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2022年8月13日土曜日

五十而知天命 - 孔子

巻一爲政第二之四
子曰吾十有五而志于学 (子曰くわれ十有五にして学に志す)
三十而立 (三十にして立つ)
四十而不惑 (四十にして惑わず)
五十而知天命 (五十にして天命を知る)
六十而耳順 (六十にして耳に順う)
七十而従心所欲 (七十にして心の欲するところに従えども)
不踰矩(矩をこえず)

孔子は天命をどういう思いで語ったか。彼が辿った道に天命はどういう風に降ってきたか。

僕たちは天命をひとつと思い込んでいる気がする。天命がふたつもみっつもあるとは思ってない。なぜひとつと決めたのか、この思い込みは恐らく正しい。天命は私が持っている命の数に等しいから。

天命を知った所で、それに向かって邁進するわけではあるまい。多くの人はひるみ、思慮し、明日に伸ばし、また考える。天命を知るだけでは足りない。間違いなくそうに違いないという自負を要求する。それは命を捧げる価値があると信じる事に違いあるまい。

そんなものは個人の思い込みであり、単なる自己満足に過ぎない。その程度の事、人の心を知り、人間の行動について深く考えてきた人が思い至らなかったはずもない。

私には理想がある。嘗てはそれで十分だった。

揺ぎ無く、この思想は正しいと言えるものは何か。それを振り返るのに四十年では若すぎる。だから若い時はただ邁進すればよい。

いつか立ち止まらなければならない日がくる。前に進みたくても足が前にでない日がくる。昨日まであれだけ渇望していたものが今ではどうでもよくなってしまう。

人は如何に生きるべきか。若い時に感じた天啓を天命とは呼ぶまい。若い頃からずっと忘れられず、ずっと頭から離れず、追及してきたものがある。

それを追及するために生きてきたのだと思おうとした日がある。それだけが生きる支えとなった日がある。それは全て幻想である。人間は苦しければ藁にでもすがる。

迷うなど当たり前である、もし迷わない事を続けてゆくと、次第に、自分の中に、多分これは正しい、自分の残り時間からしても、これ以上先に考えはあるまい、と自信のような、断念のような、そんな所感に落ち込む。恐らく、そこが自分の山頂だ。それはいい。いつか限界は来る。

それでも目の前に聳える山から目を離してはならない。やり残した事があるという自覚こそが最も大切なのだ。もう少し行ってみるかという感慨が湧いた時、たった一歩でも歩けるように待っていなければならない。

不安に躓いてはいけない。学問は君の友人にはなれても君の不安を取り消してはくれない。その不安は一生尽きない。いや、その不安だけが君に最後まで寄り添う筈だ。それを本当の友と呼んでもよいのではないか。ああ、君か、長く待っていた。

生まれたときは無垢である。障害を負っていても気付くのはずっと後。誰もが無垢で生まれ、あくたに終わる。宇宙へ帰る。生きるとは偏見に染まり、偏見を落とす作業なのか。

醜いは偏見に過ぎない。それが証拠に生まれたばかりの子供は醜いを知らない。世界は全て美しい。色眼鏡を外してみれば、あるがままの姿が全て美しい。腐敗の中にも幾億もの小さな生命の活動がある。その命たちは喜びを謳歌しているだろう。

そこに何かを差し込む必要はない。自分の考えはいらない。感情もいらない。ただ見ていればよい、ただ聞けばよい、ただ味わえばよい。価値など所詮は他人事である。

世界の切り取り方。その幾つかは死ぬまで訂正されない。その幾つかは生きているうちにどうやら違うと気付く。偏見であったと思う。偏狭を自覚する。そこでハッとする。

切符に大きく印字された小の記号に気付かない。脱衣籠の中に携帯を置き忘れる。車を見て、その人が乗っていると思ったら違う人だった。共通するのは車種だけだった。

何度も見ているのに、網膜には映っているのに。思い込みで間違った結論を得る。それを訂正するチャンスが幾つもありながら更新できない。なぜか。

面倒だからという理由だけで端折ったものがある。効率がそれほど大切なものになったのか。それほど嗅覚が衰えているのか。エネルギーをそれ程まで節約しなければならない理由は何か。それが効率的と脳は結論したのだろうか。少しでも先まで持たせるために。

数万年以上も前ならば、老齢の個体は、捕食される候補であった。老齢の個体の存在が、群れ全体の、幼い個体、弱い個体の生存率を高める方向で寄与する。老化は集団のひとつの生き残り戦略であろう。

もし老齢となる個体がいなければどこまでも増え続ける。増えるだけ増えれば、環境を破壊し、全体のバランスを崩し、食料が不足し、遂には絶滅に向かう事になる。ぱっと咲く花火のように消えてゆく。

淘汰が全体の生存確率を上げる。ならば捕食される個体はそれに気付かない方がいい。その方が穏やかにその役割を果たして行けるから。若い時には決して見えなかったものがある。年を取るとは、残念だ、の一言で別れられるようになる事ではないか。次は自分だから。

これが天命だ。そんな瞬間があるものか、人には未来を見通す力はない。だが、これが天命であろうか、と自問する事は出来る。決して天命を知る事は出来ない。これはそういう意味のはずだ。分かったのではない、理解さえできない。では孔子は何を天命と問うたのか。

もし天がまだ生かす気なら、まだやるべき事があるという事だろう。もし奪う気なら天は簡単に奪う。そこから逃れられない以上、天はまだ生きる事を認めている筈だ。

命などさっさと天に預けてしまえ。もしここで溺れ死ぬか黒船に殺されるなら、それは俺たちを用無しだと、天が殺すのだ。 お〜い!竜馬

果たして我々は天命を果たすために生まれたのか。

その上で、自分が何かを足さなければならないと考えるか。それは恐らく不遜なのだ。自惚れなのだ。世界はそれを欲しない。だからそれはエゴイズムになる。それでも私の意志は他からは奪えない。

若き日には無双を誇った能力も白髪が占める頃には才気が失われる。溢れるような泉はどうなってしまったのか。その泉こそが天が私に託したものではなかったのか。

無意識からの声は今も届くのにそれが聞き取れなくなったのか、それとも深き泉は枯れたのか。聞こえないのは天が私の耳を奪ったからか。泉が枯れたのは天が私のすべき事は奪ったからか。

しかし力を失ってから足掻く姿の中にだけ人間がいるのではないか。神に見放された所からだけ人間の時間は始まるのではないか。

まだ泉が枯れてないのならまだやりようはあろう。しかし泉が枯れたのならどうやって行こうか。もう聞こえてこない声を待っていても何にもならない。

よって天を見限る所から始めるしかない。そこからが本当の努力と呼べるのではないか。そこからが本当の芸事ではないか。枯れた井戸の底に見えるものは何か。そこに何を見つけるかではなく、そこに誰が居るかが問われている。

若い時には天命など信じやしない。己の自信だけを疑わずに根拠とすれば良い。根拠のない盲目の自信でなければどうして使い物になろう。

泉が枯れて本当の試行錯誤が始まる。本当の悩みが始まる。のたうち回って初めて手にする一握りの砂がある。力の及ばない世界へ本当に手が届くのはそこからになる。

天に命じられるままに手に入れたものの何に価値を認めようか、どこに人間を探せばいいのか。

衰えた棋士の放つ一手の中に何かが潜んでいる。やっと探し当てた自分の一手が無惨に打ち砕かれようと、それを探しそれを決断する過程の中には確かにその人らしい何かがある。それが幻の一手だとしてどうして捨て去れよう。無価値は無意味ではない。

天に与えられたものを使っている最中など天から見れば分かり切っている。全て使い尽くした後は天も予測不能となる。だから、天はその先を望む。そのために天命を与えたのだ。使いつくしてからが天の望みであろう。

もう夢など必要ない。この年にもなれば夢とは緻密に立てた準備の事だと知っている。若い人に追い抜かれて何が哀しいものか。私の経験は私だけの景色。

いつか宇宙に出て、我々は他の星の生命と出会う。その時、どのような相手と出会おうと、相手に滅ぼされる事なく、相手を滅ぼすでもなく、邂逅できる準備をする必要がある。そのために我々は様々な失敗を繰り返してきた。多くの命がゴミのように捨てられてきた。その全てに意味があるならこの時である。人類だけを特別扱いするようでは考えが足りない。その程度を理想とするようでは覚悟が足りない。

私の中に残ったものは何か。枯れた泉の景色を眺めながらこれから自分の力で生きよという声を聞いた。天に見放されて初めて聞いた声である。それを孔子は天命と呼んだのではないか。