クリスマスが近づいて皆がそわそわしている。
それは気分の高揚であろう。我々ホモサピエンスの脳もある予感のもとに高揚する。その予感が最も優れた種の衝動に基づくものである事は疑いようがない。その行動の結果が種としての繁栄に直結するからだ。
異性であれ同性であれ、触れ合いを欲するのに理屈は不要だ。街中に流れる音楽も気分を高揚する。それは本能として根源的であると考えられる。そうして常に気分を高揚させ最大限の効用を得る努力に向かう。その方が生物学的にも経済学的にも得られる利益が最大となるのだ。
しかし繁殖行動の合理性の中に指の触れ合いが特に必要という訳ではない。もっと言うならキスもどうであろう。クリスマスの独特の雰囲気の中で様々な気分が加速されている。𠮷野屋でお釣りをもらう時に店員と手が触れあう。手が触れたのは単なる偶発だろうか。それとも何らかの意志か、運命であろうか。この満たされるふわふわな気持ちの正体は何なのだろうか。
指の触れ合いでは決して繁殖はない。なのになぜそれが重要なファクターとして脳に取り込まれるのか。
鳥の繁殖行動にさえプレゼントを渡したりダンスの披露がある。爬虫類の繁殖では噛みついて発情を促す事がある。これらは単なる本能的な行動であろうか。それぞれの種に特有な単なる性癖なのだろうか。
もちろん、触れ合いは距離が極めてゼロに近づいた事を意味する。その中で繁殖相手、または恋愛相手の反応を試す事も可能である。その反応を見てその先の行動を決定する事もできる。その情報を得るために脳は何からのきっかけを欲している。
触れ合いの中で何かが決定される。そこに生物学的な不思議はない。
互いの遺伝子の型はフェロモンや匂いで判別する。肌のきれいさは皮膚病の確認である。どの病気に強いかは免疫上重要である。健康で頑強な個体が望ましい。若さはその第一条件である。肌が触れ合うのは体温の確認である。恒温動物はこれで色んな事が理解できる。
繁殖行為の過程で色々な条件に基づき行動が決定される。しかしそこで一端留まる必要はないはずである。なぜ速やかに行動に写さず、いつまでもその前段階で留まるのか。
これを脳が進化の過程で獲得したものと考えるのは早計に過ぎる。生物は無駄を好まない。効率の悪さは多く退化し消えるものである。
魚類のような数で勝負する戦略ではなく、数少なく生んで育てる戦略を採用した生物種は、組み合わせの多彩さで試す事はできない。よって多様性の確保は最初の時点で選んだ相手で決定される。近いものは避ける。遠すぎるても望ましくない。恐らく標準偏差の中央付近を狙う増え方が理想だろう。
この選択を最初にしなければならない。そういう考え方は当然ながら自然である。故に時間をかけるという考え方も可能なのだが、本当に本能はそこまで求めるであろうか。そのような選択に時間をかけるくらいならさっさと繁殖行動に遷移する方が可能性は増大するのではなかろうか。
手の触れ合いとは距離の象徴である。繁殖行為は距離0で成立するのだから、それに近づくのは目的達成の道程である。火星人と地球人は互いにひとつ地点で出会わない限り決して繁殖できない。この距離の壁が生物にとっては最大の障壁である。もちろん宇宙は広く、宇宙空間に種なり花粉を飛ばし繁殖する生物がいないとは言えない。
しかし、そのような生物であっても距離が問題なのである。生物は可能な限り様々な場所への進出を試みてきた。そのための様々な方法を開発し獲得してきた。その結果として、この星の居住可能な場所には、何度かの大量絶滅を乗り越えながら、悉く進出を果たしたのである。
地球の生物にとっての残りフロンティアは宇宙だろう。どれだけの時間を費やしても炭素型生物、塩基配列で構成された地球型生命は宇宙空間に進出できない。蛋白質だけでは足りず引力圏から飛び出す事は出来ない。隕石等への付着や人工物による移動という手段がどうしても必要である。故に人類は細菌たちに生かされている。その手段として。
そのような彼/彼女らにとっては海、陸、空と同様に我々もまたひとつの住環境に過ぎない。
この体表にも体内にも細胞の数を遥かに超える原核生物である細菌、古細菌、真核生物、そしてウイルスが住んでいる。これらの生物は人が生まれた時から死ぬまでこの住環境の中に住み生き増え死んでゆく。
そういう生物種も当然であるが繁殖する手段がある。細胞分裂や有性生殖を行い遺伝子の水平伝播を積極的に採用する単なる偶発的な現象ではない。
進化の為のメカニズムを各自が持っているのである。ハリガネムシはカマキリをホルモンで操り水辺に誘導する。水中に飛び込ませたらカマキリの体内から脱出する。同じように水辺に集まってきた繁殖相手とそこでめぐり合うのである。
この高度に戦略的な誘導方法を彼らがどうやって獲得したかは知らない。しかしこの行動をカマキリはあくまで自発的に行っている。喉が渇いたのか、水に惹かれるのかは分からないが、カマキリが水の中に入る事を熱望している。だから水辺を探して彷徨うのである。その衝動の理由をカマキリは知らない。
トキソプラズマに感染した動物は性格が変わる。例えばねずみは行動が積極的になる。そして怖いもの知らずになる。ネコの匂いにも逃げなくなる。こうして性格が変わる事でねずみはある目的に沿う事ができる。
これらの行動はすべてネコに食べられる為に。その可能性を高くする為に。なぜかと言えば、トキソプラズマの最終宿主はネコだからだ。彼/彼女らはネコに食べられないと繁殖できないのである。彼らにとってはネコの体内に入り込むかどうかは絶対的な要件なのである。
もし宿主が賢くネコから逃げのびれば繁殖する可能性はゼロである。もちろん、排泄物を通して他の生物種に感染したり、空中を漂ったり、水中を泳いで感染する戦略を採用した生物もいる。
しかしトキソプラズマは中間種が食べられる可能性を最大にして繁殖する選択を取った。その方法を見つけたからと言うべきか。どうせ一定量のねずみはねこに食べられるのである。その過程で感染した個体はそうでない個体よりも捕食される可能性を高くしてみた。
ネコは別に寄生した個体ばかりを食べている訳ではあるまい。ただネコの食物連鎖の中に自分たちの循環を組み込んだ。もし食べられ過ぎてネズミが減少すればトキソプラズマも減少する。
という事はある程度の数に抑え込まれるような仕組みが備わっているはずである。莫大に増え、莫大に食べられ、莫大にネコが増えたら、そのような環境は閾値は超える。餌不足が起きて今度はネコが減少に転じる。もしそれが回復不能なら絶滅は避けられない。
つまりトキソプラズマは一定量のバランスが保たれるように進化してきた。バランスを崩せば自分たちも淘汰の対象になる。食べられる可能性が100%となるような働き掛けをした寄生種は早い段階で食物連鎖の循環の中で淘汰され追い出されたと考えられる。食物連鎖を崩さない程度の働き掛けをする種だけが生き残り進化を続けてきた筈である。
感染したネズミが全て食べられる訳でもなく、全てが繁殖できる訳でもなく、このトレードオフによってトキソプラズマは生き残る事ができた。食物連鎖を崩さない程度の働き掛けで均衡する。感染していないネズミは少しだけ生き延びる可能性が上がる。そう悪くない取引だろう。
感染したネズミには残酷な運命な気もするが、他種を心配している場合ではない。このメカニズムは人間の性格にも影響する。トキソプラズマに感染したホモサピエンスは性格が積極的になるらしい。
その性格が、もしかしたらアメリカ大陸を発見する原動力だったかも知れないのである。それが民主主義国家をあの大陸に生み、黒人奴隷という問題を生み出した発端かも知れないのである。
狂犬病を発症すれば水を怖がる。生物が何らかの影響を人間の脳に与えるのは明らかだ。
脳に影響があれば行動や性格が変わる。突然暴力的になったならまず疑うべきは脳腫瘍である。脳腫瘍によって性格が変わり行動が変わり小児性愛になった報告もあるという。老化で前頭葉が衰えば抑制する力が失われ怒りっぽくもなる。
ならば、我々の体表に常在する細菌によって我々の行動が変わったとしてどうして驚けよう。
クリスマスに感じる高揚の理由がホモサピエンスの脳の高揚のせいではないとしたら。その胸のざわつきが、別の生物が体内に放出したホルモンのせいだとすれば。
我々は遺伝子の乗り物であるが、そこには微生物も乗り込んでいるのである。
人間の体表や体内に住み着いた細菌類が化学物質を放出しそれが脳に影響を与えている。その考えがナンセンスな理由はどこにもない。それが他の人との接触を促すホルモンであったとして何の不都合があろう。そうやって他者と触れ合う事を幸せと感じるように細菌が操作しているとすれば、ホモサピエンスはそれに幸せを感じる、細菌たちは新しい繁殖相手と接触する。どこにも不都合がない。
人間の体表に付着した生物が空気を通して偶然に新しい繁殖相手と出会うのを待つよりも、他の同種の個体と触れ合ってもらって互いに触れ合ってくれるように宿主が行動する方が可能性は増大である。そうして接触頻度を増やしRNA、DNAの交換を促せば進化も加速する。
すると、我々の接触や嗜好は、細菌たちの居住区と密接な関係があるはずである。体表に住む細菌は、手の接触を欲するし、口中に住む細菌は唾液の交換を欲するはずである。鼻中に住む細菌は色々な匂いを吸う行為を促すはずである。大腸に住む細菌は排泄物を欲するし、口を使った愛撫も様々な細菌との接触を促す働きであろう。
脳の中でキスをしたい回路があるとか心理的なメカニズムがあると考えるより細菌起因説の方が遥かに説得力がある。少なくともこの仮説に何ら矛盾はない。
だからデートの多くは食事を共にする訳である。それによって常に唾液を介しての細菌の交換が頻発する。そうなるほど精神的な満足感、性的興奮を強く感じるように働きかける。そんな関係に進化してきた訳である。
もちろん、フロイトのように性愛に関する様々な多彩な行動を抑圧という考え方で分析する事は可能である。
我々が最初から性をタブーとしてきたとは考えにくい。犬や猫、近縁の類人猿に見られるのと同様の行動をしてきたと考える方が妥当である。
それが何時頃からか性を隠すようになった。古代ギリシャ時代には既に犬儒派であるディオゲネスが顰蹙を買っているらしいので、公衆という概念はこの頃には既に誕生していたと考えられる。
人類が当初からそうであったのではなく、多くの文化や社会で共通して見つかる理由が必ずある。そのひとつとして豊かになった社会では性愛はひとつの資産となったというものである。つまり所有の考え方の中に性が含まれたという考え方である。所有とは隠す事でもある。リスが木の実をあちこちに隠すのと似たようなものである。
隠すという行為が一種の抑圧として働く。それはある時点でだけ公開が許されたものだからだ。抑圧は前頭葉によって司られている。これを破るには前頭葉の働きを解除しなければならない。その時には神経伝達物質であるドーパミンやアドレナリンといったホルモンが大量に放出されるだろう。
脳がタブーを破ると意識した瞬間から体は戦闘行為を予測し興奮状態に遷移する。この興奮状態とタブーの関係を脳は体験として結びつけ記憶する。ここで禁忌を破る体験は快楽として学習され条件反射となり刷り込まれる。
こうして性の快楽は強化される。しかし、性には重大なリスクがある。性病である。性病が禁忌を強化する方向に圧力をかける。聖書がマリアに求めたものと全く同じと考えられる。病気の多くは人間に由来して起きる。故に人は穢れている。神が穢れている筈がない。よって神の子は人を通さずにこの地に誕生するはずである、云々。
アメリカ大陸から梅毒が持ち込まれてヨーロッパでは更に処女性が貴重となったとしても不思議はない。男性にそれが求められない矛盾はあるにせよ、人々が病気を恐れタブー化するのは確かであろう。
初夜権など不特定多数と関係する事がタブーではない時代がある。それが性病などを契機として危険な行為と認識されるようになる。最初はそこに合理的があった。
その認識は次第に慣習となり常識となって人々の認識に刷り込まれる。こうして清純という価値観が誕生する。清純、清楚は性病の可能性とセットである。都合よくキリスト教圏内ではマリア信仰と結びつき広くヨーロッパに蔓延する。拡散してしまえば当初の理由は消え去って構わない。
タブーを侵犯する時には心理的に興奮状態になる。社会の慣習や信仰が強くなれば、それを破る性癖が出現するのも当然である。抑圧に対抗する蕩尽は快楽が導く。水がどこかに出口を見つけては流れ出す様に抑え込む事はできない。
性病の蔓延に人間はタブーを作り危険な行為を慎む習慣で対抗するしかなかった。ペニシリンの登場まではそれしか方法がなかった。
こうして病に起因する嫌悪は、性、排泄、拘束、死体、腐敗などと様々な人間の生死に関わる部分にあって、病への対抗策がタブーしかない時代に、様々な抑圧を生んだ。それが習慣化し社会の中に浸透していった。そして社会観、家族観は形成されていったと思われる。人間にとって次世代を残す事が最大の対抗策であるからだ。
食欲と睡眠は絶対に回避できない欲求である。だから牧師や僧侶もそれを禁忌には出来なかった。せいぜい不浄な食べ物を規定するしかできなかった。よって抑圧の最大の対象が最も代表的なそして根源的な欲求である性と結びつくのも自然であろう。それが身近にある最もそれらしい答えだった。
その結果として人間が感じる多くの抑圧は性が象徴する事になる。だから、その蕩尽も性を通じて解放される事になる。性行為は時に加虐や被虐、物への執着、肉体と精神など様々な表現型を得る。心理学は性が抑圧された人間の不安に対する最も身近な代替、投影、転移する機能だと言う。
抑圧が時には蕩尽は必須である。そうしなければ脳の回路がどこかで焼き切れてしまう。まずそういう生物的な欲求がある。その解放をどこで行うのか。この抑圧の中には神も紛れ込んでいる。それはある意味では耐える力を伸ばすための補助線だ。
自然の災害、事故、他民族の侵略など我々の社会には不条理で理解不能な出来事が頻繁する。それに回答するのに神という仮説を立てる。死を超えた存在だから神なら解答できる。人の精神を解放し傷を癒し許し生きる力になれる。しかし、神という存在は本質的には抑圧側の存在である。常に人間を監視し命令し試す存在である。
タブーを破る行為には頻繁に性が登場する。宗教が組み込まれると更に多くのタブーを生み出した。習慣、常識、宗教が禁止は、恐らく人間の良識である。誰もが抑圧ではなく良識の中に自分を見出す。
故にそれを破る事には非常な快楽が伴う。その時には強い興奮状態が経験できる。この感覚を受け止められるものは人間の体には性しかなかった。こうして人類社会のあらゆる禁止に対して人間は性によるタブー破りを編み出した。
抑圧と蕩尽という構造は様々な場面で見出されるばかりではなく、抑圧の種類によって社会が求める人々の類型も変わる事になる。その代表が狩猟採集と農耕牧畜の転換であり、S親和者が有利であった時代やその能力が求められる場面があり、また不利となる時代や場面がある。そういう背景が隠されている状況では、人は無自覚にも自分の置かれた場所を運命と受け入れるしかなかった。
しかし如何なる関係であれ、0か100の関係は少なく、人は様々な要因のハイブリッドとして構成され、その働きは更に様々な抑制、圧迫、開放の結果として表現される。
その関係は民主主義の中にも見出せる。まず自然状態という完全な自由が仮定された。これを社会契約の最初の公理として採用する。これにより全ての人が等しく自由状態を持つという前提が民主主義の基礎とした。
人類は自然状態から社会契約によって社会を形成した。この選択の代償として自由の制約が合意される。無制限の自由は存在しない変わりに、暴力は排除され、略奪は禁止され、その違反には罰則する正当性を人々は得た。互いの合意は契約という考えに繋がる。契約とは自由の抑制である。よって罪が契約の不履行であるならば、罪とは自由の行使の事になる。自由は抑圧とセットでなければ成立しない社会が誕生した。
よって社会における自由は、無制限の自由は極めて困難であるが、無限に抑圧された自由は簡単に実現できる。それはある種の人々に対して牙をむく。どの時代にどの自由が奪われたか、それは歴史を紐解くしかないが、その時代の人々はそれを正当であると認識していた。では時代の変遷がどうやってその正当に対して異を唱えたか。
自由の抑圧に対して何が蕩尽であるのか。何が過剰な抑圧、人間を不自由から解放するのだろうか。つまり我々は抑圧された社会の奴隷ではないと主張できる根拠はどこにあるか。
それが権利という価値観であろう。我々は権利を持っているから奴隷ではないと言えるのである。抑圧された自由に対して権利だけが対抗する。
では権利とは無制限の自由であるか。否。権利は抑圧された自由の一種である。権利は常に他人を傷つける自由を禁止する。そのような自由を拒絶する。
しかし、同時に権利だけが抑圧された自由の中から無条件に抑圧されない自由を得る手段である。だから何人も侵すべからざるものとして存在する。それは抑圧された自由に対しての完全な蕩尽としての働きをするのである。
斯様に心理を分析し、社会的なタブーとそれを破る興奮、つまり抑圧と蕩尽という構造を分析した上で、糞便を食す人間の心理を分解した所で、糞便を食したいのは仲間を取り込みたいという細菌から放出されたホルモンの影響の結果であると考える方が余程に簡明であろう。オッカムのカミソリである。排泄物を食すのはコアラや雷鳥など広く生物界では知られた行為である。別に人間がした所で何の不思議があろう。
多くの禁忌は口を伴って蕩尽される。なぜ口が使われるのか。その心理的な理由を探すよりも、口には相当に多くの菌が住んでいると理解すれば十分ではないか。
なによりもそれは細菌たちの仕業なのである。その性癖は別にあなたが変態だからではない。
さて、今年のクリスマスはどの微生物に支配された行為たるか。
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