大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも
この歌を見たのは、小林秀雄の実朝であった。
まるで一枚の水墨画のようでもあるし、一瞬の静止もしない映像のようでもある。
映画であればまた別の表現もあったろうかと思うが、この歌を越える映画がありえただろうかと訝る。
この鮮明さは一体何であろうか。
消える、
波が消えるとは決して言わない。何故、消えるとは言わないのか。言わないのに、なぜ、波は消えてゆくのか。
大きさが次第に小さくなる様。それは映像なら拡大であろうか、視野は縮小し細部にフォーカスする。
ここに物語を重ねる事も出来るし、彼の死生観を重ねる事も出来る。だが、そう出来るからそれが面白いとも言えない。勿論、この 1000 年も前に消えた人物の真実であるわけでもないし、真実はそのような形で存在するものでもない。
ただ、この歌は語り継がれてきたのだろう。それぞれの人の思いやその時々の海として。
そこになんらの真実も必要とはしない。歌の強さとは、真実であることにはない。感情でさえ人の気持ちではないのかも知れぬ。
これは大変に静かな歌なのである。
この静けさが人を無言にする。
初めに人は言葉を失う。説明することや合理性を分からせることに無力を感じ、絶望の淵に至る時に。昨日までの日常が失われてしまったはずなのに、微細に見れば同じである時に。例えば、大震災後の混乱の日のような時に。
テレビのアナウンサーが語った瓦礫に照る朝日が昨日よりも一層美しいとはそういう事だ。
夜が明け瓦礫の町に昇る日に照らし輝き光り見るかも
そういう時にそれでも言葉が紡がれるとしたらそれは歌だ。ただ海を見ていたから生まれたとするにはあまりに多くを語る。それなのに、この歌は何もかもを説明を拒絶している。ただ海を見ていた時の歌の姿そのままだ。
わかるだろう、そう言われているかのようだ。そしてどんなわかられ方をしたとしても、
黙って微笑っているかのような、そんな姿が思い浮かぶ。
歌人は、鎌倉右大臣、源実朝、第3代征夷大将軍。
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