stylesheet

2022年12月18日日曜日

触れ合いの進化論

クリスマスが近づいて皆がそわそわしている。

それは気分の高揚であろう。我々ホモサピエンスの脳もある予感のもとに高揚する。その予感が最も優れた種の衝動に基づくものである事は疑いようがない。その行動の結果が種としての繁栄に直結するからだ。

異性であれ同性であれ、触れ合いを欲するのに理屈は不要だ。街中に流れる音楽も気分を高揚する。それは本能として根源的であると考えられる。そうして常に気分を高揚させ最大限の効用を得る努力に向かう。その方が生物学的にも経済学的にも得られる利益が最大となるのだ。

しかし繁殖行動の合理性の中に指の触れ合いが特に必要という訳ではない。もっと言うならキスもどうであろう。クリスマスの独特の雰囲気の中で様々な気分が加速されている。𠮷野屋でお釣りをもらう時に店員と手が触れあう。手が触れたのは単なる偶発だろうか。それとも何らかの意志か、運命であろうか。この満たされるふわふわな気持ちの正体は何なのだろうか。

指の触れ合いでは決して繁殖はない。なのになぜそれが重要なファクターとして脳に取り込まれるのか。

鳥の繁殖行動にさえプレゼントを渡したりダンスの披露がある。爬虫類の繁殖では噛みついて発情を促す事がある。これらは単なる本能的な行動であろうか。それぞれの種に特有な単なる性癖なのだろうか。

もちろん、触れ合いは距離が極めてゼロに近づいた事を意味する。その中で繁殖相手、または恋愛相手の反応を試す事も可能である。その反応を見てその先の行動を決定する事もできる。その情報を得るために脳は何からのきっかけを欲している。

触れ合いの中で何かが決定される。そこに生物学的な不思議はない。

互いの遺伝子の型はフェロモンや匂いで判別する。肌のきれいさは皮膚病の確認である。どの病気に強いかは免疫上重要である。健康で頑強な個体が望ましい。若さはその第一条件である。肌が触れ合うのは体温の確認である。恒温動物はこれで色んな事が理解できる。

繁殖行為の過程で色々な条件に基づき行動が決定される。しかしそこで一端留まる必要はないはずである。なぜ速やかに行動に写さず、いつまでもその前段階で留まるのか。

これを脳が進化の過程で獲得したものと考えるのは早計に過ぎる。生物は無駄を好まない。効率の悪さは多く退化し消えるものである。

魚類のような数で勝負する戦略ではなく、数少なく生んで育てる戦略を採用した生物種は、組み合わせの多彩さで試す事はできない。よって多様性の確保は最初の時点で選んだ相手で決定される。近いものは避ける。遠すぎるても望ましくない。恐らく標準偏差の中央付近を狙う増え方が理想だろう。

この選択を最初にしなければならない。そういう考え方は当然ながら自然である。故に時間をかけるという考え方も可能なのだが、本当に本能はそこまで求めるであろうか。そのような選択に時間をかけるくらいならさっさと繁殖行動に遷移する方が可能性は増大するのではなかろうか。

手の触れ合いとは距離の象徴である。繁殖行為は距離0で成立するのだから、それに近づくのは目的達成の道程である。火星人と地球人は互いにひとつ地点で出会わない限り決して繁殖できない。この距離の壁が生物にとっては最大の障壁である。もちろん宇宙は広く、宇宙空間に種なり花粉を飛ばし繁殖する生物がいないとは言えない。

しかし、そのような生物であっても距離が問題なのである。生物は可能な限り様々な場所への進出を試みてきた。そのための様々な方法を開発し獲得してきた。その結果として、この星の居住可能な場所には、何度かの大量絶滅を乗り越えながら、悉く進出を果たしたのである。

地球の生物にとっての残りフロンティアは宇宙だろう。どれだけの時間を費やしても炭素型生物、塩基配列で構成された地球型生命は宇宙空間に進出できない。蛋白質だけでは足りず引力圏から飛び出す事は出来ない。隕石等への付着や人工物による移動という手段がどうしても必要である。故に人類は細菌たちに生かされている。その手段として。

そのような彼/彼女らにとっては海、陸、空と同様に我々もまたひとつの住環境に過ぎない。

この体表にも体内にも細胞の数を遥かに超える原核生物である細菌、古細菌、真核生物、そしてウイルスが住んでいる。これらの生物は人が生まれた時から死ぬまでこの住環境の中に住み生き増え死んでゆく。

そういう生物種も当然であるが繁殖する手段がある。細胞分裂や有性生殖を行い遺伝子の水平伝播を積極的に採用する単なる偶発的な現象ではない。

進化の為のメカニズムを各自が持っているのである。ハリガネムシはカマキリをホルモンで操り水辺に誘導する。水中に飛び込ませたらカマキリの体内から脱出する。同じように水辺に集まってきた繁殖相手とそこでめぐり合うのである。

この高度に戦略的な誘導方法を彼らがどうやって獲得したかは知らない。しかしこの行動をカマキリはあくまで自発的に行っている。喉が渇いたのか、水に惹かれるのかは分からないが、カマキリが水の中に入る事を熱望している。だから水辺を探して彷徨うのである。その衝動の理由をカマキリは知らない。

トキソプラズマに感染した動物は性格が変わる。例えばねずみは行動が積極的になる。そして怖いもの知らずになる。ネコの匂いにも逃げなくなる。こうして性格が変わる事でねずみはある目的に沿う事ができる。

これらの行動はすべてネコに食べられる為に。その可能性を高くする為に。なぜかと言えば、トキソプラズマの最終宿主はネコだからだ。彼/彼女らはネコに食べられないと繁殖できないのである。彼らにとってはネコの体内に入り込むかどうかは絶対的な要件なのである。

もし宿主が賢くネコから逃げのびれば繁殖する可能性はゼロである。もちろん、排泄物を通して他の生物種に感染したり、空中を漂ったり、水中を泳いで感染する戦略を採用した生物もいる。

しかしトキソプラズマは中間種が食べられる可能性を最大にして繁殖する選択を取った。その方法を見つけたからと言うべきか。どうせ一定量のねずみはねこに食べられるのである。その過程で感染した個体はそうでない個体よりも捕食される可能性を高くしてみた。

ネコは別に寄生した個体ばかりを食べている訳ではあるまい。ただネコの食物連鎖の中に自分たちの循環を組み込んだ。もし食べられ過ぎてネズミが減少すればトキソプラズマも減少する。

という事はある程度の数に抑え込まれるような仕組みが備わっているはずである。莫大に増え、莫大に食べられ、莫大にネコが増えたら、そのような環境は閾値は超える。餌不足が起きて今度はネコが減少に転じる。もしそれが回復不能なら絶滅は避けられない。

つまりトキソプラズマは一定量のバランスが保たれるように進化してきた。バランスを崩せば自分たちも淘汰の対象になる。食べられる可能性が100%となるような働き掛けをした寄生種は早い段階で食物連鎖の循環の中で淘汰され追い出されたと考えられる。食物連鎖を崩さない程度の働き掛けをする種だけが生き残り進化を続けてきた筈である。

感染したネズミが全て食べられる訳でもなく、全てが繁殖できる訳でもなく、このトレードオフによってトキソプラズマは生き残る事ができた。食物連鎖を崩さない程度の働き掛けで均衡する。感染していないネズミは少しだけ生き延びる可能性が上がる。そう悪くない取引だろう。

感染したネズミには残酷な運命な気もするが、他種を心配している場合ではない。このメカニズムは人間の性格にも影響する。トキソプラズマに感染したホモサピエンスは性格が積極的になるらしい。

その性格が、もしかしたらアメリカ大陸を発見する原動力だったかも知れないのである。それが民主主義国家をあの大陸に生み、黒人奴隷という問題を生み出した発端かも知れないのである。

狂犬病を発症すれば水を怖がる。生物が何らかの影響を人間の脳に与えるのは明らかだ。

脳に影響があれば行動や性格が変わる。突然暴力的になったならまず疑うべきは脳腫瘍である。脳腫瘍によって性格が変わり行動が変わり小児性愛になった報告もあるという。老化で前頭葉が衰えば抑制する力が失われ怒りっぽくもなる。

ならば、我々の体表に常在する細菌によって我々の行動が変わったとしてどうして驚けよう。

クリスマスに感じる高揚の理由がホモサピエンスの脳の高揚のせいではないとしたら。その胸のざわつきが、別の生物が体内に放出したホルモンのせいだとすれば。

我々は遺伝子の乗り物であるが、そこには微生物も乗り込んでいるのである。

人間の体表や体内に住み着いた細菌類が化学物質を放出しそれが脳に影響を与えている。その考えがナンセンスな理由はどこにもない。それが他の人との接触を促すホルモンであったとして何の不都合があろう。そうやって他者と触れ合う事を幸せと感じるように細菌が操作しているとすれば、ホモサピエンスはそれに幸せを感じる、細菌たちは新しい繁殖相手と接触する。どこにも不都合がない。

人間の体表に付着した生物が空気を通して偶然に新しい繁殖相手と出会うのを待つよりも、他の同種の個体と触れ合ってもらって互いに触れ合ってくれるように宿主が行動する方が可能性は増大である。そうして接触頻度を増やしRNA、DNAの交換を促せば進化も加速する。

すると、我々の接触や嗜好は、細菌たちの居住区と密接な関係があるはずである。体表に住む細菌は、手の接触を欲するし、口中に住む細菌は唾液の交換を欲するはずである。鼻中に住む細菌は色々な匂いを吸う行為を促すはずである。大腸に住む細菌は排泄物を欲するし、口を使った愛撫も様々な細菌との接触を促す働きであろう。

脳の中でキスをしたい回路があるとか心理的なメカニズムがあると考えるより細菌起因説の方が遥かに説得力がある。少なくともこの仮説に何ら矛盾はない。

だからデートの多くは食事を共にする訳である。それによって常に唾液を介しての細菌の交換が頻発する。そうなるほど精神的な満足感、性的興奮を強く感じるように働きかける。そんな関係に進化してきた訳である。

もちろん、フロイトのように性愛に関する様々な多彩な行動を抑圧という考え方で分析する事は可能である。

我々が最初から性をタブーとしてきたとは考えにくい。犬や猫、近縁の類人猿に見られるのと同様の行動をしてきたと考える方が妥当である。

それが何時頃からか性を隠すようになった。古代ギリシャ時代には既に犬儒派であるディオゲネスが顰蹙を買っているらしいので、公衆という概念はこの頃には既に誕生していたと考えられる。

人類が当初からそうであったのではなく、多くの文化や社会で共通して見つかる理由が必ずある。そのひとつとして豊かになった社会では性愛はひとつの資産となったというものである。つまり所有の考え方の中に性が含まれたという考え方である。所有とは隠す事でもある。リスが木の実をあちこちに隠すのと似たようなものである。

隠すという行為が一種の抑圧として働く。それはある時点でだけ公開が許されたものだからだ。抑圧は前頭葉によって司られている。これを破るには前頭葉の働きを解除しなければならない。その時には神経伝達物質であるドーパミンやアドレナリンといったホルモンが大量に放出されるだろう。

脳がタブーを破ると意識した瞬間から体は戦闘行為を予測し興奮状態に遷移する。この興奮状態とタブーの関係を脳は体験として結びつけ記憶する。ここで禁忌を破る体験は快楽として学習され条件反射となり刷り込まれる。

こうして性の快楽は強化される。しかし、性には重大なリスクがある。性病である。性病が禁忌を強化する方向に圧力をかける。聖書がマリアに求めたものと全く同じと考えられる。病気の多くは人間に由来して起きる。故に人は穢れている。神が穢れている筈がない。よって神の子は人を通さずにこの地に誕生するはずである、云々。

アメリカ大陸から梅毒が持ち込まれてヨーロッパでは更に処女性が貴重となったとしても不思議はない。男性にそれが求められない矛盾はあるにせよ、人々が病気を恐れタブー化するのは確かであろう。

初夜権など不特定多数と関係する事がタブーではない時代がある。それが性病などを契機として危険な行為と認識されるようになる。最初はそこに合理的があった。

その認識は次第に慣習となり常識となって人々の認識に刷り込まれる。こうして清純という価値観が誕生する。清純、清楚は性病の可能性とセットである。都合よくキリスト教圏内ではマリア信仰と結びつき広くヨーロッパに蔓延する。拡散してしまえば当初の理由は消え去って構わない。

タブーを侵犯する時には心理的に興奮状態になる。社会の慣習や信仰が強くなれば、それを破る性癖が出現するのも当然である。抑圧に対抗する蕩尽は快楽が導く。水がどこかに出口を見つけては流れ出す様に抑え込む事はできない。

性病の蔓延に人間はタブーを作り危険な行為を慎む習慣で対抗するしかなかった。ペニシリンの登場まではそれしか方法がなかった。

こうして病に起因する嫌悪は、性、排泄、拘束、死体、腐敗などと様々な人間の生死に関わる部分にあって、病への対抗策がタブーしかない時代に、様々な抑圧を生んだ。それが習慣化し社会の中に浸透していった。そして社会観、家族観は形成されていったと思われる。人間にとって次世代を残す事が最大の対抗策であるからだ。

食欲と睡眠は絶対に回避できない欲求である。だから牧師や僧侶もそれを禁忌には出来なかった。せいぜい不浄な食べ物を規定するしかできなかった。よって抑圧の最大の対象が最も代表的なそして根源的な欲求である性と結びつくのも自然であろう。それが身近にある最もそれらしい答えだった。

その結果として人間が感じる多くの抑圧は性が象徴する事になる。だから、その蕩尽も性を通じて解放される事になる。性行為は時に加虐や被虐、物への執着、肉体と精神など様々な表現型を得る。心理学は性が抑圧された人間の不安に対する最も身近な代替、投影、転移する機能だと言う。

抑圧が時には蕩尽は必須である。そうしなければ脳の回路がどこかで焼き切れてしまう。まずそういう生物的な欲求がある。その解放をどこで行うのか。この抑圧の中には神も紛れ込んでいる。それはある意味では耐える力を伸ばすための補助線だ。

自然の災害、事故、他民族の侵略など我々の社会には不条理で理解不能な出来事が頻繁する。それに回答するのに神という仮説を立てる。死を超えた存在だから神なら解答できる。人の精神を解放し傷を癒し許し生きる力になれる。しかし、神という存在は本質的には抑圧側の存在である。常に人間を監視し命令し試す存在である。

タブーを破る行為には頻繁に性が登場する。宗教が組み込まれると更に多くのタブーを生み出した。習慣、常識、宗教が禁止は、恐らく人間の良識である。誰もが抑圧ではなく良識の中に自分を見出す。

故にそれを破る事には非常な快楽が伴う。その時には強い興奮状態が経験できる。この感覚を受け止められるものは人間の体には性しかなかった。こうして人類社会のあらゆる禁止に対して人間は性によるタブー破りを編み出した。

抑圧と蕩尽という構造は様々な場面で見出されるばかりではなく、抑圧の種類によって社会が求める人々の類型も変わる事になる。その代表が狩猟採集と農耕牧畜の転換であり、S親和者が有利であった時代やその能力が求められる場面があり、また不利となる時代や場面がある。そういう背景が隠されている状況では、人は無自覚にも自分の置かれた場所を運命と受け入れるしかなかった。

しかし如何なる関係であれ、0か100の関係は少なく、人は様々な要因のハイブリッドとして構成され、その働きは更に様々な抑制、圧迫、開放の結果として表現される。

その関係は民主主義の中にも見出せる。まず自然状態という完全な自由が仮定された。これを社会契約の最初の公理として採用する。これにより全ての人が等しく自由状態を持つという前提が民主主義の基礎とした。

人類は自然状態から社会契約によって社会を形成した。この選択の代償として自由の制約が合意される。無制限の自由は存在しない変わりに、暴力は排除され、略奪は禁止され、その違反には罰則する正当性を人々は得た。互いの合意は契約という考えに繋がる。契約とは自由の抑制である。よって罪が契約の不履行であるならば、罪とは自由の行使の事になる。自由は抑圧とセットでなければ成立しない社会が誕生した。

よって社会における自由は、無制限の自由は極めて困難であるが、無限に抑圧された自由は簡単に実現できる。それはある種の人々に対して牙をむく。どの時代にどの自由が奪われたか、それは歴史を紐解くしかないが、その時代の人々はそれを正当であると認識していた。では時代の変遷がどうやってその正当に対して異を唱えたか。

自由の抑圧に対して何が蕩尽であるのか。何が過剰な抑圧、人間を不自由から解放するのだろうか。つまり我々は抑圧された社会の奴隷ではないと主張できる根拠はどこにあるか。

それが権利という価値観であろう。我々は権利を持っているから奴隷ではないと言えるのである。抑圧された自由に対して権利だけが対抗する。

では権利とは無制限の自由であるか。否。権利は抑圧された自由の一種である。権利は常に他人を傷つける自由を禁止する。そのような自由を拒絶する。

しかし、同時に権利だけが抑圧された自由の中から無条件に抑圧されない自由を得る手段である。だから何人も侵すべからざるものとして存在する。それは抑圧された自由に対しての完全な蕩尽としての働きをするのである。

斯様に心理を分析し、社会的なタブーとそれを破る興奮、つまり抑圧と蕩尽という構造を分析した上で、糞便を食す人間の心理を分解した所で、糞便を食したいのは仲間を取り込みたいという細菌から放出されたホルモンの影響の結果であると考える方が余程に簡明であろう。オッカムのカミソリである。排泄物を食すのはコアラや雷鳥など広く生物界では知られた行為である。別に人間がした所で何の不思議があろう。

多くの禁忌は口を伴って蕩尽される。なぜ口が使われるのか。その心理的な理由を探すよりも、口には相当に多くの菌が住んでいると理解すれば十分ではないか。

なによりもそれは細菌たちの仕業なのである。その性癖は別にあなたが変態だからではない。

さて、今年のクリスマスはどの微生物に支配された行為たるか。

2022年12月3日土曜日

日本陸軍 終焉の真実 - 西浦進、服部卓四郎と昭和陸軍、主戦か講和か: 帝国陸軍の秘密終戦工作

はじめに

陸軍はある目的に沿って作られ、日本人が洗練させてきた組織である。帝国陸海軍が日本を代表する組織だった事は疑いようがない。そして確かに陸海軍は日露戦争でその目的を果たした。そのために幕府を倒し維新を進め科学技術を導入してきたのである。

こういう社会的な運命論、目的論は危うい。それは一つの解釈で決定論を構成するからだ。この危うさは結論が間違っているからではない。ひとつの見方に過ぎぬものを絶対としそれ以外を駆逐してしまうからだ。他の考えを全て排除するのは常に危うい。熱が排出できないのと同じ状況だからである。それでもこのひとつの見方はひとつの海図として扱いやすい。

この結実までの道程は幾つもの資料に小説に語られている。近代アジアの奇跡と見る人もいる。長い間の蓄積が江戸時代、それより前の人達の築いてきたものがひとつの到達点に至る。全てはここにこの日の為に。

そして、ピークに達した組織は解体されるのが本来の姿でなければならない。そうであるべきだ。育ち切った巨木は倒れる事で森林を再生する。目的を失った組織がどう自己執着に落ち込むか。そのためにどのような結末を迎えるか。それは避け難い組織の終着である。そのひとつの典型を見る。

国家の滅亡も興隆も世の常であり、死という進化上の必然の要請は別段で語るにしろ、目標を達した後の組織がどのように新しい行動原理を見つけ出し、それが以前とは全く異なる何かに変貌する、その結果としての戦争が来る。

敵国

日本を代表する組織である陸軍をしてあの体たらくの戦争である。あの敗戦である。短期的に見ようが長期的に見ようが、日本が滅びに向かっていた事はどうあがいても避けえなかった。空回りを続ける車軸がいつか燃えるのと同じである。そうして国家は崩壊した。恐らく何度やっても同じ結果である。

辛うじて民は残った。他のやり方がなかったとは言えない。しかしそれは北朝鮮のように国体を維持し緩やかな衰弱の選択である。我々の歴史はその道は採用せず乾坤一擲の一撃を放ち穿つ道を選択した。そして返り討ちにあったのである。いやよく善戦したと評価すべきか。

あの当時の人たちでさえ実際は何を相手に戦っていたのかは知らないのである。あの戦争でアメリカに勝てば未来は開けたか。断じて否。仮に戦争に勝っても碌な未来にはならなかった。よくて現在の北朝鮮より少しましなだけの軍国体制をアジアの一角に築き、軍事的要塞を目指すしかなく米ソの対立の間で中立を維持するのがやっとであったろう。地政学は日本列島にそのような猶予を与えない。よって何度目かの衝突のすえ、どちらかに支配されるのが妥当であったろう。

我々の行動原理は何も変わっていなかった。だから同じ戦争を繰り返した。それが通用しなくなったと知る為に300万人の血を必要とした。

確かに目先の敵はアメリカやソビエトであった。確かに目の前に見える敵の軍艦はアメリカの旗を掲げていた。だが現実的にアメリカという国家の事は何も知らなかった。その国民性も文化も人となりも行動原理も。それはたまたま目の前に表れた現象に過ぎなかった。世界を見回せば敵として一番ふさわしかった。だから敵であった。

先ず戦う事を先に選択したのである。その次に相応しい敵を見つけたのである。この順序でアメリカを選んだのである。

誰も何が敵かも知らない中で戦争を始めた。誰を敵と決めただけで始めた。だから戦後の服部卓四郎のように自省するでもなくただ威勢ぶって生きるしかなかった人が沢山残った。生涯を通して何を相手に戦ったのか気付く事もなく生きた人がたくさん残った。それが日本の戦後であった。その疑問をバックボーンとして戦後の復興が始めたのである。

それが当時の人々の欠陥でも限界でもない。戦争から70年。それだけ経過したとは言え今の我々もまた何も知らないでいる。当時の人々を馬鹿になどできない。知らないという点では全く同じ場所に立っている。ただ結果を知っているというアドバンテージがあるだけだ。我々が本当に倒さなければならないものは何なのか。もし我々が当時の世界に転生したとしても、似たような敗戦を経験するであろう。

人材

服部卓四郎は当時でも最高度のエリート官僚であった。その人となりを語るならば今いる場所で最も強い意見に敏感な男となろう。その立ち振る舞いが悪いのではない。その能力は優れて周囲の状況を敏感に理解し把握する。故に大変に優れた調整役、ネゴシエータになれたのである。その聡明さはよき教師に求められるものに似ていたであろう。

適材適所という点では彼が作戦立案の課長職に相応しいとは思われない。なぜ彼が抜擢されたのか。他に最適な人材はいなかったのか。誓って否。恐らく能力だけならば居た。アメリカであれロシアであれ中国であれ戦争をするという目的だけならば適材は居たはずである。そこまで人材に枯渇していた訳ではない。

しかし状況は戦争をする前に片づけなければならない課題が山積していた。多くの人の同意を取り付け反対する人を説得する技術がなければ何も先に進まない状況にあった。声の大きな人の考えを知り、それを理解し、周囲を説得する必要があった。

つまり彼しかいなかったとはそういう意味である。何よりも結論をひとつに集約するのが先なのである。その内容など何でも構わない。それが実現性という意味だったのである。現実とは何の関係ない話だったのである。

もし彼が別の場所に配属されていれば、その場所で能力を発揮すれば、無能だの愚者だのと評価される事はなかった。少しでもそういう自覚が本人にあれば、また別の行動原理を獲得したであろうと思うのである。

日本軍は混乱する中国を相手にさえ勝利は叶わなかった。幾ばくかの戦闘で崩れなかっただけである。これを勝利と見做すくらいにレベルの低い組織でしかなかった。それがこの国の歴史なのである。

屈辱は、陸軍のこの体たらく対して海軍もほぼ似たようなものであった事だ。日本を代表するこれら二大組織が同様に盆暗である。それ以外は推して知るべしである。

当時の日本で最も優れていたのが軍組織であった。これが我が国の最強の切り札であった。もしこのカードで勝てないなら何をしても勝てやしないのである。国難に対して我々は自分たちが考えうる最強のカードで勝負に出た。別に無謀でも不合理でもない。

人事

今さら人事をいじった所でどうこうなる話ではない。人事の官僚だって結論を出す事が最優先なのである。最もまとまりそうな人に託すしかない。上からの意見を無視する訳にもいかない。そうしなければ組織は紛糾し空中分解する。ただ分解させないためだけの結論が必要である。その結果がどうなるか、それは決まってから考えればいい。

人は登用の仕方次第で盆暗にも明光にもなる。この真意の上で昭和の軍人たちは彷徨った。それでも大きな声で論を戦わせる以外にどんな方法があったろうか。

派閥の意見が政策を実現する唯一の手段である。権力闘争に勝利しなければどれだけ優れた政策も絵にかいた餅である。それが闘争を正当化する。政府を潰した所で何も痛まない。すべて合法で行っている。

この原理原則は民主主義的ではない。民主主義の中心には広く調整するがある。陸軍にも調整役がいたと思う。しかし権力闘争に勝った者の総取りの仕組みが強く働く。当人たちにはその意識はなかったに違いないが、何も制御するものがなかった。だから課長職に調整役を託すしかない組織になってしまった。それが元老を失った陸軍の組織の論理であった。

山県有朋が亡くなった時からの、これが陸軍の組織的な宿命であったろう。それを誰も訂正できなかった。陸軍はひらひらと舞う凧のように中国大陸の方へ飛んで行った。

何をどうひっくり返そうと日本の行く先は変わらなかっただろう。あらゆる組織が敗北した。敗北の理由が前もって解るくらいなら司馬遷が筆を尽くす必要はない。歴史に答えはない。いつの時代も敗軍の原因を探せば誰かに行きつく。そういう答えが欲しいなら尚更だ。

恐らく最善の人事を尽くした所で結果は変わるまい。そもそも最善とは何か。その選択がどのような運動を新しく繰り広げるか。それは複雑系の振る舞いをしよう。それは誰かの手に委ねて何とかなる程度のうねりではあるまい。

歴史のifが叶った所で、結果は空想に過ぎない。敗戦が数カ月のびた所で悲惨な戦いが上積みされるだけになる。紙幅の無駄である。

行動原理

これをみちびくに政をもちい、これを整えるに刑をもちいれば、民まぬがれて恥なし。
これをみちびくに徳をもちい、これを整えるに礼をもちいれば、恥ありてかついたる。
江戸時代に磨きに磨き抜いてきた儒教や統治の理想がなければ維新は失敗していたはずである。その人材的湧出がわずか70年で失われた。目先の出世や栄誉や目先の金が洗い流したのか。

官僚の行動原理の第一は出世にある。階層構造を取る限りこの仕組みは当然である。その闘争が、自分の考えを実現する為に必要となる。当時からその欠陥を憂う人はいた。勝者への批判はあっても届く事はない。多くの権限を手にして改革は成せる。この競争の中で鍛えられて生き残る才覚なくして何故これだけの大組織を自在に運動せしめたれようか。そううそぶけば本当のように感じられるから不思議だ。

答えが最初にある。あとはそれをどう清書するかだ。その道筋を描ける者が重宝される。

なぜ戦争に突き進んだのか。それが誰も答えられない。これだけの官僚制度を作り上げたにも係わらず目的なき戦争に突き進んだ。否、当時の人々にも目論見はあったのである。こういう手段を取らなければ、恐らくこうなる。そうなれば決して看過できない状況に陥る。だからこうするしかない。自分たちをだます事は容易い。理由は幾らでも見つかった。

資源の尽きる前に戦争するしかない。なぜ中国から撤退できないのか、紛争の理由に立ち返る者はいない。現状を何とか動かすべきだ。打破しろ、突破口を探せ。誰もがアメリカとの争いを回避しようとする。しかし、誰も中国の権益をアメリカと分けようとする者はいなかった。

日本は単独でやろうとした。そこだけは譲れないとした。この戦争は不可思議な戦争である。権益を独占するための戦争だった。誰にも渡さない。それだけだった。分け合うべき理由がない。だから単独で孤独で戦う。

そんな戦争しか出来なかったから戦後の友人はアメリカだけになった。それを当事者たちはだれも統括せぬまま逝ってしまった。

第二次世界大戦がはっきりさせた事は紛争が一国だけで完結できるものではなくなった事だろう。規模は拡大し、物量が地球中の資源を欲する。世界は広いが巻き込めば世界のどこにも逃れられない。戦争の局面は変わった。

復興

敗北が戦後の経済復興を促す。戦前と戦後での人材は同じ。ただ国中を支配していた軍中心の登用が消えた。だから登用は新しい仕組みの中で行われるようになった。人々はそう取り組んだ。その自発さが戦後の発展を支えたはずである。

復興、したのではない。軍に集中したリソースを国内の他の分野に割り当てた。そこはまだ十分に未開だったから成長する余地がたくさん残っていた。種はある、そこにようやく水が注がれたのである。

その復興は日本のポテンシャルを十分に生かしたともいえる。だが宿題は残ったままだった。そのまま戦後の復興は終焉を迎える。耕し尽くした分野になった。

Japan as No1と言われた時に我々はその先の向かう場所を持っていない事に気付いた。金を持っていても買う以外の何も出来なかった。それ以上の価値観を持っていなかったのである。所有欲以上の何も我々にはなかったのである。

世界に何も革新を齎さなかった。我々のやりたい事はその先にはなかった。頂点に立ったその先に何も持っていなかったのである。その時から組織はスタックし空回りを始める。戦前は軍で、戦後は経済で。場所こそ違えど同じ模索をしているのである。戦前は満州を目指した。戦後は小泉改革に飛びついた。同じように模索し最終的には人々の中にある目先の利益を追求する道で翻弄されている。

もしもう一度世界に挑むのなら、今の我々は軍には頼らない。国内を見回しても軍は最強の組織ではない。優秀な人材が集中しているのは軍ではない。今の我々の最強のカードは日本経済を主体に考えるしかない。

これでは戦前の陸海軍と同じである。その方法論は恐らく我々の方法ではない。日本が世界に影響を与えたのは恐らくコンテンツである。そういう形で我々は何かを発信し続けているのではないか。

日本のコンテンツに刺激を受け真似から初めオリジナリティを獲得した世代が世界中で生まれようとしている。この人の連綿とした動きの中に国も地域も文化も関係ない世界観の中で醸造されているものがある。

それを我々は経済と直結して考える方法を知らない。だから我々は今も、夢か、狂おしい程の愛か、溢れて止まらぬ情熱に依存する形でしか創造性を生み出せない。もちろん世界のトップクラスを占める人たちはそれでいい。所詮は狂人でなければ到達できない世界だからである。

だが、人間は群れる動物から進化した組織こそが力の存在である。個の能力を組織化して働くようにする事。そのための方法論を知らないでいる。組織は金と人と階層で成り立つ。そこには生活がある。生活するのに必要な給与さえ与えず夢で若者を狩る環境と、十分な給与を払いその道に邁進できる環境では、10年後はどのような違いを見せるか。

突出した才能では足りない。優れた調整役がいなければ組織は立たない。そしてそれは誰か一人の手で成るものではない。全員の才覚を集約する必要がある。だから我々の作る組織は自ずとそれ以外の地域の組織とは異なる。

組織の形成には、前提条件がある。知識や常識の一致が必要だから、参加者にそれを最初に求める手法と参加してからそれを周知してゆく方法がある。それは自然と組織の在り方も変えてゆく。

社会の形成

社会は人間の行動原理で成り立つ。その理由は気候、地形、周囲の生物圏に影響されて生まれてきたものだ。この影響の下で最小のコストで最大の利益を得られる部分で均衡しようとする。

地球環境はそう簡単に変わるものではないので、自然に適用する事は、人間の行動原理を形成する。ゴミを拾うという行為にも理由がある。例えば、雨が多い地域では、ごみをそのままにするとどこかに流れてゆく。それが都市圏ならば下水を詰まらす原因となろう。ゴミを拾うという数秒の行為が上下水道の崩壊という一連の機能不全を防ぐ最小のコストとなろう。

最初は僅かな人が始めた事かも知れない。しかし人々はその意味を知るようになる。すると自発的にその行為に参加するようになるだろう。もちろん、そういう機序に触れてもやらない人間はいる。そういう野生動物と共存する事は仕方ない。それでも社会の全体の流れが広く浸透してゆけば、それは次第に社会の常識となり、いつかその行為の理由は忘れられる。それが当たり前の行為として人間形成の基本となる。それは道徳となり、美意識の大本となる。道徳はこうして常に表面上の行動となって表れる。

ついには雨の降らない場所でもゴミを拾うという行為をせずにはいられない社会規範となる。そこまで浸透して文化、文明を形成する人間の自然の行動となる。

初期の人間は、個の武力によって奴隷を使っていただろう。それが労働力としては最もコストが低い。しかし個人が支配できるのは数十人までの単位である。社会が豊かになり人が増えれば個の暴力で支配する事はできなくなる。集団が肥大化すれば必ずどこかで量の増加が個の武力を超える。

そうなれば異なる行動原理が発生する。その時に、それまで奴隷であった人々が民へと変わる集団を形成する事になるだろう。奴隷が集団になればそれまでの支配を打ち倒す事が可能になる。集団と集団の関係性の中で奴隷は民に変わらなければ集団は維持できない。

が安価な労働力としての奴隷は必要である。人々はそれをどういう基準で解決したか。

人と人を区別するが発生する。世界中のあらゆる地域で集団は巨大かし、人々の集団が国という形を取るようになる。そこに存在する組織としての原理は、人々の自然さを背景に支えられている。

それを無視して成り立つものではない。我々は常に変わりながら、我々によく合う形の組織を形成している。組織は必ずその国の行動原理に支配されている。

我が国も幾度の末法を経験してきた。その時には日本仏教が興き新しい人材が新しい思想を生み出し人々に伝えてきた。精神的支柱が先ずあって、次に幕府が誕生する。天皇という制度が変わらない事が連綿と続く統治の根拠にあり、その器の中で自在な水のように停滞したり活気あふれたりしながら紡いできた歴史がある。

歴史は学ぶものではない。ただそこにある。お寺の立像のように静かに佇んでいる。そこに何を感じるかは今を生きる人だけに出来る。だから目の前にあるものはすべて歴史である。なぜなら我々が生きているから。

なぜ人々は記録に残しておこうと感じたのか。それを語りたいという思いの中に何を残したのか。それが生きる理由になるのか。ならば単に生殖の本能の延長ではないか。

今日も世界中から多くの言語が消えていってると言う。小さな集団の中で何千年も使われていた言語が開発と共に次々と消えてゆく。歴史に僅かな記録しか残らず消えてゆくものがある。その悲しみは、しかし地球という星にいつかは我々も僅かな痕跡しか残さない存在としてこの宇宙から消えてゆく。

だからといってそれを止める事が出来るはずもない。コンピュータ上に残る大量の足跡が記憶装置の中に堆積してゆく。SNSはその最前線にある河川として小さな石が今日も流れている。そこに大量に記録された言葉、写真、感情が地層を作る。それを残してゆくのに地球という場所では小さすぎる。

ウクライナの戦争が示すように明らかに我々はいとも簡単に絶滅と直面する。ロシアが核ミサイルを使ったら我々は絶滅する。なぜならロシアを滅ぼすために全ての核をロシアの大地に叩き込むからだ。それでも生き残れるだろうか。ロシアがこの星の歴史を閉じようとする以上、その存在を許すわけにはいかない。例えその為に絶滅しようとも。だから我々は他の惑星にも目を向ける必要がある。今の我々にそんなに多くの時間は残されていない。


天命によりその命数を使い果たした。そう考える。今日は、そう信じた日であった。