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2011年5月31日火曜日

大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも - 源実朝

大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも

この歌を見たのは、小林秀雄の実朝であった。

まるで一枚の水墨画のようでもあるし、一瞬の静止もしない映像のようでもある。

映画であればまた別の表現もあったろうかと思うが、この歌を越える映画がありえただろうかと訝る。

この鮮明さは一体何であろうか。

消える、
波が消えるとは決して言わない。何故、消えるとは言わないのか。言わないのに、なぜ、波は消えてゆくのか。

大きさが次第に小さくなる様。それは映像なら拡大であろうか、視野は縮小し細部にフォーカスする。

ここに物語を重ねる事も出来るし、彼の死生観を重ねる事も出来る。だが、そう出来るからそれが面白いとも言えない。勿論、この 1000 年も前に消えた人物の真実であるわけでもないし、真実はそのような形で存在するものでもない。

ただ、この歌は語り継がれてきたのだろう。それぞれの人の思いやその時々の海として。

そこになんらの真実も必要とはしない。歌の強さとは、真実であることにはない。感情でさえ人の気持ちではないのかも知れぬ。

これは大変に静かな歌なのである。

この静けさが人を無言にする。

初めに人は言葉を失う。説明することや合理性を分からせることに無力を感じ、絶望の淵に至る時に。昨日までの日常が失われてしまったはずなのに、微細に見れば同じである時に。例えば、大震災後の混乱の日のような時に。

テレビのアナウンサーが語った瓦礫に照る朝日が昨日よりも一層美しいとはそういう事だ。
夜が明け瓦礫の町に昇る日に照らし輝き光り見るかも

そういう時にそれでも言葉が紡がれるとしたらそれは歌だ。ただ海を見ていたから生まれたとするにはあまりに多くを語る。それなのに、この歌は何もかもを説明を拒絶している。ただ海を見ていた時の歌の姿そのままだ。

わかるだろう、そう言われているかのようだ。そしてどんなわかられ方をしたとしても、
黙って微笑っているかのような、そんな姿が思い浮かぶ。

歌人は、鎌倉右大臣、源実朝、第3代征夷大将軍。

2011年5月22日日曜日

原発安全革命 - 古川和男

高校の頃、社会科の先生からレポートの宿題が出た。
その課題は将来の発電というものであり、将来を予測し、その理由を書くものだった。

そこに僕は太陽光発電70%、核融合発電30%と書いて提出した。
その頃は、火力発電による大気汚染、水力発電による環境破壊が耐え難いものだったのだ。

その先生は、このレポートをユニークと呼んでくれた。

それからどれくらいの時間が経過したか。

2011年に起きた大震災と福島第一原子力発電所の事故は、僕たちに変革を求めている。


人々は原子力発電所事故の被害の質に絶望を感じている。
区域の広さ、時間の長さ、そして、破壊された原子炉を安定化させるまでの困難さ。

放射性物質のやっかいな性質に思いあぐねている。

政府の対応や東京電力を罵倒だけするマスコミ、
現地労働者に十分な賃金を払わない企業、
土地から立場から逃げ出すジャーナリスト、
そこにあるのは混乱なのだ。

何故なら、原子力発電所事故は混乱だからだ。
混乱が次々と移ってゆく様は連鎖反応のようだ。

そこで一歩耐え、二歩耐え、混乱を無くそうとする人を僕は胆力があると見る。
これだけの事故であればこそ、右往左往しない人間を評価する。


現在の原子力発電所の問題には、事故の被害とは別にして
放射性廃棄物の問題があり、これについては地層処分して長期間安定的に保存する、
つまり、半減期を経て安定するまで隔離する事が知られている。

この隔離"すべき"を出来ないのが現在の事故の状況であって、
今すべきことは少しでも隔離し拡散させないことにある。
多く爆発事象を恐れるのもひとえにこの点に寄っている。


さて、本書は2001年には発行された『「原発」革命』の増補である。
増補された理由は明らかであって、福島第一発電所の事故のためである。
帯には、以下のようにある。

全く発想の違う「液体」「トリウム」「小型」
この原発なら福島もチェルノブイリも起きなかった!
福島やチェルノブイリで起きたような事故を、原理的に起こさない原発がある、というのだ。
その原理の要点は、燃料形態を固体から液体に代え、燃料をウランからトリウムに代え、炉を小型化するということ。

本書の核心は一つだけである。

エネルギーの十分な供給は世界をより良い方向へと導くはずだ。
そういう信念がある。

少なくとも「エネルギー不足で人が飢え、殺し合い、地球が砂漠化してゆくりはよい」と信じたい。(p.233)

そうであるが故、筆者は原子力発電の可能性を捨てない。

「違うんだよ、地震が来ても、津波で破壊されても安全な原子力発電所はあるんだよ」と大声を上げている。

その背後には、原子力発電以外で現在のエネルギー需要を賄える方法はない、という現実がある。
本書でも核分裂によるエネルギー生成は、その次を担うであろう太陽光発電への過渡的技術として位置付けている。

太陽光パネルが主役になる前の過渡的技術、
藻によるバイオ石油が主流になる前の過渡的技術。

それでもそれらには福島の事故があったからと言えども、主役を担うだけの力が、まだない。


では、安全な原子力とは何だ、この問いに著者は、「トリウム熔融塩炉」を提唱する。

熔融塩とは、食塩の事ではなくて、酸とアルカリとが化学的に中和しあって生ずる化合物が液体状にあることを言う。
トリウムは、原子番号90、記号Thで表される物質で、これが核分裂の元になる。

トリウム232に中性子を吸収させると、ベータ崩壊を繰り返し、ウラン233となる。
この生成されたウラン233は核分裂性を持っており中性子を吸収しては分裂してゆく。
これが繰り返し起きることを連鎖反応と呼び、これが持続する状況を臨界と呼ぶ。

臨界するためには、分裂した時に飛び出した中性子が再び核分裂する元素に吸収される必要がある。

飛び出した中性子の速度が速いのだが、このままでは他の元素と当たる可能性は低い。
逆に速度が低速になると、他の元素と当たりやすくなる。

なぜ減速させると反応が進むかというと、それが反応断面積というものらしいのだが、
僕らは、速度の速い中性子は一直線に進むが、速度が遅いとフラフラと蛇行すると見做しておけばよい。
これはイメージに過ぎないが、蛇行する方がよく当たりそうな気がするでしょう。

そこで中性子の速度を落としてよく当たるようにするために使うものを減速材と呼ぶ。
黒鉛や水が減速材である。

一方で、この中性子を吸収し核分裂をしないようにする物質がある。
この物質が大量にあると中性子が奪い取られて連鎖反応は続かなくなる。
これが制御棒であり、冷却水に加えられたホウ素である。
勿論、減速材を取り除いても連鎖反応は停止する。

飛び出した中性子を減速させるかさせないか、奪い取ってしまうかで連鎖反応は抑制されている。
例えば一つの核分裂から飛び出した二つの中性子の全てが核分裂に使われれば次は4つの中性子が飛び出す。
これを繰り返すと2,4,8,16と次々と反応が進むので、一瞬で急激な温度上昇を生む。
これが周りの液体や気体を一瞬に膨張させるのが核爆発である。

何故、核分裂が熱を生み出すかと言えば、飛び出した粒子が他の元素との間で摩擦するからである。


この熱で水蒸気タービンを回すのが発電になる。

現在の軽水炉では、固形燃料を燃やし、それで水を沸騰させ蒸気タービンを回す。
石炭ストーブみたいなもんだ。

それとは異なる熔融塩炉では、液体の中で連鎖反応が起こり、その熱で水を沸騰させる。
まぁ、オイルヒーターみたいなものか。

僕は専門家ではないから全く分からないのだが、燃やすべき燃料を固形化するか
熔融塩に溶かして液状で使うかには決定的に違うという話しである。

固形燃料ではメルトダウン(固形燃料の溶融)が起こり非常に危険な状態があるが
もともと熔融塩に溶けているトリウム熔融塩炉ではメルトダウンという現象は起きないように思われる。

この辺りは専門家の色々な話を聞かなければ分からないし、
実験炉を作り検証を重ねて改良を加えてゆくべき話だ。


では、何故、この「トリウム熔融塩炉」が今のこの時代に期待できるか、と言うと
この原子炉では、プルトニウムなど放射性廃棄物を燃焼させ
安定した物質に処理できるというのである。

地層処分するしかないと思われていた廃棄物を原子炉内で処理できるというのは、これは新しい可能性ではないか。
人類が生き残っているかどうかも分からない10万年先までの禍根が、
少なくとも人類が生きているであろう数百年の間で処理できる可能性を秘めているのだ。

実験炉をまず、福島で発生した放射性物質を除去し処理する目的で開発してもいいのではないか。
その中で安全性を高め、そして発電所として建設してゆけば良い。

我々は10万年後にこの地上で生きている生命体に迷惑をかけてはいけない。
そうであれば、この原子炉の価値は、放射性廃棄物を生み出す原子炉を遥かに超えている。


安全であるという理由で、都市近郊に発電所を建設できるかという問題がある。
そこに必要なのは科学的説得ではないし、安心という空気でもない。

今起きている福島の事故が閉ざしたものは、多くの人の対話なのだ。
核は、もう嫌だ、という悲しみと、だが、電気はどうするのだ、という不安の対話は絶望的な断崖を挟む。

本書は、そこに新しい橋を架ける可能性がある、
橋はなくとも別の道を探さないかと二人が歩きださせる可能性がある。

この事故で起きた不安も混乱であっても、多くの人の気持ちは立ち直ろうとしている。
その上に、科学的な提言が一つの希望を与えてくれるかもしれない。

科学が希望を語るとは19世紀の時代か、
よく出来た科学は、詐欺にも使える、
そんな懸念はもっともである。

確かに本書には幾つかの語られていない事もあるし
厳密さに欠ける話もある。
例えば、僕が苦笑した文章には次のものがある。

また、容器の外側は外気による酸化腐食にも耐えなければならないが、これにはニッケルが主体でモリブデン・クロームを加えたハステロイ-Nと称するよい耐熱合金が開発され、十分な耐腐食データが得られている。日系二世のイノウエ博士が基礎を作った。(p.151)

日系二世のイノウエ博士って誰デスカ?


地球のエネルギーのほとんど全ては太陽に依存している。
その太陽とは核融合であり、早い話が原子力発電所(核融合炉)みたいなものだ。

そういった環境にありながら、地上では太陽光発電パネルは是で原子力発電は非であるというのも
どうも単純過ぎる話なのだ。

我々が手にしているエネルギーで最も強力なものは核分裂によるエネルギーである。
これを手にした以上、手放すはずがない。

鉄器を手に入れた人類が一度でも青銅器に戻った歴史があったろうか。

そして、手放せないのであれば我々は探してみなければならない。

昔、人類が夢みた太陽の火を。

この事故で廃版されたいた本書が増補新版された事には十分な意味があるのである。