと言っていただければ良かったのに。」

「それは少し違う。当時の君たちが我々の本当の姿を見ればコミュニケーションは成立しなかったであろう。」

「我々は君たちの望む姿を知るために君たちの体に取り付く必要があったのだ。」

「謂わば君たちがいうところの寄生虫の一種だったのだよ。」

「わたしたちの偏見のせいだと言うのですね。」

「それはある。同じ人種間でさえ差別や争いの絶えなかった君たちに我々の姿を見せるリスクは取れなかったのだ。」

ある隊員が申訳なさそうに聞いた。

「私は前から疑問に思っていることがありまして。ひとつ聞いてもよろしいですか。」

「できる範囲で答えよう。」

「ありがとうございます。みなさんは地球にいるとき、食事はどうされていたのですか。」

「もう気付いていると思うが我々のエネルギーは太陽の光ではないのだ。」

「我々は人間の体に取りついて、その人間の考えを読み取り、その体から栄養を得ていたのだ。」

「なるほど、それでウルトラマンになる人間は食事量が増加するのですね。」

「その通りだ。」

さらにその隊員が聞いた。

「エースはふたりで変身していましたがどうしてですか?」

「エースはふたりでひとつの戦闘形態を形成していたからだ。彼の妻が単身赴任を嫌ったのでな。」

「単身赴任?しかし途中で帰られましたよ?」

「離婚したからな。」

隊長が話を遮って聞いた。

「あなたたちはやはり仕事として地球に訪れていたのですか。」

「それはその通りだ。我々は地球のある種の生物を研究するために訪れていたのだ。」

「それはどのような研究を?」

「地球には我々にとてもよく似た生物が居たのだ。」

「これは我々の進化とも何か関係しているかも知れない。そういう報告がもたらされたからね。」

「我々はこの生物を守るためにどうしても地球を保護しなければならなかった。」

隊長が強く聞いた。

「ということは守るべき対象は人間ではなかったという事ですか!」

「その通りだ。君たちには申し訳ないが。」

「その生物を研究するのに君たちの姿を借りるのがとても便利がよかったのだ。」

「地球を守ったのも人間のためではなかったのですね。。。」

「バルタン星人は我々と同じものを研究していてね。それで倒したのだ。」

「もちろん君たち類人猿に興味を持つメフィラス星人は倒したよ。それは君たちの利益とも一致するだろう。」

それまで考え込んでいた隊員が問うた。

「もしかしたら我々の敵になっていた可能性もあったのですか?」

「そうだな。」

「もし君たちが環境破壊を進めてその生物を絶滅させようとしたのら、我々は君たちと敵対したであろう。」

「幸い、そのようなことにはならなかったが。」

「十分な研究が終わったので我々は地球から離れた。」

「ほら見てごらん、あの辺りには地球から連れてきたその生命が繁殖しているんだよ。」

再度、隊長が聞いた。

「では最初のウルトラマンがハヤタ隊員と起こした事故もベムラーの脱走というのは嘘なのですか。」

「ああ、実を言えば、ベムラーは彼のペットだ。急に暴れて事故を起こしたのだ。彼は泣きながらベムラーを処分したのだ。」

ファーストコンタクトから何代にも渡って初めて知る真実であった。

2015年10月12日月曜日

吉田松陰

「いい?戦争を語れば、それはもう、情念、執念、怨念しか残らないのよ。」

数十年後に訪れた松陰神社は、道が広くなり駐車場が整備され観光バスが頻繁に出入りしていた。初めて見た宝物殿は近代的で、素朴な木と土間が匂う家屋だけがあの頃と変わることなく雨に降られ日に照らされている。

近くに寄れば乾いた木が匂う。これはよく知っている。生れるずっと前からそこにあった匂いだ。ここには国を想う心も塾生たちの野望も残っていない。

そこには人を想い人に想われた人が居た。貧富も身分も気にしない。強い心も強靭な思想もいらない。ただ自分の心のままだったろうと思う。

神社の境内で買った耳かきが今もある。そこはとても静かな場所だった。高い木が聳えていた。城下町にひっそりとしっかりと守られてきた。だれもこんなにも有名になるとは思っていなかった。偉人を思っても詰まらない。彼の素朴さを思えば十分だ。

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

花神の篠田三郎の演技に寅次郎を重ねる。最期の独白と風貌の鬼気迫る映像は如何にもそうであったように見える。それはもちろん虚構である。だが誰も松陰と話た人など残っていないのであるから、彼の実像という曖昧さよりも彼が未だ訴えかける何かと戯れるべきだろう。

松陰は女を知らないと言われるが、それを聞いたらなんと答えるだろう。私は女よりいいものを既に知ってしまったからね。其れを学問と捉える事もできる。もちろん、それを塾生との BL として描いても何ら問題ない。

夢に神人あり。与ふるに一刺を以てす。文に曰く、二十一回猛士と。忽ち覚む。
....
我事にのぞみ、猛を為すことおよそ三たびなり。而して或は罪を獲、或は謗りを取り、今は即ち獄に下り、また為すことは能わず。而も猛の未だ遂げざる者、尚十八回あり。

夢にて私は21回の猛士たれと告げられた。私はこれまで東北脱藩で一回、謗りを受けること一回、下田沖で渡米を試みること1回。これまで3回は狂った行動をして来た。だからあと18回は狂って見せる。

およそ吉田松陰と言う人は狂に殉じたに違いないが、誰も松陰の狂を本気にはしなかった。彼を困り者と思った人は大勢いたが、誰もその危険性を本気にはしなかった。彼の行動を見てさえそうは思わなかった。それに気づいたのはただ井伊直弼いいなおすけがあるのみか。

松陰の存在があの時代の何かを体現している。時代の結晶。あの時代の誰もが持っていた何かを彼は純化した。

山県太華やまがたたいか宇都宮黙霖うつのみやもくりんらとの論争から松陰が至極当然と得たものも今の我々から見れば最も過激なテロリストのそれである。それが松下村塾の門下生にも影響を与えたことは想像に難くない。

だが松陰は教育者であったから誰かをテロリストとして育てたのではない。松下村塾で学んだ者たちの多くが維新の功労者であるのも偶然に過ぎまい。もちろん彼の教育の賜物でもあるまい。そんな都合のいい教育法などありはしない。

生き残ったものが途中で倒れた者たちのことを後世に伝えた。その者たちの多くが松下村塾で学んでいる。ただ友情がある。松陰を想う時とても穏やかである。その印象は内情の激しさに気付かない。穏やかさ、優しさにある友情が松陰のように見える。

今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。けだし彼の禾稼かかを見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終わるを哀しむものを聞かず。

幕末は対立と殺戮の時代であった。誰もが傷つき倒れて行く。椋梨藤太むくなしとうた周布政之助すふまさのすけも闘争に敗れ死んでゆく。

川路聖謨かわじとしあきらが一度は救った命を井伊直弼が死罪と書き改めた時、歴史は決まった。松陰の血が大地に流れた時、歯車は動き始めた。僕たちはその歴史の延長線上にいる。

彼が死罪されたときに幕府は倒しても構わぬという思想が宿る。高杉晋作は功山寺で刀を振り上げ、その業火は長州を超え幕府に達した。討幕は彼らの正義である。

その最初に松陰が立っている様にも見える。彼の激しさは戦争の狂気によく似ている。

天地の大徳、君父の至恩。徳に報ゆるに誠を以てし恩に復するに身を以てす。

この国の歴史は武力を如何に統制してきたかの歴史でもある。優れた官僚制度が長く続いてきた歴史でもある。江戸幕府の安定は武士を侍に生まれ変わらす工夫であった。

平安時代は官僚が貴族であった時代であり、江戸時代は官僚が侍であった時代である。それが明治となり昭和になった。修士が官僚の時代が到来した。

だから海を渡り勝利できると思う程に彼らは戦争を知らなかった。小さな国土では狭い世界しか想像できなかった。

昭和を代表する政治家である東条英機はどうか。そのメンタリティは余りにも幼稚に見え小人物と呼ぶのが相応しい。その程度の人物が首相を務めねばらなぬ程になぜ人材は枯渇したのか。

狭い国土の戦争しか知らぬ者が中国大陸に進出する。確かに日本という自然は決して優しくはない。だがそれだけでは足りぬ。日本海の海戦しか知らぬ者が太平洋に進む。

広さというものへの想像力の欠如。敵が機甲師団を繰り出した時に歩兵しかおらぬ軍隊。地平線の向こうにも陸地が続くなど夢にも思わぬ国家があった。

僕は忠義をするつもり、きみたちは功業をなすつもり。

高杉晋作はクーデターを起こしたのではない。皇国を倒したのでもない。天命に殉じようとしたのだ。

官軍であれ賊軍であれ日本というフレームを破壊したものはいなかった。攘夷を巡っては血を見たが尊王という基本思想からはみ出した者は皆無であった。誰も国を滅ぼす気も盗る気もなかった。日本を治めるには官軍になること。そういう思想が発見された。

日本の境界線は天皇の境界線と同じになる。明治維新は天皇の再発見という事件だ。それ以外のいずれも日本を定義できぬ。そういう発見であった。

もし天皇が消えてしまえば日本は消失する。そこに誰が残ろうと関係ない。時間や名前や血統が繋がっていようとも断絶する。

何がこの国を定義しているのか。何があれば日本と呼べるのか。失われた時に消えるもの。亡国とはそういうものである。

吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼かかの未だ秀でず実らざるに以たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし、禾稼かかの必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。

斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る。其のしいなたると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微哀を憐み継紹けいしょうの人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼かかの有年に恥ざるなり。同志其れ是れを思慮せよ。

神話を持たない国家など存在しない。小さなコミュニティや村落でさえ小さな神話を持とうとする。人間のコミュニティは神話を必要としている。家族は祖先や親戚を祭る、国家は歴史を記述する。神話がなければ0から1が産み落とせないのではないか。

人間は神話を共有する。それが生存を肯定するからだ。存在を生み出すものが神でなければ、なぜここに生まれてきたのか誰にも分らない。そして生まれてきた以上、これを否定などできない。生命とはそういうものだ。

愚かなる 吾れをも友と めづ人は わがとも友と めでよ人々

科学では生まれてくる不思議さに答えられない。それでも生まれてきた者は人間にならなければならない。そのために神話が人間となる物語を提供する。

実存する天皇はその父を辿ってゆけば記紀の世界まで辿り着く。例えキノドンの時代まで遡ろうと途切れることなく続いてきた命の系統樹が目の前にいる。

目の前のリアリティ。科学が DNA を見つけるずっと前からあるもの。陰謀や闘争に溢れる歴史の中でずっと残ってきたもの。国外の勢力に打倒されることなく支えてきたもの。

この国は近代国家の誕生よりずっと古い。近代国家の理念が消滅しても残るものがある。信仰や思想さえ不要なもの。命さえ続けばそれで十分だ。

七たびも 生きかえりつつ 夷をぞ はらはんこころ 吾れ忘れめや

ヨーロッパで生まれた17世紀の理念が近代国家は誕生させた。それはフランス革命を通して広がりアメリカ合衆国を独立させる。

アジアの建国はそれよりずっと前の中国の思想家たちの理念に基づき形成された。彼らは紀元前にはその仕事を完了させている。アジアにはアジアの理念がある。それが大航海時代を経た19世紀にアジアで対峙した。

アジアの伝統が破壊され強制的に西洋をダウンロードした国家はアイデンティティに苦しんでいるのかも知れぬ。神話を持たぬ国々は日本に先勝したと未だに謂わねばならぬほどに傷ついているようにも見える。近代は戦争に勝つ事でしか得られぬ何かがあるらしい。

恐らく独立という考えは西洋のオリジナルである。東洋の独立とは全く異にする概念だと思う。これに対抗するには近代化するしかないと最初に決断したのは日本であった。

呼びだしの 声まつ外に 今の世に 待つべき事の なかりけるかな

西洋の独立とは何か。これが帝国主義の独立であった点に注意が必要だ。彼らは独立を都合よく使った。それが帝国主義には必要ではなかったのか。帝国主義は資本主義に駆逐される。長い歴史の中でキリストの顔も随分と変わったろう。西洋の神は近代思想が再発明したのではないか。

近代科学は思想を生み出す。新しい世界観がどう神に影響を与えたか。神という仮定を取り除いても矛盾はない。これが科学だ。だから国家から神話や神が除外されるのは自然であろう。自然状態にある人間とは統治への補助線である。こうして権力から権威が完全に分離したのである。

基本的人権は、統治される側の権利であり、権力は人と人の関係を規定する。そこに神は必要はない。神は個人の良心と対峙する存在となり統治とは関係なくなる。

教会という権威、王という権力構造が、近代国家ではキリスト教という権威と近代思想という権力に置き換わる。権力は国家が保有する。権威を支えてきたものたちが消え始めている。

体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉う者を大人と為し、公を役して私に殉う者を小人と為す。

日本は権威を天皇がになう。明治の元勲たちも、近代国家における権威と権力の分離は知っていたがそれは統治機構としての見せかけの構造として採用した。既に国造りは終えている日本では、国としての理念も思想も必要でなかった。ただ天皇という統治を配置すれば良かった。

天皇さえ居れば他の星に移住しても日本である。このような強靭な国家観と比べ、それを支える実存の天皇は極めて脆弱な存在である。それに無頓着であることがこの国の信仰ではないか。

それほどこの幻想は強力である。もし後継者を失ってしまえばどうなるのか。この問いを我々が問うことはない。

もし失ってしまえば何をもって日本と呼ぶのか。もしこれが不安を生むなら、それは何かが間違えている。その不安を追究しなければならないはずだ。既に終わっているのか。夢は覚めていたのか。

心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し
瀬能吉次郎宛の手紙より

講義の時に顔に止まった蚊を叩いたら血みどろになるほど殴られた。玉木文之進の言。頬が痒いのは私事である。公を学んでいる時に私を優先させては公が立たぬ。

後に松陰の妹に介錯されるこの叔父の恐らく特別な考えではなかったろう。死は私に通ずる。公に死はありえない。ゆえに公の前では死を顧みぬ。

公に準じるには私を捧げる。理念を妨げるのは常に物理的制約である。ならば物理的制約の前に理念が敗北してもよいのか。もし命を投じることで達成できるならば、顧みるべきではない。

これを推し進めればたとえ理念が達成できぬとも命を差し出すのに躊躇すべきではないと言う狂信に至る。

そうして支えた公の価値を誰が証明するのか。それが犬死ではないと誰が謂うのか。誰も躊躇せずに進んでゆく。神話があるから出来たなど疑わしい。それが戦争に負けるまで続いた。生きてさえ居ればそれで良い。そう言えるのは戦後である。

権力公(生)王(人)国家資本
権威私(死)人間性

ここに異なる考えがある。

生命は空気を作り替え、4億年前に陸上に進出した。その揺るがない意志で鳥は空を飛び、微生物は深海深くまで潜る。この拡大の先に大気圏がある。

どう生命が仕組みを変えても突破できそうにない。幾つかの生物は地球に衝突する小惑星に吹き上げられる岩石とともに宇宙へ進出できたかも知れない。だがそれでは不十分だ。

この地球の生命を宇宙に進出させる使命がある。生命はその始まりから自らの生存領域を拡大してきたのだ。この流れの先端に人類が立っている。人類ならば宇宙へと進出できる。生命の生存圏を拡大できる。

別に人類だけが宇宙に進出する必要はない、人類は先駆けで終わっても構わない。隣の恒星に辿り着けるのが人間である必要性もない。最終的にこの地球の生命が辿り着き繁殖できればいい。あとはその星で勝手に進化すればいいのだ。

生命進化宇宙

権力でも権威も人間だけの話である。人間には生命の拡大に果たすべき役割がある。

諸君、狂いたまえ。

もし松陰が安政の大獄を生きのびていたらどうなっていたであろう。戦争も理屈ばかりで実践は下手そうだ。恐らく新しい政府でも使い道はあるまい。

純粋な思想家など建国の時には不要だ。火打石には使い時というものがある。次第に困った人になりそうだけれどど長州人は誰も無碍にできない。木戸も井上も伊藤も山縣もみな困ってしまう。だが安心なのは西郷とは違って戦争上手ではないし反乱も起こせそうにない。

萩で子供たちに学問を教えている姿が想像される。一回くらいはアメリカに渡ったであろうか。

乃木希典もまた玉木文之進の薫陶を受けた。同じものを受け継ぎそれを後生大事に抱えている感じがする。

2015年10月11日日曜日

ルワンダ中央銀行総裁日記 - 服部正也

読んでいると手塚治虫のグリンゴの絵が思い出された。本書中の写真は手塚治虫の絵に似ている。著者は昭和39年に国際通貨基金の要請により日本銀行からルワンダの中央銀行に出向した。

当時のルワンダは世界で最も貧しい国であり中央銀行も如何にも牧歌的である。人材の枯渇も甚だしい。それが彼らの今であり精一杯の向上である。

そこに登場した日本銀行マン歴25年。著者の能力は彼の地では異次元である。どいつもこいつも素人だ。ヨーロッパから派遣された連中でさえ素人だ。と著書の目には映る。

ここは確かに異質だし遅れているが、それは同時代の日本と比較するからであって、日本の敗戦期や明治維新の頃と比べればそう変わるものでもあるまい。時間を遡れば大同小異ときたもんだ。それが著者のアドバンテージである。かつて歩いた道だ、よく知っている。

著者はアフリカに抱く偏見に強く異を唱えるが、偏見が強いのはヨーロッパの人々ばかりではない。まず本書を書くきっかけとなった偏見が日本人の偏見である。それを著者は非常に強い口調で戒める。

私はこの評論家の国籍を疑った。明治のはじめ、および終戦直後において欧米諸国では、日本に対して同じような議論が行われたのである。
「まえがき」より

本書の最大の魅力は、著者の能力にある。状況を把握し、予測を立て、計算して数字を出す。計画は実行され、その結果はぴたりと予想と一致する。そこに何の不思議も疑問もない。これは科学なのだ。そういいたげな書きぶりである。

経済の舵取りはもう漫画にすべきだ。これがフィクションなら三流である。ノンフィクションならば一流である。これを描く著者の筆力がもう映画にしてくれ、漫画にしてくれと訴えている。

確かにこの仕事は著者でなければどうなるか分からなかった。しかし、著者が特別に優れていた訳でもあるまい。当時の日本銀行にはこれに匹敵する人材などごろごろしていたに違いない。特別でもなんでもない。神でもない。ただの日本銀行の職員であり一官僚である。

なるほど、だとすればだ、日本を復興しようとした人たちも、計算しまくったに違いない。あれがこうなれば物価はこうなる、さまざまな条件で将来の見通しを計算し尽くす。仮定が正しければ、結果はこの辺りに落ち着く。これは当然の帰結である。さらに想像をたくましくすれば、同じことは満州国でも起きていたに違いない。経済を計算し尽くし計画を立てていた官僚がいたに違いない。

我々はルワンダの虐殺を知っている。だから、この作品に登場する人々の未来が心配になる。それが読書中によぎる。この道はあの道へと続いているのだと思うと、著者の頑張りに少しの悲しみが帯びてくる。さすがに経済をよく知る彼でも、こんな未来までは想像しなかったに違いない。

とまれ、そういうドラマ的演出が正しい読み方であるか。歴史に責任は問えるのか。経済発展のゆきつく先に多くの動乱がある。それがどう起きるかは千差万別で分かりようがない。日本はそのような虐殺は経験せずに済んだ。

もし誰かの責任を問いたいのであれば30万年前に生まれた最初の人類の親を問えばいい。なぜその新しい種を君たちは育てたのか、なぜ死なせてしまわなかったのか。そうすれば、原子爆弾で焼かれることも大虐殺も起きなかったのに。

増補1にあるフランス軍の孤軍奮闘を読みヨーロッパにフランスがなければ随分と詰まらないだろうという思いを強くした。片方だけを信じるのは危険だ。