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2022年1月26日水曜日

日本国憲法 第七章 財政(第八十三条~第九十一条)

第八十三条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
第八十四条 あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
第八十五条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
第八十六条 内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。
第八十七条 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
○2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
第八十八条 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。
第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
第九十条 国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。
○2 会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。
第九十一条 内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。

短くすると

第八十三条 財政は国会の議決に基いて行使。
第八十四条 租税を課し、変更するには法律。
第八十五条 国費支出は、国会の議決。
第八十六条 内閣は、会計年度の予算を作成し、国会に提出。
第八十七条 予算の不足に充てるため、内閣の責任で支出できる。
○2 予備費の支出は、事後に国会の承諾。
第八十八条 皇室財産は、国に属する。皇室費用は、予算に計上。
第八十九条 公金は、宗教、団体の使用、便益、維持、公の支配に属しない慈善、教育、博愛の事業に対し、これを支出してはならない。
第九十条 収入支出の決算は、毎年会計検査院が検査し、内閣は国会に提出。
○2 会計検査院は、法律で定める。
第九十一条 内閣は、国会、国民に対し、毎年一回、国の財政状況について報告。


要するに

税とは何か。


停滞

21世紀は先進国が停滞に入った時代。全ての先進国は伸び悩んでいる。新興国の追い上げの、そのモデルは20世紀のまま。大量消費に裏付けられた経済システム。地球の資源が有限である以上、無限の経済発展はあり得ない。

この星のあらゆる活動の殆どが太陽からのエネルギーに支えられている。よって経済活動も太陽エネルギーの活用の範囲を出る事はない。少なくとも別恒星を経済圏に入れない限りは。ただその莫大なエネルギー量の前では人類の経済活動は僅少である。

人類の活動が地球の環境に影響を与えているのは確かだろう。そもそも人類を待たずとも24億年前の藍藻がこの星を酸素の星に変えた。生命の住環境の変革は常にこの星の上で起きている。人類も藍藻も変わらない。

国家がこの星に誕生したのは資源の独占と同時期であったろう。限られた資源を寡占する事、人間の行動は常にそこに収束する。

寡占状態が国家に国王を生み、階級を作り、労働力に奴隷をあてがい、利害の衝突が法を発明させた。これは他ならず人間の数が一定数を超えたから起きた。少なくとも歴史に王朝の記録が現れた頃、既に人の数は多く法を必要としていた。

法が言葉で書かれる以上、法が言語の論理構造に従うのは自然で、例え神託であっても、その多くは禁止と命令である。それに人が従う為には王が必要である。法を裏付ける為に王は存在する。だとすれば、王とは約束を違えぬ者の意が含まれる。

これを逆に見るなら人は裏切るのが本質である。恐らくそれは生物が本来もつ行動様式であろう。それについて人間がいつ頃から嘘を嫌うようになったか。

騙すとは情報の誤謬である。もしひとつの事象にひとつの情報しかないならば誤りは起きえない。ひとつの事象に複数の情報が割り当たるから不一致も生じる。騙す気があろうがなかろうが、ふたりの異なる認識は、片方にとっては相手の嘘になる。


法と税

いずれにせよ法がある所に税がある。税を初めて要求された時に人が何を思ったか。だが、王が如何に人徳の優れた者であっても、税を要求する理由に納得できるとは思えない。正当性があるとは思えない。

よって税の前に略奪があった。略奪があり、略奪から守る、その為のコストとして税がある。どちらに払うかという選択が、王の徳という形で価値観を形成した。

見返りがあるから税を払うのである。よって税は一種の交換である。合意された契約である。それが人々にとって受け入れられた地域はより発展する。その結果、その地域には人が集まり、そして生まれる。

暴力に晒されない、飢えない、理不尽な略奪がない、これが税の根本であろう。そして、このささやかな平和のために徴収する。よって、税の本質は暴力と飢えと略奪なのである。それに人々が従うのは、単に王と国家への信頼が揺るがないからに過ぎない。

王への信用が税ならば、税は信用の対価である。この信用があるから貨幣を生む。よって税を取れない国家には貨幣の価値は維持できない。

憲法の始まりであるマグナカルタ、アメリカ独立へと続くボストンお茶会事件、どれも税に発端する。フランス革命は国庫が枯渇して起きた。全て信用の問題であるから誰も引き下がらなかった。


略奪と税

借りたものを返す道徳は、所有という概念の発生と近い時期に誕生した筈だ。

ミトコンドリアは真核細胞内に住環境を求めたが、細胞を所有した考えはあるまい。細胞がミトコンドリアを所有した考えもないはずで、ともに住環境に不都合はなかった。

常在菌にとっては人体がこの世界の全てであろう。微生物は人間の体を所有したとは考えないだろう。人間も常在菌を所有したとは考えていない。しかし彼/彼女らにもテリトリーは存在する。

テリトリーは奪い奪われる。この闘争に正当性はない。奪う側と奪われる側のどちらにも言い分はあるが、そこに正義も不正義もない。

それは他者を排除する生存を賭けた闘争である。しかし縄張りは所有ではない。所有ではないが同じ線上にある気もする。

縄張りと所有の違いは略奪があるかどうかだろう。不正に奪うから略奪なのである。所有という考え方があるから略奪なのである。併せて寄生という概念も成立する。単に奪うだけでは略奪ではない。少なくとも聖書の神はヨブにそう教えた。

略奪者たちは他の場所からは略奪しても彼らの中では略奪を許していないはずである。そうでなければ集団は成り立たない。


流通

100円が市場で流通すると、それは取引した回数だけ所有者を変える。所有者を変えても100円の価値は不変だから、どれだけ交換が発生しても市場における100円の価値は変わらない。

だがモノの価格は取引の度に上がってゆく。自分の利益を上乗せするからだ。そのため取引の回数が多くなるほど価格は上乗せの量だけ高くなってゆく。

市場の購買能力は、この取引に上乗せした総和を上限と見做しても良さそうだ。この上限を支える限界がその市場の能力と見做せる。

では市場の能力を決定するものは何か。上乗せにした量を支払う能力に等しいだろう。だから市場の価値はモノの価値よりも余剰分だけ高い。

この余剰分は取引の度の落差となって、水の流れや、熱に似ている。市場での落差は、熱力学を参考とした自然現象として理解できそうな気がする。


市場の能力

価格は市場の取引で決定する。高すぎれば低く、安すぎれば高くなる。実際は市場に問うてみるしかない。その結果として適正な価格に落ち着く。

市場では取引があり、取引の回数は、モノの数量と市場の購買能力で決まる。購買能力は、取引の上乗せ分に依存する。モノの数量と購買能力は、自分の尻尾に食らいついたヘビの頭みたいに、相互に影響する。
基本式
\(取引回数 = モノの個数 \div 市場の購買能力\)
\(市場の購買能力 = 取引回数 \times 上乗せ分\)

式の変形
\(取引回数 = \frac{モノの個数}{取引回数 \times 上乗せ分}\)
\(取引回数^2 = \frac{モノの個数}{上乗せ分}\)
\(取引回数 = \sqrt{ \frac{モノの個数}{上乗せ分}}\)

これを代入すると
\(市場の購買能力 = 上乗せ分 \sqrt{ \frac{モノの個数}{上乗せ分}}\)

市場の購買能力と上乗せ分の関係


これに従うなら市場の購買能力はモノの個数を増やそうが、上乗せを増やそうが、どこかで飽和する。だから飽和しないように調整する必要がある。それに失敗した市場は飽和の波に沈む事になる。


経済と熱力学

経済活動で起きる様々な出来事は常に影響しあっている。ミクロで見ればとても小さな粒子の動きがマクロでは体積、圧力、熱などの物理現象として観測される。

何もない真空から粒子が発生し、対消滅して消える。同様に経済活動の中にも、何もない所から発生し市場に参加するものがある。

その代表的なものが税と利子になる。この二つは常に発生し作用している。経済活動には常に税と利子による縮小する力が働いている。

税は国家への信用を数値化したもの、利子は未来に対する不信を数値化したもの。税への信用が国家の経済を成り立たせている。その信用が国債を保証している。

では、国家の信頼があるのになぜ国債には利子が必要なのか。利子が付かなければ国債を買うものはいない。それは未来に投資したリスクが0に出来ないからだ。調度、熱の発生を0に出来ないのと似ている。

国債の利子は支払わなければならない。利子を返済するには、新しく紙幣を刷るか、税で搔き集めるか、別の国債を発行するしかない。それをいずれの手法であっても保証するものが税である。税が取れない国家の紙幣は紙くずである。信用がない国家の国債も紙くずである。国家の信用は税だけで決まっている。

経済循環の外に太陽エネルギー、地球にある鉱物、植物、動物の生命がある。これらは宇宙で生まれ、地球という環境に堆積したものだ。人間はこれら市場の外にあるものを取り出し、市場の中に取り込んでいる。

労働も経済の外にある。人間が頭の中で生み出したモノも最初は経済の外にある。宗教であろうが、科学であろうが、娯楽であろうが、人の頭の中から出現する。このように市場の外で発生するものは市場から見れば無から生じたに等しい。

ここで最初の落差がある。0のものに市場に参加する時に価格が付けられたからだ。

市場には外で発生したものを取り込み、消費し、外に排出する循環がある。入出力のバランスが崩れれば地球が温暖化するような事が市場でも起きる。

  • 何もしなければ、市場は税と利子により停止状態へ向かう。
  • 市場の購買能力は価格の上乗せ分に比例する。
  • 市場はモノを入力とし、税を出力する機関と見做せる。


無駄

もし経済にエントロピーがあるなら、全員の所得が均等になる共産主義の理想がエントロピーの最大だろうか。

だが、その状態が市場に何も変化を起こさないとは考えにくい。市場が停滞するには、熱の高低差が0である必要がある。市場における高低差が0とはどういう状態だろうか。

所得が十分に得られるなら、市場での取引が停滞するとは考えにくい。取引を控える場合、その対義語は貯蓄であろうと思われる。貯蓄は未来に向かって行う。それは未来への不安に対する保険として行われる。

利益を追求する資本主義の原理では、目先の利益を最大にする方向に向かう。\(利益=価格-コスト\)であるから、価格を最大にし、コストを最小にする。コストに含まれる税や利子は排除できないから、それ以外を効率化、無駄の削減として削減する。

例えば在庫を減らす事は効率的とされる。モノの余剰は無駄なコストを増大する。だから削減する必要がある。余剰には労働者の賃金、材料費も含まれる。あらゆるものがコスト削減の対象である。

低価格は競争力そのものであるから、価格は上昇させられない。よって企業が取る方向にはコスト削減しかない。その結果として市場では交換する機会は減り、購買力も小さくなる。交換機会の減少は、企業単体では利益の最大化に寄与する。しかし市場は貧弱になってゆく。

こうして資本主義における企業活動は自然と市場を縮小に向かわせる。これは連作障害を起こしている畑と同じだ。

これは効率を最大にしたカルノー機関が最大のパフォーマンスを発揮するのかという工学上の問いに似ている。無駄に熱を捨てない事はある観点の最大の効率であろうが、それが常にパフォーマンスと比例しているとは限らない。

利子

税への信用が国家の貨幣を裏付け、その信用が国債を保証する。では、国家の信頼が背景にあるのになぜ国債には利子が必要なのか。税は国家への信用の度数である、利子は未来に対する不信の度数と定義できる。

未来は常に0より大きな不信を持つ。この不信対する手当として利子が必要となる。そうしないと市場で流れない。交換には上乗せが発生するのと同じように、貸し借りには利子が発生する。

利子を返済するには、新しく紙幣を刷るか、税を徴収するか、別の国債を発行するしかない。もし税がなければ紙幣は紙くずである。国債も紙くずである。いずれも税がその手段を保証している。国家の信用は税による。

手の汚れを落とすのに流水を使う。本当は汚れを溶かすのに必要な水の分子数があれば十分である。それらの水分子に汚れを溶かしてから捨てれば効率が良い。

所が、水の量が十分でないと水に溶けた汚れがまたすぐに手に付く。それを防ぐためには溶けた瞬間に他の場所に移動させないといけない。その移動の為には水の流れを作る必要がある。

汚れた水で洗っても手は綺麗にならない。だから水に溶けた汚れは速やかに捨てるしかない。次々と綺麗な水で流す事になる。流水で勢いよく洗うのは効率という点では非常に悪い。水の殆どは汚れを落とす為には使われない。

だが、無駄を大量に使わなければ上手く洗えない筈である。それを見逃さない程度には人間は賢くない。

熱を無駄に捨てるのは非効率である。しかし、熱を捨てない機関は存在しない。熱の捨て方を上手くしないと良いエンジンは作れない。

果たしてあらゆる効率の最大化は効果の最大か。ある種の効率は、全体を低下させるのではないか。それがいま起きているとしたら。バタフライエフェクトのような僅かな初期値の違いが、嘗ての成功を今回の失敗にするとしたら。


平成デフレーション

江戸時代には、宵越しの金は持たないと粋がる事ができた。それは仮に仕事がなくても生きる事が可能だったという実感があったからだ。これは江戸時代の善政のひとつの証拠であろう。

だが、実際に幕府が人々を食わせていた訳ではない。恐らく江戸の町屋がその役割を担った。隣近所という共同体が機能していた。

戦前の日本では村落という共同体が機能していた。戦後は帝国主義から資本主義への切り替わりにより村落の共同体は廃れ、企業が共同体の役割を担った。企業に属する事で食うに困る事はない、一生を生きてゆく算段が得られた。信仰が勤労の原動力になる。勤労の精神にはプロテスタンティズムなどの宗教的役割が強く影響した。

この世界を経済が支えている。だから経済の形に応じて社会は変化する。

さて税は略奪の一形態である。略奪に正統性を持たせる為に国家は理念を掲げる。理念がなければ国家は税の根拠を失う。根拠を失えば国庫は空になる。国庫に金がなければ国は亡びる。

税を取る理念は恐怖であれ忠誠であれ成立する。根拠が何であれそれは極めて滅びにくい。それはひとつの生命のようだ。

そして税を取るためには市場が必要である。市場に余剰がなければ税とは取れない。

国家は税の代わりに国民に奉仕する必要がある。最終的に安心を与える事である。安心と安全は異なる。東日本大震災を知る者ならば、安全であっても安心を与えられない状況は良く知っている筈である。

安全だけでは足りない。そこに人間の集団の独特の運動がある。そして安心を与える最重要なものが共同体である。共同体に属するから人間は安心できるのである。安心であるから消費する事ができる。これが経済の基本だろう。

つまり国家は安心を与えるとは共同体を維持するという意味になる。

日本はバブル崩壊により企業の共同体としての役割が破綻した。その破綻の仕方が緩やかであったから急性アノミーは起きなかった。恐らくゆっくりとアノミーが進行しているのである。失われた三十年とは共同体を探す三十年でもある。この月日で人々は共同体のない社会に適用しつつある。

それは別の共同体の構築手順とも言えよう。その兆しはまだないように思われる。いずれにしろ、安心が失われている以上、消費は蓄財へと向かう。未来への不信が十分に飽和するまで未来に向かって蓄積し続ける。

社会が不安に陥ればデフレ化する。その圧力は経済政策では解決すまい。財政出動も金融政策も解決の本質にはない。不安は傘をさす人だ。青空を見せようが、屋根のある家を用意しようが、傘を手離すはずがない。

アノミーに起因して発生したデフレーションであるから、これを解決するのに国家の経済政策では効果がないと思われる。この不安は社会保障では解決できない。新しい共同体の構築によってしか不安の解消はできないと思われる。

他の先進国はこの不況とどのように向き合っているのだろう。経済停滞が先進国の共通現象ならば、共同体の喪失が潜んでいるのではないか。家族の類型とも無関係ではないのではないか。これは新しい経済システムへ向かう過渡期の現象ではないか。

アメリカは合衆国憲法を理念とする単一の共同体である。その時代が失われつつある。分断を食い止める手段は過去に戻る事ではない。経済システムが変わりつつあるのだからそれは無意味だ。現状維持も無駄だ。

新しい経済システムのどこかに落としどころがある筈である。新しい経済システムの鍵はインターネットとAIだろうと考えている。