大学入試を控えた夏の頃だったろうか。
大船の官舎に居た頃。
多分この本だった。読んでは壁に投げつけ、また拾って読んでいた。
この人の戦争論を、結局は何度も壁に投げつけながら最後まで読んだ。そういう記憶がある。
いや、それは栗本慎一郎の本だっけか。
記憶は定かでない。
戦争は外交の延長であって、好き嫌いでなくなる類のものではない。平和を愛することと戦争をなくすことは同じではない。時に平和を愛する行動がために戦争が始まることもある。行動の結果を熟慮しなければならない。謂わば技術だ。
今にしてみればこの当たり前の話を理解するのに最初は苦心した。
この本について思い出すと、当時の家の畳だとか壁だの景色が浮かぶ。外にしんしんと雪が降り積もる夜もあった。
どこかの出版社にもうこの人の本は出ないのですか?と電話したこともある。
この人の本は、どれも声が聞こえてくる面白い本ばかりだった。
まだ何を学ばないうちに、この方はもう逝ってしまわれたんだなぁ。
お国のために、という言葉がある。
それは、もちろん、尊厳なんだけれど、逆の言い方をすれば、そうとでも言わなければ到底受け入れられない程の理不尽があった。
理不尽な事を受け止める時、人は遠ざかるか、更に近付いてみるしかない。
お国のために、という言葉には、謂わばそういう出来事があって、共同体を失った人は最後はそこに辿り着くしかないじゃないか。
お国のために、それ以外のどういう言い方で納得できるだろうか。
戦後の日本は村から会社という共同体に大きく変革した。
それは恐らく日本だけでなく先進国全体でそういう流れが起きたのだろう。
もしその共同体が失われたら人はアノミーを発症する。それはヒステリックみたいなものだけど、到底人間がそこに居続けられる類ではない。今だって共同体から弾き飛ばされた人はそこに行く付くしかないじゃないか。
最後にお国のために、とすがるしかなかったじゃないか。
その理不尽さから遠ざかる者は左に、近づくものは右へと進んだ。
でも重要なのは、そこではない。
理不尽であったとまず認めることじゃないか。
今からその場所にもういちど戻ろう。
その焼け跡に、今やたくさんの美しい草木が萌えているとしても。
それなのに、もう、お骨になってしまわれたのだなぁ。
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