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2015年5月4日月曜日

二兎物語 - 滝沢聖峰

この人の作品は戦闘機が兎に角かっこいい。美しさの分類は弥生的で、すっきりとした流れるような美しさである。人物の描画もいい。

この人の作品では東京物語がいいのだが、いかんせんラストが気に食わない。確かに作者には物語を自由にする権利がある。だが読者にも作品を解釈する自由がある。僕は勝手に筋を変えて自分なりの最後で物語を締めくくった。

二兎物語は、たぶん二都物語から拝借した名だろうが、関係はよく知らない。浮世絵の絵師が主役であり時代は幕末である。派手な展開はないがそれは時代のせいであって、そこに住む人々には派手な物語が展開されるのである。

悩みがある。それを誰かの助けを得て解決する。そこに逞しさがある。趣味の為ならご禁制の品だってこっそり収集する。女もおおらかだ。

江戸時代は確かにこういう空気だったんだろう。そう思わせる感じがとても良い。それが虚構に過ぎぬとしても。今の価値観ですべてを串刺しにしない。

戦記もそうであろうが、ある時代にそこに生きた人を尊重する。その確かさが作品である。

トロッコ問題

トロッコ問題
線路を走っているトロッコのブレーキは壊れている。このまま直進が続けば線路で作業をしている5人の保守員が轢き殺されてしまう。この時たまたま線路の分岐器のすぐ側にあなたがいたと仮定する。分岐器を使ってトロッコの進路を切り替えれば5人は助かる。しかしその切り替えた路線の先に別の1人の保守員が作業をしていた。もし切り替えれば5人の代わりに1人がトロッコに轢かれて死んでしまう。

さてあなたはトロッコをそのまま走らせるか、それとも別路線に引き込むべきか?

問題の抽象化はギリシア人が発見した技術であり数学の基盤だと思う。抽象化は問題を顕著化するし解決すべき要点を明確にする。無視できるものを決め、不要なものを取り除き、それでも残ったものが問題の本質であると仮定する。そうすることで問題を簡単に考えられるようにする。複雑で困難な問題を単純化し解決を見つけやすくする。

抽象化によって得られた結論は転用したり応用するにも便利である。抽象化しておき様々な状況で具現化する。その応用が広がれば逆に以外な所で具体化から抽象化に戻すこともできる。そうやって異なる具体化が実は同じ抽象化できるという発見もある。抽象化は問題を扱いやすい形に変換しているとも言える。抽象化により漠然にひとつの形式を与える。そこから具体化に戻すことを応用と呼ぶ。

ユークリッド(エウクレイデス)が結実した公理と定理が数学を厳密で巨大な体系に作り変えた。数学とは抽象化のことだろう。より抽象的に考えることだ。必要ないものを極限まで取り除き、それでも残った「正しいもの」を扱う事だ。ここでの「正しいもの」とは「脳が正しいと認識する」という意味だから、数学とは脳という回路の実体化、回路図の表現とも言える。これは養老孟司の言である。

トロッコ問題の論点も抽象化の中にある。5人の命と1人の命はどちらが重いか。すると人はそんなの分からないと答えるに決まっている。だって見知らぬ5人よりも我が子ひとりの方が大切なのは自明であるし、見知らぬ5人と1人なら決められるはずもない。まずそれを考える必要がない。

見知らぬ1000人の子供がアフリカで飢え兵士になり死んでしまおうが、目の前の我が子が重いのは当然である。それはアフリカで悲しむ親だって全く同じだ。それ以上の何が言えるか。

そこでその抽象化に少しの具体化を入れてみる。何故なら回答を強要するためである。どのように具体化を入れれば期待した問題となるか。なぜそうすることで回答に変化が表れてくるか。問題の抽象化に具体的な条件が付随する。それはつまり、
  1. 見知らぬ5人と1人の命のどちらが重いか。
  2. あなたがどちらかを殺さなくてはならぬ時にどちらを選ぶか。
  3. どちらかを選択する自由はあるがそれ以外のあらゆる選択は許されない。

この問題の特徴は問いそのものにはなくそれを問う側の思惑にある。なぜ彼らはこのように問いたいのか。この問題は人間について道徳を自問させ自省を促すように見える。しかしそれは違う。

この問題の本質にあるもは選択肢を失った時に人間がどう振舞うか、その時にどのような言い訳を用意するかという点にあるのだ。これはそういう意味では収容所の実験である。トロッコ問題は次の問いと置き換える可能だ。
あなたは軍隊にいる。5人がいる収容所と1人の収容所がある。どちらかを爆破しろと言われた。あなたはどちらを選ぶか。命令の拒否も自殺も許さない。

この人間への問いかけは何だろうか。なぜ哲学者はこのような問題を思いついたのだろうか。そこに資本主義が無関係とは思われない。我々の社会は根底からこういう問いかけを欲しているのである。

資本主義は人間に選択を強要する。その選択のもっとも単純化された抽象化である。それは例えばリストラを通告する時に具現化する。この問題はどうやれば心理的負担を軽減できるかの実験と考えるべきだ。

このような抽象的な問い掛けは人間に対する侮蔑と呼んでもいいだろう。更に問いかけの構造が特徴的である。なぜこのような具体性のない設問をしておきながら、回答者にはより具体的な答えを要求するのか。

抽象化された問題に具体的に回答させる。問われた側は非現実的な問いに対しても具体的に考えようとする。それは人間の自然な心理であろう。そこに着け込んだ手法はフェアとは思えない。なぜ問う側がかくも絶対的な立場から回答を要求するか。なのに彼ら自身は答えを明かさない。しかし聞くもからはそれを強要するのである。そこに答えがないのは自明である。彼らはその反応を知りたいだけなのだ。これは巧妙な社会実験に過ぎない。

もし答えを欲するなら具体的にしっかりと考えるべきだ。我々に必要なのはこの問題に回答することではない。具体的に質問することだ。抽象的な問題に具体的に答えなければならぬ状況にあるのなら、答える側には具体性を知る権利がある。問う側にはそれに答える義務がある。それがなければ答えなど出せるわけがない。

抽象性はそれと合った抽象性で考えるべきだ。円が現実は再現不可能だからといってそれで数学の定理が失われることはない。現実の制限が抽象性の正義を否定することも、また抽象性の正義が現実の中で否定される事もあり得る。そしてそうであってもそれは決して不正義とは呼べない。

トコッロ問題に必要なのも結論ではなく問い返す事だ。対話の中で、質問者に何の意図があるかを問い掛ける事だ。そこに何か矛盾があるなら、それは背理法により偽の証明になる。質問そのものが間違えているのだ。そして何ら矛盾がないことが証明されたとしたらただ答えは一様にならぬと証明されるに終わるだろう。

  1. その5人と1人とどちらがわたしは親しいのか?
    どちらも見知らぬ人である。
  2. 誰もトロッコの暴走に気づかないのは何故か?
    全員がウォークマンなどを聞いている。
  3. 叫んでも聞こえない状況とは何か。もしかして唖か?
    全員がウォークマンなどを聞いている。
  4. その工事になぜ見張りを立てていないのか?
    その企業はお金がないので見張りを雇えない。
  5. トロッコの運行時間などを工事関係者に示し合せていないのは何故か?
    作業指示にミスがあったのだ。
  6. 暴走しているなら線路に振動とか異変が伝わるのではないか?
    近くで別の工事があって音も振動も激しいのだ。
  7. 何等かの異変に対して警笛を鳴らさないのは何故か?
    警笛は壊れていたのだ。
  8. 警笛が壊れているとしたら整備点検を怠っているのか?
    その通りだ。
  9. なぜわたしは分岐器のそばに居られるのか。そういう路線の中に勝手に入れるのは何故か?
    管理が徹底しないのだ。
  10. そういう企業に路線運行を許している行政はどういう状況か?
    先進国ではないと考えて欲しい。
  11. 私の持ち物には旗とかジャケットとか笛とかはないのか?
    相手は何にも気づかない。
  12. 分岐器を真ん中で固定してトコッロを脱線させられないか?
    それは出来ないだろう。
  13. わたしはなぜそんな急にそんな異変に気付いたのか?
    たまたま気が付いたのだ。
  14. 私はそんな咄嗟にどう決断すればよいのか。
    咄嗟の事ではあるが、決断する時間はたくさんあると考えて欲しい。
  15. どうやったらそんな状況が現実に起きるのか?
    現実ではない、一種の思考実験と考えて欲しい。
  16. 架空の人間が何人死のうが知ったことではない。
    なるほど現実性がない時にはそういう決断にも心理的負担が少ないのか。

相手からの質問に対して選べるオプションが少ないのとよく似たシチュエーションがある。映画や漫画や小説の中で。主人公が危機に陥る時とはこれと同じ状況である。その先でどうなるのか、そこからどうやって全員を救うのか、これが物語の面白さになる。

上の子か下の子か、どちらかを差し出せ、そういう話はフィクションでも実話でも耳にする。そしてこういう強要をするのは何時いかなる時も悪者である。

戦乱の中で、事故の中で、津波の中で、人には生涯悔いる失敗や決断がある。トロッコ問題はそれを人間に強要している。この問いに対して必要なのは答えることではない。この問いに回答することに意味などない。そういう決断をせざる得なかった人、決断ができなかった人、目の前で流れてゆく人をどうしようもなく見て立ち尽くしまった人。そういう人をいかにケアしてゆくか。人間は万能ではない、だのに自分を責める強さは時に巨大だ。

トコッロ問題は可能性を徹底的に取り除いている。それは夢の出来事と言って良い。その夢に対して回答を要求する。夢の中で浮気をした者はやはり浮気をしたのであろうか。夢の中での妻への裏切りは離婚の原因になるのだろうか。そう問い掛ける自分の心とは何だろうか。
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

夢の中で姦淫したものは、既に姦淫をしたのである。これを否定できないから迷うのである。心神喪失が無罪という話はこれと無縁ではない。自分に覚えがない事、自覚のないことに社会的な責任は取れないとするのにも理由がある(これは考えてゆかねばならぬ問題だ)。夢の中での出来事には責任をとれない。もしそれを要求されたら誰が夢と向き合えるだろう。

それでも夢の中で女性を抱いた事に罪悪感を感じたならばどうすれば良いのか。もしそれが夢の中で海に落ちたふたりの子供だったら。あなたはそのどちらを助けようとしたのか。どちらの子供を見捨てようとしたのか。誰もが夢を見る。そして飛び起きるのである。

飛び起きてから自問する。もしあれが本当だったら。自分はどうなってしまうのだろう。その時になってみなければ分からない。自分の認識を新たにする。そんな事は起きませんように。ただ祈るしかない。

それが本当に起きてしまった。そういう人がたくさんいる。あの津波を目の前にして、今も悔やんでいる人々は大勢いる。どうしようもなかった。そんな言葉では納得できずに答えを探している人が居る。その答えなど見つからないと知ってそれでも探している。そういう苦しみと寄り添うためにキリストは磔になったのではないか。仏陀は説いたのではないか。

心の負担を減らしたいだけならば夢に帰せばいい。苦痛の決断なぞ架空だ。その決断は誰のせいにもしない。サイコロを振るだけの人、その数値を教えるだけの人、その数値で分岐器を動かす人、その結果は誰のせいでもない。あらゆる作業を分業化する。決断を不要にする。それでもそれは実現される。それが誰かの命は救ったのだ。これも人間である。