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2015年9月20日日曜日

作品は「浦沢直樹の漫勉」を見る前から知っていた。ここで見せつけられた線の美しさに彼女を再認識した。上杉謙信が女であるという説は知っていた。さもありなんと思うが興味はない。

女であろうが、男であろうが、上杉謙信という人、彼を取り巻く人々が変わるわけでもない。もしそうなら、そうと知って動いた人々がいた。もしそうでないなら、そうでないと知って動いた人々がいた。歴史は微動だにしない。

謙信を女とすることで作品は面白くなる。それは当然だ。本当はどうだったのか。DNAを解析すればはっきりすると思うだろう。だが生物はもう少し逞しい。彼/彼女は両性具有だったかも知れない。まぁ、そうなればそうなったで今度は両性具有の謙信を描けばよい。

歴史をどのように理解してゆくかは難しい、だから面白い。資料が示すことが本当にそうであったか。そんなもの分かるはずがない。それでも資料以外の何を頼りになぞればいいのか。誰も信長の最後の気持ちが分かるはずがない。仮に本人に聞いても、焼け落ちようとする建物の中での言葉など、本心でもなんでもない。

もし生き延びればまた別の感慨が浮かんだであろう。歴史とは過去への驚嘆である。歴史とは過去への畏敬である。合理と不合理の行き交う。どうして、なぜ。その不思議さに誘われて少しでも近づきたい。だからといってイカロスの飛び方が唯一の方法ではない。

漫勉の映像から受けたインプレッションと誌面を見比べては驚嘆し感嘆する。これは新しい漫画の鑑賞だと思った。何より驚いたのは、雪花の虎を読んで受ける東村アキコの印象と、漫勉から受ける彼女の印象は全く違う。当たり前だが、実際に味わって、改めて驚いている。

作家と作品は違う。そういう話なら十分に知っていた。画家の手紙と作品、作家とその生活。だからといって作品から得られる東村アキコを虚像と呼ぶ気はない。

なるほど確かに「生きている人は何をするか分からない」。だけれども、それもこれも作品の存在による。もし作品が詰まらければ、決してこのような話をしてはいない。

上杉謙信の肖像画
この肖像画は長年好きでなかった。気持ち悪いとさえ思っていた。何もかもこの髭を書いた人が悪い。


だからおひげを消してみる。これは。。。画家は女に寄せて描こうとしたのだけれど、家老が来て、頼むからもう少し男っぽくしてくれと懇願される。画家は断ったが、どうしてもと折れそうにない。どっかを手直しするのは嫌なので、髭だけを加えた。最初は少しだけのつもりだったのに、もっと濃くしろ、もっと濃くしろとしつこい。もう、どうとでもなりやがれ。そんな物語があったのではないか。で、これを見た幕府の人も大笑いをしているという。これが違和感の正体だったらいいなあ。


2015年9月19日土曜日

新戦争論 - 小室 直樹

大学入試を控えた夏の頃だったろうか。

大船の官舎に居た頃。

多分この本だった。読んでは壁に投げつけ、また拾って読んでいた。

この人の戦争論を、結局は何度も壁に投げつけながら最後まで読んだ。そういう記憶がある。

いや、それは栗本慎一郎の本だっけか。

記憶は定かでない。

戦争は外交の延長であって、好き嫌いでなくなる類のものではない。平和を愛することと戦争をなくすことは同じではない。時に平和を愛する行動がために戦争が始まることもある。行動の結果を熟慮しなければならない。謂わば技術だ。

今にしてみればこの当たり前の話を理解するのに最初は苦心した。

この本について思い出すと、当時の家の畳だとか壁だの景色が浮かぶ。外にしんしんと雪が降り積もる夜もあった。

どこかの出版社にもうこの人の本は出ないのですか?と電話したこともある。

この人の本は、どれも声が聞こえてくる面白い本ばかりだった。

まだ何を学ばないうちに、この方はもう逝ってしまわれたんだなぁ。

お国のために、という言葉がある。

それは、もちろん、尊厳なんだけれど、逆の言い方をすれば、そうとでも言わなければ到底受け入れられない程の理不尽があった。

理不尽な事を受け止める時、人は遠ざかるか、更に近付いてみるしかない。

お国のために、という言葉には、謂わばそういう出来事があって、共同体を失った人は最後はそこに辿り着くしかないじゃないか。

お国のために、それ以外のどういう言い方で納得できるだろうか。

戦後の日本は村から会社という共同体に大きく変革した。

それは恐らく日本だけでなく先進国全体でそういう流れが起きたのだろう。

もしその共同体が失われたら人はアノミーを発症する。それはヒステリックみたいなものだけど、到底人間がそこに居続けられる類ではない。今だって共同体から弾き飛ばされた人はそこに行く付くしかないじゃないか。

最後にお国のために、とすがるしかなかったじゃないか。

その理不尽さから遠ざかる者は左に、近づくものは右へと進んだ。

でも重要なのは、そこではない。

理不尽であったとまず認めることじゃないか。

今からその場所にもういちど戻ろう。

その焼け跡に、今やたくさんの美しい草木が萌えているとしても。

それなのに、もう、お骨になってしまわれたのだなぁ。

2015年9月15日火曜日

Σのおさらい

∑とは

総和 - Wikipedia
総和の計算 - 数学メモ

数式で +-*/、√、sin, cos の次に出現頻度が多いのは ∑ であろうか。よって ∑ を理解すれば、数式を読むのが楽になる。

∑の呼び名

∑は SUM (和) S のギリシャ文字。そこで ∑ が数式中に出現したときにはシグマとではなく ∑ 合計 /サム /数列の和と読むだけでも頭に入りやすくなる。

SUM は必要な数を全部足すだけだから要素を全て列挙すれば求められる。やることは足し算だから簡単だけれど、数が莫大になるともっと簡単に答えが欲しくなる。そこでドラえもんのひみつ道具。はい、数学の公式。

∑の主な公式

これらの公式を使えば、理屈不要、理解無用、なのに答えが出る。
//展開式。
∑ i^1 = ( n * (n+1) ) / 2;
∑ i^2 = ( n * (n+1) * (2*n+1) ) / 6;
∑ i^3 = ( n * (n+1) / 2 ) ^ 2;
∑ i^4 = ( n * (n+1) * (2*n+1) * (2*n^2 + 3*n -1) ) / 30;
∑ i^5 = ( n^2 * (n+1)^2 * (2*n^2 + 2*n - 1) ) / 12;
∑ c^i = ( x^(n+1) -1) / ( x^n -1);
∑ (2i-1) = n^2;
//cは定数。
∑ c = c * n;
//足し算、掛け算。
∑ (i + j) = ∑i + ∑j;
∑ (c * i) = c * ∑i;

∑のパラメータ

最初の値と値の増え方と値の個数から答えを求める。全てを足し算するより便利だし早いし楽市楽座。

(画像は wikipedia より)
  1. 開始する値 - i
  2. 個数 - n
  3. 値の増え方の式 - k

1,2,3,4...100 の総和を求めてみよう (0は何回足しても0)



全部を足し算で求める方法。
//∑(i=1, n=100)。
var i = 1;
var n = 100;
var sum = 0;
for( ; i<=n; ++i ) {
 //f は任意の値の増え方。
 sum += f (i);
}
公式から求める方法。
//
ガウスの方法。
//
図(幾何)にすれば、長方形部分の面積の足し算と同じ。



総和と積分

面積と言えば ∫ 積分である。

∑で面積が求まらないのはグラフの通り、積分から総和を求めるにはグラフのはみ出した部分を足す。上記の場合ははみ出した三角形の面積を足す。
//

はみ出た部分が 0 になるほど x の増分を小さくすれば積分になる。これは数列を離散値から連続値にするのと同じである。基本的な発想は離散値を極小化すれば連続値として扱えるである(たぶん)。詳細は数学なので知らない。

和と積分との関係 [物理のかぎしっぽ]
//

総和と階乗

足すがあれば、掛けるがあるのが当然の帰結である。それが階乗であり 6! のように記述する。総乗は大文字のパイ (∏) 記号で表現する
//
  • 総和 ∑
  • 直積 ∏
∏は Product(積) P のギリシャ文字。そこで ∏ が数式中に出現したときはΠパイとは読まずに ∑ 総乗 /数列の積 /直積と読むだけでも理解しやすくなる。

簡易計算器

∑ i= , n= , x^ ,

∏ i= , n= ,

2015年9月7日月曜日

交換 - 経済 I

貨幣の前状態として、海幸彦、山幸彦の時代を想像してみる。海幸彦は海で漁をしている。山幸彦は山で狩りをしている。生活が豊かになればモノが余る。
  1. 生活(生産性)が向上する

モノが余ればお互いに行き来し往来が成立する。
  1. コミュニティ間で交流が成立する

モノの交換はとても早い時期から行われていたらしい。ネアンデルタール人の石器はほとんど変化していないが、同時代のホモ・サピエンスの石器は次々と変化しているそうである。

これは当時から異なるコミュニティ間でモノの交換が成立していたからだろう。技術が伝播するにはモノや情報の交換(略奪も含む)が欠かせない。誰かが工夫し、交換し、工夫の上に工夫が積み上げられた。

何度も交流すればお互いの間で信頼が生まれる。
  1. コミュニティ間で信頼が生まれる

魚と肉を交換する。どうすれば異なるモノの交換が成立するか。異なるモノの間で等価という価値の発見が必要だろう。交換可能なモノは等価でなければならない。魚と肉はどれくらいの量ならお互いに損していないのか。
  1. 交渉と合意の末、異なるモノの間に等価という概念が発見される

燻製などの技術革新によって魚も肉も長期保存が可能になる。これによって価値が長期保存できるようになった。生魚は数日で腐るが、燻製にすれば数カ月は価値を失わない。
  1. 価値を長期化する技術革新

燻製ならば交換して直に消費する必要はない。そうなると交換する時期の幅が広がる。今は必要なくても入手しておいて損はない。こうして未来を考える事ができるようになった。いま貯めているモノは何時ごろなくなるだろうか、それまでにどこで交換しておけばいいだろうか。こうしてより遠い未来を見据えた計画が必要となってゆく。
  1. 計画的に交換する

こちらにはモノがあるが、相手にない場合、従来は交換が成立しなかった。それでは機会の消失である。せっかく持ってきたモノのにまた持ち帰るのも徒労になる。お互いの間に信頼があるのならば、モノは置いて帰り次に来たときにモノを貰ってもよいだろう。こうして交換がその場で完結する必要はなくなる。時間差をおいて完結できるようになった。
  1. 交換を渡すと貰うのふたつに分離して考える

幾ら信頼していても、交換した量を記録して置かなければトラブルの元である。それはお互いにとって不都合である。不信感に陥ることなく、信頼を続けるためには、交換の履歴を記録するべきだろう。
  1. 交換の履歴を記録する

交換の記録が増えて行けば、A村との魚の交換、B村との貝の交換、C村との海藻の交換、とたくさんの交換の記録が溜まる。このとき、A村の交換とB村の交換を交換するという発想も生まれるだろう。
  1. 交換の記録も交換の対象となる

交換の記録は、交換相手がいつ消えるか分からない。病気の蔓延や事故など不測の事態が考えられる。個人と交換するのではリスクが高い。交換の相手を個人から村にすれば信頼性が増す。

最初の頃はモノの数量と誰とが記録されていた。A村のアさんとの交換の記録がある。これをB村のイさんに渡せば、アさんとイさんは直接交換することが出来る。それが村の名前になればアさんが居なくても交換できる。
  1. 交換の記録から交換相手が消えてゆく

何かが欲しい人は、そのモノを持つ人を探すよりも、記録を持つ人に相談する方が早い。

モノとモノの交換から記録と記録の交換によってモノが手に入るようになる。こうして交換の記録さえあれば誰からでもモノを入手できるようになる。相手への信頼が不要になって記録が信用できれば良い。
  1. 交換するのに相手への信頼が不要になる

こうしてモノと記録の交換が成立する。これはコミュニティ内でのみ通用するモノであるが、この記録の交換は拡大してゆくだろう。

こうして記録はそのコミュニティにおいて誰とでも交換可能なものになる。

記録が不正に改竄されないことをどうやって保証するのだろうか。この保証は交換する当事者同士では成立しない。不正がないことを保証できる第三者が必要である。それは改竄者を厳しく糾弾できるだけの力も必要である。
  1. 記録を保証するには第三者が必要である

交換の記録が貨幣に変わるためには何が必要だろうか。交換の記録では交換するモノが決まっている。そこで魚10匹と肉1kgの交換が同じなら、置き換えである。肉1kgが欲しい人は魚10匹の交換の記録を手にしてもいい。その考えが価格という概念を生むだろう。
  1. 価格が生まれる

交換の記録からモノの情報が不要になる。変わりに価格が記録されていればいい。価格を記録するための通貨単位が生まれるだろう。
  1. モノと相手の交換の記録が通貨単位に置き換わる

しかし価格が生まれると新しい別の問題が発生した。昨日までは魚10匹であった価格が今日は5匹になっているかも知れない。価格は日々変動してゆく。それでもモノの交換よりもずっと便利であった。何とでも交換できるお金の性質は手放されることはなかった。

交換には、自分のものを渡し、相手のものを受け取るまでに、必ず警戒しなければならない時間帯が生じる。この不信感の時間を長くする方向で交換は発展してきた。その最後に生まれたものがお金である。

2015年9月5日土曜日

私訳 - 戦後70年談話

戦後70年談話の要約

  • 過去の謝罪だけで済ませるべきではない。
  • それは決して過去の失敗を忘却することではない。
  • 多くの人々の援助と寛容に感謝する。
  • 日本はこれからも経済による貢献を続ける。
  • 国際秩序の安定、平和維持に積極的に参加する。

平成27年8月14日 安倍内閣総理大臣記者会見

8月は私たち日本人にしばし立ち止まることを求めます。今は遠い過去なのだとしても、過ぎ去った歴史に思いをいたすことを求めます。
一般的に、8月は戦争について何かしらの発言をしろと強制されます。それは、流れ去ろうとする遠い過去と、まだ忘れられない今との間にあります。我々にはまだ解決されていない課題があります。

政治は、歴史から未来への知恵を学ばなければなりません。戦後70年という大きな節目にあたって、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を振り返り、その教訓の中から未来に向けて、世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く思索し、構想すべきである、私はそう考えました。
通常、政治は歴史から学びます。同じ失敗はすべきではないからです。先人の成功も失敗も最大限に研究し尽くさねば決断すべきではありません。だからといって何時までも過去の失敗に怯え続け、その場で足踏みし続けるべきでもないでしょう。我々には恐る恐るであっても少し前へと足を踏み出す時期が迫っています。

同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことは決してあってはならない、このことも私の強い信念であります。
政治家は歴史を自分に都合よく解釈してはなりません。世論や国外の要求に迎合するためにでも、自分の考えを訴えるためにでも歴史を使うべきではありません。歴史は多様な解釈が可能なものとして私たちの眼前にあります。

同じ色を見ているはずなのに、ある人には赤と見え、別の人には青と見える。どのような解釈が本当に正しいのかと問われれば、歴史は正しさが刻まれたものではないと答えるしかないでしょう。信念を持つ者だけが、歴史から何かを取り出せます。人はだれもが自分の探しているものをそこに見つけるからです。

ですから談話の作成にあたっては、21世紀構想懇談会を開いて、有識者のみなさまに率直、徹底的なご議論をいただきました。それぞれの視座や考え方は、当然ながら異なります。しかし、そうした有識者の皆さんが熱のこもった議論を積み重ねた結果、一定の認識を共有できた、私はこの提言を歴史の声として受け止めたいと思います。そして、この提言のうえにたって歴史から教訓をくみ取り、今後の目指すべき道を展望したいと思います。(以上、記者会見での冒頭発言)
ですから、談話は様々な考えを取り入れました。もしかするとそれが玉虫色に見えるかも知れません。ならばそれは虹です。虹は7色ですが、元はひとつの光です。玉虫色に見えるこの談話もそれはひとつの光なのです。



平成27年8月14日 内閣総理大臣談話
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
日本は1928年にパリ不戦条約に署名しました。それはそれまでの帝国主義とは異なる新しい局面を世界にもたらそうとするものです。その奥底に帝国主義の残渣があろうと、それはこれまでとは違う新しい価値観のテーゼだったと思われます。世界は急速に帝国主義的、植民地的経済から、何か別のものへ、資本主義的な経済へと変わろうとしていたように思われます。

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
百年以上前の欧米列強がアジアで取った行動は、契約による詐欺、差別意識丸出しの、神の名を冠する略奪でした。そのような世界観を押し付けた彼らが欲したのは彼らの国を富ます金銭的利益でした。帝国主義は略奪にこそふさわしい経済体制でした。

日本はその過渡期にあって自らの歴史に帝国主義をハイブリットした近代国家として生まれます。これは等しく誰もが驚愕すべき事件です。アジア独自の帝国主義的な近代国家が誕生したのですから。この国家は遂には日露戦争にも勝利しました。

世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
日本には第一次世界大戦の教訓がすっぽりと抜け落ちています。遠い海の向こうで起きたことだからでしょうか。それとも西欧だけで起きたことだからでしょうか。

産業革命が地球を小さくし、距離の短さが世界中の民族を際立たせます。植民地支配による経済発展が終焉を迎えようとするとき、次の新しい経済を模索中のヨーロッパで起きた戦争は、20世紀の初頭に多くの人々の目を開きます。科学も社会も人間の価値観を根底から揺るがすような大きな潮流の中に居ました。

当初は、日本も足並みを揃(そろ)えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
日本はアジアの黄色い猿扱いから脱却しようと、差別に耐え、世界と協力して秩序を保とうと努力します。しかし、その努力は世界恐慌によって吹き飛んでしまいます。

各国は自国民を守るために、懸命に小さなボードに乗り込みます。沈む行く船から何艘ものボートが逃れてゆきました。小さなボードに他人を載せる余裕はありません。各国は排他的に他国を扱います。

運よくボードに乗れた者はいい。しかし、海で溺れる者にも守るべき国民が居ました。例えボートを奪いとってでも生き延びねばなりません。日本は幾つかの経済政策で成功しそうに見えましたが、貧困と格差に対する不満から軍事クーデターが起きます。国内の政治は一気に萎縮し、抜け道のない暗い深い霧の中に入り込んで行きます。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
満州事変も、国際連盟からの脱退も、新しい国際秩序に対する挑戦と見做されました。世界が資本主義へ推移している時に、日本は帝国主義に活路を見出そうとしました。大陸にそういう軍人たちの夢物語が花開いたのです。あの戦争は帝国主義経済と資本主義経済の戦いであったと思うのです。

そして七十年前。日本は、敗戦しました。
日本は常に軍事クーデターを横目に見ながら戦争をしていました。

戦後七十年にあたり、国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫(えいごう)の、哀悼の誠を捧げます。
あの戦争で300万人が死にました。勝ち目のない戦と知りつつ死んだ人が大勢いる。家族の幸せを願い死んだ兵士がいる。それら兵士の家族の何人が劫火で焼き殺されてしまった事でしょう。国家はこの人々の無念に未だ答えていない。

先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱(しゃくねつ)の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
このままでは犬死ではないか。戦後のシベリアの地で亡くなった人たち。まるで、その後の世界が核兵器で滅んでしまわないようにと、焼かれていった広島、長崎の人たち、そこで焼けたのは日本人だけではない。この戦争は兵士たちだけのものではなかった。民衆の全てが被害者となり、加害者となる事を教えています。

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜(むこ)の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
死んでいったのは日本の国民だけではない。戦闘だけではない、行軍の途上にあったために、村は焼かれ、戦争とは関係なく子供たちが生き埋めにされたのです。その被害は女性にも及びました。世界中のどれほどの人が苦しみを背負っている事でしょう。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈(かれつ)なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これだけの苦しみ、悲しみを与えた中に日本も居ます。それは疑いようのない歴史です。そこで起きた事は恐らく人間の限界を超えていました。

これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
そういう犠牲を払わなければ得られなかったものとは何でしょうか。束の間の平和ですか。新しい国際秩序ですか。新しい経済体制ですか。それ迄より少しは良い世界が来たと信じます。しかしその後も多くの苦しみがこの星にあります。

二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
二度と「悲惨な戦争」をしてはならない。そう言葉にするのは容易い。

事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別(けつべつ)し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
事変と呼ぼうが、侵略と呼ぼうが、戦争と呼ぼうが、如何なる武力による威嚇も行使も、国際紛争を解決する手段としては使わない。新しい憲法はそう日本を規定しています。この崇高な理念を目指しつつ、この世界とどう折り合いをつけてゆくか。

先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
先の大戦は大いなる失敗でした。日本は戦争に負けるとはどういうことかを理解しました。この世界にはまだ多くの戦争があります。そこで日本は再び誰かに負かされる訳にはいかない。しかし、誰かを打ち砕き負かしたいと願うわけでもありません。

もし仮に、先の大戦と同じような、略奪する以外に生き延びる道が見いだせない時。我々は次ならどうするか。その答えは未だ見つかりません。

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
しかし同じ過ちを繰り返していいはずがない。そのような愚かな行為をこの世界は許さないでしょう。我々の歴史もそのような愚かさを許容できるとは思わない。それを謝罪でしか伝えてこなかった所に問題があるのです。

こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
我々は次はどうするのか。そう問われています。次は違うということを証明しなければなりません。

ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛(つら)い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
奪われたものの悲しみは、奪ったものの努力によって、癒せるものでしょうか。

ですから、私たちは、心に留(とど)めなければなりません。
それを私たちは自分自分に問いかけなければなりません。

戦後、六百万人を超える引き揚げ者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦後の混乱の中で、600万人を超える人々が日本に戻ってくることができました。中国では三千人近い残留孤児が昨日まで敵だったはずの方達に暖かく育てられました。捕虜として苦しんだ方々が、戦後に交流し、許し、お互いを慰霊しあっています。

戦争の苦痛を嘗(な)め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
もちろん助けが届かなかった人々は既にいません。声を聴くこともできません。そうやって亡くなり忘れられている方も大勢いるのです。それでも生き残った人々が紡ぐ糸があります。いつも許すのは奪われた人たちです。そこに至るまでの苦悩と道のりを思うとき、私は人間性に対する絶対的な信頼を得ます。

そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
私たちはこの星に住む数多くの生物のほんのささいな集団です。

寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
激しい怒りも許されざる犯罪もありました。日本人は決して美しき敗者であったわけではない。戦後もこの国には多くの理不尽がありました。それでも多くの寛容によって日本は戦後の国際社会の一員に復帰できました。許す事がどれほど多くの人々を救ってきたでしょうか。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
今や先の大戦を知らない世代が人口の八割を超えました。彼らは先の大戦を知りません。もちろん、世界中には多くの紛争があります。もし私たちが先の戦争だけを考え、それ以外の戦争に無関心ならば、それを正しい選択とは思いません。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
我々自身があの戦争を忘却していいはずがない。あの敗戦には学ぶべきものがあります。

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈(しれつ)に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐(おんしゅう)を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
戦後を歩む時、私たちは孤独ではなかった。米国を始めとする多くの国々の善意と支援がありました。それは先の 3/11 の大震災でも証明されています。

そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
感謝と謝罪、我々の失敗と向き合い、日本はアジア、そして世界の国々に何かを貢献したい。それが世界とつながることであり、未来へとつながることだと信じているのです。

私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちの過ちを一言で言うなら孤立でしょう。なぜ我々は孤立していったのか。私たちは、他の国々よりも優れていると慢心していました。それ故に孤立していったのでしょうか。それとも我々は孤立したが故に、優越感を感じるしかなかったのではないか。

ならば孤立を作らないことが、例え敵対する相手とでも、孤立しない事が我々にできる事ではないか。

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
20世紀の戦争は多くの女性を苦しています。それは今も続いています。これ以上、性差による苦しみが許されるはずもない。戦争であれ犯罪であれ多くの不幸を解決すべく邁進したい。

私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意(しい)にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引(けんいん)してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
この世界はますます経済の価値が強まってゆきます。その先には、もしかすると政府と企業の敵対関係が生ずるかも知れません。経済は人と人を繋げます。

この星は殺し合いの場ではありません。この世界を救うのに経済以外の方法があるとも思えません。繁栄を分かち合うことが平和の礎です。限られたリソースを如何に分け合うか。世界中の貧困と寄り添える国を目指します。

私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
我々は世界と敵対する挑戦者ではなく、国際社会の一員として世界に貢献する挑戦者でありたい。この星に生まれた自由、民主主義、人権という理念を出発点としてこの世界に貢献してゆく。それが「平和への率先した貢献(Proactive Contribution to Peace)」の意味です。

終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
この先の世界のビジョンを世界中の国々と共有してゆきたいのです。



(談話を読み上げ後)以上が私たちが歴史から学ぶべき未来への知恵であろうと考えております。冒頭私は、21世紀構想懇談会の提言を歴史の声として受け止めたいと申し上げました。

同時に私たちは歴史に対して謙虚でなければなりません。謙虚な姿勢とは果たして、聞き漏らした声がほかにもあるのではないかと、常に歴史を見つめ続ける態度であると考えます。私はこれからも謙虚に歴史の声に耳を傾けながら、未来の知恵を学んでいく。そうした姿勢を持ち続けていきたいと考えています。私からは以上であります。
歴史に謙虚であるとは、様々な解釈を許容するという事です。これまでの解釈だけではない。新しい見方を許容するとという事です。私に聞こえているものはあななたちと違うかも知れない。私は私が正しいと思うものを学んでゆく、あなたにはあなたの意見がある。それを論じ、お互いの理解を深め、ひとつの合意を目指す。それが日本の和だと思います。