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2013年7月26日金曜日

分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 比や引き算で考える

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割り算 In this Site

割り算は引っ繰り返す

割り算は引っ繰り返して掛け算にして求める事ができる。

2 ÷ (3/4) = 2 * (4/3) = 8/3 = 2(2/3)

2


3/4


2 + 2/3


比で割り算する

割り算を比で考える。比の計算規則は内側の積と外側の積は同じである。

2 ÷ (3/4) を比の形で記載する。

2 : 3/4 = x : 1

2 ÷ (3/4) は 2 : 3/4 = x : 1 を求めるのと同じである。 2 : 3/4 = x : 1 は 2 = 3/4 * x に変形できる。よって両辺に 4/3 を掛けて 2 * 4/3 = 3/4 * x * 4/3 とでき x = 2 * 4/3 = 8/3 と求まる。

比の意味は、3/4 を 1 とした時に 2 はどのような数値になるか、または 2 の中に 3/4 が何個あるか、と言い換える事ができる。このふたつは違うようで同じ意味である。

引き算で割り算する

次に 2 ÷ (3/4) を引き算によって求めてみる。

なお 2 = 8/4 であり 3/4 + 3/4 + 2/4 である。

2 - 3/4 =
8/4 - 3/4 ⇒ 1 余り 5/4
5/4 - 3/4 ⇒ 1 余り 2/4
2/4 = 1/2

2 (全体の数)


5/4 (3/4 を引いた余り)


2/4 (さらに 3/4 を引いた余り)


この 2/4 を 3/4 を 1 としたときの値にする事に注意。3/4 を1 にするなら 2/4 は何になるか。 2/4 は 1 : 3/4 = x : 2/4 の比として記述でき、内側と外側の積は 3/4 * x = 2/4 であるから x = 2/4 * 4/3 = 2/3 となる。

3/4 は 3/4 を 1 とした時の 1 であるから、3/4 + 3/4 + 2/4 は 3/4 を 1 とすれば、 1 + 1 + 2/3 となり、求める値は 2 + (2/3) となる。

3/4


1/2


この図から見えるように 1/2 とは 3/4 の 2/3 である。

割り算とは

さて割り算の形について一般的に考える。

1/2 と 3/4 の割り算にはふたつの形がある。
  1. (1/2) ÷ (3/4)
  2. (3/4) ÷ (1/2)

それぞれの式の意味を適切に考える事ができるだろうか。どういう時にどちらを選べば欲しい答えを得る事ができるだろうか?

比では次の形はどちらも同じ結果になる。
a : b = m : n
a : m = b : n

どちらも an = bm になるからである。掛け算は前後の順序を変えても結果は同じになる。

(1/2) ÷ (3/4)

3/4 を 1 とした時の 1/2 の値を求めるには、(1/2) ÷ (3/4) である。なぜこちらの式なのだろうか?それには 1 ÷ (3/4) の意味を知る所から始める必要がある。つまり (1/2) ÷ (3/4) は次のふたつの式として考えられるのである。
  1. (1/2) ÷ (3/4)
  2. 1 ÷ (3/4) * (1/2)

3/4 を 1 とするのを 1 ÷ (3/4) で求める。これが計算上の単位になって、その 1/2 を求めればよい。

1 - 3/4 =
4/4 - 3/4 ⇒ 1 余り 1/4






3/4 + 1/4 は 1/3 の 4 倍である事が分かる。1 ÷ (3/4) は、3/4 : 1 = 3/4 : 4/4 = 1 : x の比になる。1 : 3/4 の比は 4/4 : 3/4 の分子の比と同じである。分数の比は、分母が同じ時の分子の比と見做す事ができる。

分数は、分母が同じ時に、分子だけの比として考える事ができる。

よって分数の割り算は次のように求める事ができる。

1 / (3/4) の分母を揃える。 ⇒ (4/4) / (3/4)
分子の数字だけを抜き出す。 ⇒ 4, 3
そのふたつを割り算にする。 ⇒ 4 / 3

例題

(1/2) ÷ (3/4) は
(2/4) ÷ (3/4) ⇒ 2/3

2 ÷ (3/4) は
8/4 ÷ 3/4 ⇒ 8/3

(4/5) ÷ (2/3) ÷ (1/2) は
(24/30) / (20/30) / (1/2) = (24/20) / (1/2) = (24/20) / (10/20) = 24/10 = 12/5

この方法は (面倒であるが) 分かり易い。

(4/5) ÷ (2/3) ÷ (1/2) を通常の求め方をすれば、(4/5) * (3/2) * (2) = 12/10 * 2 = 12/5

こちらの方が覚えてしまえば圧倒的に簡単だ。

2 ÷ (3/4) の展開

  1. ⇒ 2 : 3/4 = x : 1 [比の形する]
    ⇒ 2 = 3/4 * x [内側と外側の積は等しい]
    ⇒ x = 2 * (4/3)
    = 8/3
  2. = (8/4) / (3/4) [分母を揃える]
    ⇒ 8/4 = 3/4 + 3/4 + 2/4 [割る数の足し算の形にする]
    ⇒ (1 ÷ 3/4) * (3/4) + (1 ÷ 3/4) * (3/4) + (1 ÷ 3/4) * (2/4) [3/4 を 1 の単位とする]
    = 1 + 1 + 2/3
    = 8/3
  3. = (8/4) / (3/4) [分母を揃える]
    = 8 / 3 [分子だけの割り算にする]
  4. = 2 * (4/3) [引っくり返す]
    = 8 / 3

なお C は D の特殊系と言える。

(8/4) ÷ (3/4) を分子だけの形にして 8 / 3 とするのは、

(8/4) * (4/3) により分母が通分されて消えたのと同じ。

2013年7月24日水曜日

不賢を見ては内に自ら省みる - 孔子

巻二里仁第四之十七
子曰 (子曰く)
見賢思斉焉 (賢を見てはひとしからんと思い)
見不賢而内自省也 (不賢を見ては内に自ら省みる)

優れた人を見たら、そうなりたいと思う。
失敗した人を見たら、その過ちに学ぶ。

優れた人を見たら、そうなりたいと思う。
優れていない人を見たら、自分がそうならないように考える。

優れた人を見たら、そうなりたいと思う。
劣った人を見たら、実は自分もそうではないかと振り返る。

賢な人からよりも、不賢な人からの方が学ぶことは多い。もし自分自身が不賢であっても、自分自身を見て、自ら省みる事が出来るようになれば立派な事だろう。

それが出来ぬから、不賢な人を見る必要がある。

所で、私には誰かを賢と不賢にするだけの見識はあるんだろうか?

私が賢とし、私が不賢とする人が、本当にそうであるとどうやって決めるのだろう?

私がもっとも不賢であるかも知れないのに。

この不賢とは私自身の事だ。

私一人が不賢ならばそれで十分なのだ。

2013年7月23日火曜日

機動戦士ガンダム - 富野喜幸

機動戦士ガンダムは一年戦争から 32 年、宇宙世紀 0112 年に上映された映画である。この映画の監督もサイド 7 からの避難民である。当時 7 才であったと聞いたことがある。彼が避難している間、私はそのすぐ外、つまり宇宙空間にいたのだから、不思議な巡り会わせである。

この映画は 1 年戦争を題材とした作品で、発表された当時から話題となり、今も繰り返し上映され、リメイクされ、アナザーストーリー、スピンオフも多く生まれている。本作は史実を基に作られているが、当たり前ではあるが、映画として商業的な都合から、監督の映画への思い入れから、多くの脚色もある。その幾つかは史実からの挿話である。また史実ではない挿話もある。そしてこの映画の影響力が大きいため映画で書かれた方が事実として膾炙している。

私はその間違いを指摘したり修正したい訳ではない。我々人類(スペースノイドであれアースノイドであれ)は全く正しい歴史認識に辿り着けるものではない。それぞれの立場もあれば利益とする所も違うのである。利害の異なるもの同士がこの太陽系の中を生きているのだから。

私がここで書きたいことは、映画で描かれた事と実際の史実(実際に私が参加した作戦もあるし、体験したもの、仄聞したものも含め)その違いを披露することである。その違いは面白い話だとは思うし、その違いを知る事がガンダムをさらに魅力深いものにすると信じている。

演出上の描写や史実との違いを知ればもっと想像力が膨らむのではないだろうか。史実と物語の違いを考えることは新しい創作に繋がるのではないだろうか。なにより知る事は楽しい。それと私がジオンにいたからという訳ではないが映画では悪役として描かれたザビ家の人々に対する誤解も解きたいと思っている。

悲惨であり、哀しみもあるあの戦争に、人類の歴史に刻まれた確かな一ページに多くの男と女が参加した。誰もがその中に放り込まれた。その中には私の部下も上司も戦友も含まれている、そして私の敵の立場であった人も。考えも立場も陣営も違えども、みなそれぞれ気持ちのいい連中であった。死んだ者も生き残った者もみなあの時代を同じく生きたのであるし、その中の幾人かは幸運にもまだ生きている。これからも子を産み育てそして死んで行く。

それが描かれているから機動戦士ガンダムはこれだけ愛されているのだと思う。私がこれから披露する挿話もそこに付け加えて欲しいと願っている。これはガンダムの史実である。

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機動戦士ガンダムは宇宙世紀 0079 年に起きたジオン独立戦争を題材としている。今でもかつてのサイド 7 宙域に行くと当時の残骸が散在しており、未だに民間人の渡航は禁止されている。監督はこのサイド 7 の残骸をドキュメンタリーに撮った事がある。この風景を見てインスピレーションを受けたと聞いた。

映画の演出上の嘘として有名なものにムサイの艦橋がある。実際の写真と見比べればわかる事だが、戦闘艦の艦橋は全面ガラス張りではない。全面ガラス張りでは危険すぎる。実際のムサイの艦橋は小窓が幾つかある程度だ。宇宙船はどちらかと言えば船より潜水艦に似ている。映画で一面をガラス張りにしているのは、宇宙の方から中の様子が映せるようにするためだ。これは演出上の都合であり、こうしておけば外から映すシーンに人影が写り印象的に見えるわけだ。

ホワイトベースが大気圏航行するシーンも嘘である。物語の舞台が宇宙だけでは起伏に欠けるためだろう。しかし実際はあれだけの巨大なものを地球で飛ばすのは技術的に難しい。地球、宇宙の両方で飛行可能な航空機は工学的にも課題が多い。現在の我々が持っている動力炉では未だそれだけのパワーを得る事が出来ない。

宇宙では地球を飛行するための機構は無用の長物である。地球では宇宙で必要な機構は無用の長物である。どちらにおいても余計な荷物を背負った状態で飛行する事になる。それが効率の悪さを生む。より軽量で高速で機敏に動ける方が戦闘艦に相応しい。これらの理由から宇宙と地球のどちらでも使える船は十分な性能が出にくい。その両方を装備しても問題ないくらい高出力のエンジンが開発されない限り難しい。

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ホワイトベースの羽根に見える部分は大気圏を飛行するための翼ではない。あれは宇宙空間で使用する光学観測装置 (ステレオスコープ) の取り付け場所である。その先端にカメラが付いており両端にあるカメラの画像をコンピュータ処理することで太陽の光りを受けて反射する艦船を探すのである。宇宙ではどの船も翼のように広くなっている部分を持っているが、そこには光学観測機器が取り付けられている。

ガンダムには機銃を撃つシーンが幾つもあるが宇宙では弾丸を撃つことはまずない。それは地上と違って撃った弾丸は何処までも飛び続けるので危険な為だ。一週間以上も前の戦闘で発射された弾丸に味方の艦隊が撃沈される事故もある。大気圏に落ちる事が確実でない限り弾丸系の武装を使用することはない。敵艦への攻撃は主にトマホークなどを使って船の動力炉や艦橋を破壊し戦闘力をなくすのが一般的だ。その場合も爆発を起こさないように注意しデブリが発生しない様に注意を払っている。爆発で発生したデブリはどこを汚染するか分からない。

サイド 7 の廃棄はこのデブリが原因で起きた事故だ。この事故をジオンが人工的にデブリを発生させサイド 7 にぶつけたと言う人もいるが、私の知る限りそのような事実はない。どの戦闘で発生したデブリが原因になったかは既に調査され解明されている。

デブリ群と衝突したためにサイド 7 からは住民の避難が必要となった。その事故を聞いて私は V 作戦になんらかのアクションが出ると考えた。サイド 7 に急行するとタイミングよくホワイトベースが出航していた。ホワイトベースと遭遇した事で連邦の新兵器を間近で見る事ができた訳だ。

サイド 7 追撃戦で初のモビルスーツ格闘戦を実戦で行ったんだけれども、私はモビルスーツの開発テストの時に何度も格闘戦を経験している。だからザクでどのような格闘戦ができるかは知っていた。相手が試作機であることは塗装の色などを見れば明らかだったから最初は確実に拿捕できると思っていた。初の格闘戦というより私からすれば相手機体を拿捕しようと接近したという方が実情に近い。所が拿捕は適わなかった。相手のモビルスーツの性能が格段に良かった。

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V 作戦はモビルスーツの開発ではなくソフトウェア開発の名前であるという事は聞いた事があると思う。試作機であるガンダムは各種兵装の装着が可能で、データ収集や性能チューニングのための実験機として使われていた。ここで得られた成果が順次ジムにフィードバックされていった。実際の処、ジムの性能は次第によくなって行き、戦争末期ではまったく歯が立たなくなっていった。戦争後期のジムの性能の高さは V 作戦の結実だと思う。

で、ガンダムの開発陣はどうも格闘戦を想定したチューニングも行っていたようだ。そのソフトウェアが搭載されていた機体を相手に私はザクで格闘戦を挑んだわけだ。実は危なかったのは私の方だった。なにせザクはもともと格闘戦を想定した機体ではないからね。素人がプロのボクサーに殴り合いを挑んだようなものだ。それほど高いソフトウェアを開発したのだから、連邦の技術力はかなり高いレベルにあったと思う。しかし、この格闘戦用のソフトウェアがジムに搭載されることはなかった。要塞攻略を主目的としたジムには格闘戦用のプログラムは不要と判断したんだと思う。

ガンダムを拿捕しようとした時にガンダムは白い塗装が施されていた。連邦の白いモビルスーツと確かに報告書に記載している。この塗装は試作機では一般的だ。動きを観測しやすいようにするためだ。ジオンでも試作機は白く塗装していた。サイド 7 から出港した時のホワイトベースも戦闘色には塗料されていなかった。ルナツーで急遽塗装したんだと思う。ルナツーから出航した時には一応戦闘色になっていたからね。

私の乗るザクが通常の三倍の性能と言われているけれどこれは間違いだ。私の機体も普通のザクとまったく同じだ。三倍のスピードで移動できると言われたけれど、これは高パワーな為ではない。私が他のパイロットよりも効率のよい運動をザクにさせているだけの話しなんだ。

私は目的地に到着するまでに殆ど進路変更をしない。最初に与えた加速だけでかなり正確に移動する事ができた。多くのパイロットはは優れた人でも 4 回か 5 回は小さな進路変更を必要とする。この進路変更に燃料を多く使うと活動時間が短くなる。移動の時に速度を上げると進路変更に必要なエネルギーも比例して多くなる。私は多くても 3 回だ。だから私は移動速度を上げる事ができた。そして多くの燃料を残したまま戦場に到着していたわけだ。

私は最初に目いっぱいの加速をする。あとは慣性飛行のまま戦場に到着する。他のパイロットが途中で何回も軌道を変えている間にね。軌道変更が多すぎて戦場に着いた時にはガス欠状態になっていたと言うのは、新米ではよくある話だ。これは私の天性の才能なんだろう。これに関しては私は未だに何かの記録を持っているらしい。

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V 作戦の追撃戦の最期に大気圏近くで攻撃を仕掛けたのは史実だ。私は飽くまでもガンダムを捕獲しようとしたんだ。でもガンダムは迎撃に出て来なかった。彼等はガンダムを大気圏に向って廃棄したんだ。彼等は私に奪われるくらいならと試作機を捨てる方を選んだんだね。仮に捕獲できたとしてもハードスペックはジムと大差ないだろうと思っていたが。コンピュータシステムは物理的に破壊されていただろうし。もちろんガンダムに大気圏突入能力なんかはないのでそのまま燃え尽きてしまったよ。

アムロ君はガンダムのテストパイロットだが、その後はジムに載って戦場に出ていたらしい。マグネットコーティングなどなくてもジムの性能は試作機のガンダムより数段に優れていた。映画ではガンダムに乗り続けた事になっているけれどジムは悪い機体じゃない。強敵だった。実際の写真を見れば分かるとおりジムは映画で描かれているものよりずっとスマートな機体だと思う。

アムロ君と対面できたのはこの映画のおかけだ。映画の関係者がセッティングしてくれたんだ。もちろん彼は映画に出てくるような少年ではなかった。髭面の細面の人だった。彼が打ち捨てられたガンダムを操縦したのも創作だ。彼は正規のパイロットだ。ガンダムのテストパイロットとして、私とモビルスーツの格闘戦をした相手だ。

スタッフの人たちが調べてくれたんだけど、どうやら戦争全期を通じてアムロ君と私が同じ戦場にいたのは二回らしい。V 作戦の追撃戦とアバオアクウ防衛戦だ。確かに私もアバオアクウ防衛戦の戦場にいたから、どこかですれ違っていたかも知れない。私達はともにエースパイロットだけれど、映画のように私がアムロ君を追い続けたという話しはないんだ。

映画のスタッフがセッティングしてくれて私たちは会ったんだ。私はその時が初対面であると思っていたのだが、どうやらサイド 6 で既に会っていたらしい。私はそれを全く覚えてはいない。アムロ君が言うには私は女性を連れていたらしい。どこかのバーか何かでかな。そのころ既に結婚していたからね、奥さん以外という事はないと思う。

彼とは映画についても話あった。私はお面を被ったり赤い軍服を着させられたり、アムロ君は脱走までしている。あれが本当なら彼は銃殺だ。

ララァは映画では少し知恵遅れのように描かれているんだけれど実際は違う。普通の主婦だし、私の奥さんだ。彼女は戦争中はサイド 6 に住んでいた。私は休暇の度にサイド 6 の彼女に会いに行ってたんだ。もちろん今も生きている。パイロットでもないしね。監督が初対面の時に非常に気に入ってくれて作品に登場させてくれたんだ。彼女も自分の名と同じララァというキャラクターが気に入っていると話しているよ。

*脚注
シャアはルウム戦役で戦艦五隻を撃沈した。V 作戦傍受の頃は情報部の活動に従事しており、その後はジャブローに侵入しジムの情報を入手、最期はアバオアクウ防衛戦で前線指揮官として終戦を迎える。戦争中の撃墜数は戦艦 8 、モビルスーツ 12 である。

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ソーラーレイは実在した兵器ではない。物語中の架空兵器である。映画ではソーラーレイによって両陣営の無数の艦隊が消えてしまった。しかし実際に戦争中にジオンが保有していた軍艦は戦艦 26、巡洋艦 32、連邦は戦艦 22、巡洋艦 23 隻を保有していた。モビルスーツはジオン 516 機、連邦 382 機。当時の国力からいえばジオンは国力をはるかに超えた戦力を維持していた。ジオンは地理的状況から短期決戦しかできない内情を抱えていた。だから連邦をはるかに超える戦力で例え経済が疲弊しようとも短期決着を目指すしかなかった。

あの一年戦争というのは、最期はアバオアクウ要塞の陥落で終わるのだけれども、その前に行われたソロモン要塞攻略戦でほぼ戦争の趨勢は決まったと言える。ジオンは短期決戦を目指しておりソロモン要塞戦で一方的に連邦の戦力を叩く事を戦略としていた。宇宙での覇権を得るには連邦との戦力比を 10:6 にする必要があった (戦争前の戦力比は 10:9 )。そうすれば宇宙での行動に制限がなくなる。ジオンは相手戦力を一方的に叩く事に戦略と戦術の全てを賭けていた。しかし思った程の打撃を相手に与える事は出来なかった。

当時の宇宙軍では要塞攻略にはふたつの方法があった。ひとつが要塞閉塞戦であり、これは重要施設を外部から破壊し、要塞の機能を停止させ降伏させるか、または無力化する。もうひとつは要塞内に上陸し内部から破壊する。後者を要塞上陸戦と言う。

連邦はソロモンを閉塞戦で早く片付けた後、アバオアクウでは上陸戦を仕掛けて来た。これをジオンの作戦部はまったく予想していなかった。上陸戦はお互いに悲惨な戦闘になりやすい。それでもこの要塞を完全に破壊しておくのが連邦の戦略だったようだ。

連邦軍は要塞上陸戦をするには艦艇が圧倒的に不足していた。だがそこに小型のコロニーまで投入して補った。私たちは連邦の突破力を押し返す事ができず、アバオアクウを守りきる事も出来なかった。この作戦で連邦軍は殆どの戦力を消耗したんだけれど、ジオンの被害も甚大であった。連邦は身を切ってジオンの骨を断った。両者は戦争の遂行能力を失った。この後にサイド 6 の仲介もあり講和が成立したんだ。

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グフという青い機体があるだろ?あれは実際は戦闘用のモビルスーツではなくてモビルスーツを運搬する作業用の重機なんだ。右手に付いてたのはヒートロッドではなく運搬時に荷物を固定するためのワイヤーなんだ。私は乗った事はないんだが、作業している光景は良く見ていた。戦闘に用いる機体ではないんだけれどアバオアクウの工事には大量に投入されていて、そのまま武装を取り付けて簡易的な固定砲台として使われた機体もあるんだ。

アバオアクウで投入されたゲルググは戦争前に私がテストパイロットとして開発に参加した機体だ。戦争に投入されたのは戦争末期だったけれど私はあれが最高のモビルスーツだと思っている。戦後に連邦軍で模擬戦を行い一機のゲルググで五機のジムを圧倒した記録もある。そういう記録が残っているはずだ。まぁそれはパイロットの腕の差かも知れないが。この機体は迎撃能力は優れているんだけれど活動時間がとても短い。そのため戦後のモビルスーツの主流にはなれなかった。ゲルググは良い機体だったよ。

モビルスーツというのはもともとは月や小惑星での資源採掘作業を行う土木作業に使われる機械だった。それを最初に軍用に転用したのはジオンがコロニー攻略をするためだった。コロニーの外側にある施設に取り付き、段差のある場所を移動する。腕でパイプを掴んだり、段差のある場所を移動するには人型で二足歩行が適していたらしい。ザクはコロニー攻略するための機体だ。ザクの肩に付いている盾は最初は宇宙空間に漂うデブリから機体を守るために取り付けられたものだったんだ。

ザクの塗装は宇宙で目立たない深緑と決められていた。隊長機も暗闇に溶け込む深紅と決められていた。ほら深海魚に赤い色の魚がいるだろ?あれと同じで暗やみで目立たない色なんだ。機体はどちらも同じもので塗装だけが違う。赤いザクの方が 3 倍性能がよいというのは伝説だね。ザクとゲルググを比べても 3 倍の性能比はないからね。まぁ何を 3 倍というのかだが。赤い機体は隊長機である印に過ぎない。角に見えるのは通信装置だ。隊長機は他の機体とリンクして情報処理する必要から大型のアンテナを採用していたんだよ。ただ戦争が始まってから製造された機体は全て緑色だった。赤いザクは戦争前に製造された機体で、戦争中は製造工程の問題から全て緑で塗装されていた。

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宇宙での戦争というのは戦艦から発進したモビルスーツでコロニーに取りつき、コロニーを占領するのが主な戦いだった。だけど映画にサイド 7 の中にザクが進入したシーンがあるが、あれは嘘だ。モビルスーツはコロニーの中では満足に動けない。立ち上がることさえ出来ない。

だからコロニーの中でのモビルスーツの戦闘というのは起きない。ガンダムとザクの戦闘も、ギャンの戦闘もないんだ。ガンダムもコロニーの中で歩く事はできない。

月面で使われるモビルスーツには二足歩行のものもあるけれど、1 G の場所では二足歩行は難しい。月面作業のほどんとの機体もキャタピラが主流だ。ガンタンクみたいなね。私がコロニー内でモビルスーツを使う実験をした時は、立ち上がる事も出来なかった。モーターが焼き切れてしまうんだ。

地球でモビルスーツが使われる事もない。もし地上であの巨大なモビルスーツが立ったら辺りから丸分かりで遠目からでも目標にされる。そしてあっという間に戦車や携帯ミサイルで破壊されてしまうだろう。今でもそうだけど、地上での戦闘の中心はやはり戦車と航空機だよ。重力というのは未だ人類の大きな制約なのだ。戦争にも大きな影響を与えている。ただ水中作業用のモビルスーツを何機か試作したという話は聞いた事がある。ズゴックみたいな機体があればいいけど。

ジャブローと言えば、映画の中でザンジバルが地上から打ち上げられたシーンがあったね。あれは実話だよ。ザンジバルは地球で最初の組立をしていたからね。途中まで組み立ててから宇宙に打ち上げていたんだ。もちろん打ち上げのために軽くしなければいけないから武装も装甲も施されていない。ある程度の組立をしたらロケットを取り付けて打ち上げていたんだ。打ち上げたザンジバルを宇宙空間で受け取って組立工場のあるソロモンまで曳航する。だからザンジバルは実際の機体も空気抵抗が考慮されたスマートなデザインになっているんだ。

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ガルマは作品では坊ちゃんに描かれていたけれど、彼は本当に聡明に人だった。私とは兵学校の同期であったが、彼は本当に優秀な人だった。映画ほど若くはないしドップに乗って実戦に出たりはしないけど。彼は北米方面の参謀のひとりだ。

ガルマが連邦との講和を模索していたと言う話しは今では有名になったけれど当時は秘密裡に研究していたようだ。ガルマの日記には講和へのプロセスや障害が詳細に記載されていたそうだ。これを読んだデギン・ザビにも大きな影響を与え、政府首脳陣はこれをベースに講和準備を始めたようだ。まぁ講和に動こうとしたガルマをシャアが特命で暗殺しようとしたという説が今も残っているがね。

ガルマの死後、イセリナは男の子を出産した。彼女はガルマの愛人だ。これが公表されたのはその子が 20 才を超えてからだ。醜聞を恐れたイセリナの父が隠していたらしい。

ガルマの死によって、北米におけるジオンの勢力は急速に縮小した。この事からも彼の能力は高く評価していいだろう。私もその意見に全面的に賛成する。彼がどれほど有能な軍人であったか、彼の死がどれほどジオンに痛手であったか。私にとっても良き戦友であったし戦後のジオンにとっても何らかの貢献をしてくれる人だったと思う。

北米の勢力が縮小した事で連邦はオデッサに大規模な攻勢をかける事が可能になった。ガルマの死が結局はジオンのオデッサでの敗退を決定づけたわけだ。連邦は北米の兵を大量にオデッサ作戦に投入できたんだから。これが戦争の趨勢を決定づけたと言ってもいい。だからガルマの死を持ってジオンは敗戦したとする見方もできる。

ガルマが戦死した戦場に私は居なかった。私は地上に降りガルマの処で数週間を過ごしてから南米に渡った。ジャブローへの潜入の為にね。彼の戦死は確かにおかしな事故なんだ。前線への視察の時に流れ弾に当たるでもなく、爆撃に巻き込まれた分けでもなく、単に塹壕に落ちて死んでしまったんだから。それがいっそう彼の死への疑念として残っているんだろう。ジオンの人にとっては余りにも残念すぎるんだ。

ククルスドアンと言うジオンの脱走兵が連邦やジオンの区別なく孤児達を養っていると言う話は一部でのみ知られていた話だ。彼の上司だった男が機密費の一部を彼に渡していたと言う。それで彼の活動を支援していたそうなんだが、これを聞きつけた情報部がこの話しを捜査しようとした時、偶々聞いたガルマが捜査を中止させたという話は聞いた事がある。

身よりのない子供を育てていた売春婦が連邦にスパイ容疑で逮捕され惨殺されてしまった事がある。この時に残された孤児たちをガルマが孤児院に入れた。この時の話はジオンの報告書に残っていて、それで戦後になってから表に出て連邦軍は遺族(子供達)に正式に謝罪しなければならなくなったんだ。たしかその売春婦の名前がミハルって名前だったはずだ。

オデッサ作戦の敗北でジオンの劣勢は決定的になったんだけど、その時にマ・クベさんが核兵器を発射した事になっている。あれは史実ではない。ジオンはそもそも核兵器を保有していない。マ・クベさんはオデッサ降伏後に要塞の引き渡しをして事務手続きが完了した後にそのまま捕虜になっている。戦後は地球で美術史家として余生を全うしたんだよ。

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スペースコロニーで最も重要なのは水の確保であった。当初は地球から運搬していたけれど効率も悪く量も少なかった。氷の小惑星帯が火星の内軌道に見つかった事で巨大コロニーの建設が実現できたんだ。コロニーに水を運搬する船に対しては戦争中と雖もジオンも連邦も攻撃をしたことはなかった。

地球連邦は地球の統一政府と思われがちだが実際には地球にある複数の国家連邦のひとつに過ぎない。地球連邦は地球上の 4 割の地域とスペースコロニー群で構成された国家ネットワークだ。ジオンはこのうちの月地域を管轄するコロニー自治区だった。

ジオンは戦後に地球連邦から独立している。世界で初めて宇宙に首都を持つ国家の誕生だ。その後に幾つかのコロニーが独立する。コロニーは気候の変動がなく安定した太陽エネルギーが受け取れる。水のコストや放射線対策を必要とはするが、農業や工業に向いている。宇宙では運搬費用も安い。コロニーにないのは漁業だけだ。

映画で描かれた選民思想は別として、思想家としてのギレン・ザビは重要だと思っている。彼の地球人への危機感が私には一番正しいように思える。彼の地球に対する危機感、地球の資源が枯渇する事への危機感、それを浪費して平気でいる人々への危機感、彼は新しい世紀においてヒトとしての未来を考えた政治家だと思う。

昔の人が化石燃料の枯渇を経験したのと同じように、宇宙に進出しても人類は別の資源争奪戦を繰り返すだけであった。何時かは地球にある全ての資源が枯渇する。宇宙に新しい資源を求めて人類が進出したとしてもその根っこが同じならば何時かは太陽系の全て資源を食いつぶすだろう。何かが変わらなければならない。そういう問題意識がギレンにはあった。

ギレンの語る人類への問題提起が作品の重要なテーマだ。これは正面から語られはしないが物語に通奏低音として流れている。ジオンの理はそこにある。しかし物語ではザビ家はアムロたちの敵であり、アムロたちの倒すべき敵として描かれた。ジオンは単なる独立の為に戦争を起こしたのではない。宇宙にある資源を我々はどう使ってゆくかという問題を提起したのだ。

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ザビ家を倒すべき悪としたからガンダムはここまで続いたとも言える。悪でないものを悪として描く事が矛盾となって、どれだけ解いても証明できない定理のように、作品に終わりをもたらさない。ガンダムの全てはザビ家が悪である事を証明しようとする。だが本当にザビは悪なのか。どこかでザビ家をきちんと扱った作品が必要だと思う。彼等の声が描かれる事を願っている。

機動戦士ガンダムにおいてもっとも人間らしいと云えるのはザビ家に人達かも知れない。彼らだけが政治を語っているように見える。

キシリアは映画の中では脱出時に私に撃ち殺されてしまうのだけれど、実際は要塞陥落時に爆発に巻き込まれて死亡している。狙撃される方が印象的だし作品の最期を締めくくる重要なエピソードとは承知しているが、彼女の名誉のために少しだけ付け加えるなら、実際の彼女はあれほど冷酷な女性ではなかった。そのことを私はよく知っている。

ジオンはザビ家の独裁国家ではない。きちんとした共和国であり議会も開かれていた。当時のジオンで重要な地位を占めていた一族のひとつではあるが、そこは誤解されて欲しくない。

ザビ家は革命の功労者ではあるが特別に優遇されていた訳ではない。デギンはジオンの最高政治責任者の地位にあったが大戦末期にサイド 3 への移動中に行方不明となった。戦後に遭難した船が見つかっている。

ギレンは政治家になったが他の妹弟は軍人になった。ドズルとキシリアは要塞司令の要職には付いた。キシリアはアバオアクウで、ドズルはソロモンで戦死した。既にガルマも地球で戦死していた。

ひとり残ったギレンはアバオアクウ陥落後に本国の執務室で自殺したのである。

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本書がガンダムというプラットフォームの中に新しい視点を開く一助になれば幸いである。


地球、地福。

2013年7月7日日曜日

七十而從心所欲 - 孔子

巻一爲政第二之四
子曰吾十有五而志于学 (子曰くわれ十有五にして学に志す)
三十而立 (三十にして立つ)
四十而不惑 (四十にして惑わず)
五十而知天命 (五十にして天命を知る)
六十而耳順 (六十にして耳に順う)
七十而従心所欲 (七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず)
不踰矩

(訳注)
まだ 70 を経験していないのでこれは単なる想像である。

(訳)
若い者には想像もつかないだろうが、70 も超えると足はよぼよぼ、体力もナッシング。

次第に何事からも興味を失ってゆくし、食べるものにも五月蠅くなくなる。

この体に残っているのは、昔からやって来た幾つかの事が、それだけが何も考えなくても出来る様になっている。

私の生涯で、この体に残ったものと言えば、矩をこえずだけだ。

もういまから新しい事を始めようとしても、よそさまに大した迷惑をかけることもないだろう。

もはやよぼよぼのじいさんである。

赤子の手にさえ捻られるというものだ。

いまや若いやつからの拳固ひとつで十分、この世とおさらばだ。

若い弟子たちはよく世話をしてくれる。

それはありがたい。

もう心の中から湧き出てくるものが、単に人に迷惑をかけないでいよう、というだけの所に成ってしまったのか。

心の欲する所が矩を越えないんじゃないんだ。

矩を超えようとしたってもう出来ないんだ。

自分が偉くなったからでも、人間として成長したからでもない。

もうこの体ではこえたくたって越えられやしないさ。

長く、長く生きて来て、到達した所がここだなんて、君たちにはまだ想像もできまい。

私は老いたのだから。

社会の中でひっそりとなら生きて行ける。

私はそんな人生を生きてきた。

心の欲するところが矩をこえぬ、そうなってしまった。

みなはそれが私の満足であると思うのだろうか。