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2021年5月23日日曜日

日本国憲法 第六章 司法 III (第八十一条~第八十二条)

第八十一条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
第八十二条 裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
○2 裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

短くすると

第八十一条 最高裁判所は、法律、命令、規則、処分が憲法に適合するかを決定する。
第八十二条 裁判は、公開法廷で行ふ。
○2 裁判官の全員一致で、対審は公開しないでできる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪、憲法第三章で保障する権利が問題となる事件は、常に公開。

要するに

民主主義には選挙の結果を覆す仕組みはない。その選択を回避する方法もない。例えクーデターで政権を転覆させても選挙結果は否定できない。だからクーデターを行った者は無効と叫ぶのだ。

司法は憲法を含め法律に関する判断を繰り返すが、司法に人々の行動を変える能力はない。司法は現在の市民の到達点を示すひとつであって、国民の論理性、倫理観、道徳観の平均的な代表と見做すべきである。

それは国家の健全性を測るバロメータであって、決して国家の逸脱を指摘する機能を有するとは言えど滅亡を食い止める制度ではない。どちらかと言えば国家は司法から劣化する。最も最初にそれが観測される場所である。

だが国家は司法が劣化したから滅亡するのではない。逆である。司法が劣化したならそれは国全体が既に劣化した事を示している。さて、民主主義国家はその後にどのように滅亡してゆくか。

考えるに

アメリカで一人の最高裁判事が亡くなった。遠い国の裁判官の話には敬意を覚えるのに、この国の裁判官に抱く事はない。判決文を丁寧に読み込めば裁判官たちの思索の過程に感銘する事があるにも係わらずである。なぜか我が国の司法のイメージは日々事務処理を滞りなく進める強大な装置のようである。

恐らくアメリカという国家の滅亡は司法の崩壊と同義のはずである。それはアメリカ憲法を失う事と同じだから。

行政が暴走し、司法を無視する、司法が抑制力を失えば立法から憲法を守る事ができない。憲法は忽ち修正されるだろう。それは憲法の理念が死ぬという意味である。

我々は日本国憲法に強い思い入れはない。それはまるで量産品の車のようである。ビンテージでもなければ長い歴史を持つものでもない。だから古くなった車のように買い替えたいと思う人が居ても不思議ではない。

大日本帝国憲法も日本国憲法も我々は学ぶために導入したのであって、それは17条憲法も同様である。我が国の政治の殆どは外から学んできたものである。そして戦争の敗北によって手にした日本国憲法には近代国家の要諦が、民主主義の基本が全て網羅されていた。

裁判制度は太古から存在していた。古くから裁判制度はどの地域にもある。だから日本から司法が消滅しても誰も困らない。司法が存在しなくとも国家は成立しうる。司法制度が三権分立しなければならない理由は絶対ではない。

司法が機能を失っても近代国家の体裁は取れる。だから国家は司法から劣化してゆく。最も早く劣化するのが司法である。行政と立法が機能していれば司法がなくても困る事はない。

冤罪

冤罪を出した裁判官が自らを罰する時、それは私刑であろうか。如何なる理不尽な判決を下そうが冤罪を出そうが、裁判官は罰せられる事はない。そこに正義はあるだろうか。

三審制にしたのは人間が間違えるからだ。だから三回やっても冤罪なら仕方がない。それがその時点での限界である。三回やっても冤罪なら国家の無能である。その裁判官が人事上、重要な裁判を任されるなら、無能なのはその裁判官一人のはずがない。

もし冤罪を起こした裁判官を罰するなら、それは判断を狂わす。冤罪を恐れて死刑を回避する、冤罪を恐れて無罪に処す。それが正義と呼べるか。そこに信じるに足る人間の良心はあるか。

もし罰しなければ裁判官の良心が期待できないのなら、その制度は既に破綻しているはずである。そのような裁判官にしか裁判を託せないのならその国家はもう命数を使い切ったのだ。

司法の瑕疵は人間が完全でない事を反映したものだ。罰する事も排除する事も不可能である。ならばこの欠陥にこそ人間の良心がある。司法はその良心に頼るしかない。

彼/彼女らの判決は、良心に従い間違う。だが良心であると信じるからその過ちを許せるのである。そうでなければ人間は正気を保てないはずである。そのような重責を背負える人間はいない。

だらか、裁判官の良心は、その認識に至った理由を懇切丁寧に説明する事でしか担保できない。実際に司法はそのように運用されている。

もし間違いがあれば、何度も判決文を読みなおすしかない。そこに判断も論理も書いてある。良心は、その判決を尊重する理由にはならない。全面的に信頼していい理由でもない。ただ説明する事から逃れられない。それが可能なのは判決文の中に、全ての思考の過程が書いてあるからだ。

判決文は説明の羅列である。もし冤罪であるなら、説明の何処かに間違いがある事になる。その瑕疵を検証できるのは書いてあるものが残っているからだ。

我々は無能を排除する如何なる合理的な方法も発見していない。それがあるかどうかさえ疑わしい。ただ冤罪が発覚する事によってのみ、司法は自らの欠陥を潰す事が出来る。冤罪による死刑で失われた命、冤罪で失われた時間は決して取り返しが付かない。如何なる犯罪者であろうと自然から隔離する事は生物に対する罪である。

だから冤罪を起こした裁判官は加害者である。同様に判決が軽くて犯人が再犯を犯したならばその裁判官は共犯者である。そういう自責をもって判決文を起草しなければならない。死刑にしておけば起きなかった殺人がある。この二度目の殺人は裁判官の責任ではないのか。そのような詰問に耐えられる人はいない。

元来、司法を運営する事が不可能なのである。それでも憲法は司法制度の存在を要求する。不可能と知りつつ挑むのが司法である。それは遥かに人間の限界を超えている。その不可能に立ち向かうのに手にしているのは良心だけである。

良心

人間の良心とは何か。自分の心に従うのが良心である。それが誰かの為であっても良心である、自分の良心がどこを向いているかは個人の信念に尽きる。そして憲法は信念の自由を保証する。よって、良心に従う事が自分の出世を最優先する事であっても憲法は否定しないのである。

憲法はそれをよしとする。政治家の誰かのために判決をする裁判官がいてもそれを否定しないのである。そのような人材を登用する事を否定しないのである。それを咎める記述は憲法にはない。ただ良心に従うとだけ書くのである。それが国民の選択なのだから。政権におもねる事も、自分たちの良心を政府に明け渡す事も憲法は禁止しない。誰にも自分の良心を否定させない為である。

裁判には、その国が持つ最高の道徳性がある。タブーに立ち向かう事も屈服する事も、どちらも人間らしい。それを否定する憲法などない。それを人々の生き方に託すために憲法は書かれている。

裁判官の行動は、氷山の一遍の雪氷である。それは国民の代表的行動であるから、その下に巨大な亀裂が横たわる事もある。ただのひとりに全てを負わせはしない。

これからも異常性の際立つ残虐な犯罪は尽きない。そういう時に司法には正義が突き付けられる。その犯人を殺せという当然の要求に対して、司法は迷いながらも答えなければならない。それが忌避できない事、それだけがこの世界に司法が存続する理由である。

司法の論理性

人間は自然言語によって物事を考える。人間は自然言語を駆使して数学と同様の厳密な論理構成を築区べきである。数学と同様に公理があり、証明があり、定理と推論から導かれた予想がある。数学の言葉と比べると、自然言語はは数が多く、全てに偏見が入り込む。

自然言語で厳密な定義は不可能なのは、言葉の意味は時代によって変わってゆくからである。その点が定義を変えなくてよい数学とは異なる。定義が変わる以上結論は変わる事が前提である。そして定義は多く明記されていない。

近代国家における公理が自然状態にあり、そこから導き出された論理的帰結として基本的人権がある。そこを出発的にして三権分立も権利の拡大も人々の要求も設計された。

基本的人権という考え方があったにも係わらず、かつての黒人は奴隷として売り買いされた。優生学によって人々は断種され収容所で殺害された。日本では戦後でさえ断種が合法とされ医師たちは何ら疑問を抱かなかった。

そのような負の歴史を持ちながらも、時代と共に自分たちを見つめ、謝罪を重ね、より良い社会を目指している。どの国家でもどの市民でもそう考えているはずである。今は道半ばであろうと、今が許容できない状況であろうと、歩みを止めない事が我々を支えている。間違いはいつか訂正される、それだけが司法を支えている。

もちろん、どの市民も同じ方向を見ている訳ではない。今でも差別主義者はいるし、女性の権利を認めない人たちがいる。その人たちでさえ、何かを守ろうとしているのは確かなのである。

言葉の定義とは、集合の事である。集合に入るものと入らないものがある。犬の集合と猫の集合が異なるように、人間の集合も異なる。時代と地域によって人間の集合に入る要素は違う。

かつて西洋では白人だけが人間であった。南北戦争は黒人である彼/彼女らの基本的人権を守るために起きたのではない。リンカーンがもしあの日に暗殺されなければ、インディアンを虐殺した大統領として歴史に名を刻んだであろう。しかし、それが当時の一般的な思想であった。未来は過去を裁けない。

我々は定義に基づいて論理する。推論とは等価の置き換えである。置き換えとは集合Aと集合Bの要素を入れ替える操作である。それを可能とするのは複数の集合の中に何らかの共通項があるからである。全く結びつきのない集合間で置き換えは不可能である。

進化

言葉は時代と共にある。時間が経過すれば変わる。裁判は判例を蓄積し過去と現在を繋ぐ。過去から逸脱しないように努め、無矛盾に努める。それでも価値観の変化には対応できる事。その為に定義は変化できなければならない。

それによって嘗ては合法であった行為を違法に変える事ができる。もし定義が永遠に変わらないなら司法は永遠に同じ判決を繰り返すしかない。自然言語によって柔軟に変化に耐えられる構造を持ち込んだ。そこが数学と異なる。

殺人は悪い事である。これは太古からそうであった。それでも神は人を殺してはならないと伝えざるを得なかった。殺人が止む事はなかったから。神でさえ人を厳密には定義していない。だから20世紀でも21世紀でも人としてではなく殺される人がいる。もし定義に従うならそれは殺人ではない。

言葉が変わる姿は生物が進化するのに良く似ている。環境に適応して生物が姿を変えるように、言葉も社会の中で変わってゆく。そして人間の世界観も思想も信念も変わってゆく。

時代によって定義が変わるなら、現在の論理が明日も正しいとは言えない。今日の無罪は明日は有罪かも知れない。だが、どれほど変わろうと論理構造は変わらないはずである。では、この論理はどこへ向かうべきなのか、進化のように多様にあらゆる方向を目指して展開してゆくものなのか。

生命の進化を担うのはDNAであるが、法の進化を担うものは理念のはずである。理念が方向を指す。それは海図を前にどちらに進もうかと悩んでいる人にこの世界のあるべき姿を示す。

勿論、裁判官の役割は理想を追い求める事ではない。理念を紡いでゆく事だ。この社会に適用してゆく事だ。そして進化を促進させる突然変異の如く、世界では新しい思想が誕生する。昨日も今日も、そして明日も。