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2023年10月29日日曜日

君たちはどう生きるか - 宮﨑駿

観劇

何の前提条件もなく、物語のあらましさえ知らずに入り込んだ世界で見たものは。

作品がどこへ向かうのか知らない。人間の自然の生業として予測と撤回を繰り返しながら観劇を続ける。物語がその全体像を示すのは後半であろう。それまでに何回かの転換点がある。そこまで届けばいいのだけれど。

自分の頭を傷つけるシーンを見て、これはサイコパスに違いない、と考えた。どう推敲しようとおばさんもおばあちゃんたちも惨殺である。間違いなくこれはシリアルキラーの展開である。

弓矢を作るシーンで予感は確信に変わり、おばさんを弓で撃ち抜いた後に、父を殺し、山へ逃亡する。山狩りの中でどう生きるかを問われるに違いない。ほら、あのアオサギに幻覚を見ている。ああ、なんと辛いシーンが待っているのだろう。どう物語を終わらせる気なのか。いずれにしろ悲しみは避けようがない。

というような話ではなかった。

過去作品

面白いとはどういう感情であろうか。感動とは何であろうか。その正体を問わずにはいられない映画だった。思えば宮﨑駿の作品に面白さを見た事はあるか。

カリオストロの城は面白かった。その意味は何であったかと振り返れば、ギミックと思われる。ギミックの面白さ、よく練られた構成、機械類の描写、地形、都市、地下道の設計、それらの中で導線を巧みに使いこなし、感情の起伏と交差させ、キャラクターたちが生き生きと行動する、または行動せざる得ない世界。

ナウシカの漫画を読みその視線の遠さに打ち震える。彼が口にしていた子供たちのためのアニメーションというキーワードなど嘘っぱちと確信する。そこには別の顔、読者からすれば本当の顔というものがあった。幾つの顔を持っているのか。他にどのような顔を持っているのか。たじろぐ。これだけの作品が形になるために、どれだけ多くの事を咀嚼し取り込み捨ててきたのか。

未来少年コナンを面白いと思ったかどうか。今では記憶は欠落している。それでもギガントの翼を走るシーンは鮮明に記憶に残っているはずだから、そこに強い印象を受けた事は確かと思われる。時系列的には怪しい。

少なくともその造形をカッコいいと感じた記憶はない。当時の全盛だったデザインとは趣が余りに違う。それは確かだ、その証拠に真似して描いた記憶がない。その後に始まったキャプテンフューチャーのメカニカルの方がまだ未来を感じた。

アメリカ的ではない。帝国海軍的でもない。当時の主流から外れたデザイン、竜の子プロの異質とも違う。当然だが、全てを知った上でそれを選択していたのだと思う。知識にしろ経験にしろ本流を知らなかった筈がない。そこにどんな思いと覚悟があったか、それは知らない。

明瞭な記憶の中にラピュタを面白いと感じた事が一度もないがある。観劇の途上で一度もワクワクも興奮もしなかった。ナウシカの顔を覆い泣く演出にマンネリズムを感じ嫌悪する友人が隣にいた。

面白さ

もしも面白いや感動がセックスで同じ気持ち良さに過ぎないならラピュタからそれは得られなかった。しかし面白さが生物学的な興奮状態、神経伝達とホルモンの作用であろうか。それが作品の価値であろうか。

もしそうなら映画の価値は神経の興奮で測定可能となる。しかし神経の興奮だけなら映画を見るまでもない。化学物質を取り込む方が余程簡明である。ならば映画は薬物と対抗するために存在するのか。面白さは映画の目的ではなく副作用だと思う。

ラピュタが面白くない事と詰まらない事は全くの別事である。それぞれのシーンは記憶に刻まれている。それらは強い印象を残しているはずなのである。そういう点でこの作品は、自分にとっては、物語にのめり込むものではなく、連続する絵画を眺めては楽しむものであったらしい。

作品の背景にある社会、組織、その中で動く人々の立場と思惑。宮崎駿の作品は富野由悠季の作品と比べるとそこは地味に希薄に描く。世界観はとても薄い色で描かれている。余白を多く残し最低限で済ませようとしている。

富野由悠季作品の多くで登場人物は直接的に問い掛ける、その多くは叫ぶ。宮崎駿作品の多くの登場人物は黙って決意する。その理由さえ明かさない。だけれども、それを表情で描く。その瞬間をとても重要と思っているはずである。

両作家も細心にそれらを日常の延長として描く事に腐心していると感じる。そこにだけは嘘は入れられないと感じ入っている。大切なものを持つ人は敵でさえ信用できる。だが、世界の多くの不幸はそこにも起因している。戦争は尽きない。

脳の中

興奮がなければ面白くないのか。それが退屈の理由か。どうもそうとは思わない。どんな作品であれそれを面白いと感じる人がいる。感受性の違いと短絡に結論はしない。その前に、その面白いと感じるメカニズムが脳の中にある。それを知る必要がある。

認識には、同じ知識を増幅す強化する場合と、全く異なる知識によって刷新される場合がある。追認、再認識は既知の知識の上書き。過去の感覚を再現しもう一度確認する。追体験する。依存症ともなれば何度も何度も繰り返す。もう一度体験したいという欲求は脳の快楽と強く結びついていて、これらの反応は線虫でも観察される神経系のノーマルな仕組みである。

これらは記憶を強化する行為と見做せる。それが快楽と結びつくのは、過去に同じ快楽を感じたからで、その生理的反応を再現したい。この心理の先に、それを充足する事が面白いと感じさせる事と結びついている。結果と作用の追求である。

待ってました、と掛け声するのがその代表であろう。あの料理をもう一度食べたいも同様であろう。お気に入りのデートシーンも同様であろう。再確認には最終的に自らのアイデンティティ、特に過去と現在を結合するものとして、それ自身が己れの生を自認する行為となる。

もうひとつの、認識の否定、刷新、偏見の除去、発見、これらも面白いと感じる典型である。これらは再認識よりも強烈な刺激となる場合が多いと思われる。新しい知識で古い知識を上書きする事もまた快楽である。この快楽の追求が同様に結果と作用から生じるのは同じ構造である。

謎解きや新しい発見が脳に与える充足感は、一種人間の学問技術芸術の原動力であろうし、時にそれは既存の世界を否定する。他者をも否定する。否定は争いの主原因となる。神の名のもとにどれだけ多くの民族が絶滅させられてきた事か。

それでも発見という強烈な興奮が人が世界を歩く理由となり、外洋に向かう理由となり、世界を拡張する理由となった。追認よりも強い刺激だと思えるのは、発見の方が位置エネルギーが大きいからだと思われる。落差が大きいほど、刺激も強い。

どうやら脳は常に動いている状態を作りたがっている。それがないと退屈を感じるように出来ている。脳は停止はできない。常にある程度以上の活動を維持し続けなければならない器官らしい。

だから人は考える事を止めない、という訳ではない。考えなくとも脳を常に動かし続ければ良い。ゲームの決まりきった操作にさえ人は中毒的に夢中になる。その先にあるステージにキャラクターを進める為になら。そのような時には退屈な作業は退屈にならない。単調な作業の中からも刺激を受け効率的に進めてゆく。

脳にとってのこの世界とは何であろう。

世界の構築

脳にとっての世界。それは脳の中に構築されたものであろう。原理的に脳の中に世界を構築し、それを外界を一致させる以外に構築はないと思われる。この二重構造を意識しなくて済むように脳は情報処理をしている。

脳の先に感覚器がある。その外に刺激の発生源がある。複数の刺激を脳は統括し統合して一つにする。外界の刺激と脳の中の世界は1:1で対応させているからひとつに出来るのである。だから世界は一つであると認識できる。

もちろん、実際の生体としては、機構的な制限から、視覚には盲点があり錯覚がある。盲点は構造上の止む負えない現象であるし、錯覚は膨大な視覚情報を前もって処理しているために発生する。そうしなければならない情報処理が間に合わないのである。

脳はそれらの現象をよく知っており、それらの現象が世界像の中に紛れ込まないように回避している。上手く隠蔽し世界像を再構築してみせているのである。だから意識がそれを認識する事は通常はない。

状況の単調さとは、状況の変化率が0に近い事を意味する。それは必ずしも世界が動いていないという訳ではない。外界が単調である、感覚器からの信号が少ない、脳が信号の変化を捨てているが考えられるので、田舎の風景が退屈かどうかは個人による。風景に退屈はなく、脳の中の信号が変化に乏しいがある。

数学や哲学を学ぶと顕著であるが、脳が理解できない状況がある。容量がオーバフローしたのか、処理速度が追いつかないのかは分からないが、どれほど目の前で事象が変化していようとも理解できずに通り過ぎている場合がある。

変化を捉える方法のひとつは足場を固定するだ。課題やテーマを設定する、ひとりのキャラクターにフォーカスして全体を眺める。人間は世界の中に物語を見いだす。数学や科学も知識の羅列の中にさえ物語は見いだせる。そこに何らかの物語を見出せば、必ず面白い。

面白さは変化の事であるか、その変化を認識する事であるか、つまりは脳の活性であるか。少なくとも活性していなければ面白いはないように思われる。

変化を見出せば、次に予測が始まる。これは脳が持つ本来の能力で、数秒先を予測しなければ生物は生きていられない筈である。体をくねらすミミズだって未来予測に基づいての行動のはずだ。危険に対するアクションなのだから。

未来を予測するために、過去を要求し、現在がある。二点間の連続性がなければ変化は見いだせない。さて、次はどうなる?この素朴な問いの中に物語がある。恐らく言語にアブダクションの能力を加えたものは物語の構造を生むはずである。

面白さは脳の活性として、生理的反応として知覚される。これを刺激にする為に、作家たちは時間や環境を通じて構造を通じて情報の変化を配置し、組み立て、表現媒体を通じて公開してきた。

ギフト

アオサギが人間鳥となる辺りから本作は動き始める。この世界観はこれまでと異なるように思えた。宮﨑駿の作品の中には、ふたつの大きな柱があったと思う。科学に信頼を置く技術志向と、異形の者たちとの邂逅に込められた世界観。

登場人物は誰もが何かを抱えている。その抱えたもの、運命と呼ぼうと境遇と呼ぼうと、否応なくそれが物語を駆動する。過去から今日まで続いてきた世界がある、最初の人々はどのようにそこに足場を組み立てたのか、そして現在はどのように入り込んでしまったのか。宮﨑駿の作品はどれも旅である気がする。

「君たちはどう生きるか」はまるでカタログギフトのような作品だった。過去の作品を思い出すシーンが沢山があって、どこかで見たという連想が幾つも流れてゆく。だから思ったのだが、ここには彼の本当に好きな風景が全部乗せになっているのではないか。

これまでは曲がりなりにも作品を完成させ、額縁を仕上げ、そして上映していたように思う。どこにもかしこにも、彼の御業が見られ、その形跡があり、そこから受ける感銘、光から音までが彼の周りを飛び交まるものたちの緊張に浸っている。

アニメーションが大勢の人間を投入して作られる工業製品であるとは言え、まぎれもなくそこには彼個人の作品と呼んで構わないものがあった。

其れと比べれはこの作品は、鉱石の標本ケースのようである。どれもこれも原石のままの並べられている。少しは磨いたり綺麗に拭いてあったりはするのだろうが、殆どが鉱物をそのまま置いてある。最低限のストーリーは確かにある。絵もいつもと変わらない品質を維持している。この並べ方は確かに宮﨑駿であろう。どんな些細な航跡にも彼の名は冠されなければならない。

だから、どのシーンも過去の作品から持ってきてアレンジしたものではない。ここにあるものが本体なのだ。ずうっと彼の中にあって、それが過去の作品の種であった。それをアレンジして作中に使ってきていた。今回は初めてその種をその種のまま披露してくれた。彼の中にある図書館の蔵書の中から本当に好きなものを余すことなく公開してくれた。

だからこの作品のストーリーには意味がない。作品としての最低限の体裁でよいと突き放したかのようだ。旅の目的でさえあやふやと思う。唐突に物語は動き出す、本当の目的があるとは思えない。旅と気づいた時に旅は終わりだよ。

人生と同じように否応なく巻き込まれ、旅を続け、そして最後は決断をする。もしそこで世界を担う選択を迫られたら君はどうする。そんな事を気にする必要はない。君の判断を世界などに奪わせるな。

これは宮﨑駿の心象風景だろうと思う。物語を構造する理由もリアリティも最低限の額縁でよい。近しい人の言によれば、ホフマンのくるみ割り人形を読んで辻褄など些末と慧眼したそうである。恐らく心象風景の理由は、最低限の形にするために物語さえも背景に添えれた感じがしたからだろう。

そういう想いから観劇の途中から逃れられなくなった。カタログを見て面白いという人もいれば、面白くないという人もいる。最後のブラッシュアップもしていない。わざとそうしていると感じた。耄碌という感想もなくはない。

だから、この映画は宮﨑駿の原石だと思う。これまでの作品は彼が磨きに磨き、選びに選び、構成を巧みに技を凝らし、実直に、誠実に、組み上げてきたものであった。その構築に感嘆する者は、原石は求めていないと言うかも知れない。その手技に感激した者は、原石では満足できないと言うかも知れない。願わくばこの原石から生まれるであろう宝石のキラキラを幾つも想像し眩暈にくらくらしたい。

なんという選択と取捨、彼の足跡を追い駆けて、彼が捨てて進んだ残骸を見つける。そのいずれもが素晴らしい作品の断片に違いない。彼が不要として割った陶器の欠片がきっと僕たちには宝物となるだろう。宮﨑駿の商業的価値を一番知らないのが当人なのである。鈴木敏夫が必要な理由だ。

その何が問題ですか。ありのままのスケッチで十分です。展覧会に出品して入賞を狙うようなものは評論に好きに鳴かせておきなさい。作る過程で何を考えていたかなんてどうでもいい。もう暖炉で焼いてしまったよ、それは足場だからね。もう解体したんだよ。

劇場

映画という感じはしなかった。通常は何度も行うであろう手直しも少ない感じがした。極限まで取り除くのがひとつの美なら、そのまま放っておくのも美である。削られた後に滲み出る美しさもあれば、元の姿のまま、僅かな手技で、ありのままの姿を見せる美しさもある。その先の削られた後の姿が匂いたつ。

もしこの作品が持つ心象風景の部分を薄め、背景の説明を整理し、冒険活劇を目指し90分程度に編集したなら、拍手喝采の映画となったと思う。だから、それを敢えてしなかったと解釈すべきで、何故なら、それはもう過去にやったから。

この映画は一種の教科書と受け止めた。後に続く者たちに全てを見せた。君たちのはそのままでいいんだよと言っているような気さえした。その思いが全ての場面に込められていると解釈する。

作品が一秒進む度に何かを探す。退屈さとワクワクが繰り返され何処に辿り着こうとしているのか探す。そのどのシーンもどこかで見た気がしてくる。だのに、なんだ、これは新しい作品だ。

造形は何か偽物くさく感じた。どこにも主人公がいない。確か、これまでのどの作品にも腰を据えたかのような重さがあった。あの魅力的な敵はどこへ。あの裏切り者はどこへ。作画のデザインがどこれもこれも今までとは違う気がする。推敲した気がしない。うん、これでいいよと笑っている感じがする。

そういう気がするのにゴッホの糸杉は生きているかのように美しく動き、風に吹かれる草々も美しい。ここにあるのは本当に好きな姿かたちに違いない。誰にも説明する気はない。自分の好きなものを黙って披露する。

思うがままに描いてみる。造形の泉が枯れたと思うならそう感じるがいい。そんな所に自分はいない。完成された作品と殴り書きのスケッチとどちらでもいいじゃないか。人間だから空を飛ぶには飛行機が必要であった。だが、まてよ。鳥として飛べればそれでもいいではないか。もしかして、飛びたいのは誰だ、僕ではないのか。

だから、鳥たちは飛ぼうとはしなかった。地面を歩き、飛べなくなったペリカンが語り掛けてくる。それでいいんだ。決めるのは君だ。

ハウル

自問が止まらなかった。目の前で展開されているものは何か。どういう作品か。そんな疑問が起きるのは宮﨑駿と庵野秀明の映画くらいだ。作品の中にメッセージを読み解かなければならない。その強迫観念にも等しい渇望がある。こんな観劇方法しか知らない。

本当にそんなものがあるのかと自問してみる。そこには何かがあると言う確信は揺らがない。それは疑いようのない真実である。目の前の作品がそう語ってくる。

ハウルという作品がある。そのメッセージは今も解けないでいる。この作品は何なのだ。しかし観劇の間の自問する姿がとてもよく似ていると思った。するとこの作品はハウルの子供か。ふたつの作品に類似性が見つかった。と言う事は、別の人は全く異なる類似性を他の作品との間に見つけている事だろう。

ハウルが戦争を描く物語だとしたら、この作品も戦争を背景にしている。だがハウルは戦争を描いた作品ではない。アオサギでもそのような事はしなかった。それは背景である。

ハウルは物語の背景に宇宙とのつながりがあった。それはこの作品でも同じだった。宮﨑駿という人は結局は宇宙に飛び出す作品を描いていない。恐らく彼の中の科学技術へのリアリティがそれを否定している。だから、飛び立てずに地面に戻ってきた人々の物語を描く。

今と過去を交差させ複数の物語を平行して動かす。その世界を旅し、新しい世界が出現し、海を越え、空を超え、元の世界に戻る為に別の世界を破壊する。それでもいいと決意する。

それが何かの象徴だろうか。その選択に何らかのメッセージがあるのだろうか。どうもそうではないらしい。これらの作品はそうは読めない。そこには何ひとつ主張しない姿がある。ただ風景を流す映写機がある。

何も語らない。なぜ口をつぐむのか。そこからが僕たちの旅の始まりだからだ。答えを見つけちゃいけない。見つけたら旅が終わるから。そこは作品の終わりではない。いつまでも旅が続けられるようにこの映画も作ったから。

エンディングの最後に「おわり」の字幕があったかどうか、どうも記憶にない。

この世界に

この世界に雲が流れている。雲を見ればラピュタを想う。彼の作品がこの世界を上書きした。猪を見ればおっ事主を想い、温泉に行けば湯婆婆を想う。津波を見ればバラクーダ号を想い、羊歯を見れば鹿を想う。カビを見れば腐海である。暗い土間にはまっくろくろすけを探す。

小さくなったと嘆き、猩々が馬鹿になってゆくと嘆息する。あの津波に冷静でいられたのはハイハーバーの津波を知っていたからだ。

作品にはモチーフとテーマがある。モチーフは動機だろう。テーマは芯だろう。その意味で宮﨑駿の作品にはテーマはない。モチーフの周囲に植物が萌えるように作品がある。富野由悠季の作品にはテーマがある。モチーフなどスポンサー企業が提供したもので十分だ。

テーマは声である。ピークがあり、カタルシスを起こし、エピローグへと続く。声は演劇となり、詩となり、それ以外の部分が消えても残る。記憶はその断片で構わない。彼は宇宙の詩人である。

モチーフは全体を覆うものだから、断片にはなりえない。だから景色である、流れてゆく景色に言葉はいらない。何もかも受け入れてゆく。彼は地球の画家である。

なぜ風景の中に声を探すのか。

「はい」という返事があった。宮﨑駿の作品はすべてが良い返事を描くためにあるのではないか。そうに違いないという気がする。

良い返事をするとは生きる事だ。返事をしたのなら必ずどこかに他者がいる。

それで十分と言っている。

返事を聞きなさい。それが始まりだから。