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2019年12月14日土曜日

初心わするべからず - 世阿弥

花鏡
しかれば当流に万能一徳の一句あり
初心不可忘

この句、三ケ条の口伝在
是非初心不可忘
時々初心不可忘
老後初心不可忘

初心者であった頃の気持ちをいつまでも忘れずにと言う。

所で思い返してみて欲しい、初心者であった頃に何の気持ちがあったか。その頃にあったのは、野心と期待と不安ではなかったか。それ以外の何かがあったか、今となっては何も思い出せない。

ならば初心とは野心や期待や不安を忘れるなという話か、それともその頃の学ぶ姿勢や謙虚な探求心、湧き上がる好奇心を今も持ち続けているかという自問か。

初めて舞台に立った時、きっと頭の中は真っ白であったろう。その時の何を覚えているか、窓の外の空の青さであったり、かがり火に飛び込んだ虫の焼ける音だったり、あくびをする観客の何気ない所作ではないか。目がくらむほどの眩しい灯りだったかも知れない。

そんな頃の気持ちにどんな価値があるだろう。芸の道は常に素人である。どれだけ精進しても自信を深めても突き詰めれば決して到達できないもっと上の境地がある。決して辿り着かない芸の道。常に人は芸の道半ばで散ってゆくのだ。だから我々は今も未熟者であると自覚した方がいい。上を見てもきりがない、下を見てもきりがない、初心忘るべからず。

三遊亭圓生の言葉。
おれの芸が上手いなと思ったらもうダメだっていうんです。生涯マズいと思っていろと。まずいと思っていれば、うぬぼれることはないし、まずは努力をしなくちゃ。

初心者とはそのような自覚をもって初めて言えるのではないか。忘れるべきではないのは、初心者であるためにも自覚が必要だという事だ。そのような自覚さえ持たぬ始めたばかりの者を漠然と初心者と呼んではいけない。自覚なきものは初心者にさえなれない。そして自覚するなら必ず初心者である。

多くの経験を積んできただろう、沢山の技術を身に付け、年を重ね、経験を積み、上手になったという自信もあるだろう。当時の自分より、今の自分は確実に成長している。たしかに芸事であれ技術であれそこには上手い下手がある。

誰々よりも俺の方が上手い、誰にはあの部分は敵わない。初心者には沢山の階段がある。誰も階段をひとつあがるたびに初心者である。あの初心者とその初心者は少し違う、という訳だ。

プロフェッショナルとは失敗を売り物に出来る者の事をいう。少しは価値ある敗北を生み出してこれたかな、そう思う者をいう。勝利だけが欲しければアマチュアで十分である。勝利が楽しいなど観客でも知っている。

勝者だけでこの世界が出来ているわけではない。誰もが思ったようには生きれるわけではない。敗北が颯爽と通り過ぎる場合もあれば、忸怩たる思いで受け入れなければならない日もある。

初心者の頃を思い返せ、初心の自覚を今も持っているか。そんな頃の初心の気持ちに感傷以上の価値はあるまい。ド素人然としたものからも何を学べるか、そこまで貪欲になるべき時もあるだろう。

その頃に感じた新鮮さは今もあるか。いや失っていても構わないはずだ、今も新鮮さを感じているのなら。初心を取り戻せでは意味がない。初心の頃にあったもので、今もあるものは何か。

初心を思い出せなくとも、君は常に初心者である。未来に向かうものは誰もが初心者である。

花が咲いたとき、それは散り始めるのだ。花が散った枝に、人は花の姿を見る事ができる。それが芸だろう。花が咲くだけなら人などいらない。ただ花をもってくればいい。花が咲くのではない。芸が花を咲かせる。そこに人の姿は必要ない、つまり無心で構わないという事だろう。

無心であろうとすることは難しい。もし無心を得たと思うならそれは慢心である。原理上、君は無心という態度に対しては常に初心者である。自分の周囲の世界は何もかも移ろい変わるのに、なぜ自分だけは変わらないと信じられるのか。忘れているかも知れないが人はみな老いてゆくものだ。

初心を忘れるなとは、初心の頃を忘れるな、ではない。

花はなくとも必ずや花は咲く。

2019年11月24日日曜日

\(\scriptsize{30 \div \frac{1}{3}}\)

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概要

\(\scriptsize{30 \div \frac{1}{3}}\) は \(\scriptsize{30}\) を \(\frac{1}{3}\) で割ること。これは\(\scriptsize{30}\)の中に \(\frac{1}{3}\) が幾つあるかを数えるのに等しい。

この場合、\(\scriptsize{30}\) を \(\frac{1}{3}\) で割っても良いが、 \(\scriptsize{30 = 30 \times 1}\) なので、 \(\scriptsize{1}\) を \(\frac{1}{3}\) で割ってから \(\scriptsize{30}\)倍してもいい。\(\scriptsize{30}\)の中に\(\frac{1}{3}\)が何個あるかを数えるのと、\(\scriptsize{1}\)の中に\(\frac{1}{3}\)が何個あるかを数えてから\(\scriptsize{30}\)倍するのも同じ作業だ。

\(\frac{3}{5} \div \frac{1}{4}\)

この考えは \(\scriptsize{\frac{3}{5} \div \frac{1}{4}}\) であっても同じであるから、
  • \(\frac{3}{5}\) の中に \(\frac{1}{4}\)が幾つあるかを数えても
  • \(\scriptsize{\frac{3}{5} = \frac{3}{5} \times 1}\) なので、 1の中に \(\frac{1}{4}\) が幾つあるかを数えてから\(\frac{3}{5}\)倍しても
  • \(\scriptsize{\frac{3}{5} = \frac{1}{5} \times 3}\) なので、 \(\frac{1}{5}\) の中に \(\frac{1}{4}\) が幾つあるかを数えてから\(\scriptsize{3}\)倍にしても
  • \(\scriptsize{3}\)の中に\(\frac{1}{4}\)が幾つあるかを数えてから\(\frac{1}{5}\)倍しても
同じはずである。

\(\frac{3}{5}\) の中に \(\frac{1}{4}\)が幾つあるか\(\scriptsize{\frac{3}{5}\div\frac{1}{4}=\frac{3}{5}\times{4}=\frac{12}{5}}\)
1 の中に \(\frac{1}{4}\) が幾つあるかを求めてから\(\frac{3}{5}\)倍\(\scriptsize{1\div{\frac{1}{4}}=4, 4\times\frac{3}{5}=\frac{12}{5}}\)
\(\frac{1}{5}\) の中に\(\frac{1}{4}\) が幾つあるかを求めてから 3倍\(\scriptsize{\frac{1}{5}\div\frac{1}{4}=\frac{4}{5}, \frac{4}{5}\times{3}=\frac{12}{5}}\)
3 の中に\(\frac{1}{4}\) が幾つあるかを求めてから\(\frac{1}{5}\)倍\(\scriptsize{3\div\frac{1}{4}=12, 12\times\frac{1}{5}=\frac{12}{5}}\)

まとめ

これは、次のように計算できる事を示す。
\(\scriptsize{(A \times B) \div C = A \times (B \div C) = (A \div C) \times B}\)

分数で書くと分かりやすいはずだ。
\(\scriptsize{\frac{A\cdot{B}}{C} = {A}{\frac{B}{C}} = {\frac{A}{C}}{B}}\)

2019年11月23日土曜日

星々の歌、大地の声

ある日、神は純粋な天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。酸素をたくさん吐き出して空を変えている。僕はこんな変わり続ける星には居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し水星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。空が光ったり水が風に舞っているよ。僕はこんなに動きの多い星には居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し海王星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。たくさんの命が相手を狙っているよ。僕はこんな騒がしい星には居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し木星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。雪と氷がどんどん溶けて消えてゆくよ。僕はこんなに暑い星に居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し天王星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。いつも何かが爆発して鳴り響いているね。僕はこんなにうるさい星には居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し土星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。殺しあうのが楽しいみたいだよ。僕はこんな悲しみの星には居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し火星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。みんなキラキラと光るものを巡って争っているね。僕はこんな奪い合う星には居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し金星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

また神は天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。星のかけらが星の中に溶けてゆくよ。僕はこんな恐ろしい星に居たくないや。」

神はこの天使を天に配置し冥王星と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。暗くてみんな下を向いている。僕はこの星を照らしたい。」

神はこの天使を天に配置し月と名付けた。生命のないその世界を彼は気に入った。

神はまた純真な天使を生み出した。その子に世界を見せたところ、次のように話した。

「この星には生き物がいるね。とても多くの命が消えゆくよ。僕はその傍に居たいと思うよ。」

神はこの天使を空から突き落とした。天使は大気で燃えて溶けていった。生命のあるこの世界を彼は気に入った。

神は真空のなかで横たわり太陽の光を浴びた。

その温かさに満足した。

2019年11月12日火曜日

分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 反数と逆数

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反数

反数は、A に足して 0 になる数の事。
A + ? = 0
A + ? - (A) = 0 - (A)
? = 0 - (A) = -A = (A × -1)

Aの反数は(A × -1)。正数(5)ならその負数(-5)。負数(-10)なら正数(10)。


引き算

引き算とは、反数を足すという意味。

引き算 A - B は、歴史的には引くという行為が最初に着想されたとしても、いちいち反数を書くより簡単という点で、結局は(反数)の記述を簡単に記載する糖衣構文として理解できる。
A - B = A + (B × -1)

引き算で書けば、× -1 を省略できる。もちろん、引き算として書けば、その式の意図を伝えやすい。


分数

分数はひとつの数とも言えるし、割り算のままとも言える。
A/B = A ÷ B = A * 1/B

分数は、どうやっても数値の中から割り算を取り除けない。1/4 は 0.25 とも書けるけど、全ての分数が小数点で書けるわけではない。例えば 1/3 は 0.333... のように割り切れない数もある。だから分数のまま扱う方が網羅的と言える。

例えば 2 という数字は 3-1 でも 4*0.5 でも 6÷3 とでも書ける。どう書いても 2 という数字になるが、その中では 2 と書くのが一番簡単そうに見える。しかし、数とは、数値だけではなく、足し算、引き算、掛け算、割り算など式の形をしていても構わない事を分数は示している。


逆数

逆数は、掛けて 1 になる数。
A × ? = 1
A × ? × (1/A) = 1 × (1/A)
? = (1/A)

A は A/1 という形でも表記できる。
(A/1) × ? = 1
(A/1) × ? × (1/A) = 1 × (1/A)
? = (1/A)

A/B という分数にも逆数がある。
(A/B) × ? = 1
(A/B) × ? × (B/A) = 1 × (B/A)
? = (B/A) = B * 1/A

※ A/B = A * 1/B、その逆数は B/A = B * 1/A、それぞれが逆数になっている。

Aの逆数は、分数(1/A)や乗数(A-1)で表記できる。


割り算

割り算とは、逆数を掛けるという意味。

割り算 A ÷ B は、歴史的には割るという行為が最初に着想されたとしても、いちいち逆数を書くより簡単という点で、結局は(逆数)の記述を簡単に記載する糖衣構文として理解できる。
A ÷ B = A × (1 ÷ B) = A × (1/B)

割り算で書けば、1 ÷ を常に省略できる。もちろん、割り算として書けば、その式の意図を伝えやすい。

ただし、分数で割る場合は、このメリットが受けられない。
A ÷ (B/C) = A × (1 ÷ (B/C)) = A × (C/B)

だから、分数の割り算が登場すると急に不思議になってしまうわけである。


割り算の例題

9を3つに割って2倍する、これは6を求める計算。
9 ÷ 3 × 2 = 9 ÷ (3/2) = (9/3) × 2 = 9 × (2/3) = 6

色々な式の書き方がある。

2019年10月22日火曜日

トライポフォビアの研究

ぶつぶつダメ。見ていると蕁麻疹がでそう。それを想像してさらにゾクゾク。

その理由を考えるに、恐らく皮膚病がある。この形質は皮膚病を連想させる。恐らく、このぶつぶつへの恐怖感の根底には天然痘がある。そう思う。

多くの皮膚病は接触により感染する。この接触への防衛機制が心理化したものが潔癖症だろう。潔癖症の人で、免疫学を真剣に学んだ人がどれくらいいるか。もちろん、その道の研究者でも潔癖症の人はいるだろう、心理的な屈折の見事な症例である。

これらが恐怖となる原因は病原菌が目に見えないからだ。目に見えないから、忌避するしかない。遠ざけ、遠ざかる、時にそれは国家単位での差別にまで昇華する。体の中は目に見えない。だから長く治療法は、手探りのようなものばかりであった。

これは盲目な戦いであり、居るか居ないかも分からない場所に向かって除菌剤を吹き付け、除菌シートで拭く。吊り革には触らない、触れるならハンカチで持つ。

もし病原菌が目に見えるなら、吊り革が揺れる度に細菌が空中に放り投げられるのが見えるだろう、空中を漂っている病原菌が、人の呼気であちこちから流れ込んでゆくを目にするだろう。ハンカチの布地の間からは病原菌がどんどんこぼれ落ちて手に辿り着いてゆく。

誰が触ったかも分からないから触れない。触ると病気になる。これは皮膚病に限定された恐怖だ。若しあらゆる病原菌から潔癖でいたいなら、そこまで重篤化すれば、潔癖症程度の症状で済むはずがない。

配偶者に強者を選ぶ観点で言えば、社会が複雑化すれば、選択肢は免疫の優劣だけではない。資産や地位だって重要なファクターである。皮膚が美しい、肌がきれい、が免疫的に優れているという直感と結びつく様に、見た目が美しい、整った顔に惹かれる、はDNA発現の理想という直感と結びつく、そういう相手を選ぶ背景には、何かしら戦略的な意図がある。

逆に言えば、病気になる事、特に、すぐに分かってしまう皮膚病、または皮膚に症状が現れる病気は、それだけに問題とされやすい。触りたくない、汚い、は、それだけで戦略上の不利である。もし自分がそうなってしまえば。その深層心理が皮膚病や美醜に対して徹底的な忌避を生む原因ではないか。

誰だって触れないものがある。子供の頃に平気だったカタツムリも、今や触れない。排泄物、嘔吐物、ナメクジなどの軟体動物、プラナリアなどの扁形動物、芋々した虫、足がウネウネした多足類。父がヤスデを触っているのには尊敬した。

これらの恐怖は、ユングの言う集合的無意識か、それとも DNA に刻まれた本能か、免疫システムからの激しい警報か。

だけれども、子供の頃から忌避物だったのではない。だから遺伝子レベルで獲得された本能とは考えにくい。もちろん、メチル化によってある時からスイッチが入った可能性もあるが、そんな切っ掛けより、どこかで見た写真を、忘却するほど記憶の底に封じ込めたにも関わらず、時に意識を超え、体全体に感情として出現する、その可能性の方が遥かに高い。

そういった感情の心底にあるものは何か。死への恐怖?致死性の高い病気、事故は他にも山とある。だから、そこには死以上の何かがある。それをコミュニティからの追放と考える事は易しい。

もし罹患してしまえば、コミュニティから追及される。その場合は、家族とも引き離される。その恐怖が、病よりも余程強烈に人の奥底に刻まれているのではないか。

そうなれば追放されても仕方ないと考える自分がいる。体の表面に出現したものによって、追放されてしまう理不尽な運命を受け入れるしかない絶望。いくら知識で覆いかぶせても、その恐怖は現実になるまで消えない。

恐怖の正体は病原体ではあるまい。外側にあるものに反応する自分がいて、それが心理の奥底に沈む。それはきっかけに過ぎない。どうしようもない恐怖は、自分の中にある何かと対峙している証拠である。追放は、それほどの恐怖だから、神話の多くが重要なテーマとして描いたのではないか。自分の敵は自分であるとはそういう意味だろう。

trypophobia、trypo はギリシャ語で掘った穴、フォビア phobia は恐怖症の意味。日本語ならつぶつぶ恐怖症。

2019年10月14日月曜日

日本国憲法 第五章 内閣 II (第七十二条~第七十五条)

第七十二条  内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
第七十三条  内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一  法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二  外交関係を処理すること。
三  条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四  法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五  予算を作成して国会に提出すること。
六  この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
第七十四条  法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。
第七十五条  国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。

短くすると

第七十二条 内閣総理大臣は、議案を国会に提出、一般国務、外交について国会に報告、行政各部を指揮監督する。
第七十三条 内閣は、左の事務を行ふ。
一 国務を総理する。
二 外交を処理する。
三 条約を締結する。国会の承認を必要とする。
四 官吏を掌理する。
五 予算を作成する。
六 政令を制定する。政令には罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除、復権を決定する。
第七十四条  法律、政令は、国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署する。
第七十五条  国務大臣は、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。

要するに

どのような統治システムにもそれを実行する官僚が存在する。官僚とは仕組みである、そして人である。

概要

どのような国家にも官僚が存在する。長く、政治は彼らの手に委ねられてきた。その頂点に歴史に名を残す優れた人を配置する事もあれば、汚点として残った人もいる。かつて王は官僚だったのだろうか。国家という痕跡さえない頃はそうだったかも知れない。実務に長けた人が村や地域の指導者的立場に立ったという彼/彼女のストーリーは、納得できる。

この頃の権力者は恐らく実務の人であった。人が増え地域が拡大するにつれ、実務ではどうしようもなくなったはずである。その時に"王"という概念が発見された。王が人々に発見された。人は王になるのだ。どの古代国家にも王がいる。この頃の王の役割とは何か。

鰯の頭だって、なん十年も何百年も崇めていれば神にもなる。なぜか人にはそういう性行がある。王に当然の権威が付属するのも自然な流れであろう。我々だってノーベル賞を受賞した人を無条件で称える。何が凄いのか何ら理解していなくてもだ。そのような正当性の前で多くの人が従順であるのに不思議はない。その程度の振る舞いなら猿にだって観察される。

恐らく集団で行動する時、個々が勝手に動くのはリスクである。時に、群れから離れて勝手に動くものが襲われて全体が助かる場合がある。魚の群れであれ、鳥の群れであれ、集団化の強さは、自然が見い出した強力なメソッドであって、人間だってそれに従うように生まれているはずである。

ただ人の群れは巨大になり過ぎた。その時、従来の方法では成立しなくなった。集団を巨大な集団として成り立たせるためには、王が必要であった。そして王は、その何もかもを独りでやるなど不可能であると悟った。人材を求める以外にこの状態を解決する運営はない。

人材の選抜に試験を導入したのが科挙という制度である。官僚制度はこれによって完成した。人を如何に選ぶかが国家の重大な関心毎である。優秀な人材を広く大量に採用するのにこれ以外の方法を人類はまだ知らない。

どうすれば優秀な人材を発掘できるか。それをテキストの中に見いだしたことが中国国家の最大の発見であった。テストできるという事は、そこに知の蓄積があるという意味だ。その時点から、それに対応する事が優秀な人材を生み出す事と同じ意味になった。

結局、人間は人間の智謀、知恵、知識に頼るしかない。権威とは人材を集める誘虫灯に過ぎず、権力とは、それを捕らえる捕虫器のようなものである。選抜である以上、そこに恣意が働けばあっという間に置き換えられる。優れた人材を消すのは簡単だ、配置換えするだけでよい。国家が滅びるのに100年もいらない。恐らく30年もあれば十分だ。

人材を長く使うためには、彼らを従順にさせておく必要がある。そのために最も必要なのは自発性だ。少なくとも孔子はそう考えたはずである。韓非子はそれは危険である、法を使うべきだと語った。

国家は暴力を内包する。常に自律しながらも反抗をしない人材を求めてきた。江戸時代はそれを武士という思想で非常に巧みに結実させた。それが官僚である。つまり、今後はAIに置き換えられるという意味である。

官僚の方法

官僚制度は巨大なプロジェクトを遂行する能力を有する。しかもそれを動かすのはごく単純な原理だけである。官僚制度の優れている点は単純な命令構造とその過程に人間性も道徳も倫理も必要としない事である。法という正統性さえあればよい。ピラミッドの建造であれ、万里の長城の工事であれ、巨大なダムの建設であれ、日本の特攻であれ、ナチスのユダヤ迫害であれ、ただ一枚の紙切れから始まったのである。

紙切れに書かれた命令を実現するために全体が一斉に動き出す。最初に必要なのはただ、この政策を実行するという命令だけである。それを受け取った官僚は、その命令を実現するために計画を立案する。計画を立てたら、それを実現するようにという命令の形にして下位組織に渡す。

最初は大まかな計画を立てるだけでよい。全体を見渡して十分に実現可能なものを作成する。計画が完成すれば、それを命令書の形式にして下位組織に発行する。受け取った下位組織は、受領した命令書から計画を立てる。計画もまた次の命令書となって下位組織に発行される。これを末端まで繰り返してゆく。最末端まで辿り着いた時には、どのような巨大な政策も困難な施策も、実行可能な計画書となって完成する。

官僚組織は、上位の命令が次々と計画に変貌する仕組みである。命令を繰り返しながら計画を詳細化してゆく。上意下達の命令が計画となってアウトプットされる構造的な仕組みがある。

命令が入力され、計画が出力される。組織に権限と予算を与え、その範囲内で計画を作らせる。それは下位から見れば命令書である。それは上位から見れば具体的な計画書である。実行するためには計画が必要である。命令は逐次計画に翻訳されてゆかなければならない。だから階層構造で逐次処理してゆく。謂わばフラクタル、言わば再帰的、云わば入れ子、いわば全体から細部へのメタ構造。

立案された計画は必ず下位への命令という形になっている。上位の組織で作成された計画は、下位に渡される場合は命令書になる。受け取った命令を自分の部署にあった計画に置き換える。これがそのまま下位への命令書の形になる。この構造によって一度始まった計画立案が途中で止まる事はない。少なくともそう想定されている。

様々な課題は、各部署で解決すればよい。最初の命令が末端に至るまでに逐次処理され、命令の翻訳と承認が次々と行われ、上位の命令が下位の計画に変貌してゆく。受け取った命令を現在の部署の文法で翻訳してゆく作業が計画の立案であり、かつ下位への命令書になっている。

この翻訳を覚えることが官僚になるという事である。組織の各階層で求められるものは違う。それは粒度であるし、全体像でもある。階層が上がるほど、翻訳の仕方も変わる。視野は広くならなければならない。細部を忘れる代わりに全体の方向性を誤ってはならない。方針を間違えれば、どれだけ現場が努力しても達成はできない。最初のボタンの掛け違えは、それ以降の計画をすべて違ったものにしてしまう。

上位からの「これこれをせよ」という命令は、具体的に、より詳細に、「これこれをする」に書き直され、それが次の命令となって下位に受け渡される。上の部署にとっての「これこれをする」は、下の部署から見れば「これこれをせよ」という命令になっている。

当部の計画書は下位への命令書である。自組織が立てた計画は下位組織への命令である。こうして命令が下達する度に計画がより具体的に、明細に、手続き的に変わってゆく。この命令と計画の一体性が官僚制度の強みであって、命令が末端に下達した時、既に、その命令は何時でも実行可能な計画に変貌しているのである。

官僚の性質

このような構造で官僚制度がある以上、官僚は互いの信頼に立脚するしかない。各部署に異なる文法があり、上位からの命令は絶対である。自分たちの役割は自分たちの部署の言葉で命令を翻訳し下位組織に渡す事である。もし他部署の瑕疵を想定しなければならないのなら何かが間違えている。

その間違いを前提にシステム設計などできない。末端まで達して、もし憲法違反の疑いがあるなどという状況があるなら、上は揃って無能である。上位が無能である前提で計画の実施などできない。確かに戦争中はそのような様相で太平洋の戦域で戦ったのである。負けるしかないと分かっていながら作戦を立案し、実施に移した。あの戦争を指揮したものたちが無能であるのは当然であるが、もちろん、あの時点では戦う以外の選択肢もなかった。

問題はあの時点でも勝てると信じていた無能たちの存在である。負けると分かった上での作戦ならば、また立てようもあったはずである。あの戦争は、戦闘では負けたが戦争には勝った、というようなものではない。アジアの解放を勝ち得たから結果的には日本の勝利である、というような歪曲でもない。一方的な殺戮と敗北に日本国民を晒した、それ以外の何物でもない。それを支持したのも国民である。

全面的な信頼は持っていないであろうが、それでも自分の担当部署は他部署が健全である事を前提にしか成り立たない。そう動くしかない。瑕疵の指摘は、必ず上位の命令に瑕疵がある事を意味する。そんなものが下に渡ってくるはずがない。問題はすべて解決したから下達してきたはずである。それをどのように訂正し対策したかは上位の権限であって下位の権限ではない。

もし自分たち以外を全く信用しないのであれば計画は作れない。それはもう独立するしかない。独立とは他のあらゆるものに責任を負わせないという意味である。あらゆる状況に自分たちだけで対応するなど人間技ではない。だから瑕疵があるなら、責任の所在がある。どんな瑕疵にでも担当部署がある。抜けはない。だから瑕疵があるのに下りてきたのなら、訂正を求めてもは無駄なのである。その瑕疵に気付かない以上、どこかに欠陥がある。その欠陥を下から訂正するのは困難である。

官僚組織は効率的に命令を実現する仕組みであって、実行の効率を目指す以上、動き始めたら止まらないのが当然である。基本的に立ち止まるようには設計されていない。計画は迅速でなければならない。それでも民間から見たら随分とゆっくりしたものに見えるだろう。それは大きすぎる巨人の一歩である。蟻たちから見れば人間の一歩は、とてもゆっくりとしたものに見えるであろう。彼らはその間に何十歩も先に進むであろう。だがその一歩はとても遠い所にまで足を進める。

官僚組織を止めたければどうすればよいのか。命令は上から下へ一方的にしか流れない。下から上に逆流する経路は存在しない。だから、下位組織に直接命令しても系統違いなのである。もし計画と止めたいのであれば、それは新しい命令を上から出すしかない。新しい命令をもう一度最上位から降ろしてゆくしかない。動いているものを止めるとはそういう手続きである。

官僚の責任

このような構造的特徴のため官僚の責任は命令を計画に書き換える間に起きた瑕疵に限られる。このような限定性を持つから、連続して処理することが可能なのである。常に局所に限定する、全体を見る必要がない、という限定性が、官僚の仕事を可能にしている。中央集権とは局所の集合が全体であり重複がないという意味である。という事は地方分権とは、全体を複数個用意し重複して配置するという事である。

このような機構において、問題の本質を見抜くのは難しい。木を見て森を見ずは簡単であるが、木を見て森を知るのは難しい。誰もが森の中にいるとき、森の全体像を知る事は難しい。誰もが鳥の目を持っているわけではない。

それぞれの部署がそれぞれに与えられた権限の中で精いっぱいにやった結果が失敗であるならば、それをどこまで遡っても失敗の原因は見つからないかも知れない。誰に権限があり、どこに失敗の原因が紛れ込んだのか、どのような瑕疵がこの結果を生んだのか。そう問われても、誰もが自分は精一杯に与えられた役割を果たしたという感慨だけが強く残っているだけだろう。

例え地球を滅ぼしたとしても官僚は自分を責めることは出来ない。それが個々人の倫理や道徳の廃頽だからではない。官僚という命令形態においては、責任は非常に小さく分割されている。その小さな責任程度で、そんな大きな運命までは受け止められない。

当然の帰結ではないか。官僚は法に従う。法が変わらなければ働きは変えられない。官僚には部署がある。部署が変わらなければ働きは変わらない。官僚を支配するのは法と部署であり、官僚を変えたいのであればこのどちらを変えるしかない。

人間のやることだから不備や時代遅れはある。だがそれを変える権限は行政にはない。近代国家でそれをやるのは立法である。民主主義の歩みが遅いのには理由がある。行政に出来るのはこの間の運用による工夫だけだ。その工夫の間に根本から変えるための立法を選ばなければならない。行政は立法が法が変えるまでの時間稼ぎ、本当の行く末を注視するための猶予を確保する立場にある。

官僚の過失は常に誰かの責任に帰さない。これだけ大勢が携わって、それでも過失が起きたのなら、そこには何かがある。彼らは初めから失敗を目指すような脆弱な計画を立案するほどには間抜けでないし、考えられる限りの想定もしたのである。それは書類を見れば分かるはずで、だからそこに想定外はあり得ない。

想定外を想定したら、計画そのものが停止する、すると中止する以外の結論がない。このような場合も、もちろん、前提条件付きで先に進めるという体質を徹底的に仕込まれているはずである。だから、彼らは自分を責める必要がない。

「私にはそれほどの責任を負わされていません、それを中止する権限など持っていません。」

これは責任逃れの言葉ではない。官僚は命令を実行する権限は与えられている。しかし中止する権限は与えられていない。制度がそうなっている。命令を実行する。命令を止めたければここではなくもっと上だよ、と。

果たして責任とは何であろうか。責任が以前の状況に戻すことなら、責任を取れる人間など存在しない。時間を元に戻すのは不可能だからだ。故に損害に対しては賠償という補填しかない。Aを失ったものをBによって取り返す。例えそれが命であっても。よって損害に対しての予算を用意しておくしかない。

官僚にとっての責任とは最終的には予算の配分である。それはどのような社会的道義であろうが、正義であろうが、同じである。彼らが職務を遂行している間に帯びる責任は既に仕組みの中に織り込み済みなのである。そのような中で官僚を本気で処罰したいのであれば、ロベスピエールやスターリンがやったように粛清を持ってやるしかない。

それでも、そうしておけば食い止められたかも知れないと過去を振り返る人がいる。自分の行動に問題があるなら左遷でも免職でも勝手にしてくれと行動した人もいる。

もし失敗の責任を全て負わされるのならこの世界の誰も官僚にはなれない。全ては壮大な社会的実験なのである。それが成功するかどうかはやってみなければ分からない。もし絶対に成功しなければならないのなら、それは人間の限界を超えている。

官僚の罰則

だからといって、なんの罰則もなしなどあり得ない。失敗に対して何等かのペナルティを負わせないなど考えられない。そういう場合の罰則の強弱については、集団の在り方が大きく影響する。

集団には二種類ある。参加するのが難しい社会と、参加するのが簡単な社会のふたつである。このふたつの違いは、未知なる人材の集団への取り込み方の違いである。つまり、教育をしてから参加させるか、参加させてから罰則するかである。

参加が難しい社会では、参加するためには約束事を予め学習しなければならない。その主なものは、内での作法を知る事である。それは明文化もされていないし、人によっても少しずつ解釈も異なる。それでも、それが前提条件で集団は動いている。

そこに未知の振る舞いを入れる事は許容しない。このような社会では阿吽の呼吸とか以心伝心が通用する。集団全体が、社会の全体像について同じイメージを共有している。このような社会では参加するまでのハードルは高いが、一度参加すればかなりの自由が許される。この自由はタブーや禁則事項を既に学習しているから、という暗黙の認知が前提となっている。

だから、失敗や瑕疵に対しては比較的緩い刑罰を適用する。なぜなら、入る時点で厳しい制約を受けた以上、教育済みなのである、やってはならない事は知っていた。だから参加を認めた。だからそれでも失敗したのなら、恐らく誰がやっても同じだという認識が根底にある。こういう社会は参加するまでの条件は厳しいが、参加は信頼により認められる。

一方で、参加するのが簡単な社会は、参加するための条件は緩い。よって比較的多様な価値観や方法が予め想定されており、異なる文化、教育、思想があることが共通認識としてある。そこには参加する自由がある、違う方法を認める自由がある。個々人は自分のやり方で社会と関わってよい。その代わり失敗や瑕疵に対しては厳しい刑罰を適用する。それをやる自由は与えた、故に、その結果については責任を取ってもらう、この社会への傘下は、信用により認められる。

このように罰則が社会的要請である以上、それは集団の在り方と密接に関係する。信頼型社会と信用型社会では、互いに理解不能な事象もあるだろう。どのようなコミュニティであれ独自性を持つ以上、他と相対すれば理解不能な部分がある。

明治憲法の行政権

明治憲法における行政権は、最終的には天皇に帰属する。だが、天皇は立憲主義という制度の一部であったから、行政権を好き勝手に命令する権限を有さない。天皇の行政権は、憲法の定める範囲で制限された。そこが絶対君主とは違う点であった。ただし絶対君主でさえ世俗の様々な制約を受けていて、完全な自由、好き勝手でもなかった。明治憲法では、天皇と臣下の関係は信頼に基づく。だから天皇には裁可する権限だけが与えられている。拒否権さえ持たない。それが明治憲法の仕組みであった。

これが立憲君主が内包する潜在的な欠陥であるのか、それとも極めて妥当な運用形態であるかは知らない。しかしこの欠点について当時の人々が気付いていなかったはずがない。だが明治の元勲たちは、まさか官僚たちが堂々と国を滅ぼすとは見ていなかったようである。または、もしそうなるなら滅亡も致し方なしと達観していたのか。

先の戦争は愚昧な結果で終わったが、帝国憲法の手続き上、憲政上、何ら瑕疵はないはずである。正当な手続きによって全てが行われた。独裁も暴走もどこにもなかったはずである。ワイマール憲法が停止されたナチスドイツでさえ明らかな違法はなかったと思われる。

先の大戦における戦争への道のり、その敗北まで、一度も法を犯さずに行われた。クーデターは鎮圧した、軍部の独走は、事後ながら正しく承認された。統帥権の解釈に異論があるとはいえ、官僚たちはよく法を遵守した。

それなのにあんな敗戦へ至る。間抜けでなければ、どんな理由があるのだろう。無能ばかりなら後世の歴史家たちがどれほど楽を出来たか。法を守りつつ、かつ滅亡する、どこかに欠陥があったはずなのだ。

なぜそれは不可避な欠陥であったのか。もし避けえないならば、敗戦を経験し、憲法を刷新しても、今の我々の中に、その欠陥は存在し続けているはずである。

反省しようが立ち戻ろうが、もういちど同じ道を辿る愚かさを我々は内包している。そこに目を瞑る以上、もう一度、経験するはずである。そういう愚かさならば、この世界から消えても仕方がない。そういう達観を明治の元勲たちも持っていたと思う。もう一度やったならば、決して同じ結果にはしない。そう言い切れるまで何度も何度も研鑽しておく必要があるが、時代が、技術が、環境がそのような状況を許さない、で満足するようでは想像力が欠落している。

あの戦争のこと

我々は戦争の終わらせ方を知らずに戦争を始めた。その大まかな道筋も研究さえしていない。目隠しのまま地雷原を歩むのと同じような暗澹とした気持ちで戦争を始めた。そういう形で戦争へ突入した。窮鼠猫を噛むに例える人も居るが、恐らくは正しくない。敗戦で失うものを自分たちの手では捨てられなかった、それだけの話であろう。

彼/彼女らがどれほど追い詰められていたとしても、東京を焼け野原にし、家族を焼かれ、特攻隊を送り出し、南洋で飢え死にし、沖縄を壊滅させ、原子爆弾を落とされても構わない、そのような覚悟は持っていなかったはずである。そんな想像力の欠片さえ持っていなかったはずである。もしそうなると知っていたなら、別の選択をしていたはずである。それは戦後の彼らの行動を見れば明らかである。分岐点は幾つもあった。そのことごとくを捨て、決断できずに通り過ぎた。

我々に未知を知る事ができれば、ずっとましな選択が出来たであろう。そんな話しを選択肢に含むことはできない。選択は常に現在あるものから選ばれる。多く、それは水が流れるように最も安易な方へ流れる。その最も安価な解決策が戦争であった。

当時、あの戦争を始めるより簡単な政策はなかった。戦争になれば国体が一致する。騒乱も対立もすべて解消する。すべての人がそれに向かって突き進むしかない。昨日までの対立者が最大の賛同者になる。余りに複雑で、訳の分からない、抜け出せない袋小路から、抜け出す確実な方法はそれしかなかった。これほど魅力的な政策はなかった。彼らは戦争の終わらせ方を知らずに戦争へと突き進んだのではない。現状から抜け出すのに戦争しか知らなかった。今日の飯がないのに明日の水の心配をしても仕方がない。

未来がこうなると知っていれば戦争などしなかった、そんなはずはない。他に選びようがないから戦争をした。未来がどうであれ、あの状況から抜け出すことができたのだ。やらなかった未来がどうなっていたか?誰も知らない。遂に何度振り返っても、あれ以外の方法はなかった、そういう戦争になる。

そのどうしようもない行き詰まりの正体を誰も知らないままである。あれは、官僚が暴走した戦争ではありません。軍国主義者が目指した戦争でもありません。天皇が望んだ戦争ではありません。

誰もが抜け出そうと足掻いた結果の戦争。当時の人々はそんな感慨であろう。それが全員の偽らざる心象であろう。暴風雨の中で、小屋から飛び出した、そして駆けていった、そこには戦争だけがあった。

憲法とは

近代国家の要諦は、王を法の下に置いた事、そして選挙という制度に革命のエッセンスを内包させた事にある。そして、もしこの制度でやってもダメならその国家は滅びても構わらないと突き放した点にある。それ以前ならば、神や血統が国家の正当性を保証した。斃れるときは、徳の不足のような理由が発見できた。近代国家には国が国であるための正当性はどこにも規定されていない。必要としないのではなく、それを排除した制度である。

アメリカ合衆国は、我々は民主主義の実験室であるという自覚を持っている。それに失敗すればそれはもうアメリカではないという覚悟がある。権威によって国を建てない。これが近代国家の在り方である。だから独立せよ、と続く。なぜなら、独立をするのに理由は必要ないからだ。

近代国家は、なぜ憲法という紙切れで何もかもを禁止できるのか。古代の蛮族なら笑って燃やして、では君の好きな議論をしようではないか、と剣を突き出すだろう。ペンは剣よりも強しとは、書類にサインしなければ、軍隊さえ動かすこともできない仕組みの事である。そのペンの力を与えているのは憲法である。なぜ人々は憲法を信じるのか。

神は盗むな、殺すなと約束させた。もしその約束がなければ盗む事も殺す事も許されるのか。そんな訳がない。盗まれて怒るのは、殺されて悲しむのは、法が定めたからではない。だから、法がなければ保てないようでは既に滅んでいるのである。順序が逆なのである。そう孔子は考えた。まず人間がある。だから法がある。

つまり、あの紙きれの中には人間の思いが込められている。多くの願いが込められている。あそこにある理念、理想を信じる事ができないのであれば、人間を信じることなどできない。

だけど、まさか、僕たちは呪縛の世界に生きているとも言えない。だから、憲法という形式を発明したのである。その発明の仕方がヨーロッパ的であった。

韓非子は法によって国は治ると考えた。その根拠は罰するからではない、それによって人々が安心するからだ。

政治家

官僚が中心となって戦争に突入したのなら、敗戦に向かって突き進んだのも官僚である。敗戦を向かえる時、政府の中心はみな官僚であった。閣僚の多くもみな官僚であった。なぜ政治家ではなく官僚たちが敗戦を担ったのか。なぜ官僚には止められて政治家には止められなかったのか。

そもそも、我が国に政治家は存在していたのか。戦後の復興を支えたのも官僚である。果たして政治家の存在とは。ここにこの国のあり方の独自性があるのかも知れない。

忠臣蔵は、武士と侍の矛盾が噴出した事件であった。武士として主君の敵討ちをする。これは武士の道である。だが、この武士の美徳が侍としては重罪である。侍が武士として反乱をした事件であった。幕府は、武士と侍のどちらかを選ぶのか、どちらかを否定するのか。これは重大な思想的クライシスである。

徳川幕府の思想的基盤を破壊しかねない事件であった。ひとつ対応を間違えれば徳川幕府は侍たちの支持を失い瓦解するだろう。荻生徂徠はその構造を看破し、侍として罰し、武士として処罰した。ふたつが矛盾せずに並立可能であることを証明しようとしたのである。江戸時代の秀逸は、戦国時代の終わりに伴い失業するはずであった武士たちを、侍という官僚に作り替えた点にある。

明治のリーダーたちを政治家と呼ぶべきものか。大久保利通も伊藤博文も江戸時代の官僚である。日本の歴史上、政治家と呼べそうな人物がいない。徳川家康は政治家だろうか?官僚は聖徳太子の時代から存在する。では聖徳太子を政治家か?彼らはそうではない気がする。そもそも、政治家とはヨーロッパから輸入された思想ではないのか。

明治に選挙を実施する。その時に、必然として日本にも政治家が登場した。山縣有朋は軍事の素人が戦争を主張して選挙に当選する、それが戦争へ突き進む危険性を危惧した。軍事官僚は専門家の立場から政治家の戦争観を必死に抑え込もうとした。だから軍部大臣現役武官制を制定する。その目的は、政府の暴走による戦争を阻止するためであった。これが昭和になると軍部の暴走の根拠になる。

だが、軍部の暴走は昭和だけの現象ではない。日清戦争は官僚たちが起こした戦争で、明治天皇はこれは朕の戦争ではない、と言い切った。昭和の敗戦へ至る萌芽は既に明治時代の初期に見出せる。明治の暴走も昭和の暴走も構造は同じだ。ただ明治は運が良かった。戦争に勝った。これは元老というシステムが官僚をよく支配していたからだろう。元勲たちが生きている限り帝国憲法はうまく機能する。だから元勲たちが去れば帝国に空白地帯が生じるのは自明ではないか。この欠陥に対処するには改憲しかなかった。だがその危険性への対処は、天皇機関説など幾つかの契機があったにも関わらず遂に行われなかった。

別の道、未来

もし、あの戦争をしていなければ?

我々は、今も明治憲法を抱き、天皇中心の社会制度を維持し、21世紀を向かえているだろう。ただの一度も改憲できないまま。朝鮮半島がどうなっているかは定かではないが、今も日本領として、独立派が街を焼き払っているかも知れない。中国はそれを支援するはずだ。アメリカはソビエトの共産化に対抗する防波堤として日本に近づくはずだ。そもそも日本はロシアの南下と対抗するために江戸幕府を斃したのである。アメリカからの援助を断る理由はない。朝鮮戦争が起きる可能性も高いと思われるが、この場合、朝鮮半島は日本領のままだから、中国、ソビエトの両軍と対抗するのは、米軍ではない、日本である。恐らくジェット機の実用化は日本には出来ないから、アメリカからの支援に頼って戦うしかないだろう。

さて、現代に戻れば、イランの国家体制が極めて戦前の日本に近い事に気付く。もし彼らが戦争に突入しないまま国を変える事ができるのなら、日本にもそれは可能であった証拠になる。だが、今の体制のまま戦争が不可避なら、我々も不可能だったのではないか、と思える。イランの現状が日本の歴史と重なる。彼らには石油がある、だから、暫く国家を維持する事は可能だ。だが、もし石油を持たないイランであったならば。

イランとアメリカの対立は日本の試金石になるかと思われる。もう一度、あの戦争を辿っている錯覚に見舞われる。

迫害

官僚の優秀さは、現在の環境への適用度の高さにある。専門家である官僚の優秀さは現在の社会問題に対処する能力であって、環境の急激な変化に対するものではない。官僚も決して万能ではない。

社会問題の解決とは利害関係の調整である。問題を解決する方法は様々で、当事者同士の話し合いだろうが、金銭を使おうが、強制や暴力を使用しようが、それは手段に過ぎない。当然、利権が巨大になれば調整も困難になる。そうなれば優秀さと無能は大差なくなる。

昨日まで迫害されていた人が今日から迫害する側に回る。官僚組織ならばそれが可能だ。国を思う心がそのような行動を躊躇させない。愛国心は簡単にジェノサイドを起こす。神への信仰心と国への思いは同じだろう。命令があればジャーナリストを殺害し、証拠を消し去る。官僚組織はその歯止めを持たない。

官僚組織は受けた命令を実現する。それ以外の何も要求されない。それを拒否したければ職を辞すればいい。良心を捨てる必要などない。国会で嘘をつく官僚だって、嘘をつく気などない。完全に真実と信じている恐怖さえある。彼らは自分が受けた命令に従う、それだけ。その結果は、私の仕事ではない。そういう意識しか持たないように出来ている。

だからナチスに迫害されたものが、正統なナチスの後継者になることに何ら不思議はない。官僚組織を持てば当然の帰結である。官僚組織を動かすのに神の声は必要ない。道徳など顧みる必要もない。そういう人材は既に辞表を出している。命令書があれば耳を塞いでいても仕事ができるように制度設計されているのだから、それが官僚組織である以上、官僚組織を持つものは誰でも誰かを迫害できる。

それを抑止する憲法はこの世界に存在しない。




2019年9月16日月曜日

設計思想からみるモビルスーツの発展史

宇宙戦争前史

なぜ我々は戦争をするのか。多く資源獲得のためである。

諸君もご存じの通り、アースノイドとスペースノイドの闘争は、最終的には思想でも理念でもなく、ただ資源の獲得を目的とする戦争であった。地球の資源は幾つかのコロニーを建設した時点で採算性妥当なものはほぼ枯渇しており、安価な発掘場所を月に求めた。宙航船の発展によりアステロイドベルトから火星までを資源開発の対象とし、急成長する宇宙住環境、すわなちコロニー建設という特需を支えた。

幾つかの小惑星は数年から数十年という月日を費やし月や地球の軌道に持ち込まれ、巨大な宇宙鉱山として利用された。その頃、政治の中心は地上であったが、開発の拠点は宇宙に移っていた。自然と宇宙開発の技術発展は宇宙を中心に展開されるようになった。その利権の多くを地上が維持し続ける事は歴史の必然として不可能であった。最初に僅かな自治権を求めた時、地球はそれを拒否した。この時、スペースノイドがと呼ばれる人たちが誕生した。スペースノイドとアースノイドの対立はここから始まった。

それをどのように解釈するにせよ、根本にあるのは経済戦争であった。かつて、農業中心の帝国主義と工業中心の資本主義が戦争を経て決着をつけたように、宇宙開発におけるスペースノイドとアースノイドの対立は、最終的に独立戦争という形を取ったのは自然である。アメリカの独立宣言を参考にして、スペースノイドが独立宣言書を書いたのは至極当然の帰結であった。

何人かの政治家たちは、自分たちが宇宙に独立国家を持つ事の正当性を思想として完成させようとした。曰く、地球を汚染し続ける事は生物種としての自殺である、曰く、生物は常に自分たちの生活圏を切り開いてきた、宇宙に進出するのは進化上、当然の帰結である、曰く、スペースノイドによるスペースノイドのための自治権。地球は彼らにとって帰るべき場所ではなくなっていた。

如何なる主張が行われようと、地球から見れば、宇宙に資源を握られる事は生命線を握られるのと同じであった。多くの企業がまだ地球に本社を置いていたから、収益は地上に持ち帰らなければならない。人々は、地球が勝利すると信じたもの、宇宙に新しい活路を見いだしたものたちで二分される事になった。いつか戦争は勃発する、だが今ではない。当時のスペースノイドは碌な戦力を保有していない。両者は戦争に向けての準備に突入した。

戦争への経緯

地球政府は、急遽、宇宙軍の整備を拡充する。宇宙コロニーは海洋における島国と同じだから、貿易の収支を徹底的に監視した。オービッツレーン(orbit lane)を遮断し交易船を臨検すれば立ち行かなくなるのは明白であった。貿易を徹底的に監視し、兵器開発につながるものを、持たせない、持ち込ませない、研究させない、という方針に基づき経済制裁を強化しながら厳重に取り締まった。

スペースノイドにとっての数年は秘密裡に戦争準備を行う苦労の積み重ねであった。何人もの技術者が地球に連れ去られ、時に拷問さえ受けたが、遂に口を割ったものはいなかった。彼らは議論した、地球勢力の戦力が整う前に戦争を仕掛けるか、十分な戦争準備が出来るまで耐え忍ぶかを。

彼らの技術は主に資源開発のためのものであった。小惑星を運搬する航宙船、宇宙鉱山で使用する採掘用の重機、採掘資源を運搬する輸送船、作業員を収容する宇宙施設、いわば採掘用の設備ばかりであった。だからこれらを転用するしかなかった。運搬船を空母に、重機を作戦機に、輸出船を補給艦に、収容施設を整備基地に、採掘技術の向上を表向きの理由として、秘密裡に軍用へと転用していった。

核融合炉の燃料となる水素、小回りのできる小型機器、これらの開発を進めれば、宇宙空間での戦闘は互角以上にできると思われた。しかし、宇宙空間での戦闘に勝利できても地上を制圧する事はどう考えても困難であった。そもそも地上に宇宙から大量に軍隊を投入する方法がなかった。

もしアースノイドが地球に戻って奪回作戦の準備にじっくりと取り組まれると、地上の工業力は宇宙の工業力を凌駕している。宇宙空間だけの戦闘だけなら短期的な勝利は期待できても、長期戦がどうなるかは読み切れなかった。

地上から宇宙への輸送を阻むにしても、すべての軌道を制宙圏に納めるような戦力は持ってなかった。およそ打ち上げてくるものをすべて堕とすだけでは足りず、最終的には地上の打ち上げ施設を破壊しておく必要がある。可能なら制圧したい。この戦略が提示された時、議員のひとりが嘆いた、我々はまだ地球の重力から逃れられぬのか。またあそこへ引き戻されるのか、と。

制宙圏という思想

戦争の勝敗は、常に最終的に補給が続いた方が勝利する。その点だけがスペースノイドの勝機である。地上にある資源と宇宙にある資源を比較されば宇宙の方が圧倒的に多い。だからこの戦争は資源をどれほど確保できるかの競争になる。制圧する鉱山の数と質が戦争の雌雄を決定する。

これらの戦争の原理に基づけば、宇宙軍が如何なる行動原理を持つべきかも決定する。そして、具体的には、鉱山、採掘資源、港湾などを維持し続ける事、そのためには工業施設、輸送航路、人的資源、経済活動、文化的活動、を破壊工作から守り続ける事、そして地球に対しては、宇宙に圧倒的な戦力を保有させない事、これを達成するためには、すべてを動員して戦術的優位性を確保し続けなければならない。

宇宙空間にある全てのものは、軌道上を動くため、地上とは異なる考え方が必要である。軌道上に障害物を置けば簡単に破壊したり機能を停止させることができる。デブリをばら撒けば戦略的価値を変える事ができる。しかし軌道全体は広すぎるので、そのすべてを防衛するのは物理的に不可能である。自然と防御範囲は、空間ではなく、重要施設を軌道上で強力に防護する考え方に至る。

つまり、要塞化を推し進める事になる。要塞化は質量が巨大であればあるほど有利である。そして要塞の軌道に対して、その軌道の先にあるものを排除するための宇宙艦隊を配置する。これが宇宙における軍事活動の基本戦略となった。

宇宙空間での破壊行動は基本的に同一軌道上での衝突に頼るしかない。巨大な質量を持つものを破壊することは困難である。要塞を破壊するために、数十m級の小惑星を当てる戦術が採用されたが、監視網をすり抜けるのは難しく、スペースノイドたちは小惑星の扱い方をよく知っていた。

また、それによって発生する大量のデブリは、実質的に空間を汚染し、敵味方を問わず莫大な被害を与えた。宇宙戦闘では如何にデブリの発生を抑えるかが研究される。数か月前の残骸と衝突して沈没する艦船もあった。戦闘中の両艦隊が一年以上前のデブリ群と衝突して全滅した事例もある。

軽量ドローンによる空域確保戦術(Generation.1)

モビルスーツを軍事用兵器に最初に転用し正式採用したのがジオンであることは周知の話であるが、最初のモビルスーツを設計したのがアナハイム社であるかは議論が分かれる。

先も述べたように元々は鉱山開発の作業用として開発された発掘用機体がモビルスーツの原型である。これを軍用に転用する事はもちろん計画としてあったのだが、どの時点から作業機械からモビルスーツと呼ばれるようになったかは諸説ある。どのように戦場で活用するかは誰も知らなかった。当初は艦隊補給を迅速に行うための装備品のひとつとして配置する予定であった。この機体はまだモビルスーツではない。

当初、戦闘用に戦場に投入されたのは小型の衛星群である。衛星に攻撃武器を搭載し、ある程度の移動能力を加えたものであり、これらは宇宙ドローン、または攻撃ドローンと呼ばれる。宇宙ドローンを戦場区域まで運搬し、戦場で放出し任務を遂行、戦闘後にこれを回収する。これが最初の宇宙艦隊の戦い方であり、そのための母艦(実態は単なる輸送艦)を就航させた。輸送艦には 4~6m の攻撃ドローンを、時に有人の場合もある、20~30 機搭載した。

戦場に散布された戦闘ドローンは、光学測定を用いて敵を識別、破壊するように設計されていた。これに対抗するために迎撃ドローンも直ぐに開発された。敵を破壊する技術は、基本的には小さな質量のものを高速化にして物理的に衝突させるものであったが、外れた場合に何時までも飛ぶのは望ましくなかった。また破壊した後のデブリの発生も望ましくなかった。

そのため、当初、攻撃に用いられるものは全て減速、停止するような機構が組み込まれた。宇宙空間では自律した衝突型のミサイル(爆発はしない)が最初に用いられた。これを迎撃するためいレーザー砲の開発が急がれた。その実用化とともに、次第にドローンは重装甲となってゆく。質量が増大する傾向が避けられなくなった。

敵のドローンを破壊する目的は、攻撃を継続させないためであり、そのためには破壊するのは十分条件ではない。つまり活動を停止させればいいのだから、破壊する必要はない、という考え方が主流となって、ドローン同士が破壊しあう戦闘が増えていった。戦場ではドローンで互いに潰しあい、次第に敵艦船を破壊することは難しくなってゆく。

このような戦闘形態は同性能の衛星を保有するなら衛星の数が多い方が勝利する。数の差を埋めるためには性能で圧倒するしかない。しかし、同じ設計思想である以上、圧倒的な性能差を見いだす事は技術的には難しい。この視点に立つとき、技術的革新よりも戦術のパラダイムシフトこそが求められていた事は容易に理解されるであろう。

戦艦の出現とドローンの衰退(Generation.2)

ジオンは、この状況を打開するために、輸送艦を主攻撃目的に変える戦術を編み出した。対輸送艦用の攻撃兵器、すなわち本格的な宇宙戦艦の投入である。宇宙ドローンからの攻撃に耐える重装甲、迅速な移動を可能とする大推力、そして、遠距離攻撃を可能とする強力なレーザー砲を搭載したのである。

レーザー砲は主に熱線となって一部分を焼くだけなので、デブリの発生は抑制された。電子回路の一部でも破壊できれば敵艦船は停止する。これをドローン空母を破壊するための切り札と戦場に投入した。

この戦略は非常に有効であったため、空母は装甲を強化され、防御設備も増大化されてゆく。第一次強化型空母は、主に装甲を強化したものであるが、それだけで敵艦からの攻撃に対抗できるものではなかった。攻撃力を強化した宇宙ドローンも開発されたが、自立型衛星では戦艦を破壊するには威力が不足した。

攻撃力の非力さを痛感した連邦軍は、宇宙艦隊の主力を宇宙ドローンから戦艦へと切り替えた。敵に対抗しうる装甲と推進力、そして強力なレーサー砲による攻撃。宇宙ドローンも搭載戒能であったが、それは次第に偵察に特化される用途へと変わってゆく。こうして戦艦による戦隊群が創設され、これらが宇宙艦隊の主力となった。

キャノン砲の多数配置、ハリネズミのような戦力強化(Generation.3)

連邦軍における戦艦隊の画期性は、戦艦の強化方法にある。ガンキャノンの開発コンセプトは戦艦の砲塔数を安価に増大するためのものであった。戦艦は巨大なエネルギージェネレータ装置として、小型のガンキャノンにエネルギーを供出する。戦艦に装着したガンキャノンは、単純に砲塔の数を増加する。特に、中型砲、小型砲は、作戦の用途に合わせて搭載するガンキャノンのタイプを変えるだけでよい。戦艦にはそんなに多くの砲塔を搭載しなくて済んだ。これは整備の上でも効果が高かった。戦艦は巨大砲だけを搭載し、攻撃、防御用の中型、小型砲はガンキャノンとの組み合わせで実現させた。

運用時にはひとつの戦艦に多数のガンキャノンを取り付ける。戦艦は、まるで砲塔のハリネズミのようになった。戦艦の外装に20~30機のモビルスーツを取り付ける事で攻撃力を効率的に強化する事ができる。特に配置の自由度が高く評価された。様々なオプションを組み合わせる事で柔軟に艦船の特徴を柔軟に変える事ができた、攻撃型、防空用、偵察型などのガンキャノンが開発され、戦艦を拡張するオプションとして重宝された。

時にガンキャノンは「こんなものはモビルスーツではない」と言われたことがある。これは、その後のモビルスーツの革命的革新を我々が知っているからであって、それ以前においては、これほど画期的な装備はなかったのである。実際に、この戦術は連邦軍をよく支え、戦争の趨勢を変えうるものであった。

ガンキャノンは当初、戦艦に搭載する動く砲塔として、オプショナルな性能が、よく様々な運用に答えた。戦場毎に自由自在に防御線を形成し、マニピュレータを利用した任意の兵装も可能であり、作戦目的や状況に合わせて対空、対艦などの自由なアタッチメント、運用性の高さが多くの戦闘艦指揮官から賞賛されたのである。

ガンキャノンの開発は、戦艦群に対する純粋な強化策として高い効果を上げた。ここにおいて、ジオンは更なる戦術のパラダイムシフトを必要とした。強化された戦艦同士の撃ち合いでは数に劣るジオンに不利であった。数の面でも質の面でもジオンには次の新しい戦術、それを可能とする機体の開発が急務であった。

強襲型兵器の投入(Generation.3)

この頃、モビルスーツの新しい可能性にどこよりも情熱を傾け執拗に模索し追い求めていたのはアナハイム社である。それは単なる機体の開発には留まらない。新しい戦略、斬新な戦術、そして古びない戦闘スタイルを生み出そうと苦労していた。この頃のアナハイム社ほど先進的であった連中は私は知らない。ジオン軍のみならず、連邦軍にさえ、ただの一人としてこの新しい波の到来を予感できたものはいない。この天才的な事業が宇宙にあるこの小さな企業の中で生まれたのは、今世紀の奇跡のひとつとして賞賛されよう。

数による圧倒という難題に対して、彼らは幾つかの提案を行ったが、決定稿となったのが宇宙強襲型モビルスーツ「ザク」のプロトタイプ試作である。

宇宙強襲はこれまでにない新しい戦術であった。強力な装甲を施した戦艦に対して、超近接した上で破壊する。従来の攻撃ドローンでは不可能だったことがなぜ可能なのか。彼らはどういう仕様を機体に求めたのか。

遠距離攻撃を主体とする戦艦群、それを補完する艦隊支援型モビルスーツ「ガンキャノン」に対する、対抗策は、モビルスーツによる戦艦への超近接攻撃であった。それを可能とするためには、従来とは全く事なる敏捷性、長大な航続距離、戦艦の装甲を打ち抜ける強力な兵装、敵レーダー網、電磁波監視を掻い潜るステルス性、そして多数の専用パイロットを短期間で育成する教育システム、これらをすべてをパッケージングしてアナハイム社は売り込んできた。

これはまるで特攻隊ではないか、兵の命を無駄に失わせるだけだ、という批判が起きたのは当然であった。それに対してアナハイム社は答えた。まずは見てください。その上での意見なら拝聴いたします。

軍指揮官、設備課、兵備課、補給課、彼らの前でデモンストレーションを行ったモビルスーツはそれまでとは全く異質の動きをした。デモでは、蝶を捕まえるように宇宙ドローンを手で捕まえた。そしてそっと離した。宇宙ドローンがどれだけ狙ってもレーザーを当てる事が出来なかった。ザクの搭載された自動軌道システムは、宇宙ドローンの計算を先取りするかのように巧みに軌道を変えて移動した。しかもそれだけ細かな姿勢制御をしながら、宇宙ドローンのエネルギーが尽きてもまだ半分以上もエネルギーが残っていた。

これは革新なんかじゃない、進化である。そう答えた武官もいた。誰も異論はなかった。挟む必要はなかった。成功するか失敗するかは分からない。だが、この機体を戦場に投入してみたい。誰もがそう思った。

戦場に投入されたザクは一日にして制宙圏を確保した。連邦の戦艦は破壊されすぎた。投入されたモビルスーツ 32機。連邦軍の被害総数は 14隻、撃沈4、大破3、中破2、小破5。一方のジオン軍は、撃墜されたモビルスーツ 1 機。しかも味方からの誤射によるものである。

ザクの登場に圧倒された連邦軍は、急遽、ガンキャノンに対ザク用の武装を搭載しようとした。だが、ガンキャノンは遠距離砲撃用にカスタマイズされたスペックの機体である。近接するザクの速度にはとても対抗できなかった。これは単にコンピュータの処理能力が劣っていただけではない。ソフトウェアがザクをとらえて撃とうとしても、ハードウェアの機構的な速度がザクの動きに追従できなかった。

ガンキャノンはこの欠点を改修すべく何度も何度も速度向上型を戦場に投入したが、初期設計の限界を超える事はできなかった。遠距離攻撃用に要求されたスペックの機体は、そぅ簡単に近接戦闘用に置換できるものではない。速度よりも装甲の厚さを重視して設計された機体であった。装甲を取り外し、モーターを強力なものに置き換えても、光学センサーの反応速度など改修点が何万も指摘された。その全てを変更してゆくことは正しい対応とは言えなかった。

強襲型を上回る高速という対抗策(Generation.4)

ザクに対抗するためには、同様の強襲型モビルスーツが必要である。こう結論するのは誰にでも可能であった。でも、どうやって?新しく設計する方針を出すのは簡単である。だが、どうやって、誰が、それを実現するのだろうか。ガンキャノンを基礎設計にしながらも、大幅に新規設計が必要となる。新素材による装甲の軽量化、駆動機構の全面刷新、戦術コンピュータ導入による自動化推進、そして強力なビーム兵器を搭載する機体。それを短期間で実現しなければならない。

どうしてもザクの設計資料が必要であった。または実機を拿捕する必要があった。それを参考にすることなしに、短期間に対抗する機体を開発するのは不可能である。連邦軍は何度もスパイを送り込み、技術的資料を盗もうとしたが、いずれも失敗に終わった。戦争の趨勢を決定する機密がそう簡単に手に入るはずがなかった。

幸運にも一機のザクの鹵獲に成功する。その幸運は機体に搭載された情報保持のための焼却システムが動作しなかったためである。この機体に対して連邦はあらゆる技術者を集めて分析、解析を行った。その中に一人のリバースエンジニアリングの天才がいた。彼/彼女?が連邦軍の起死回生、乾坤一擲を実現させる。

この技術者は短期間の間にザクの機構を次々と解き明かしていった。この人物についての情報は、現在でも連邦軍の最重要機密であり、今も非公開のままである。設計者として著名な人物はよく知られているが、実際はもっと秘密裡にされた技術者がいるのである。一説には元はアナハイムにいた技術者であるという噂もあるが、真実は闇の中である。

この技術者が提供する技術的基盤の上に、連邦軍は極めて短期間に新しい機体を設計、製造する事に成功した。ガンキャノンの改造強襲型はこの技術者が設計したと言われている。従来型のガンキャノンを改修する形で新設計の基軸を共通化、汎用化した上で、ジム型プロトタイプの設計へ流用したのである。

連邦のモビルスーツはレーザー砲を線状に射出できる(ビーム砲)点でエネルギーの消費量が大きかったが、破壊力もザクのそれを凌駕していた。これが実現できたのは、従来とは異なる新しい艦船、つまりモビルスーツにエネルギー供給することを目的とした補給型空母の開発が並行して完成したからである。ガンキャノンで培ったエネルギー供給システムが基礎技術となり、搭載したモビルスーツを修理し、補給性に優れ、戦場で長くメンテナンスを維持できる補給艦と強襲揚陸艦の特徴をハイブリッドし併せ持つ艦船が誕生した。

ビーム兵器を扱える点でこの新しい機体はザクよりも先進的であった。ザクのレーザー兵器は、点状に射出するものであったから、破壊力の点では劣った。これはエネルギー消費量を減らすための仕組みであるのだが、この機構が採用されたのは強力なエネルギー供給システムが艦船に搭載できなかったこと、ザク自身のエネルギーパックの容量の問題である。強力なエネルギージェネレーターを搭載する艦船が用意できなかった。その理由の一因として、ザクは投入時までの最重要課題が時間的短縮にあり、このような艦船のプライオリティが開発時に下げられていたためである。

軽快で強力なビーム兵器を搭載したモビルスーツは、よくザクに対抗した。短期間での戦場投入には初期不良も多く、多くの兵士がザクの餌食ともなったが、次第にそれらも改善されてゆくにつれて、ジオンの上層部も驚愕していった。これで戦争の趨勢は分からなくなった。機密保持はどうなっていたか、秘密裡に人材が誘拐、亡命していないかが調査された。この時のレポートは紛失しており所在不明のままである。

停戦

ジオンも連邦もその後に幾つものバリエーション溢れる機体を投入してゆくが、異なるコンセプトの違う機体は遂に登場しなかった。その後のモデルはすべて、強襲型モビルスーツの亜流、傍流、支流、本流である。ジオンがビーム砲を搭載する機体を戦場に投入できたのは戦争も終結間際になってである。その頃には連邦もジオンもビーム兵器を搭載した簡易で安価な機体を次々と戦場に投入していった。

両軍の拮抗状態が崩れるのは、終戦のほぼ半年前の事である。その頃は、私も中央政府にいたので、状況については多少なりとも知っている。特に、私の兄弟たちが軍中央部に所属していたので、政治的背景も軍情報にも触れる事ができた。

この頃のジオンには、主に継戦派、講和派、停戦派の3派があった。講和派と停戦派の違いは、戦後に関するものであった。講和派は独立派とも呼ばれ、独立を講和の条件にしたい。停戦派は条件付きの自治のままで良しとする考えで、戦争を終結する事を優先し、そのためには条件を緩和しても構わないという考えであった。

もともとスペースノイドの独立国家と言っても、所詮は宇宙鉱山を開発する企業ギルドの集まりに過ぎない。その有力者たちが、自分たちの資本を投資して国家という枠組みを作り上げたものである。その本質は、自分たちの企業活動に対する不満の噴出であった。なんの危険も分かち合う事なく、税や権利を理不尽に要求される事に対する不満であった。

最初はテロリストと呼ばれ、次に動乱者と呼ばれ、反逆者とさえ呼ばれた。それでも、スペースノイドは着々と力を付けていった。我々が曲りなりとも国家という形を持ちえたのは、とても沢山の先人たちの苦労と矜持とスペースノイドという思想に支えられていたからである。

さて、終戦間近における、ジオンの最大の切り札は、25年もの歳月をかけて月軌道へ運搬していた大鉱物惑星「レハ・ヴァム」の移送完了にあった。どの派も連邦への切り札という認識で一致していた。

継戦派は当然ながら戦争を継続するための資源として、講和派、停戦派は、終戦のために、地球政府に差し出すつもりでいた。

結局、戦争の趨勢を決定したのはモビルスーツの優劣ではなかった。最後の半年で戦局が動いたのは、ジオンにおける政治的内紛のため、軍の動きが著しく停滞したためである。ある時期から新しい大規模な侵攻作戦はすべて延期された。これが連邦に時間的猶予を与えたために、強力な再侵攻を招く結果となった。

良く知られた話であるが、この頃、ジオンでクーデターが起きた。これは数日で鎮圧されたのが、この出来事がジオンの指導者たち与えた驚愕は深かった。事態は深刻である。次にクーデターが起きた時にこれが鎮圧できるとは限らない。この出来事を切っ掛けに、ジオン内部は講和派に集約していくことになる。もちろん、ここでは話せない裏工作は幾らでもあるのだがね。

結局、戦争の帰結はスペースノイドが望んだ形では終わらなかったが、講和によってスペースノイドは独立を達成する事ができた。その後の戦後の混乱と不況で、長く経済の立て直しには苦労しているのだが、宇宙にある資源の量を考えれば、いずれは安定した宇宙開発に戻ることは疑いようがない。地球は既に開発し尽くされており、新しいフロンティアは宇宙にしかない。そして、我々スペースノイドが宇宙へ進出する中心にあり、それに相応しい地位を得る事になるだろう。

さて、ジオンの戦後史については次回とし本日の講義はここまでとする。質問のあるものは、適当に私を捕まえてくれたまえ。

以上。

2019年9月7日土曜日

「進化」の用法研究

進化は生命の世代間における変化であり次世代に伝えられる形質の変異である。例え変化がなくとも進化という圧力は常に受け続けてきたのであるから、同じ40億年という時間を生きても、藍藻、古細菌、珪藻などのように当初の設計を大きく変えていない種も、ヒトのように大きく変化した種も様々ある。進化は環境への適用であるから、そこには生存という淘汰がある。数億年の繁栄の後に滅びた種もあれば、数千万年前に誕生した種もある。淘汰は生きている個体にとっては辛い現実であるが、戦略としては実に良く出来たトライ&エラーのシステムである。

進化は、世代間の変化の呼称であるから、良いも悪いもない。適者生存の言葉通り、生き残るためには、様々な変化をする方がいい。がらがらと振ってみては現実の環境に放り出す。それで生き残るか、滅びるか、はたまた形を変えてゆくかはやってみればいい。もし少しでも太陽活動が違っていれば、全く異なる結果になっていても何も不思議はない。試してみなれけば分からない、当然の話し。

形質の消滅は退化と呼ばれるが、別に落ちぶれたのでも、後退でも劣化でもない。過去に戻ったわけでもない。ただ環境に適用した結果であり、不要だから失われた。生物は不要な形質にエネルギーを投入する非効率を嫌う。個体毎に少しずつ形質を変えて、その結果の生存率を計測する。もし生存率に影響がないなら、少ないエネルギーで構成できる方が有利である。それ以外の場所にエネルギーを投入できるのだから。この余裕がある分だけ生存率は高くなる方へ傾くはずである。

進化は、だから、個体の運不運さえも内包している。個体の形質とは何も関係ない、偶々いた場所、時間、行動が、生存を支配する場合がある。生き延びた理由は、ただそこに居なかったから。そんな経験さえも進化は取り込む。形質の有利さだけが生き延びた理由ではない。それでも、その生き延びた形質が伝わってゆく。だから本質として生きているものは絶対に圧倒的に統計的にも運がいい。

急激な変化に対応するなど、個々の形質だけでは適わないはずである。何度かの絶滅期を生き延びた種と滅びた種の間には、はっきりとした理由がある。だからといって、それが形質だけの問題とは限らない。住んでいた場所の違いが決定的だったりもする。

進化という言葉の拡大。
  • 進化 - evolution
  • 革命 - revolution
  • 改革 - reform
  • 改良 - improvement
  • 開発 - development
  • 成長 - growth
  • 進歩 - progress
  • 鍛錬 - training
  • 変化 - change
  • 誕生 - birth

生物学的な意味を超えて、個人、組織、商品、思想などにも使われる。この流れが、日本国内だけなのか、世界的な潮流なのかは知らない。スカイラインの究極の進化形。iPhone がこの先どんな進化をするのか。この市場は日々進化している。進化した代表チーム。国家の進化を見据えて。宇宙の進化。

進化という言葉の持つニュアンスが、それ以外と一線を画す。進化という言葉に込められた特別な何かがある。一体、それは何か。

車は改良されモデルチェンジしてゆく。スポーツ選手は鍛練して成長してゆく。プログラムは開発されバージョンアップしてゆく。進化には、進歩、成長、改革などの語感が全て含まれいるように見える。そしてどれと置き換えても構わない。成長という言葉は進化という言葉で置き換えられる。その逆はなさそうである。なぜ進化なのか。そのように使える事は、決して使う理由ではないはずである。

そこには進化だけがもつ独特の響きがある。我々の時代性と言ってもいい。我々は「進化」という考え方を当たり前に受け入れた最初期の世代だ。人間は神が創造しずうっと同じ姿であった。長く人間はそう考えてきたのに、猿に似た動物から進化し、それが今の我々であり、将来には、絶滅しなければ、違う種に変わっていると認識した初めての大衆である。

そんな考えが当たり前になれば、個人が成長しようが進歩しようが、文化がどれだけ続こうが、所詮それは現生人類だけの話である。進化と比べれば、時間間隔があまりにも短い。歴史の幅が小さい。いつか我々が人類以外の種に変わっても進化なら止まることはない。

この時間間隔の違いが、他のあらゆる言葉を駆逐しつつある。それが進化という言葉に潜在するイメージだろう。付け加えるならば、我々はまだ進化は素晴らしい、珪藻類、ヒト以外のあらゆる種の名前で構わないが、それよりも進化した人類はずっと優れているという古い考えを持っている。

この優れているという思想が進化という現象と実に相性がよい。だから優生学というような悲劇を人間は経験したのだが、このような考えはじきに淘汰されるだろう。珪藻類も同じ時間をかけ、同じように進化してきた、という考えがメジャーになれば。進化は優れているものを決めるシステムではないという考えが常識になれば。

ステージアップ、レベルアップ、上位方向への「異なる種への」生まれ変わり、Re-Birth、Re-Incarnation、どれも進化でなければならない。個体の成長程度であってたまるか。そういう幻想が今の我々の中にはある。

これまでの自分とは違う自分がどこかにいるはずである。かつては覚醒とか悟りと言っていたのではないか。平安時代の人は自分探しの旅に出る変わりに出家した。農村から飛び出して武士を目指した人たちも、自分探しの旅と言ってよかろう。

昨日の自分と今日の自分が同じ自分でいられるのは、脳が時間を流れとして認識し、昨日の記憶と今日の記憶が連続するように編集できるからだ。そのどこにも欠落がないと自己認識できるからだ。

だが、進化を求める自分が昨日の自分と同じでは困る。今日の自分は昨日の自分よりも優れていないのは嫌だ。進化がもつ優れた形質という考え方がそんな自分の願望とぴったりくる。優れているのは現在の環境に単に適応したからではない。それ以上の意味がある。今の生活に慣れただけではないか?いや今の自分が新しく進化したからだよ。

別に自分の居場所を探す旅なら、今の若者を待つまでもない。ギルガメシュだってそういう旅をしたのだ。自分を探す旅なら、見つかればそこで終わり。旅はずっと続く方がいい。自分から自分が逃げるのは容易い。

だから、自分探しで見つけた自分は進化し続ける自分だった。そうでなくちゃ困る。これが成長だと大人になったら止まってしまう。その後に始まるのは老化だ。これは実によくない。

進化だけが止まらない。進化だけが先に続く。進化だけが時間を超える船、そんな切望がこの言葉の中にある。そういうニュアンスは、従来ならば神だった。科学によって神が退けられたから、変わりに進化という言葉を使っている。

この先も続いてゆきたい、そういう願いをかつては神に祈った。祈る変わりに進化というシステムに託す。正月に美味しいこぶを食べる(子孫繁栄を願う風習)のと根っこにあるものはそう変わらない。

優れていなくてもいい、五体満足ならば。この五体満足に進化は含むのか。進化など、していようがしていまいが構わない。我々には、新しい種を迎え入れる準備が必要なのではないか。生まれてきた赤ん坊が、人以外の種である可能性もある。我々はその新しい種となる子を育てる事ができるだろうか。もし新しい種でないとしても育てられる種であろうか。托卵された子でも必死で育てるホオジロのように。


2019年8月26日月曜日

食べるのに吸引する理由

君はヤツメウナギの生まれ変わりかね?と聞きたくなるようにずずずと吸いながら食べる人はどこにでもいる。無顎類であるならば吸うしかないのは理解できる。

それでも歯を持たない赤ちゃんでさえ吸うばかりではない。碁石を手で運び、口の中に入れるというのは、基本的な食餌行動であろう。

一般的に啜るという食べ方は、日本では麺類で行われる。なぜ麺類を啜るかと言えば、みそ汁と比べれば明瞭だ。みそ汁はお椀に口を付ける事ができるから、別に啜らなくても、流し込む事ができる。

所が、麺類のどんぶりは大きく重く熱いため、持ち上げて口を付けるのは難しい。どんぶりを置いたまま口を付けるには、一般的にテーブルやカウンターの高さから大人がやるのは難しい。小さな子供なら距離的に可能だから、そういう食べ方をしているのも見られる。

西洋の人は啜る習慣がないと言われるが、それはもちろん、箸を使わないからで、麺類の多くはフォークを使う。フォークが発明される前は手で食べていたというが、その場合も、手を持ち高く上げて、上から口の中に入れるようにして食べていたそうである。

フォークを使う場合もくるくる巻いて口に入れる。フォークであれ、スプーンであれ、口を下に向ける必要がないようにして食べるのが基本だ。手で食べる習慣の地域でも手で口に持ってゆく。それを吸うようにして食べてはいない。いずれも啜る必要はない。

ゆりやんレトリィバァがシェイクを飲むようにすれば啜れると知りたガールで紹介していたが、ストローは確かに真空を利用した摂取方法(圧力差を利用した)で理屈は合っている。なるほど、シェイクの最後で起きるズズズとする音は啜る音と似ている。

吸うのは圧力差を利用しているので、音が発生するのは自然と思われる。なぜ圧力差があると音が発生するのか。おならの例からも明白なように、圧力の違う空間が接すれば、そこに発生した圧力差(境界面)で空気の流れが発生する。この流れが音の発生源である。

流れが発生すれば波が生まれる。流れている所には、電磁気力による摩擦(クーロン力)があり、それぞれの原子、分子に速度差が生じる。この速度差が発生源となって、振動が生まれ、振動は波となり、この縦波を音と呼ぶ。

一般的に空間が膨張するのは、同一の空間内にある原子、分子の活動が周囲から与えられたエネルギーによって活発になるからだ。もし断熱状態(エネルギーを与えていないのに)で空間を膨張させた場合、原子、分子の活動が活発な状態でなければならないのに、エネルギーは足りない。そのため温度は下がる、温度が下がれば周囲からエネルギーが流れ込んでくる。これが断熱冷却と呼ばれる冷蔵庫の原理である。

逆に、断熱状態で空間を圧縮すれば、同じ運動量でも相対的に活発に見えるはずである。100m走のつもりで走っているのに急にゴールが10mになれば5往復できる計算になる。大気圏に突入したザクの装甲では大気が圧縮され高温となり、その温度に耐えられないため融解する。

注意:この辺りはそんなに間違ってはないとは思うが、正確ではないかも知れない。

さて、ここで注意すべきは、ズルズルと啜る、ズボと吸い込んで食べる条件として、口を下に向けて開く必要があるという事だ。この形でなければ啜るのは難しいはずである。なぜなら下から上に物を上げるには垂直であるのが合理的だからである。

もし斜めだと吸い上げる道程において口の周りを汚す可能性が高い。熱いものだとやけどするかも知れない。真上から吸い上げるから、そういう被害を最小にする事ができる。

一般的に箸を使って経口する場合、箸を使って口の中に入れる、または口の前まで持ってきて齧るという食べ方をする。この場合、吸う必要がないので口の中に入れるまで音は発生しない。

お椀を手に持たない人は吸う可能性が高くなる。お椀の上に口を持ってこなければならず、自然と下を向きやすくなるからだ。食物が下に長い形状になると、これは啜るしかないのだが、啜れない人は、何度か歯で支えて口の中に入れる必要がある。西洋ではそういう状況を起こさないようにするためにナイフがある。

お椀に口を付けて食べる場合は、箸で食べ物を口の前まで食器の面に沿わせて持ってきて吸う。特に、食器をテーブルに置いたまま口を付けて食べる場合はそうなる。食器の外縁は大抵が上を向いているからだ。

箸は食器内を移動させるために使用される。日本ではこの食べ方は犬食いと呼ばれ、手がない犬なら仕方がないとしても一般的には好まれない。もちろん、怪我をしている場合や障害を持っている場合はその限りではない。

地上には重力があるため、下にあるものを上にあげるには、位置エネルギーを大きくするしかない。箸やフォークなどはこういう仕事をするための道具であるが、最終的に口の中に食物を入れるためには、横から入れるか、下から入れるしかなく、下から入れるためには吸い込む必要がある。

人間の食べ方というのは生命の根源的な行為であるにも係わらず、思想や哲学ではないにも関わらず、道徳や性格と何も関係しないはずなのに、何か人間性を露にする部分がある。食べ方が人となりと直結したりする。何故かは知らないが、何か情けなかったり、何か悲しかったり、何か嬉しくなったりする。

ある日、オムライスを吸うように食べている人がいた。通常はスプーンを使って食べるはずで、吸う必要はない。だがその人は吸っていた。どうやって?だが試してみたらスプーンでも吸う場合があることが判明する。乗せた高さが口の高さを超える場合、吸うように食べる事が分かった。人間というシステムは、予想を裏切るものである。

2019年8月12日月曜日

割り算を考える

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割り算 In this Site

割り算とは

5÷2
二つに分けると考えるから解らなくなる。分けて二つにすると考えれば少しは見通しがいい。

分ける事(操作)が重要なのではない。結果として二つになればいいのである。もちろん、割り算には、明記されていない暗黙の約束事がある。分けられた二つは同じ大きさでなければならない。

ケーキの割り算

ケーキをイメージすれば半分に分ける(÷2)は簡単だ。


でも(1/2)で割りなさいはどうイメージすればいいのだろう。それはケーキをどうすることになるだろうか。

ケーキをふたつに割った場合、個数は2つに増えた。これは当たり前に思える。だけど、ケーキの体積や重さは、半分(1/2)に減っている。これも当然と思える。
  1. 個数⇒2つ
  2. 重さ、体積、長さ⇒半分(1/2)

1÷2=1/2の意味

1つのケーキを2つにした時の答えは 1÷2=1/2 になる。この 1/2=0.5 は、何を意味しているのだろうか。真っ先に思うのは半分になったという事である。だから、これは個数ではない。個数を数えればちゃんと2つあるからだ。

ケーキの重さや体積は半分になっている。だからこれは重さの事だろうか?

でも10個のケーキを2人で分けたら 10÷2=5 でひとり辺り5個ずつになる。半分にしたら 5 個になった。これはケーキの個数のように思える。どうして 1/2 で割った時は個数にならないんだろう?

ケーキを数える時、1つ、2つと数えるのは正しい。半分に分けたケーキに、もうひとつケーキを持ってこよう。すると数えたら3つある。だからケーキは3つあると言ってもいい。

このどれを貰っても嬉しい?大きさが違うから、どれでもいい訳じゃない。

ケーキをもっと沢山に細かくちぎって100個とか200個にしても、それを1個と呼んでもいいだろうか?大きさの違うケーキをぜんぶ一個と数えてもいいもんだろうか。

だけど、お店にいけば、形も大きさも色も違うケーキが並んでいる。切られて売られているケーキもある。どのケーキも一個は一個だ。半分(1/2)のケーキと1つのケーキを、どちらでも1個と数えられる。でも、どちらも一個だから平等だねと言われて小さい方を貰ったら嫌な気がするだろう?半分のケーキと1個のケーキは違う。何が?

大きさ、重さ?長さ?

1つのケーキと呼ぶには、何か約束事があるんじゃないか。明記されていないけど、何か暗黙の約束事が…

ひとつとは何?

ケーキには沢山の種類がある。そのどれもひとつのケーキだ。大きなケーキも小さなケーキもひとつのケーキだ。カステラみたいに切られて売られているものもある。

ひとつのちゃんとした形って何だろう?

1つのケーキを半分にしたものも1つのケーキと呼ぶことはできる。ふたりで分けた半分づつのケーキはちゃんと1つずつ、ふたりにだから2つある。

半分にしたら大きさは半分になった。重さも半分、面積も半分、個数は二つ。だからこの半分のケーキが1になったという事。

だったら、割り算とは何が1かを求める計算じゃないかな?

分数の割り算とは

分数の割り算は、1/2に分けるとはどういう意味と考えるんじゃなくて、分けて 1/2 になればいいと考える。結果として、それが(1/2)になればいい。5÷2なら5が2になればいい。5÷(1/2)なら5が(1/2)になればいい。

そうした時の答えが割り算の求める答えという事になる。

掛け算と割り算

掛け算は繰り返しとなる足し算を簡単に書くための工夫だし、割り算は、掛け算のある部分を求める式の変形。そのように式は理解できる。びっくりする事に、面積を求める掛け算も、よく見れば足し算の繰り返しになる。
足し算を簡単に書く
5 + 5 + 5 + 5 = 5 * 4 = 20
5 * ? = 20 
これが割り算の基本形

5*2 の掛け算は 1 ではなく 2 を 1 とした時の 5 の値と考えてもいい。5*(1/2) とは(1/2)を 1 とした時の 5 の値と考えてもいい。つまり、掛け算と割り算は、通常は1という基準の数を別の数に変えた時に、元の値は幾つに変換されるかという計算と考えていい。

掛け算も割り算も基準の数を変えた時の値を求める計算。ただ、求めた数がどちらの基準に合わせるかが違う。
5 × 2 とは基準の値が2としたら、1が基準の世界で5はどんな数になるか?
5 ÷ 2 とは基準の値が2だとしたら、2が基準の世界で5はどんな数になるか?

全部同じ大きさだけど、数え方が違ってくる。

演算基準の値求められた数
足し算
引き算
掛け算掛ける数基準1の世界での大きさ
割り算割る数基準の世界での大きさ

1とは何か?基準となる数とは?

数には元となる数がある。それを組み合わせる事で他の数を求める事ができる。最初は1だけを定義すればいい。その値に足してゆけば新しい数になる。すると1+1=2、1+1+1=2+1=3...とどこまでも数が増えてゆく。

この1は唯一の基準か。またはこの数しか基準となってはいけないか?

割り算は基準となる数を求める事だ。基準となる数とは1である。

5÷(1/2)は、1/2を基準とする世界でが5はどのような数に変わるかを求める事である。基準となる数が変わっても数の大きさは変わらない。所が面白い事に、これには別の解釈も可能で、5 が (1/2) となる世界では、基準となる値は何か?でも通用する。

5÷(1/2)=10 (1/2)が基準の世界では、5は10になる。
5÷(1/2)=10 5が(1/2)となるような世界では、基準となる数は10である。

結局、割り算を考えるとは、1とは何かを考える事になった。

割り算の使い道

何を求めたくて割り算を使うのだろうか。

割り算は掛け算よりもずっと使い道が多い。比例も割り算だし、等分するのも、包含を求めるのも割り算だ。掛け算が何かを何倍かするとだけ覚えておけばよいのと比べると、割り算には沢山の使い道がある。用途の多さは、万能性の強さでもある。

ケーキを等分することも、塩水の濃度を求めることも、比率を求めるのも、パーセントを求めるのも、割り算。

2019年7月16日火曜日

緊張している時、なぜ他の事がしたくなるのか

試験前に問題集を解けばいいのに、小説を読んだり掃除を始めたりする。これを心理学では「セルフ・ハンディキャッピング」と呼ぶらしい。あらかじめ失敗を想定し、失敗した時の言い訳を用意する心理的な行動だそうだ。防衛機制の一つと言われる。

緊張は人に様々な行動を強いる。ゴルフのティーグランドに立てば緊張する。緊張すれば失敗するシーンを思い浮かべる。だからいつもとは違ったスイングをしようとする。どうしていつもとは違うプレーを試みるのか。練習したこともないのに、それは練習場でやっておくべき事だ。準備が足りないのになぜここで練習しようとするのか。それもチャレンジと呼ぶべきだろうか。

緊張状態は、脳が自信がない事を知っている証拠である。どちらかと言えば、失敗する可能性が高いと脳は捉えている。それに対して、脳が失敗に備える事、成功する可能性を上げようとするのは当然である。

まず、脳には意識して制御しようとする部分と、もっと根源的な所から原始的、本能的な要求をする部分がある。この両者が失敗すると見做しているなら、恐らく失敗する可能性が非常に高い。

これが意識から無意識へ、無意識から意識へとデータリンクされ、両者の間でフィードバックされ、どちらも有効な解決策を見出せない場合は、両方の間でぐるぐるとループ状態が続く。

このループから抜け出せなければ頭が真っ白な状態となろうが、たいていは物事の方が否応なく来るものである。状況が変われば新しく対応するために古いループは終了する。

試験勉強ならば、今さら勉強しても高得点は望めない、と意識は理解している。となれば、勉強するというオプションは余り有望なソリューションではない。

という要請を受けて無意識もこの状態を打破するために様々な行動を示唆suggestionする。

両者は、互いに成功する可能性を高めようと動く。ただし、意識が時間的な行動規律であるのに対して、もう片方に時間感覚はない。過去の経験の中から、役に立ちそうなものを提案してくる。

意識する側がお手上げならば、人間は、心の声に耳を傾ける必要がある。小説を読む、確かに、小説を読むことは学力を高める効果があるだろう、掃除をする、確かに、勉強する環境を整えることは、学力を高めるのに役に立つだろう。

そう、時間的にひと月も前だったらとても有効な解決策の一つであったろう。なぜ今頃?もちろん時間感覚がないからである。

意識の側でも、どうせよい解決策がない。そういう時に無意識からのこれらのレポートに飛びつくのは至極当然である。いずれにしろ手遅れなのだ。何もしないより何かをする方がいい。それくらいの合理性は持っている。

心の声であるから、結果、それに従う。とても魅力的にさえ思えてくる。それに抗うのは難しくなる。緊張している以上、意識は失敗すると思っている。その時に、無意識の側から、サジェスチョンがある。それがとても魅力的に見えるのは当然だ。ここには多分に心理的な機構が働いているだろう。

なぜ、プレゼンの最中に放送禁止用語を大声で言いたい気分になるのか、なぜプレゼンの最中に前の人の頭を叩いてみたくなるのか。

この提案は時間感覚のない原始的な部分からの提案である。確かに、今それをすれば、この場を盛り上げられるだろう。少なくとも会場で印象に残るのは間違いない。これは確かに良いアイデアだ。印象に残る事が目的なら。

という事は、俺はここで手応えを感じていないという事だな。それが緊張の原因だな、そう理解できれば成功である。

緊張している時こそ、問題点の本質を最もよく先鋭化できると考える。何を失敗と考えているかを綺麗に暗示している。そして、それから逃れるためにどのような行動を取ろうとしているか。ここを意識するなら、ここは失敗しても次につながる失敗になるだろう。

いずれも準備不足である。ここでの機転だけで乗り切れるものではあるまい。それは一部の芸人たちが軽々やってのけるように見えるが、彼/彼女らは普段からそれをするために沢山の経験を積んでいる。そうして心からの声に従う事がほぼ間違いないという風に自分を鍛えている。

この声は緊張が終われば消えてゆく。そこに継続性はない。だから、この時の声を手放さないようにする方がいい。そして、それを継続に持ち込むのは意識の仕事である。どうすれば意識が継続の中に楽しみを感じるようになるか。

孔子は継続するためには知るでは足りない、好きでも足りない、楽しめと言った。楽しむとは、心からのフィードバックが効いている状況という事だ。

つまり、常に緊張状況を作り出す事が意識の仕事だと語ったのだ。そのためには課題を常に作り続けるのがよい。課題があればそういう状況が作れる。課題の中身はどんなものでもよい。面白い事に、非人道、極悪であっても、このメカニズムは有効だ。

2019年7月13日土曜日

「よろしかったでしょうか?」の用法研究

始まりの言葉

丁寧な言葉使いには世界でも共通した特徴がある。例えば英語では Could you ~、Would you ~ と過去形にする。なぜ過去だと丁寧になるのか。これには理由がある。

ヒトの最初の言葉がどのようなものだったかと想像する。イルカやクジラの会話、鳥のさえずり。最初の言葉は、名詞か動詞か、それとも形容詞や副詞か。気を付けろ、危ない、こちらにおいで、僕はここにいる、これらを伝えるのに、言語である必要はない。

子供が初めて言葉を話す時は名詞のように聞こえる。ファータであり、ブーである。我々はこれを名詞と理解するが、本当にそうか。世界を始めて切り取る時、物も、動きも、色も、形も不可分かも知れない。

ヘレンケラーが水に触れ「ゥァーター」という言葉に気づいた時、それは名詞でも動詞でもなかったような気もする。最初の言葉にはとても多くの意味があった。それが幾つにも繋がってゆくと知ったのではないか。彼女はこの言葉によって世界と繋がった。

Suddenly I felt a misty consciousness as of something forgotten--a thrill of returning thought; and somehow the mystery of language was revealed to me. I knew then that "w-a-t-e-r" meant the wonderful cool something that was flowing over my hand.

突然、私は霧があることを意識しました。その向こう側に、何か、忘れていたものがある。あるゾクゾクする考えが戻ってきました。どうしてかは分かりませんが、言葉の不思議さが私には明らかとなったのです。私は確かに知っていました。w-a-t-e-r とは、この素晴らしく冷たい何か、私の手を流れているものを意味するものだと。

この世界には名前がある。子供が、誰かの名を呼ぶとき、例え子猫であっても、そこには何らかの要求がある。自分の存在を伝えたいだけかも知れない。相手に注意して欲しいだけかも知れない。それをたったひとつの言葉で伝えようとする。ママ、パパ、ニャー。

言葉は究極的にはひとつあれば十分かも知れない。声のする方向を見れば、何を要求しているかなど明らかだ。少なくとも母と子はそれで充分なようとも思える。少しの表情がなんと雄弁であるか。

赤ちゃんが話してくれればいいのに、そう悩む人も居るだろう。言葉は雄弁でもあり、不足でもある。完全に満たす事はできない。

だから、日本には赤の呼び名が幾つもある。砂漠の民は水の呼び名を沢山持つと聞く。生活に密着した言葉は、どんどん増えてゆく。微妙な違い、ニュアンスを伝えたい。それが世界を拡げる。僅かな違いを知るたび、新しい名前が生まてくる。

動詞は命令に見える。しかし命令を詳細に調べれば、要求、強制、依頼、提案、懇願、など様々な形がある。横柄な命令もあれば丁寧な命令もある。何がその違いを生み出しているのか。

基本形

あなたが払ったお金は 1000 円でいいか?

コンビニ
お支払いは 1000 円からでよろしかったでしょうか?

である ⇒ いい?

支払いに出された金額を確認するなら疑問形である必要はない。「1000 円です」と事実をただ明言しても良いはずだ。これを疑問形にするのは何故か。そこには相手に確認を促すとともに、間違いを指摘しやすくする効果がある。

疑問形で聞かれたのだから、違うと答えやすい。それは否定ではなく、単なる応答だから。互いの間で間違っているかも知れないという前提があるのとないのとでは、否定に関する障壁の高さが全く違う。

である ⇏ 預かります

ここで「預かります」と言わないのにも理由がある。「預かる」は相手からお金を受け取った事を明言している。だからお金のやりとりが一旦は確定した事になる。そして確定した事実は後から訂正しにくい。

後から訂正したくなった時に、これでは預かった行為を一回取り消さなければならない。それは相手へ多大なエネルギー消費を要求する。敬語の基本はこちらがエネルギーを消費し、相手には使わせない事である。だから「預かる」という言い方はしない。

※ このエネルギーの高さが、高級な場所では別の意味、風格や気品を与える場合もある。

いい? ⇒ いいですか?

「ですか」を加える事で丁寧さを表現する。基本的に冗長であったり、修飾したり、長々とする事は、相手への尊敬を表し、こちらのへりくだりを表現する。何故なら、相手のために余分なエネルギーを消費しているからである。

それを厭わない態度は、相手への敬意をそれだけで意味する。手間暇をかけています、これだけの浪費をしてもいい程、あなたを歓迎しています、この行動はそれだけで相手への贈り物になっている。相対的なエネルギーの差も増えている。

いい? ⇒ よろしい?

「いい」は何も確定していない。よって相手に取り消す負担が掛からない。まだ確定していません、どう変えるのも自由です、というニュアンスが含まれている。

しかし「いい」という言葉はフランクである。親しい間柄の距離感である。そこで少し距離を遠くする言葉に置き換える。基本的に丁寧な言葉は長くなる。長い単語ほどエネルギーの消費が増える。そして両者の距離感が遠くなれば、相手は安全圏にいる感覚を得る。それによって気を高ぶらせなくて済む。つまり、余計なエネルギーを消費しなくて済む。

よろしいですか? ⇒ よろしいでしょうか?

「です」から「でしょう」に置き換える。これで言葉そのものが推定に変わった。明示的な言い切りをしない。これによって、言葉はぼやける。ぼやければ、確定しない、はっきり見えなくなる。このはっきり見えないが、視覚的には遠くにある景色に等しい。

相手の呼び名、呼称を省略するのも同様で、相手(Who)、時間(When)、場所(Where)、話題(What)、理由(Why)を明示しない事、直截しない事、限定しない事によって、それを受け取る側の心理的負担を減らそうとする方向である。

※ この考えを敷衍すれば、実は悪い話題ほど、敬語で話す方が両者の心理的負担を減らす事ができる。

よろしいでしょうか?⇒ よろしかったでしょうか?

過去形にすることは、敬語の基本である。

何故なら、過去形にする事で動詞が持っている命令の強制力を弱める事ができるからだ。「よろしいでしょうか」は、今すぐに返事を返さなければならない圧迫感がある。これは現在の話であり、未来へと続いている。時間を無駄にできない。

しかし、時制を過去にすれば、言葉は既に終わったことを話題にしている。過去の話題である以上、今さら返事をした所で手遅れである。つまり、急いで返事をする必要がないというニュアンスを与えられる。

話題からして現在、未来の問題であるのは当然であるが、過去形にする事で、話題を過去の方向に持ってゆき、過去が持つ遠い場所(過去には誰も辿り着けない)での発信とする事で、言葉の持つ潜在的な命令力を弱体化し、距離もより遠くにする。

不快の理由

これらの敬語に不快を感じる人は、恐らく敬語の過剰さを感じている。過剰になれば、相手を馬鹿にした感じが出る。

それは必要以上の過剰は、通常は恣意的だからだ。すると、私はここまで過剰にやってますけど、本当はもっと下ですよね、というニュアンスが含まれてくる。ここで自分が想定する敬意と相手が持つ敬意との間に高低差があると、そこに強い風が吹きはじめる。

それでも、マニュアルがこのような丁寧さで設定されるのには理由がある。最上の丁寧さによって顧客との間の距離を少しでも遠くしたいからである。この流れは、クレームに対する店側の弱さと比例している。現在は、そういう圧力が強いビジネス環境になっているからである。

もし「てめぇなど二度と来るな。」、「塩をまいとけ。」というような商売が出来るのであれば、敬語はそこまで過剰にはならないはずである。

敬語とは

敬語は、否定しやすい環境を作るためのものだ。そのためには、こちらがより多くのエネルギーを使い、相手のエネルギーを相対的にも、また絶対的にも減らす。

同じ理由から相手の選択肢も少ない方がいい。選択肢が多すぎると相手に沢山のエネルギーを消費させるからだ。

と同時に、どれを選択してもエネルギーが同程度となるように平均化する。本質的に、否定、拒否には沢山のエネルギーが必要である。だから、それを選びやすくする事が敬意という行為である。

観点方向性
否定しやすくする疑問文
自分の消費エネルギーを増加する言葉を長く、多く、
相手の消費エネルギーを減少する選択肢を絞る
明確、断定を避ける直接的な表現の回避、代名詞の多用
関係性の距離を遠くする敬称、呼び名の省略、フォーマルな用語
時間的な距離を遠くする過去形

敬語は誰のため?

拒否を否定する。否を言えない状況に相手を追い込むのも一種の敬意に見える。しかし、否定できないという時点でそれは敬意ではない。

それでも、敬語とよく似た形式になるので、その解離が相手に強い印象を与える。それが更なる圧力となって肯定を強要する。こういうメカニズムを意識して使う人たちは沢山いる。

敬語には相手の気持ちを思い図る事で、自分の心理的負担を下げる効果がある。相手に否定させる状況に陥らせるのは元来、避けたい事である。それでもそういう状況は往々にして発生する。その時に敬語ならば、相手だけでなく自分の心理的負担をも下げる効果がある。

こうして互いの摩擦を最小にし、それが円滑さを生み、お互いの距離感を程よく調節し、争いを回避し、悲しみを軽減する。敬語でなくとも、エネルギーを多く使う事で、人は自分の敬意を表現しようとする。それは言葉だけではない。

敬語という形式は、相手への敬意だけでなく、悪意ある人が自らの心理的負担を減らすのにも使える。このメカニズムをエネルギーという観点から解いてみた。

2019年6月22日土曜日

A+B=B+A 足し算は順序を入れ替えても良い理由

順序を入れ替えても足し算はなぜ同じか?
1+(2+3) = (1+2)+3 =
1+  5     = 3  +3 = 6

同じ数の足し算

2+2 = 2+2

同じ数の足し算の場合、順序を入れ替えても式は同じ形をしている。例え入れ替えても誰も気付かない。だから入れ替えても答えは同じだろうと言える。

違う数の足し算

数には、基本となる数がある。普通は1が基本の数になる。この数さえあれば、自然数の全部を表す事ができる。
1+1=2
1+1+1=1+2=3

だから、次のように足し算は書ける。
1+(2+3)           = (1+2)+3           = 6
1+((1+1)+(1+1+1)) = (1+(1+1))+(1+1+1) = 6
1+1+1+1+1+1       = 1+1+1+1+1+1       = 6

こうして足し算の順序を変えてもすべてを1で表現したら同じ形になった。これはどの順序で足しても同じ形の式になるのだから、順番を入れ替えても同じものと言える。




図形にして見ると、足してゆく順序を変えても長さが変わらないのは、どの順序で数えても数が変わらないのと同じだ。

足し算の順序は数える順番を変えるみたいなもの。

負の数

負の数は引き算で作れる。
2-1   =  1
1-1   =  0
0-1   = -1
-1-1  = -2
1-1-1 =  1-2  = 0-1 = -1

掛け算や割り算でも作れる。
1*-1 = -1*1 = -1
-1/1 = -1*(1/ 1) = -1
1/-1 =  1*(1/-1) = -1

引き算

引き算は足し算である。次の通り。
2-1   = 2+(-1)    =  1
1-1   = 1+(-1)    =  0
0-1   = 0+(-1)    = -1
-1-1  = (-1)+(-1) = -2
1-1-1 = 1+(-1)+(-1) = 1+(-2)  = 0+(-1) = -1

足し算は順序が変えられるが、引き算は変えられない。
引き算
1-2 = -1
2-1 = 1

足し算
1+(-2) = -1
(-2)+1 = -1

なぜ引き算は入れ替えてはいけないのか。
1-2 = 1+(-2) = (-2)+1 = (-1)+(-1)+1
2-1 = 2+(-1) = (-1)+2 = (-1)+1+1

式を1だけで表現してみると + と - の数が違うのが分かる。数をひっくり返しただけのつもりが、プラスとマイナスの数が変わっているのだから、引き算の式を引っ繰り返すとふたつの違う式になっている事が分かる。

引くのを図形で表現してみる。足すは赤を塗る、引くは白色を塗るとして表現してみる。この時、赤は右側に、白は左側に向かって塗ってゆく(この方向の違いが足し算と引き算の違いでもあるし、正の数と負の数の違いでもある)。

前の色を違う色で塗るのだから、塗る順番が変われば結果も変わる。白の後に赤を塗るのか、赤の後に白を塗るのかでは、結果が違うのは当たり前と思える。




マイナスの数を含む足し算で表現してみる。
1+(-2) = 1+(-1)+(-1)
(-2)+1 = (-1)+(-1)+1

すると + と - の数は変わらない。同様にマイナスの数だけの引き算でも + と - の数は変わらない。
-1-2 = -1-1-1 = -3
-2-1 = -1-1-1 = -3

ここで -2 を次のように考えてみる。
意味動作イメージ
前の数から 2 を引くの意味引き算- 2
数字の 2 にマイナスの記号が付いたの意味負の数-2
マイナス記号が 2 つあるの意味1を二回引く- -

マイナス記号が引き算の文字なら、数字だけを入れ替えても良さそうに感じる。だけど負の数であったり、二回引く動作の意味なら、マイナス記号と2の数は切り離して考えてはいけない気がする。
1-2 … 1から2を引く引き算。
1+(-2) … 1 に (-2) を足す足し算。
1 - -  … 1 から (-1) を二回引く操作。

式をひっくり返す時、数だけを移動するから間違える。数と符号は一緒にして考える。符号も数と一緒に移動すれば順序を入れ替えても同じ答えになる。
1-2 = -2 + 1 = -1 … 符号と数の両方を入れ替えたから答えは同じ。
2-1 = 1 … 数だけを入れ替えたから答えが違う。

-2とは2を引く意味ではなく、マイナスという符号が2つあるみたいな感じ。

掛け算

掛け算を足し算として展開してみれば順序を入れ替えても式が同じと分かる。
2*3               = 3*2             = 6
2+2+2             = 3+3             = 6
(1+1)+(1+1)+(1+1) = (1+1+1)+(1+1+1) = 6
1+1+1+1+1+1       = 1+1+1+1+1+1     = 6




掛け算を図形として見ると、掛け算の順序を入れ替えた形は、単に回転させただけと同じである。どれだけ傾けたり回転させても形は同じなのだから同じものと分かる。ついでに、回転させてもし形が変わるような場合があれば成り立たない事も分かる。

掛け算の順序は回転させるみたいなもの。

割り算

分数や少数は一種の割り算だからここで一緒に考える。

割り算は掛け算になる。
1/3と1/2の分母を1/6で揃えて(通分)次のような足し算にする。
2/3 = 4/6 = 4*(1/6) = (1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)
3/2 = 9/6 = 9*(1/6) = (1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)+(1/6)

割り算を足し算にしてみると、ふたつの式が違う形が分かる。だから割り算の順序も変えられない。

ここで引き算と同じように、割り算の符号(÷)ごと順序を入れ替えたら、答えは同じになるのではないか、と疑問が湧く。引き算は(-1を引く)だったし、負の数だったので理解しやすかった。では割り算の記号はどういう意味だろうか。

ここで / 2 を次のように考えてみる。
意味動作イメージ
1を 2 で割った意味割り算/ 2
数字の 2 に÷の記号が付いたの意味分数1/2
割る記号が 2 つあるの意味1を二つに分割する/ /

1/2 … 1を2を割る割り算。
1*(/2) … 1 に (1/2) を掛ける掛け算。
1 / /  … 1 をふたつに分割する操作。

分割といえば、普通はふたつに分割である。だから / がひとつがあれば2つに分かれると考えても良さそうだ。だが、これだと1つに分割という考え方が表記できない。また3つに分割するのも表現できそうにない。「2つに分割する」をどう組み合わせても3つに分割できそうにない。これは2も3も素数だからである。

割り算は、1を割るが省略されている形として考える。
2/3 = / 3 * 2 = (1/3) * 2 
3/2 = /2 * 3 = (1/2) * 3  

すると次のように記述できる。
2/3 = 2*(1/3) = (1/3)*2 = (1/3)+(1/3) = (1/3)+(1/3) + (1/3)-(1/3) = 1 - (1/3)
3/2 = 3*(1/2) = (1/2)*3 = (1/2)+(1/2)+(1/2) = (1/2)+(1/2) + (1/2) = 1 + (1/2)

なぜ引っ繰り返したら掛け算になるのか。それは割り算が前の値を割るという意味ではなく、1をその数で割った値を掛けるという意味を持つからだ。
2/3 = 
2 * (1/3) =
(1/3) * 2 =
(1/3) + (1/3) 

なお 1/3 はこれ以上どうやっても同じままである。
1/3 = 
1 * (1/3) = 
(1/3) * 1 =
(1/3)

分数でいえば、1/n という形は分数の基本の数だろう。

2/3 は以下のように考える事ができる。
意味動作イメージ
2を3で割った意味割り算2 / 3
(1/3)が 2 つあるの意味分数2/3
割る記号が 3 つあるの意味1を3つに分割したものを二倍する(1/3)+(1/3)




割り算は1で割ってから掛けるみたいなもの。

まとめ

足し算、引き算、掛け算、割り算の順序を入れ替えるには、数だけではダメで、符号も一緒に入れ替える。

足し算、掛け算は数だけを入れ替えても結果が同じだから、数だけを入れ替えると思っていたが、足し算、掛け算も実際には符号毎入れ替えていたのではないか、そう考える方が理解しやすいと思った。

基本的な操作
演算記号操作
足し算+1を足す。
引き算--1を足す。
掛け算*,×同じ数を足す。
割り算/,÷1/nを足す。

演算子はある操作を意味する記号であり、数はその記号(符号)を何回実行するかを示しているとも考えられる。5を一回足すと考えてもよいし、1を5回足すと考えてもよい。

(+ 2 - 3) * 4 / 5 を説明する。
1. 0(省略されている場合の基準点)に対して1を二回足す。
2. ここから1を三回引く(-1を三回足すでも同じ)。
3. (2-3)の値を4回足す。
4. (1/5)を(2-3)*4の回数足す。

(1/5)を-4回足すとは
-(1/5)-(1/5)-(1/5)-(1/5) = 
(-1/5)+(-1/5)+(-1/5)+(-1/5) = 
-1*((1/5)+(1/5)+(1/5)+(1/5)) =
-1 * (0.2+0.2+0.2+0.2)
=-0.8

ほら、すべてが足し算になった。

[注意]
ここに書いた内容はこう解釈すれば理解しやすくなるのではないかという一例であって、このような解釈は必須でもなければ、定理でもない。あくまで躓いている人がこのようにすれば理解しやすくなるかも知れないという一案である。これは絶対でも、完全でも、必定でもない。


2019年5月16日木曜日

「蛇に睨まれた蛙」は実際はどうなのか

蛇に睨まれた蛙のように身動きできなかった。

睨まれたから身動きできないのだろうか。それとも。。。

ヘビとカエルの距離は同じである。

この時、ヘビの移動範囲とカエルの移動範囲は、円で示す事ができる。



ヘビの移動範囲の中に入らない限り、カエルは助かる。もしカエルの方が素早く動けるならば、カエルが後からジャンプしても捕まりはしないだろう。カエルの方が遅いならば、先に動きだしても捕まる可能性がある。それは次の式で決まる(角度の違いは考慮に入れない)。
(最初の距離+カエルの移動距離ーヘビの移動距離)<0(追いつかれた)

カエルの移動方法はジャンプ、ヘビは鎌首をもたげてから伸ばす動作であるが、これもジャンプと呼ぶことにする。すると、ひとつの移動動作は、次の時間合計で表せる。
(体の向きを変える)+(ジャンプする)+(空中に滞空する)+(着地)

項目説明
体の向き向きを回転する時間。
ジャンプする姿勢を整えてからジャンプするまでの時間。
空中に滞空する飛翔速度×距離。飛翔中に向きを変えるも可。
着地する着地し次の姿勢が取れるまでの時間。


ヘビの場合(鎌首をもたげた状態にあるとする)。
  1. 体の向きは移動中に変えられるので0。
  2. 鎌首の形なら0。そうでないなら時間が必要。
  3. 飛翔速度はカエルより早い。飛翔中に角度を変えられる。
  4. 着地すると体勢を整え鎌首をもたげる(縮める)必要があるため暫くかかる。
カエルの場合。
  1. 前方のある角度に対しては0。大きく変えるのは遅い。
  2. ジャンプするまでに必要な時間は0。
  3. 飛翔速度はヘビより遅い。飛翔中に方向転換はできない。
  4. 方向は限られるが連続してジャンプ可能。

このような諸元スペックの違いがある。

これらの違いから、ヘビは連続して襲うことが難しいのでチャンスは一回。逆にカエルは最初の攻撃をかわせば、逃げ切る可能性が高い。

飛翔速度はヘビの方が早いから、カエルが生き延びるために必要なのは角度を変えてヘビをかわすだけである。それで相手の移動範囲の外に出るしかない。ヘビは飛翔中の方向転換が可能であるから、それも含めた範囲外にジャンプするしかない。



赤枠がヘビが最初に取れる角度、黒線がひとつ決定した場合の角度とすれば、カエルは、その外にジャンプすればよい。もしカエルが先にジャンプすれば、ヘビはそれに応じて角度を決定でき、捕食する可能性が高い。逆に、カエルがヘビのジャンプする角度を見てからジャンプする方向を決めれば、かわす可能性が高くなる。

だからカエルは相手が動いた後しかジャンプする方向を決められず、そのためには睨まれようが睨まれまいが、相手の出方を待つしかない。

カエルは確かに身構えているし身動きも取れない状態であるが、決してビビッて動けなくなったのはなく、後の先で対応するしかない。相手を先に動かせ、それに応じて適切な方向にジャンプする。それが最も生き残る可能性が高い。それを両者は知った上で睨みあっている。

すると、ヘビは無駄な体力と悟って諦めるか、捕食行動を取るかを選択できる。カエルは、状況が変化するまで構えるしかない。これが合理的と思える。

実際がそうであるかは知らないが、それを確かめるのは科学の領域であって、この話の範囲ではない。


2019年5月6日月曜日

「いかがなものか」の用法研究

「いかがなものか」という問い掛けは如何なるものか。この言葉に潜む意図、それを無意識でも使いたい人間の心理とはどういうものか。

「これを禁止するのはいかがなものか?」

これは意見ではない。疑問文だ。主張でもない。疑問文だ。反対であるか。恐らくそうだ。賛成であるか。恐らく違う。だが、疑問文だ、どういう意味か。

以心伝心や阿吽の呼吸は、意思伝達のコストが低く、高速で、コミュニケーションの極意である。人間は意思伝達に言語を使用する。言語は多彩な意味を伝える事ができ、歌となって人の心を動かしたり、小説になって人を楽しませる。

その利便性との引き換えとして、誤解や思い込みの原因となり、集団が大きくなるほど、言葉の正確性は重要になる。人の間違いを言語はそのままトレースする。それが積み重なり増加してゆけばいずれ組織を蝕む。

ハンドサイン、アイコンタクト、ボディランゲージなどは非言語コミュニケーションと呼ばれる。意思疎通するのに言語はなくともよい。絵画や音楽にもメッセージ性はある。それらも言語と同じ前提条件で成り立っている。

コミュニケーションは前もって符丁しておかなければ成立しない。初めて出会ったふたつの文化圏は、先ず互いの意思疎通を通そうとする。符丁を探す段階があり、それさえ乗り越えれば、言語を理解するまでほんの少しである(可聴範囲が同じ場合)。

そして、言葉には非言語コミュニケーション的側面がある。言葉を字句通りの意味で理解してはならない。人間は言語コミュニケーションを使用して、非言語コミュニケーションを行う事ができる。これが AI の課題部分だ。

これらを支えるものが共感力である。生物は未来を予測する事で生存率を高めてきた。集団を形成する動物では相手の意図を知るのが有利である。群れて走るなら他の個体の進路が予想できなければぶつかってしまう。数秒先の未来と、現実とをすり合わせる。

相手の気持ちを予測すれば、思いやりであったり、相手が嫌なことはしない事も、相手の行く先で待ち構えておく事もできる。当然であるが、他人の気持ちを完全に理解する事は不可能であるから、分かったつもりが実は違ったり、思想の違いから袂を分かつ事もある。人は完全には理解しあえないが、ある程度までは理解できる。

政治家は忖度される存在である。いつの間にかそんな常識が生まれた。深読み、裏読みし、相手の考えを汲み動ける人はいつも出世する。

そういう関係性で「いかがなものか」と聞かれた人は次のように理解する。先生は禁止したくないのだな、ならば賛成意見を提示すればいいのだな。相手の反対意見が前提条件にあり、それを受けて、私の自発的な意見を構築すればよい。

「では禁止せずに、こうすればいかがでしょう。」

そこで返された答えは、質問の答えではない。如何なものかと聞かれたら「あなたがどう思うかを先ずは明言してください」それ以外の応答はないはずである。

「いかがなものか」は、はっきりと問い掛けている訳ではないし、明確な主張でもない。どちらでもない、謂わば独り言である。それでも相手が目上だったり上司であれば切る捨てる訳にもいかない。

自分の立場を自覚した上で問いかけている。そして相手が反対の意見に同調することも期待している、立場で言えば強制でさえある。しかし、重要なのはその先で、自分は反対という立場を決して表明していない、という点にある。私はただどう思うか、と相手に聞いただけである。

これは独り言である。聞いてみただけで何かを期待したものでもない。ただの質問である。返事がなくても構わない程度の質問である。だから、どう受け取ったかは、質問された側の自由であって、私の本意ではない。聞いた方がどう受け止めようとそれは私の問題ではない。

これは婉曲な批判や疑問の表明でさえない。いつでも当人は質問しただけと言い逃れできる。これは婉曲ではない。曖昧である。その曖昧さの中に、相手の意図を巧みに読み取ることを強要した言葉だ。

通常、そういう場合は、自分は反対であると断言するのが一般的である。それが言えない立場なら黙っているのが普通である。反対意見は表明したいが、明言もしたくない。そういう場合は、空気を読んでほしいと相手に期待する。河辺正三と牟田口廉也はこれによって無能として日本歴史に名を刻んだ。

私はこれに反対するが君はどうするかね、と聞かれれば私も先生に従いますと答えればよい。裏切りは血の池であるから。私は如何なものかと思うが君はどうだね、と聞かれたら、私も如何かなものかと思います、と答えるしかない。これで何かが決着するのだから、そこには言葉の意味以外の何かがあるのだ。

どこにも責任の所在を残さないまま、話を進める。質問し、相手の意図を汲んだだけだから。だれも決断していない。問題が起きれば、何時でも下のものを切り捨てられる。切り捨てることを前提として質問している。下のものは忖度しただけであって、先生の意図を汲んだだけと弁明できる。互いに裏切るコストはあまりに低い。私は問うただけである、私は何も決めていない。最初からそれを狙っている。

これは人の上に立つと自覚している人が、決断の責任を回避しながら、相手に忖度を強いる言葉である。忖度した側にも責任を負わせないようにする言葉でもある。だからこの言葉を好む人を私は信用できない。

あなたはこの意見に反対するかも知れない。それは如何なものかと思う。

ごきげんいかが?

2019年5月1日水曜日

国家はなぜ衰退するのか - ダロン アセモグル,ジェイムズ A ロビンソン

収奪的制度と包括的制度の違いに焦点を当てて歴史を振り返る。日本に対する記述は正しいとは思えない。東洋の政治理念に対する理解不足があるように思われる。もちろん、こういう誤解や誤読によって導かれた結論には警戒する必要もあろう。

だから、それ以外の地域、著者が詳しいであろうヨーロッパ、アフリカ、南米、ヨーロッパの影響を強く受けた地域、に関する主張も鵜呑みにできない。

それでも、著者たちの視点の確からしさは十分に堪能できる。そして、収奪的制度、包括的制度の違いが、文化や歴史の必然ではなく、偶発的なものであり、それが決定的なまでに経済の発展性に影響を与える、という彼らの直感は、少々の間違いなど無視できるほどに、否応なく自分たちの国の現状について考えさせる。その行く末を思わずにはいられなくする。

包括的制度はとても簡単な人間理解に立脚している。人にインセンティブを与えれば、勝手に経済活動を開始する。黙っていても人々は自発的に経済活動に参加する。すると多くのイノベーションが発生する。勤勉に勉強し、更なる工夫、よりよい効率、新しい視点、時に邪悪さも含みながら、その地域に豊饒をもたらす。誰も命じてなくてよい。参加する人が多ければ多いほどこの働きは活発になる。

それは単にお金を払えばいいというだけの問題ではない。自由がいる。発想の自由、活動の自由、継続の自由、権利の自由。人々の可能性を重視するならば、皮膚の色、男女、民族、階級、出自などは規制する理由にならない。総和を小さくするのは不利である。パイを大きくするには小麦粉を増やすしかない。より多くの人に参加を求め、より多くの自由を促し、大小様々な創造性に託す。これが包括的制度である。

その反例に、収奪的制度における鉄道敷設反対が挙げられる。鉄道に反対するのはそれ以前の既得権益者たちだ。彼らの職を守る、彼らの権益を保護する。そうすると鉄道というイノベーションは生まれない。収奪的制度では、イノベーションとそれ以外の区別ができない。だから優先すべきものが他になる。

豊かになれば、市場に参加する者が増える。貧しくなれば、市場から簒奪しようとする者が現れる。短期的な利益を最大限にし、その間に稼げるだけ稼ごうとする者たちが出現する。これは社会の活力を失わせ停滞する道だ。残り火を奪い合う競争しか発生しない。

近代の包括的制度はイギリスで生まれた。名誉革命が絶対王政から立憲君主にシフトし、彼らは何回かの危機も回避し、包括的制度のまま産業革命へ突入する。

もちろん、それで市民が平等になったのではない。貧富の格差がなくなったのでもない。産業革命期の労働者の平均寿命は20才にも満たないと言われている。そのような状況がマルクスに資本論を書かせ、ロバート・オウエンらは工場法を誕生させた。

イギリスは包括的制度を保ち続けた。それが大英帝国に繁栄をもたらす。そのイギリスも WW2 後は世界の中心ではいられなかった。その後の中心であるアメリカも今やその座から降りようとしているかのようだ。一体何が世界の覇権を決定づけるのだろう。

次に中心となる国家はどこか。その国家も包括的制度の国であろうか。それとも収奪的制度の国だろうか。本書は収奪的制度の国家が繁栄しないとは主張していない。ただ長続きはしない(100~300年)と主張している。

これから世界で壮大な社会実験が始まる。中国は共産党による収奪的制度の国に見える。だが経済発展や技術革新はまるで包括的制度の国にも見える。中国がこれだけの力を得たのはどうしてか。

中国経済に限れば、包括的制度が働きインセンティブが十分に機能しているように見える。インターネットの技術革新に最も鋭敏に反応している。だが富を得たものは最後は必ず政治と対決する。共産党もそれを十分に警戒しているはずだ。もし彼らが包括的制度を選べば政治が折れる、もし収奪的制度が勝利すれば経済は停滞する。

世界的にみればグローバル企業が国家を超える新しいコミュニティを誕生させてもおかしくはない。国家の衰退を超えて企業が生き残るためには、もし地域の問題が解決できないなら自分たちが乗り出すしかない。経済活動に不利な地域からは移るしかない。ならば国家に変わって企業が統治する地域が出現しても何ら不思議はあるまい。その前に人間はAIによって全員が企業から追い出されているかも知れないが。

インセンティブ、市場への参加、自由な競争、規制撤廃。こういう言葉が乱立した時期が日本にもあった。それは本当に包括的制度への移行であったのか。談合は悪である、既得権益はイノベーションを妨げる障壁である。たしかにそれは包括的制度に見えた。その改革は正しいように思われた。

しかし談合はそれだけの話ではなかった。持ち回りで仕事を回すのは安全保障として機能していた。参加する企業には信用がある。だから査定するコストは小さくて済む。誰かが失敗しても速やかにそれを肩代わりするコミュニティとしての役割も担っていた。地域での強靭な経済活動の担い手、そして市場を支える役割を軽視してはならなかった。

人間のコミュニティには二種類ある。入口の障壁が高いものと、低いものだ。高い障壁は入るのは難しいが入れば信用によって動きやすくなる。だから経済活動に強い競争はないが、将来設計がしやすく、その代わり、互いに我慢しなければならない状況も経験する。

一方で障壁が低い場合は、自由が武器になる。どう参加しようが、どう競争しようが自由である。その代わり、結果に対する責任は重くなる。犯罪に対する罰も重くなるし、不正などに対するペナルティも厳しい。

これらふたつのコミュニティでは、規制と罰則の総和は同じだ。規制で事前に防止するか、罰則で事後に決着をつけるかの違いだけである。それぞれに長所もあれば欠点もある。どのような場合にも通用する万能の方法などない。日本は、基本的に障壁の高いコミュニティであったし、アメリカは障壁の低いコミュニティであった。

もちろん、イノベーションが必要な業界は障壁の低い包括的制度が望ましい。

イノベーションを生むために規制撤廃するのではない。イノベーションが起きつつあるから規制撤廃が必要なのだ。順序を逆にしてはならない。

それを狡猾に利用した悪者が、この国を変えた。イノベーションの必要のない業界に改革を要求をし、常に新しく起こり、激しく競争し、そして様々な理由で退場するのが望ましい地域でもないのにそれを導入した。

なのに規制は撤廃したが罰則は強化しなかった。やったもの勝ちで責任を取る必要もない。そのやり方で古い既得権益を排除し、自分たちが新しい既得権益者へとなる道を作った。そのために法制度も整備した。これが彼が口にした改革の正体である。

いつの時代も、富を合法的に収奪しようとする者はいる。自分たちの利益のために国を作り替える者もいる。己の利益を追求するために改革を声高に唱える者はいる。収奪者もまた改革者の顔をしたがるものである。

本書には、収奪的制度のために発展できなかった類例がたくさん載っている。包括的制度で発展したイギリス、アメリカ、ボツワナなどの類例もある。セレツェ・カーマの話には感動する。しかし、包括的制度から収奪的制度に変わり没落した事例はない。

日本がその最初にならなければよいのだが。

2019年4月29日月曜日

「かわいい」の用法研究

「かわいい」が持つ意味は大きく変わった。そこに古い世代は違和感を感じるが、これまでにないニュアンスが新たに込められたのだから仕方がない。

昔なら、他の言い方をした。所が、今やどれもこれも「かわいい」である。かわいいが持つニュアンスは瞬く間に広がった。が、その意味はどうもあやふや、抽象的である。

けれど、「かわいい」にはオールマイティの強さがあり、便利で、使い勝手が良く、場所を選ばぬ汎用性と、伝播性を兼ね備え、非常に重宝されている。天皇陛下に対して使っても決して失礼に当たらぬ意味性もある。

何故「かわいい」が使われるようになったのか。おいしい、きれい、すばらしい、ではダメで「かわいい」ならいいのか。

「かわいい」という言葉が持つニュアンスを敏感に嗅ぎ取り、絶妙の使い方を開発したのは若い女性たちであった。バブルと呼ばれた時代、あらゆる物が手に入った時代があった。

女性たちは祭り上げられ「これ、おいしそう」「これ、いいなぁ」何か口にすれば何でも手に入る時代があった。「おいしそう」も「いいな」も、これが欲しいという意味である。彼女たちの言葉はすべて、それを私の所に持っておいで、という意味だった。

だが直接的に「欲しい」と言ったのではない。ただ、素敵と呟いた。その言葉を聞き、深読みし、気を利かせ、プレゼントを持ってくるのは、私ではない誰かである。その善意を断る理由はない。私は欲しいとは言ってない。そこにどんな契約も束縛もなかった。彼女たちは駆け引きに勝利した。

これくれるの、本当に、嬉しい。これが欲しかったんだ、よく知っているね、ありがとう。

これは一種のゲームでもあった。先を読む嗅覚、深読みをする鋭敏さ、裏読みをする経験、そして資産、それを手にした者が勝利する。どんな時代にも完成された美しい作法がある。何かを手に入れるにも淑やかな手続きがある。健全な膨張する欲求が発露していた。

1992年、バブルは弾けた。ゲームも終わった。何もかもが手に入る時代の終焉。萎縮した経済が、何もかもを吹き飛ばした。それまでと違う状況が始まった。

だが人間がそう簡単に過去から脱却できるはずもない。自分たちが次は主役になると待っていた世代がいた。彼女たちにとって迷惑な話だ。この国を好き勝手にし挙句に没落させた世代の、なぜ私たちが犠牲者にならなければならないのか。後始末もせずに次世代へ不良債権を押し付ける世代が許されて、私たちは何も許されない。

冗談ではない、私達にその責任はない。乗り遅れた失望と取り残された屈辱の中で、彼女たちは活路を見いだす。何もせず手に入れる時代は終わった。ならば対価を払う戦略しか残ってない。少なくともそうすれば手に入るのだ。この国に物はまだ溢れている。失ったのは金だけだ。

何を躊躇する必要があるものか、誰も責任を取らない混乱が到来したのだ。私たちだけがなぜ健全でなければならない。ショーケースの中にあるものを盗んだ連中よりはずうとましである。彼らは盗んだ。私たちは盗まない。正当にそれを手に入れている。

どの時代も前の世代とは違う自分たちに誇りを持って健気に歩く。もし曲がっているように見えるなら、それは空間が歪んでいるからだ。誰もが戦略に長けた誇り高き世代なのである。何も恐れず、堂々と、歩く。

幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

経済の停滞が20年も続けば、物を得るという価値観も廃れる。この世界は前の世代の人たちがいうほど悪くはない。慎ましくしていても、ささやかでも素晴らしいものはたくさんある。

私たちの価値観からすればバブルの方が馬鹿馬鹿しい。物と金で熱狂した世代、危険に気づかずバブルに浮かれた世代、その後始末は今も続いている。失われた時は戻ってこない。ならば、私たちはリアルな今を生きる。

バブルを知らない新しい世代にとってバブル時代に使われた言葉は汚れきって使えない。きれいといえば、プレゼントされるし、おいしそうといえば、店に連れて行かれる。その対価を当然のように求めてくる。こんな言葉ではどんなコミュニケーションも適わない。

私たちは欲しいなら欲しいという。欲しくないならいらないと言う。彼女たちにとって、どのような言葉を選ぶかは切実なコミュニケーションの重要課題であった。勝手にプレゼントをされるのは困る。その対価を求められても知らないよ。

そうじゃないんだ、私たちはただ自分の思った事を自由に表現したいだけなんだ。欲しい時は欲しい、欲しくない時はいらない。ただそれだけの事なのに、なぜ勝手に勘違いするのか。「おいしそう」は奢ってという意味じゃない。

何を言っても物欲しげと思われては適わない。何を言ってもお金の匂いがするなんて勘弁してほしい。プレゼントの対価としての自分などごめんだし、金銭で結ばれる関係なら、構築したければ、そんな方法、幾らでも知っている。

バブルで殆どの言葉が使いものにならなくなっていた。バブルの後始末は、借金だけじゃない。何かないか。汚れていない言葉は何かないか、自由に使える言葉は何かないか。

これは素敵ですね、だからと言って欲しいと言っているのではありません。あなたと寝たいという意味もありません。あなたのそれは美しいですね、だからと言って譲って下さいという意味はありません、あなたと寝てもいいという取引でもありません、いちいち、そんな言い訳をしなくちゃいけませんか。

「かわいい。」

子犬に対して使う、子犬をかわいいと言う。バブル期になら犬をプレゼントしてという意味はあったかも知れない。だけどそう簡単に犬は飼えないよ、当時だって恐らく迷惑だった。赤ちゃんに対して使う。赤ちゃんをかわいいと言う。でも、それは赤ちゃんを下さいという意味ではない。

かわいいに欲しいというニュアンスはなかった。取引しようという含意もなかった。誰も貶めはしない、馬鹿にする言葉でもない。褒めているし、肯定もしている。そして、見返りを求めない。

彼女たちが「かわいい」というとき、ただ気に入った、好きだ、好みだ、という意味になる。それだけ。深読みも裏読みもしないで。駆け引きする気などないよ。だけどいま心を動かされているんだ。

自分の気持ちを素直に言う言葉が初めて手に入った。だから、あっという間に広がった。何もかもが「かわいい」と表現されるようになった。

今は、次のフェーズに入りつつある。「かわいい」だけでは飽き足らなくなるのは当然である。もっと表現の幅を拡張したい。次のステージは、かわいいだけでは表現しきれない私たちの多様な感情を取り戻す事にある。

激おこ、テヘペロ、マジ卍、新しい言葉が次々と発明される。意味は不明でもフィーリングで通じる。分からない人には何を言っても通じない。イニシアチブは私たちにある。分からない人たちは勝手にリブートしてて。

「かわいい」から始まった新しい表現の獲得は、「おいしそう」「すてき」を使えなくなった彼女たちが自分たちの表現を再獲得するための闘争であった。言葉の裏にある物品や性の交換という約束事を排除したコミュケーションの獲得。言葉の繚乱。

古いコミュニケーションは新しいコミュニケーションの一部となり、新しいコミュニケーションは、次のコミュニケーションによって古くなる。どの時代も言葉は刷新され、常に新しくもあり、古くもある。繰り返し、螺旋、革新、懐古、どうやら新しい世代は新しい言葉を発明せずにはいられない。

だとすれば、人類が初めて言葉を獲得した時も、言葉の前にコミュニケーションがあって、言語の発見は新しい世代による新しい表現の獲得のひとつだった。それでは表現できない、そういう渇きが当時の若い人たちにもあった。そう思う。

世界は今日も言葉を殺し合いの理由にする。それと比べると「かわいい」を獲得した彼女たちのなんという不屈、誰も傷つけないという信念に基づいた行動であるか。

川に流れるうたかたを、こうしてひとつふたつすくっている。

2019年3月30日土曜日

日本国憲法 第五章 内閣 I (第六十五条~第七十一条)

第六十五条  行政権は、内閣に属する。
第六十六条  内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3  内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
第六十七条  内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
○2  衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。
第六十八条  内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
○2  内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。
第六十九条  内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
第七十条  内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。
第七十一条  前二条の場合には、内閣は、あらたに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。

短くすると

第六十五条 行政権は、内閣。
第六十六条 内閣は、内閣総理大臣、その他の国務大臣。
○2 内閣総理大臣、国務大臣は、文民。
○3 内閣は、行政権について、国会に連帯責任。
第六十七条 内閣総理大臣は、国会議員から指名する。
○2 衆議院と参議院が異なつた場合は、衆議院の議決。
第六十八条 内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。
○2 内閣総理大臣は、国務大臣を罷免できる。
第六十九条 内閣は、不信任のときは、衆議院が解散されない限り、総辞職。
第七十条 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後は、総辞職。
第七十一条 前二条の場合、内閣総理大臣が任命されるまで職務を行ふ。

要するに

政治家とは何か。

戦争の意味

先の戦争は結果論で言えば僥倖である。日本は敗戦によって様々なシステムを強制的に刷新することができた。戦後の新しい国の形は戦後の体制によりマッチしたものであった。もしあのまま帝国憲法のまま戦後を迎えたならばこの国はどのような道を歩んだであろうか。驚くべきことに我々は帝国憲法をただの一度も改定できなかったのである。あの激動の時代においてである。我々は21世紀になっても明治憲法を一行も変えずに国を営んでいるであろう。

天皇を機関と呼ぶだけで職を失うほど当時の議論は稚拙であった。20世紀の様々な変革、革命、革新。量子力学という新しい知見、ソビエト連邦の誕生、重工業の発達、新しい経済学と世界恐慌、帝国主義と資本主義の対決、イギリスの没落、世界は同時多発的に一斉に転換期を迎えた。それは偶然ではあるまい。

その時勢に日本だけが置いてきぼりであったとは考えられない。どれほど明治の元勲が優秀であろうと一度の憲法修正もなく20世紀を乗り越えられるはずはなかった。政治も変わる必要があった。それが国家に憲法の改定を強要しないはずがない。そうであったのに、一度も変えることなく20世紀を過ごした。どういう価値観をしていれば変わらないでいられると信じられたのか。我々の歴史は、その軋轢の中で摺りつぶされるための選択の結果だ。

世界の激流からなぜ日本だけが無関係と信じることができたのか。いや、当時の人々も世界の変革はよく知っていた。だが知っていただけであった。まるでテレビの向こうに映る津波を見るような。気が付いた時には何もかもが飲み込まれ何ひとつ抗うことも出来なかった。まるで袋小路に追い込まれた蟷螂のように斧を振りかざすしかなかった。我々は何を取りこぼしたのだろう?

20世紀は資本主義の時代である。帝国主義の没落の時代でもある。第一次産業を基盤とし農業で利益を生み出すシステムと、重工業によって利益を生み出すシステムが真向から対決した。アメリカは南北戦争でそれを経験していた。20世紀は帝国主義と資本主義の間で戦争が起きた。このふたつの産業システムの覇権争いであった。農業と工業が戦争という形で争った。だから第二次世界大戦後は世界中が工業へとシフトした。

日本の敗戦は技術だけでなく思想の敗北でもある。戦後の人々はそう考えた。戦争が総力戦であることは官僚たちも知っていた。だから国家総動員法を作ったのである。それでも、企業間でネジの規格を揃えることも出来なかった。彼らはただ知っていただけなのである。だから現実との乖離した部分を想像力で補うしかなかったはずなのに。敵も総動員してくる。その規模は我々の想像力を遥かに超えたものであった。まさか毎週一隻の空母が進水するとは夢にも思っていなかった。例え知っていてもそんな絵空事では誰も説得できなかった。

政策は虚構である。まず想定があり、それに手当をする。想定内には想定内の対応をする。それで終わるものだ。それで足りない時はどうするか。どうせ足りない。無いものを考えるのは無駄である。悪いのは計画ではない。計画通りに進まない現実の方である。空想が現実と近ければうまくいくし、遠くなれば失敗する。なにも不思議はない。

もし戦争をしなければ

この国は戦争に突き進んだ人々を縛り首にはできなかった。だからアメリカなどが代わりに彼らを吊るした。裁判とさえ呼べない裁判で、証拠などなくとも有罪である。そうでなければ何故あれだけ多くの人々が死ななければならなかったか。その説明ができない。

戦争へと突き進んだ人々のなんと多くが戦後を生き延びたことか。誰も彼らの責任は問わなかったし、彼らの行為を振り返りもしなかった。それぞれが自分なりに敗戦を処理した。そこに歴史の深淵を見た者もいれば、忘れるのがよいと考えた人もいた。

最後まで誰もが日本人であるという認識に立ち、愚策も失敗も追及することはなかった。社会から追放さえしなかった。沈思する者たちは、自ら世間との係わり合いを最小限にして生きた。

もしあの敗戦がなければ、我々は戦争に突き進んだそのシステムのまま戦後を生きているはずである。徴兵制を辞める理由がない。軍事予算を優先しない理由がない。戦後に失った領土は今もわが国の領土のままかも知れない。だが、それと引き換えに閉塞した古いシステムのまま、今もソビエト連邦の南下に対抗するための軍事国家として生きている。

単独でソビエトと対抗するしかない、日本はそう考える。もう一度、中国大陸でソビエトと戦争をするか。日本があれだけ苦労しても撃ち落とせなかった B-29 をソビエトは朝鮮戦争で面白いように撃ち落した。空の要塞が火だるまになって墜落していった。 MiG-15 に対抗できるものを日本が単独で開発できたか、甚だ疑問である。それは、あの敗戦からたった 5年後の話である。

もし敗戦していなければ、日本の工業力は戦前のままである。工業化に失敗した貧弱な農業国(帝国主義)が、機械化師団を有するソビエト(工業国)とどう対抗しうると想像できるのか。

どのような戦争であれ、始まれば間違いなく核兵器が使用されるだろう。どう転んでも我々は世界で最初に核兵器で燃やされる民族になるのだ。

当時の状況は、2019年のイランに非常に近い。世界から孤立して、単独で生き抜くしかない、支援する友好国は少なく、周辺地域を巻き込んだ戦術を展開するしかない。彼らの国家戦略は、まるで当時の日本を見ているようだ。

明治維新とは、結果的にはロシアと対抗するために起きた騒乱であった。そのために徳川幕府を倒したと言ってよい。だから日本は軍事に注力した。日露戦争でさえ通過点に過ぎなかった。脅威は全く去らなかった。だから大陸での政略が必要だと考えたのである。当時の軍部はそう信じていた。

我々は常にソビエトの脅威に怯えていた。それと対抗するのに軍事以外の手段を何も知らなかった。我々は世界では単独で生きるよい仕方がないと考えた。日本がソビエトの脅威から完全に解放されたのはアメリカと同盟を結ぶ事によってである。

そうして初めて日本はソビエトの脅威を考えずに政治をすることが可能になった。単独では遂にソビエトを排除できなかった。当然だが、アメリカだって単独では抗しえないのである。日本はそれでも単独で排除しようと考えた。アメリカは世界中を巻き込んでこの問題と対峙した。日本は一度もこのような発想を持ったことはなかったはずである。常に孤立した視点でしか世界を見てこなかった。

政治家とは何か

聖徳太子は政治家だろうか。どうも彼の偉業は大きすぎて、肩書など必要ないように思われる。とにかく偉い人なのだ、それだけで十分な気がする。

彼はどの時代でも尊敬を集めていた。どうして彼が偉かったかを説明できる人はいまい。だが、彼が日本の今という方向を決めた、少なくとも、それを決めるのに極めて大切な役割を果たした、そう思われる。

政治家と官僚は明らかに違う。それは、専門性、交渉力、雇用形態、権限の委譲などの違いだろうか。ただの役割の違いだろうか。

その所在を詰めれば、政治家と官僚の違いは、責任を取れる者と取れない者の違いではないか。では責任を取るとはどういう事か?死ぬもよし罰せられるもよし、汚名を挽回するもよし、責任を取るとは、裁かれるという事だ。そのための基準がいる。

だから、官僚とは責任を取れる立場の人々の事である。決して無限の責任を負わされるわけではない。結果を評価する。それを裁く基準がある。それが法である。法によって、その行動の責任を負わせる。法によって、罰する。こうして責任を取らせる事ができる。

では、政治家は責任を取れないものか。政治家が失敗すれば選挙に落ちるだろう。暗殺されることもある。だが、それは決して責任を取った結果ではない。法によって罰せられた結果でもない。政治家を裁くものはどこにもいない。中世においてさえ、それは神の役割であった。実質、存在しないに等しかったのである。

選挙とは無能な政治家を置き換える仕組みであって、罰する仕組みではない。ましてや歴史の評価など政治家の責任とは何も関係ない。

責任を取らないのではない。政治家は誰も責任を取れないのだ。そういうシステムがある。

信用とは裏切った時に、決して許さない事である。信頼とは裏切ったときも仕方ない、と許す事である。官僚には信用で託す。政治家には信頼で託す。

政治

「独立」が近代国家を支えるエッセンスである。だから近代国家という理念には常に「独立」を益するための思想がある。基本的人権、自由、幸福。追及すれば独立という場所に辿り着く。

だから植民地で教育を施した所で、独立を取り除いた教育など歪なものである。最も肝要なものが抜き取られたからだ。

どのような国家も堂々と主張する。それが本心であろうが、虚像であろうが、嘘であろうが、正直であろうが関係ない。堂々と発言する、それが政治である。世界を動かす必要があるなら、太陽は西からでも昇らなければならない。

必要なのは堂々とした主張であって、嘘や矛盾、批判に答えるのが政治家の仕事ではない。堂々と論破される者は、卑屈な正論に勝る。政治家の仕事は堂々と勝利宣言をすることにある、これ以外の能力は必要ない。

政治家が何かの専門家である必要はない。もし専門家なら、それは特定分野の代表になる。民主主義はそれを戒める。では何の専門家でもない政治家がなぜ立法の代表となりうるのか。素人が法律を書いてもうまく動くなどありえないではないか。

だから、国家には様々な人がいるのである。多様な専門家が揃っているのである。分からなければ聞けばいい。それが政治家の資質である。それぞれの道に専門家がいる。職人がいる。達人がいる。政治家がそのいずれかでもある必要はない。

政治家はよく聞き、考え決めるのが仕事である。市民が理解できないことを、どうして法律にできるだろう。それでは国民は法律など理解できなくともよい、ただ従えばよいという存在になる。民主主義はそれを否定する。

政治家は国の中から選出された。だから政治家の中にもその国が持つ常識がある。その常識で問題と取り組む。意見を広く聞き、様々な想定をし、そこから決断へと至る。すべてをその国が育んだ常識で決めよう、それさえあれば足りる。民主主義のこれが基本方針である。

もし考え抜いた結論が間違っていたら、誤っていたら。それはただ命数が尽きただけの事。人材が尽きたのだから仕方がない。国は亡びる。その国の常識が役目を終えたのだ。逆に言えば、そこで尽きるべきだ。

江戸期の政治家は阿部忠秋のような人たちもまた、ただひたすら己れの能力を磨いた。彼らは人生の真ん中に政道を据えた。それは専門性を鍛えたわけではない。その時代の常識を磨きに磨き抜いた。覚悟は常にしていたはずである。

聖徳太子は語る。どちらの主張もよく聞き、互いの既得権益、縁故、義理、恩義などを思いやれば、必ず話し合いで道が見つかると。彼は一番大切なことを語っていない。双方が望んだ解決とは限らない。決裂かもしれない。話し合いで解決しない例など、世界のニュースで嫌というほど知っている。

それでもそう語った。なぜか。

争いを止めるには呼びかけるしかない。それか相手を滅ぼすである。物部の滅亡を見ていた彼がそれを知らなかったはずはない。だのに彼は堂々とこの国の根幹を決定づける嘘を吐く。和を以て貴しとせよと。

そう言われたからこの国の人々はそれを信じたのか。否。彼は人々の中にそういう性向を見つけた。それをこの国の中心に据えればよい、そう確信した。敢えて憲法に書いたのは、同時に彼は人々の中に滅ぼせばよいという性向も見ていたからだろう。

2019年2月24日日曜日

どっちをどっちで割るんだっけ?

@see
水100cc に 1 g の塩を溶かした時の濃度

問題

50のうちの26を占めます。比率はどれくらいでしょうか?

比率は割ればいいに決まっている、という事は、どちらかの割り算のはずである。

50 ÷ 26 = 1.9230769230769230769230769230769...



26 ÷ 50 = 0.52



結果の意味

比率 n:m を求める割り算は二つある。

それぞれが示すのは数の比率であり、グラフの傾き(y/x)である。それは線対称でもある、ベクトルのようでもある。



何故こんがらがるのか

比率や濃度の計算でこんがらがるのは割り算だからである。

足し算や掛け算ならばどっちがどっちという問題は生じない。どっちがどっちでも答えは同じだからだ。足し算、掛け算を使うと理解した時点で問題は解決したも同然である。

引き算は少し違って、引く向きを考えないといけない。所が、間違えた所で変わるのは正負の符号だけだから、計算は無駄にならない。引く方向を間違えても符号を変えるだけでいい。答えの絶対値 |A-B|=|B-A| は等しい。これは、引き算の余りを求める場合でも、同じである。

割り算だけが、順序を間違うと答えが全く変わる。A÷B と B÷A は違う答えになる。なぜ、割り算だけがそうなるのだろうか。

割り算を理解したい

ふたつの数がある。人間の脳は、これを区別するために、勝手な意味づけをしようとする。そういう意味付けをした方が理解しやすいからである。この意味付けは、計算する上では何の役にも立たない。ただ式を作るときに、式を理解するときに、少し役に立つ場合がある。

算数、数学には、自由に式を立てられるという利点がある。だから、意味を持ち込むことは基本的にしない方がいい。意味は数学を束縛し、その自由度を損なう恐れがあるからだ。

人が理解するために様々な意味付けをする。意味付けと言っても、基本的にはそれらは人間の勝手な思い込みや妄想である。

そう考える方が式が立てやすいと思う人には役立つだろうし、そうでない人には役に立たない。だから誰もが同じように理解する必要はない。無益だと思う人は忘れていい。

人間にとって、理解できない多くの場合は勝手な思い込みや偏見である。意味付けすることで、時にその思い込みを払拭できる。また、同様に、その意味付けによって思い込みや偏見が生まれる。

数の大小関係に注目する

さて、割り算。計算する順序で答えが変わる。答えが変わるのは、数の大きさが違うからだ。

ふたつの数があれば、その大小関係は3つある。
ケース関係割り算では引き算では
1AよりBの方が大きいA<BA÷B<1, B÷A>1A-B<0, B-A>0
2BよりAの方が大きいA>BA÷B>1, B÷A<1A-B>0, B-A<0
3AとBは同じ大きさA=BA÷B=1, B÷A=1A-B=0, B-A=0

引き算では大小関係は0を基準とするのに、割り算では1を基準にしている。何故だろうか。

[NOTICE]
上の例は正の数の場合。負の値が入ると大小関係が変わってくる。例えば、2>-2 では 2/-2=-1<1, 2-(-2)=4>0 など。

引き算による大小の把握

大小関係を知るだけならば、どちらでどちらを引いても構わない。
もし答えが0より大きいならば式の最初にある数の方が大きい
もし答えが0より小さいならば式の後ろにある数の方が大きい
もし答えが0ならば数は等しい

この時、引き算は、例えば 100-1=99、10000-9000=1000 などのように数の(差)を教えてくれるが、ふたつの数がどれくらい大きいか(何倍であるか)は教えてくれない。

割り算の意味

割り算は何倍かを求めることができる。
A ÷ B = C
A は B の C 倍である。
1倍のとき、ふたつの数は同じだ。

割り算を掛け算の逆と考えてもいい。
A * B = C
掛けられる数 × 掛ける数 = 答え

C ÷ A = B
C ÷ B = A
1倍しても、元の数は変わらない。

掛け算には、掛けられる数(A)と掛ける数(B)がある。割り算にも、割られる数(A)と割る数(B)がある。これは式の構造に着目した呼び方である。
A ÷ B = C
割られる数 ÷ 割る数 = 答え
[NOTICE]
この呼び方は、式の中で「作用する数」と「作用される数」があるとする考え方である。この考え方は極めて言語的で、形容詞が名詞を修飾するように、式の中にもどちらかからどちらかへと作用する関係があるという考え方に基づいている。この考え方は多くの解釈の中のひとつであることに注意。数式の中に作用する側、される側という区別があるわけではない。

等分という考え方。
A ÷ B = C
A を B等分したら、ひとつあたりは C になる。
1つに分けるのなら、ぜんぶを独り占めだ!

割り算のよくあるシチュエーション。
具体例
何倍か、大小を比較する9個の飴と3個の飴のどちらが多いかを個数で判断する。
1kg の肉と500gの肉のどちらが重いかを判断する。
5平方mと四畳半のどちらの部屋が面積で広いかを判断する。
等分する、同じ大きさに分ける9個の飴を3人で分ける。
10kgの肉を4人で同じ重さで等分する。
1つのケーキを25人で同じ体積で等分する。

個数(50個と26個)


面積(一辺が2と10の正方形)。



なぜ比率や濃度はこんがらがるのか?

割り算は、何倍や等分を求める時だけでなく、濃度や比率を求める時にも使用する。
100ccの水に溶けた1gの塩の濃度(101ccの塩水)。
1(塩) ÷ 101(塩水) = 0.00990099009...
百分率にして 0.9% と呼んだりもする。

濃度とは何か。「溶液中の溶質の割合」「量を全体積で除した商」などと書かれるが単位を見るのが一番だろう。単位はそのまま式になっている。
濃度の単位 [重さ/体積] g/L, g/cc, mol/m3 など。

重さ:mol, mg, g, kg, t など。
体積:m3, L, mL, uL, cc など。

割り算に単位をつけると、式で求めた答えの意味を示すことができる。
割られる数割る数答え単位説明
飴10個2人10/22個/人一人当たり2個の飴
塩1g塩水101cc1/1010.009g/cc1ccに0.009gの塩

塩水の濃度は、塩水の中に溶けている塩の量を求める事ではない。溶けている量は 1g と分かっている。これが水 100cc の中に溶けている。濃度とは 101cc の塩水から 1cc だけを取り出した時に溶けている塩の量を求めることになる。

1ccあたりの濃度を知れば 150cc の水に何gの塩を溶かせば同じ濃さの塩水を作ることができるかが計算できる。ふたつの塩水の濃度を求めれば、どちらが辛いかを知ることができる。

舐めて調べるのではなく、数値にして大小を比較する。これは大切な事だ。

数式と単位

算数の数式は必ずしも単位を必要とはしない。単位がなくても計算はできる。だけど日常に出てくるたくさんの数には単位があって、時間、長さ、重さ、面積、体積、個数、濃度、速さなどが普段の生活では省略されている。

10 ÷ 5 という式は算数だけど、10km / 5h だと物理になる。これは速度かもしれない、一時間で歩いた距離を求めているのかも知れない。

もし濃度を求めるのに、逆の順序でやってしまうと 101cc ÷ 1g になる。この時の単位は cc/g となる。これは 1g が溶けている食塩水の量という意味になる。例えば 5g の塩が解けた 1000cc の食塩水がある。1g の塩を取り出したければ 200cc だけ汲めばいい。濃度は 5/1000=0.005g/cc だから 1g/0.005g=200 とすれば 1cc*200=200cc と同じ結果が得られる。

比率

50 のなかに 26 があるなら、50 の中に 26 が含まれているという事になる。比率は「含まれている」というイメージで、「含まれている方」を「含む方」で割る。これは「含まれている方」が、全体の何%を占めているか、を求めるのと同じだ。
26 / 50 = 0.52
含まれている数 ÷ 含む数 = 比率

ミカンとリンゴの値段が4:5の比になっている。ミカンの値段が200円のとき、リンゴは幾らか?

200円に対するリンゴの値段が知りたい。知りたいのはリンゴの値段なので、ミカンの値段はリンゴの値段の中に含まれていると想像してみる。すると、200(ミカンの値段)÷リンゴの値段で比を求める事ができそうだ。

200:リンゴの値段=4:5
200÷リンゴの値段 = 4/5 = 0.8

両辺にリンゴの値段を掛ける
200 = 0.8 × リンゴの値段

両辺を0.8で割る。
200 ÷ 0.8 = リンゴの値段

計算する。
200 ÷ (4/5) = 200 × (5/4) = 200 × 1.25 = 250

比について、全体の中でどれくらいを占めているか、というイメージで説明してみた。

終わり

割り算はなんとなく「大きい数÷小さい数」というイメージを持っていた。それはそのまま「全体の数÷部分の数」という風に考えていた。この考え方は何倍とか等分する場合には何も問題がない。ところが濃度の式だと「小さい数÷大きい数」となるので、何か不思議な感じがする。

濃度が分かりにくいのは、それが割り算だからではなく、濃度だからだった。濃度への理解が足りていなかった。それは単位についての理解が不足していたと言ってもよい。大切なのは適切な割り算ではなく、適切な単位の理解であった。