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2013年3月11日月曜日

無能なる帝国史 - オーベルシュタインの手紙

帝国建国の三元帥のひとりであるパウル・フォン・オーベルシュタインの手紙がその死後 20 年以上も経過してから発見された。これから紹介する手紙は、ジークフリード・キルヒアイスの死後直後に書かれたもののようである。この手紙がどういう経緯で書かれたのかは詳しい事は分かっていない。この手紙で更に彼の考え方、人となり、今まで知られなかった新しい一面を見つける事ができるであろう。


ゴールデンバウムであろうが、我々が目指す新帝国であろうが、無罪であるか有罪であるか、それは知らないのだが、冤罪を失くすことはできないであろう。冤罪が発覚したならば国家はその無実の者の名誉を回復しなければならない。加えてそれが不十分ならば損害賠償の責も担う。人生とはただ時間が過ぎるものではない。20 代の 10 年と 60 代の 10 年ではどちらとは決められないが同じ時間ではあるまい。失った時間を取り戻す事が出来ない以上、それを名誉と金で償う他はない。

そこで見過ごす事が出来ない者がいる。それは冤罪を起こす無能者たちである。私はあの事件から無能さについてしばしば考えこむ。彼の死については私に罪があるだろうか。もちろん完全なる無罪とは言えまい。しかしキルヒアイスが銃を携帯していたらという仮定は全くの誤りである。謁見に対する警備の甘さ、謁見者に対する身体検査の杜撰さ、そちらの方を問題視すべきだ。幾人かの勇敢な人たちがいれば防げたという考え方は短い間はそれでよいとしても長い目でみれば国体を脆弱化する遠因となるものだ。

あれが我々の力の限界だったのである。もし我々が正しく対応していたならばキルヒアイスが死ぬことはなかったろう。いや正しく対応していたならば、それ以前に銃撃騒ぎが起きる事もなかったはずである。あの場には、数多くの提督もいたし警備兵たちもいた。誰もそれを止めえなかった。キルヒアイスを除いて。それでも彼が銃を携帯しなければ守りきれない状況が起きる事の方がよっぽど問題とすべきなのだ。

私に彼の死の冤罪を課すのは構わない。我々は余りに幼稚であった。我々は警護という点ではゴールデンバウム王朝にも劣っている。それを学ぶための代償を払ったに過ぎない。我々は未熟なのであろうか。それとも無能であったのだろうか。我々はあまりに眩い光の中にいるから、影がある事を忘れがちになるのだ。

キルヒアイスという特殊性について誰もが無知であり過ぎる。彼という前例を認めてしまえば将来、必ず同じように振舞う者が出現する。それが必ず国家の根幹を揺るがす。彼の死は余りに大きな痛手であった。もし彼が生きていたなら、これから帝国軍人は数百万単位で死なずに済むであろう。これからの覇道において死なずに済む者が死んでゆく運命にある。私はそれを憂慮する。彼の死はそれ故に看過できぬ事件であったと思うのである。

私はキルヒアイス提督の死について特に強い悲しみを持っているわけではない。それほど彼と親しくしていたわけでもない。だが誤解して欲しくないのは私が彼を嫌っていたという噂である。私は彼の眩しい程の才幹や人柄というものを知っている。それは余人をもって変え難いものであった事も知っている。私はそれ故にキルヒアイスを怖れた。いや正確に記すならば第二のキルヒアイスをである。

私達が目指す新しい帝国とはどのような国家になるであろうか。先の事が私に分かろうはずもない。いつかはゴールデンバウムと同じように退廃しそして打倒もされるだろう。それでも私たちが生きている間に打倒されるような脆弱な国家にするつもりは私にはない。新しい国家が始まった時にもっとも憂慮すべきは外敵ではない。国家の内から起きる分裂である。横暴な絶対君主も友愛すべき専制君主もどちらも国家の安定があってこそである。最初の 10 年は動乱の時代であろう、次の 10 年は盤石な体制の建設であろう。その次に帝国の帝国らしさが生ずると私は思う。

私はこの最初の動乱の 10 年をなんとしても平和裏に進めるつもりだ。その為になら禍根や争いの芽は予め摘み取っておく。その準備はもう始めている。私がもっとも危惧していたのがキルヒアイス提督の存在であった。彼がどれほどの忠誠を誓おうとも周りから担ぎ出されないとは限らない。いや彼の性格からすればそのような状況に陥れば自ら命を絶つであろう。それほどの存在なのだ。彼の代わりが誰に務まるであろうか。もし彼の後を継ぐ者が出て来たとしても私はキルヒアイスほどに信頼する事は出来ぬ。彼ほどの男でさえそういった将来への危惧が不足している…

キルヒアイスは非常に有能な人材であった。一方で彼の死を回避できなかった我々は無能なだけではなく低能な人材であろう。我々はこれからも幾つもの失敗を犯し幾つもの冤罪を生み出すであろう。それが追放できるようなものでない事は分かっている。であるならば私はそれをこれからも利用してゆく。私はこれからも罪を犯し冤罪を起こして行く。それが彼に対する償いと私は信じる。

我々は裁判官ではない。いつかは歴史上の被告となるであろう。私に耐えられないのは犯罪者になる事ではない。自分を無能と信じてしまう事だ。私は血まみれのキルヒアイスを見た時にどうしようもない絶望に襲われた。我々はもしかしてどうしようもない無能の集まりではないかと。ただ一人輝いている方の側にいて、光りを受けてはいるが、我々自身は何ら輝いていないのではないかと。

もし裁判官が私に冤罪を決したとしても私はそのものの過ちを罰しまい。そんな事をすれば誰も無罪判決以外を出せなくなる。冤罪を失くすことなどできはしまい。ただ私達はどうすれば無能者と失敗者とを区別できるのか。過ちと無能の差はどこにあるのか。

我々が失敗を恐れれば間違いが起きないように動き出す。間違わない事が最大の目標になってしまう。そんな人材ばかりを集めてこの先の大事業を成し遂げる事ができようか。否、私はそうは思わない。しかし無能な人間の好き勝手に振る舞わせておくわけにもゆくまい。わたしがあの時、あなたの死を見ながら考えたのはこの事であった。

例え 1 万年前の人間であろうと、現在の人間であろうと、証拠に基づく合理的な疑いが有罪を決める唯一の根拠である。有罪を示す 100 の証拠よりも無罪を示す 1 つの証拠の方が強い。有罪は確からしい確証の積み重ねだが、無罪はそれを示すひとつの証拠があれば十分なのである。逆にいえばそのひとつを葬り去る事で有罪に出来ると言う事だ。

この世界はあやふやなものばかりで成り立っている。解釈次第でどうとでもなるものばかりに囲まれている。間違いもあれば厳密性の欠如も起きる。何重にチェックしてもそれをすり抜けるものがあるのだ。複数の人間で裁判をし有罪にするとはそういう見落としを防ぐためなのだ。それでも無実のものを罰する事もあれば、有罪なものを無罪とする事もある。一般的な社会では無実のものを罰するよりも有罪な者を取り逃がす方を選択する。これは時間というものが取り戻せないものだからである。

明らかな無罪を有罪にする無能は後を絶たない。我々は無能をどう使いこなして行けばいいのか。無能でない事を求めれば、誰にもその任を負う事はできまい。私達が現にそうであったように。誰もが失敗する。あらゆる失敗が無能ではないとしても何をもって無能とそうでないものを切り分けるのか。

もし無能な者が組織の高い地位、役職にあるのならそれは取り除かねばならない。無能なものに高い位置に与える事は危険である。だが、あらゆることに有能なものが居ない様にあらゆる点で無能な者もいない。無能さと同じくらい有能な働きもするであろう。こんな考えで私は何もできない袋小路に落ち込む。正しくあろうとすればするほど何もできない。

無能とはあらゆるミステイクを許さないとは違うであろう。ではこの失敗は仕方のないミステイクだっただろうか。我々の未熟さや失態がミステイクの言い訳になるだろうか。我々はこの事件から何を学ばなければならぬのか。誰を罰すべきか。いやそれは見せしめか。そうして抑止力となり誰をも委縮させるのか。

私にはこの帝国が将来朽ちてゆくのを止める能力はない。ジークフリード・キルヒアイス、それはあなたもだ。だがあなたは死した。あなたの名前は私などよりずっと長く帝国史の中で残ってゆくだろう。あなたがいなければ私はそんな事を考えもしなかった。今更ながらそんな自分に驚いている。

あなたが死んだ責任のいくらかは私にもある。しかし私には私の正義があった。私の正義においてあなたを死に至らしめたのである。私はそれについて詫びる言葉を持たない。そして私の中にあるこの正義だけが私が失敗を重ねたとしても無能ではないと信じる根拠となるのだ。私はあなたの死についてただ残念であると、そう心から思っている。


以上である。オーベルシュタインの自筆の手紙は宛先のないものであった。その後半は死亡したキルヒアイスに向って書かれているようだが、手紙の書き出しは違うように読める。これを書きながら彼は自分と対話していたのかも知れない。

失敗したものを切り捨てていては改革などできない。それは宇宙艦隊を大改革し今の体制を作り上げたのが、建国の三元帥であるウォルフガング・ミッターマイヤー(国務尚書)ではなく、獅子七元帥のひとりであるフリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトである事がいい証左になっている。

無能、低能にもいろいろな濃度があるように私には思える。そこには許されないケースと許されるケースがある。将来、冤罪が革命への引き金になるかも知れない。無能や低能な官吏のちょっとした行いが、人々の雪崩を起こし革命へと駆り立てた史実は枚挙に暇がない。公平を欠く恨みというものが、結局は国家を追いつめるのであろう。無能な官吏とは確かに正義のない官吏の事だと私も思う。幾つもの恨みが癒しきれなくなったとき、時代というものは変わるのだろうと私には思われる。

無能とは正義の反対語である、とオーベルシュタインが生前に語ったそうである。我々はこの言葉を忘れることなく帝国の建国に努めて行こう。我々は国を興す大事業には加われなかった。しかしこの充実した建国の面白い時代を生きてゆける事に感謝したい。

新帝国暦 23 年 記す。