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2010年12月22日水曜日

当麻 - 小林秀雄

梅若の能楽堂で、万三郎の当麻たえまを見た。

で始まる、

星が輝き、雪が消え残った夜道を歩

きながらの夢想。

世阿弥の風姿花伝を思い、ルッソオを想い、近代人の観念を思う。

美しい花がある、花の美しさという様なものはない。

花の美しさという観念では、花は失われてしまう、と言っているのか。僕もまた、落ち込んでしまう。

不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了ふがよい

醜いから隠してしまえと言っているのではない。この忌々しい敏感すぎる感受性で舞うことはもう人間の性だ、だから隠しておけ。懐かしい昔に取り込まれてはいけない、それを観念と呼ぶのであろうか、歩くのは目の前にある道だ。

僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。あゝ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。

で終わるわずか4ページ。折に触れ、思いだし、読み返すことができる小品。

2010年12月9日木曜日

いきものばかり - いきものがかり

小さなパソコンのスピーカから聞こえてくる音楽は、恐らく、本当の音を出してはいないだろう。

しかし、そんなスピーカから流れる音楽でも、きちんと心を震わすのだから、これで十分だ。

ファとレの違いも聞きか分けられないぼんくらな耳であっても、音楽を楽しむ事はできる。

それほどまでに、リズムは本能に根差しており、遠くギリシア人に発見された音階は耳に馴染む。

あ、の声を伸ばしているだけなのに、そこに生きている感じがするのは、

声というものが持つ力なのだろう、音に乗せた声は、呼吸そのものだから。


楽曲が多彩であるように、声も多彩であって、これがこのアルバムの魅力だと思うが、

多彩という言葉でこの魅力を伝えられるとも思えない。

音楽の魅力を言葉にすることはできそうにないが、

それでも良さを伝えようとしたらどうすればいいだろうか。

よい、わるい、という感想を書いてもそれは受け取り手次第であるから、好き、嫌いと変わらない。

好きなことには理由があるか、それとも、好きから始まるなら、そこに理由などないのか、


それでも、好きになった瞬間はあるだろう、その事を書けばよいだろうか。

激しい渋滞が終わり、車はやっと高速の上を走りだしていた。

夕方近く、それでも、次の渋滞が来る事をカーナビは伝えてくれている。

アクセルを踏み込むでもなく、流れに乗ったままで窓を少し開けた。

仕事へと走らせる車は、気分転換にはなってくれるし、一人の時間を埋めるように

音楽は聞かれることもなく流れていた。実際、歌詞を覚えることもなく流していた。

目の前の車の赤く光るランプを見ながら、何かを考えたり妄想していたりしたんだろう。

そのとき、急に流れている声が遠くから聞こえてくる気がした。

その声が遠くから、次第に深く鳴り響いてきた。

長く伸ばされたあの音が何故か、心に沁み込んできた。

「タユムコトナキナガレノナカデ」

歌の名前も知らず、これはいい歌だなぁ、と思った。
歌詞も知らないし諳んじることもできない歌が僕を捕えた。

弛まぬ時の流れに 今あたしは何を思い何を見て何を感じながら生きるだろう
恐れることそれすら包み込める 全て愛し続けよう

それは、そこから見た夜の空と同じ音階だったかもしれない。

「雪やまぬ夜二人」

それは、歌から来て僕を捕まえた、としかいいようのないものだった。

白い吐息が雪と混ざって紡ぎ上げる今宵のメロディ
足音はリズムを奏で静寂をまた色づかせる

何故、それを好み、印象に残ったのか。
光のスペクトルが固有の色を示すように、声は人の固有な振動とシンクロ(同調)するのだろうか。

音楽について書くことは難しい。

何故だろう、音楽を知らないからか、とは思っていない。
いや、音楽について書くことが難しいのであれば、それは絵画であろうが、本であろうが同じはずだ。

音楽からは、僕の語りたいことが言葉にならない、ということだろうか。
それでも、音楽について何かを書けというのだろうか。

音楽は震わせる、それは空気であるが、心でもある。
震わせるのは音楽だけの力ではない。

ただ、音楽の力は口ずさむことだけで繰り返すものだ。

「茜色の約束」

それは多くの人の口から出で今日も茜色の空に溶けてゆく。

あなたと出逢えた茜の空にほらあの日と同じことを願うよ

まぶしい朝に苦笑いしてさあなたが窓をあける
舞い込んだ未来が始まりを教えてまたいつもの街へ出かけるよ

今日も繰り返し口ずさまれている歌だ。
こんな歌を作ってくれてありがとう、歌ってくれてありがとう、届けてくれてありがとう。