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2010年12月22日水曜日

当麻 - 小林秀雄

梅若の能楽堂で、万三郎の当麻たえまを見た。

で始まる、

星が輝き、雪が消え残った夜道を歩

きながらの夢想。

世阿弥の風姿花伝を思い、ルッソオを想い、近代人の観念を思う。

美しい花がある、花の美しさという様なものはない。

花の美しさという観念では、花は失われてしまう、と言っているのか。僕もまた、落ち込んでしまう。

不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了ふがよい

醜いから隠してしまえと言っているのではない。この忌々しい敏感すぎる感受性で舞うことはもう人間の性だ、だから隠しておけ。懐かしい昔に取り込まれてはいけない、それを観念と呼ぶのであろうか、歩くのは目の前にある道だ。

僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。あゝ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。

で終わるわずか4ページ。折に触れ、思いだし、読み返すことができる小品。

2010年12月9日木曜日

いきものばかり - いきものがかり

小さなパソコンのスピーカから聞こえてくる音楽は、恐らく、本当の音を出してはいないだろう。

しかし、そんなスピーカから流れる音楽でも、きちんと心を震わすのだから、これで十分だ。

ファとレの違いも聞きか分けられないぼんくらな耳であっても、音楽を楽しむ事はできる。

それほどまでに、リズムは本能に根差しており、遠くギリシア人に発見された音階は耳に馴染む。

あ、の声を伸ばしているだけなのに、そこに生きている感じがするのは、

声というものが持つ力なのだろう、音に乗せた声は、呼吸そのものだから。


楽曲が多彩であるように、声も多彩であって、これがこのアルバムの魅力だと思うが、

多彩という言葉でこの魅力を伝えられるとも思えない。

音楽の魅力を言葉にすることはできそうにないが、

それでも良さを伝えようとしたらどうすればいいだろうか。

よい、わるい、という感想を書いてもそれは受け取り手次第であるから、好き、嫌いと変わらない。

好きなことには理由があるか、それとも、好きから始まるなら、そこに理由などないのか、


それでも、好きになった瞬間はあるだろう、その事を書けばよいだろうか。

激しい渋滞が終わり、車はやっと高速の上を走りだしていた。

夕方近く、それでも、次の渋滞が来る事をカーナビは伝えてくれている。

アクセルを踏み込むでもなく、流れに乗ったままで窓を少し開けた。

仕事へと走らせる車は、気分転換にはなってくれるし、一人の時間を埋めるように

音楽は聞かれることもなく流れていた。実際、歌詞を覚えることもなく流していた。

目の前の車の赤く光るランプを見ながら、何かを考えたり妄想していたりしたんだろう。

そのとき、急に流れている声が遠くから聞こえてくる気がした。

その声が遠くから、次第に深く鳴り響いてきた。

長く伸ばされたあの音が何故か、心に沁み込んできた。

「タユムコトナキナガレノナカデ」

歌の名前も知らず、これはいい歌だなぁ、と思った。
歌詞も知らないし諳んじることもできない歌が僕を捕えた。

弛まぬ時の流れに 今あたしは何を思い何を見て何を感じながら生きるだろう
恐れることそれすら包み込める 全て愛し続けよう

それは、そこから見た夜の空と同じ音階だったかもしれない。

「雪やまぬ夜二人」

それは、歌から来て僕を捕まえた、としかいいようのないものだった。

白い吐息が雪と混ざって紡ぎ上げる今宵のメロディ
足音はリズムを奏で静寂をまた色づかせる

何故、それを好み、印象に残ったのか。
光のスペクトルが固有の色を示すように、声は人の固有な振動とシンクロ(同調)するのだろうか。

音楽について書くことは難しい。

何故だろう、音楽を知らないからか、とは思っていない。
いや、音楽について書くことが難しいのであれば、それは絵画であろうが、本であろうが同じはずだ。

音楽からは、僕の語りたいことが言葉にならない、ということだろうか。
それでも、音楽について何かを書けというのだろうか。

音楽は震わせる、それは空気であるが、心でもある。
震わせるのは音楽だけの力ではない。

ただ、音楽の力は口ずさむことだけで繰り返すものだ。

「茜色の約束」

それは多くの人の口から出で今日も茜色の空に溶けてゆく。

あなたと出逢えた茜の空にほらあの日と同じことを願うよ

まぶしい朝に苦笑いしてさあなたが窓をあける
舞い込んだ未来が始まりを教えてまたいつもの街へ出かけるよ

今日も繰り返し口ずさまれている歌だ。
こんな歌を作ってくれてありがとう、歌ってくれてありがとう、届けてくれてありがとう。

2010年11月14日日曜日

宇宙創成 - Simon Singh, 青木薫 訳

ミミズが雨の日にアスファルトの上にいる。彼の行く先には、何もないことが僕には見えている。だが、その方向に這ってゆく彼を愚かしいと言えるだろうか?

ミミズは愚かなのであろうか?

彼の感覚器は、明かりの方向が分かる目と地面の振動を感じる程度のものでしかない。その我々から見れば限られた情報の中から、彼は命の選択をしている。恐らく、彼は限られた情報から合理的な選択を行っている。

合理的に見えないのは、彼が馬鹿だからでも、下等だからでもない。彼が手中にできる情報が我々に分かっていないからに過ぎない。

全ての生物は合理的であり、もし、合理的に見えないなら、それは前提条件の方に誤りがある。

ミミズの振る舞いを笑える人は、天動説を笑うのも容易い。

全ての人が知っているとは言わないが、学校で習った事を覚えている人なら、地球が太陽の周りを回っていることは知っているだろう。

だが、今でも教科書に天動説を載せているのは、天動説を嘲り笑うのが目的ではないだろう。地動説に駆逐されるための教材として取り上げているわけでもないし、今の科学に優越感を感じるためのものでもない。

そこには自然な考えがあった、と教えたいためだろう。だが、昔の人は幼稚で子供が考えそうな思考で納得できたのだと思ったら大間違いだ。

既に、遥か昔、バビロンの頃から、人間は天体を観測していたし、知る限り、紀元前には地球の大きさを測定していた。このエラトステネスという人がどういう方法で地球の大きさを測定したかは本書に譲るがその瞬間に、地球と月までの距離が、地球と太陽までの距離も求められたという話はどうだろうか?

エラトステネスは最後のピースを見つけただけであり、それまでに、距離を算出する式は既に見つけていた。

どのようにして距離を算出したかも本書を読んで頂くとして、ここで重要な事は、これだけ合理的な考え方をする彼らが無邪気な子供の如く、太陽が毎日動いているから天動説を採用したと信じてはいけないのである。

本書を読めば、プトレマイオスが何故、地動説を嫌い、天動説を支持したのか、その理由がよく分かる。決して、愚かでも頑迷でもなく、そう考えるべき合理的な理由があったのだ。

我々が知る限り、地動説を唱えた最古の人は、ピロラオスという名前の紀元前5世紀のピタゴラス派の人らしい。らしい、とは、つまり、本書にそう書いてある、という意味だ。この説はアリスタルコスによって、更に推し進められ、アルキメデスもこの話は知っていたとある。

プトレマイオスが紀元83年に人だから500年も前の事である。

それでも当時のギリシャ人はこの説を採用しなかった。恐らくだが、現在の僕達が当時にタイムスリップしても地動説で彼らを納得させることは難しい。星を観測してごらんよ、望遠鏡で見てごらんよ、と提案してもそこには望遠鏡もない。

ガリレオの時代に、望遠鏡で見ても、人々は地動説を信じなかった話が本書に出てくる。

地動説を唱えたコペルニクスも、その軌道は円運動と考えていた。ヨハネス・ケプラーが楕円軌道を見つけるのに8年の歳月を費やしている。

僕は天文学者ならヨハネス・ケプラーが一番好きなのだが、それは多分にCarl Sagan 「COSMOS」のせいだ。ケプラーの姿は、TVのコスモスで見たロバに揺られている修道士のままイメージが定着している。

ケプラーとも文通していたガリレオが、金星の満ち欠けを天動説よりも正確に予測しそれが観測された時、初めて地動説が天動説よりもより現実を上手く説明できると示された。これによって天動説よりも地動説の方が正しい事は証明されたのだが、それでもガリレオは
「それでも地球は動く(Eppur si muove.)」
と呟かねばならなかった。

著者のSimon Singhは、これらの天動説には否定的であり「その場しのぎ」の説と呼んでいる個所がある。この記述が僕には気に入らないが、そこには科学史において不遇を得てきた人達への同情があるのかもしれない。

正しい論説が幾つも埋もれてゆく様を取材を通して見てきたことから彼は独特の怒りや絶望を感じているのだろうか。科学的に正しい理論が実験されなかったり無視される数々の事例を追いかけた著者には誤った考え方を信じ込んでいる科学者に少しだけ寛大ではなく批判的な面がある。

だが、どちらも合理的であろうとする態度に誤りはない。神の世界や保守的な考えであっても、その中での合理性がある。

二つの異なる意見が対立する場合、そこは科学的態度をもって挑むべきだが、だが、それさえも甲乙つけがたい場合、つまり判断ができない場合が起きる。

どちらの意見にも一長一短があり、それが実証されるのを待っていた。

それが、本書のテーマであるビッグバンである。

本書の第二章より始まるビッグバンの話は、まずは、光の速度がいつどのように測定されたか、から始まる。1670年代の話である。

17世紀には、光の速度を科学的に正しいと思われる観測と理論に基づいた方法で算出した。その方法が想像できるだろうか。

光速の測定から始まって、アインシュタインの登場、量子力学の台頭、天文学の発展と絡みあう。相対性理論の話は、お決まりのエーテルから宇宙定数の話まで登場するがこれはプロローグに過ぎない。

宇宙の起源を知るためには、量子力学の成熟が必要であった。その理由を知っているだろうか。本書にはきちんと書いてある。

スペースシャトルの事故が、宇宙の起源を探る学者らを落胆させた理由を知っているだろうか?それも本書に書いてあった。

定常宇宙モデルとビッグバンモデルの二つのモデルがどのように決着を見るのか、この本に登場する科学者たち(それはほんの一部に過ぎない)が、どのように主張し、どのように実証したか。驚く勿れ、この問題が解決を見るのは、1992年の事である。

本書は当代随一の科学書であり、科学者を好きになったり、嫌いになったりしながら、合理的とはどういうことか、科学的とはどういう事かを物語る。

そして、この本で語られている幾つものテーマは、実は何千年も前からあるテーマであることに驚く。太古の人類が自然と問うたその問いに、幾つかは納得できる答えが用意できたが、まだ答えがないものがある。それは、神話の地球像と対して変わらないままで今も横たわっている。

その答えはいつか見つかるだろうか?

著者は楽観的であるように見える。それは科学という態度を信じているからだろう。

まったくのゼロからアップルパイを作りたければ、まずは宇宙を作らなければならない。(カール・セーガン)

BIG BANG vol.1/vol.2

2010年11月1日月曜日

ちはやふる - 末次由紀

ちはやふる4巻に次のセリフがある。
綿谷先生とまた会える。
じいちゃん
おれ
かるたが好きや

これは、長くかるたから遠ざかっていた新がもう一度かるたを始めようとするシーンだ。このシーンを読むと、僕は「ヒカルの碁」でヒカルが佐為と再会する場面を思い出す。

いた・・・
どこをさがしてもいなかった佐為が・・・
こんなところにいた―――

この二つは、どちらも止まっていた時間がもう一度動き出す瞬間を描いていて、いつもと変わらない空や町の風景の中に二人の心だけが涙となる。とても良く似ている。

二人とも大切な人を失い、そこに自分のエゴを見つけ、自己嫌悪の中に閉じこもっている。それを再確認し、許されることで一歩進もうとする。 

何が二人を許したか。

もう一度、失った人と会えること?

違う、たぶん、それを知る他の人、第三者が必要だったのだ。そこから自分を引き上げてくれるのは、自分の伸ばす手を掴んでくれる人がいてこそだ。一人で悩むのを止めた時に、許された、それは、物語が少年時代に別れを告げた瞬間でもあった。

きっかけは、ただのおじさんで良かったのだ。そのおじさんは、ただの第三者であったか、ただの脇役であったか。一見そうみえるそのおじさんも彼女が描けば物語がある。そのページを眺めているとおじさんにも物語があるのだろうな、と思えてくる。

この人の描く漫画には、他の漫画とは一風変わった印象を受ける。ちはやふるだけではない。クーベルチュールやハルコイでも同じ印象を受けるのだ。

それは、この物語を何回か読んた後でいいから、是非、背景に描かれたすれ違うだけの人に目を配ってみることだ。その表情やファッションを見ていると、その人の物語もまた描かれている事に気付く。誰一人として脇役などいない、逆に言えば、この漫画に主人公と呼ばれる人はいない。

これがこの作者の描写だ。

何気ないクラスメートたちが、それぞれの人生を歩んでいる様が、何気ない一コマのなかにも描かれている。それぞれのクラスメートが卒業してそれぞれの人生を歩み家庭を持ち、そしていつか再会するんだろう、そんな思いが読む人の心の中に湧きおこる。

全てのキャラクターが全て生きている。主役も脇役もいないこの漫画の、これがこの作者の驚くべき力だ。

それと比べれば、彼女の盗用事件など詰まらない話だ。決して絵が圧倒的に上手いわけではないこの漫画家をそれでも漫画家たらしめているのは、それでも絵でしか表現できないこの漫画自身の描写の魅力なのだ。

トレースしても気付かれなかったと告白している漫画家がいる。その発言に何らメッセージを込めていないとは思えない。

彼女は、少しだけ上手すぎたという所か。もう少し下手であれば、誰にも気付かれなかったかもしれない。

基本を問えば描写とは表現の問題であり、盗用は経済の問題であろう。自分の描写を自然から拝借しようが、人の作品から拝借しようが、基本的に表現とは関係ない。表現とは、一場面をトレースしたからといってどうのこうのなる話ではなかろう。

贋作を贋作たらしめているのは、芸術への評価という経済問題に関するのであって、作品の本質とはなんら係わりがない。贋作のほうが優れて芸術的というのは、ありうるのだ。だからといって、芸術であれば優れているという訳ではないのであるが。

本を売ってお金を得ることと、表現の間に断崖がある。表現したものでお金を得ているが、そこに合理的な正当性はない。少なくとも作品の価格は市場が決めるのであって、作品とは関係ない話だ。

お金を払ったものが盗品では困るというのは社会の要請に過ぎず、表現とは関係ない。自然から掘り出した石に価格を付けることと、手が描いた図形に価格を付けることは同じだ。盗品であろうが殺略の果てだろうがその石になんの違いがあるだろう。

もともと、価格など付けようがないものに価格を与えるのが経済なのだから、人が多かろうが、少なかろうが、本質、価格とは言い値に過ぎない。

作品ではなく、その背景に興味がある人は、ただ、類似点を探し、似ているから盗用だといい、盗用であれば悪と言う。商業においては悪であることと、作品が悪であることの違いなど一生考えてみないのだろうか。今の所、そういう人たちは自分を売り込んでいる人としか呼びようがない。

それでも、この不都合な盗用やトレースという出来事は、我々にとっては幸運であった。

二年間、作品が発表できなくて、過去の作品は絶版となり、作者は苦しんだだろう。その苦しみのおかげでこの漫画と出会えたのだから。読者である僕らが何の苦痛を受けたというだろうか。待っただけの価値は十分にある。

もしかしてこの作品と出合えていなかったかもしれない、と思えば、不幸も事件も僕達にはそれでよかったのだ。

これだけの作家の作品であるならば、これからの漫画の一つ一つが、絶版となったものを再販させてゆくだろう。問題とされるシーンは差し替えられるだろうが、それは出版社と作者の問題だ。古本であれ、再販であれ、それらを読めるならどちらでも差支えない。僕は、手垢で汚れてボロボロになった少年ジャンプを回し読みして育った世代である。

物語がどのように紡がれるかは、製作者の工夫であり、百代あれば幾千の技があるだろう。それを我々が垣間見ることはあっても、工夫も語り尽くすことなどできない。あるいは本人でさえ、それを説明する能力は、範疇を超えているかもしれない。

作者の人生が、人との付き合い、読書から得たもの、自然の中から見たもの、町の風景、作り出した物語、そういったもので紡ぎだされた物語は、まるで一つの人生を再構築したかのように魅力に溢れている。

どのコマにも物語を持つ人がおり、それぞれの人生のなかでちはやふるという物語と係わりを持っている。それがページの一つ一つを埋めていって、日々の生活が出来上がるのと同じように、この漫画は動きだす。

読んでいれば誰かの生活が始まるのと同じように、漫画が始まる、そして漫画が動き始める。漫画が動く、という表現がぴったりくる。

この漫画は動く。

キャラクターが動いていると言うよりも漫画が動いている、という語感が良く似合う。これはアニメーションの話ではない。

ある作家が精力を込めて一コマ一コマを仕上げた、彼女の息吹であり、歩いている道なんだと思う。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
誰をかも しる人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思う
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
すみの江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひ路 人めよくらむ
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲ゐにまがふ 沖つ白波

2010年8月30日月曜日

大東京トイボックス Volume 6 - うめ

プログラマやコンピュータ技術者を題材とした漫画やアニメは思ったよりも少ない。

「機動警察パトレイバー the Movie」や「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」など劇場公開された作品もあるし、「恋におちたら〜僕の成功の秘密〜」も天才プログラマが主役となったドラマだと思うが、プログラマが主役であってもコンピュータサイエンスやエンジニアリングが分かりやすく、しかし重要なファクターとなるシーンはあまりお目にかかれない。

ましてや、具体的なコードが登場することなど、あまり期待できない。プログラマなら爆笑もののバグの一つや二つは知っているものだが、同業者以外に説明して理解してもらえるかは疑わしい。「踊る人形」の暗号のように面白さの核心となってもいいんじゃないかと思う事もある。

もし、あなたがゲームのクリエータやプログラマなら、この漫画に魅かれるかもしれない。
主人公の一人は、あなた自身でもあるから。

もし、あなたがそうじゃないなら、この漫画に魅かれるかもしれない。
主人公の一人は、あなたと同じ立場だから。

もし、あなたがゲーム好きなら、この漫画に魅かれるかもしれない。
この物語そのものがゲームだから。

大東京トイボックスは、主人公、天川太陽と月山星乃の恋愛を織り交ぜながら、彼を中心としたスタジオG3が業界最大手ソリダスワークスと仙水伊鶴の嫌がらせにも負けずヒットゲームを作るガッツと根性の物語。本当の主役が、ゼビウス(XEVIOUS)ってのは内緒。

さて、大東京トイボックス(1~6)は、東京トイボックス(1~2)の続編として出版社を変えて発表された物語である。東京はモーニングでの連載を2巻で終え、大の字を付して再開した。

東京トイボックスと大東京トイボックスのこの二つの物語は、同じ世界に存在する。登場人物、会社、世界観は変わっていないので、連続した物語として読むべきである。実際、東京トイボックスを読まなければ月山星乃が社長をしている理由は分からない。

だが、大東京トイボックスの Volume 2 と東京トイボックス Volume 2 の最後に出現するデジャヴのようなシーンに気付くと、作家の悔しさや意地や自信が感じられ、どうして同じ場所に戻って来たかったのか分かるような気がする。

別々のルートを辿りながら、同じ場所に立ったのは、弔い合戦のようであり、リベンジのようでもあり、再チャレンジの成功の証のようでもある。まるでゲームオーバが悔しくて、もう一度同じダンジョンに挑んだゲーマーのようだ。

前編とは異なり百田モモというキャラクターを新しく登場させ、攻略ルートは変えながらも同じダンジョンの前に戻ってくる。ここは絶対に通らなければならない先に行けないルートだったというわけだ。つまり、大東京トイボックスは、ゲーム開発の話だが、この物語自体がRPGになっている。

イベントが発生し、会話でフラグが立ち、次のキャラクターと出会う。ラスボスはどこか、どういうマップがあるか、もちろん、過去への転送なんてマップも準備されている。気付かないだけで幾つものフラグがマップ上に隠されているんだろう。

この物語自身が、作中で中心となっている「ソードクロニクル」というゲームなのかもしれない。

クリエータが存在しゲームを作っている世界が、実は作者によってプレイされているRPGであるという二面性は面白い構造だし、読者はただ作者のプレイを覗き込んでいる、という構図もよい。

しかしながら、RPGだから本書が面白い、というわけではない。

彼らが共産主義者を攻撃したとき
私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき
私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

彼らがユダヤ人たちを連れていったとき
私は声をあげなかった
私はユダヤ人ではなかったから

彼らはついに教会を攻撃した
私は牧師だったから行動した
しかしそれは遅すぎた

ニーメラー「First they came for the communists」より

Volume 5 の最初の扉絵はこんな印象的な詩から始まる。

これは作者の「表現規制」に対する強い想いなのだろう。

時を同じくして東京都は、東京都青少年保護条例改正案(通称、非実在青少年条例)を提出した。

この問題で反対を表明する作家や出版社は多かった。これは条例なので東京以外の地域では、何ら影響を与えるものではない。しかし、誰も東京都から出ていこうとはしなかった。

住み慣れた街を離れたくない、生活が不便になる、売上が落ちる、確かにそれには理由があるのだろう。売上が落ちるより大切でない表現の自由だった、という事だろう。

反対の表明は、声をあげたことになるのだろうか?

児童ポルノの背景には、人身売買がある。これを取り締まる有効策がない場合、需要側をターゲットにした規制は自然の流れと思われる。

ここで、実在するだけではなく、架空世界への規制まで広げることは、その土壌を断つ、という理念の延長だ。これは、雑草を駆除したければ、畑をコンクリートで埋めてしまえ、というのと同じ論拠だろう。

児童ポルノがヒトの潜在的な衝動であるならば、全てのコンテンツを隠したところで問題が解決するはずもない。科学的根拠が発見され、児童ポルノを嗜好する遺伝子を操作して解決を図ろうとするかもしれない。精神医学は、嗜好を抑える有効な治療を見つけるかもしれない。

人に手を加える方向は増えるが、児童ポルノを規制する根拠は一度も揺るいでいない。誰もその根拠を確かめることもなく、絶対悪とする。これでは停止した正義ではないか?

それでも世界で起きている事を看過する事はできない。なんらかの規制が必要であることは明白である、と。例えば、写真はダメだが、絵や漫画なら許可をする、とか。

いずれにしろ、規制をする者の判断が不透明であることが恐怖なのだ。権力が判断するものは、それが公平であることを担保しなければならない。

個人の恣意や好みだけで判断されたら適わない。その判断が公正であること、妥当であること、公平性を保証する手続きは何であるか、それが公開されなければ、この取り締まりも認められない。

問題は裁判で争え、ではなく、誰もが認める運用設計を要求する。

そうでなければ、出版社は、自分たち自身で規制することにより法案化に対抗する。

これは自主規制になるのだが、さて自分たちでやるにしても誰かが判断下している。その公平性は?自主規制ならば、公平性を公開する必要がない、というのなら問題の本質は何も変わってはいない。

誰もが口をつぐんだだけだろう。

そうやって問題は解決したか、Noだ。問題とは関係ない場所に移動しただけだろう。誰もが人身売買の片棒を担いだとは思っていないし、そんな気で仕事をしてもいない。だが、もうそうなら?そうなっていたとしたら、どうする?

日本でも人身売買は行われているだろう。だが、それがニュースとして報じられる日は来ないし、問題意識にもない。今は、忘却していてもいいかもしれない。

しかし、この漫画の中では、既にこのフラグは立てられている。既に、作中では誰の責任でもない不幸が起き、その当事者達が一堂に会しているのだ。その中心は、「ソードクロニクル」である。

Volume 6 までは町の中でのイベントに過ぎなかった。やっと町の外に出て、本当のゲームが始まる、と僕には思われる。面白いのはここからだ。

追伸
本書には随所にいろんなオマージュが散りばめられている。それらを見つけるのも楽しいかもしれない。

追伸2
仙水伊鶴というキャラクター、どこかで見たような気がした。パトレイバーの内海課長だった。典型的パターンとして確立されたのかな。

2010年8月28日土曜日

数学でつまずくのはなぜか - 小島寛之

「マイナス掛けるマイナスはなぜプラスなのか」

この問いかけから始まる本書は、これを説明する自信がない人を読者にしたい。

特に、小学生、中学生の子供を持つ親が対象である。そう見える。

しかし、あとがきまで読み終わってみれば、どうも違う感じがする。本書は子供と読む方がいい。算数・数学の分からないを大人になるまで待っている必要はない。分からないに子供と大人を区別する必要はない。

マジックを見ればどうして何故とすぐに知りたがるのが子供だ。ならば、数学に躓く子供に、種明かしがあるのなら、是非とも知りたいと思うのは、親だけではない。子供こそ、種明かしを知りたがるはずだ。

わさわざ隠しておくほどの種でもあるまい。分かるかどうかは読ませてから決めればいい。例え分からなくとも何度も挑めばよい。

そもそもで言うなら、子供が数学を理解する必要があるわけではない。教育の一環として近代国家は数学を与えてはいるが、何故数学であるかは問われない。「当たり前だから」で済まない問題もある、と本書も教えている。

数学はあらゆる教科の基本にあるから知っておく方がいい。数学が求める厳密性や証明の確かさには触れておく方がいい。だが、それは専門家を求めての事ではない。まして数学を嫌いになるのは余りに惜しい。

数という単純な部品だけでどれだけの世界が広がるかを見ておく事は、壮大な宇宙やこの星の自然の豊かさと比べても決して小さくも退屈でもない世界なのである。どんな分野でもどんな視点でも、その根底に面白いがある。本当は全ての人が面白いに触れられればいいのだけれど。

教育は、成長途上にある子供の脳に与える栄養だし、新車の慣らし運転にも等しい。無理をしたら壊れるが、止まったままにしておくわけにもいかない。野生の動物たちは生まれた瞬間から立ち上がる事が要求される。

人間の子供も成長する過程で脳に栄養を与え、慣らし運転もしながら鍛えて育ててゆく必要がある。成長途上にたくさんの回路を開いておかないと、後からでは大変/出来ない事も沢山ある。

暗記したり推理したり証明したり勘を試したりひらめいたり悪さをしたり嘘をついたり体を動かしたり走ったり見たり聞いたり寝たり起きたり病気になったり怒ったり泣いたり逃げたり悲しんだり喜んだり。

経験は多ければ多いほどよい。脳は軽く鍛えるだけじゃ駄目だが、単一に鍛えても不十分。国語、算数、理科、社会、英語、音楽、美術、体育と学校の教科はシンプルだがこれに学校生活を加えれば、鍛錬としてはまずますではないか?

回路が作れるなら何でもいいが、同じ鍛えるなら将来に役立つ方がいい。将来役立つ、とは、人類が長い年月をかけて築き上げたものを引き継ぐ、くらいの意味でよい。

将来に役に立つから学ぶのじゃない、育つために学ぶのだ、それは鍛えるための方便だから、子供が理解するはずがない。

ある時期、ゆとり教育でπを3と教えるのに批判が起きた。この著者も批判派であるが、ゆとり教育の本質は学校で3と教える所ではない。親が3.14と教えてくれ、ということなのである。

ゆとりは、教育をゆとりにしたのではない、学校をゆとりにする目的であった。そのゆとりで自分の子供に3.14を教えられない親の変わりを務めようとした。ただ、そういう親が多すぎて破綻しただけの話。

これはリソースの分配の問題であって、それに失敗したのだから、そのツケはどこか別の場所で払う事になる。

数学は公式や方程式だけで出来ているものではない。そこには、計算を簡略化するためのテクニックも散りばめられている。今ではコンピュータでやるからいらない、というものもあるかもしれない。

しかし、計算機でやればいいじゃん、という子供の戯言は聞く必要がない。子供が計算機を使わずに問題を解く事に意味がある。それが鍛えると言う事だし、育つと言う事になる。

運動のトレーニングをするのにランニングは欠かせない。ランニングを自動車で走っては目的に合致しない。


以下に目次の幾つかを挙げる。子供たちを面白がらせる種明かしがここにあるかも知れない。

  • マイナス掛けるマイナスはなぜプラスなのか
  • 文字式という落とし穴
  • 二次(二乗)の代数の難しさ
  • ルート数の難しさ
  • 「割り切れないもの」の深淵

  • 何がこどもを幾何嫌いにするのか
  • 得意な子もとまどう
  • 公理系はRPG

  • 文章題との運命の出会い
  • サイン、コサインはアラビアで実用化された
  • 対数関数(log)は計算機のはしり
  • 図形を方程式に変える
  • 微分という魔法の算術

  • 幼児は数を何だと思っているか
  • 数を理解できない天才少女の話
  • 数学的帰納法とはどんな原理だろうか

  • 「自然数」は数学者にも難しい
  • 無限+無限?
  • 無限の大きさを比べる

子供は待つ事ができるが、この本を送れるのは親のあなただけかもしれない。

2010年8月27日金曜日

星を継ぐもの - ジェイムズ・P・ホーガン

どこか深いところからゆっくりと浮かび上がるように、彼は意識を取り戻しかけていた。

ホーガンの示した未来はとても素敵だ。それはそのままで過去でもある。そして人類の始祖でもある。

それが例え空想を呼ばれようとも。ここにあるものは素敵だ。

1978年に書かれた本書では、未来の話だがソビエト連邦が登場し、DECのコンピュータが使われている。電話はなんだか黒電話のような気もする。

それは古くに書かれた事の証拠であって、本作の斬新さには何ら影響しない。恐らく、人類が月に立ち、木星に飛び立つようになるまで、本書の斬新さが失われる事はない。決して、絶対に。

人はどこから来て、どこへ行くのか、我々は何者か

ゴーギャンが見つけたこの哲学とも詩とも区別できない疑問は、誰のものでもある。星空を見た時に感じる不思議さは、現代人だけの特権なのか、太古の人々も同じ思いであったのか分からないが、人が宇宙へもつイメージは科学と空想の複合物となって、我々の生き方に密着している。

哲学がそうであるように、我々は既に、科学の認知の外では生きていけない。18世紀から始まった科学という考え方は、我々の生活、社会、制度、理念、宗教、あらゆる世界のものを染め抜いている。科学としての説得力を持たないものは、遠からず力を失い笑いを誘う存在になる。そんな、道化として生きながらえるしかない世界の中でそれでも生き残ってゆくだろう。

何故なら、それを生みだしたのもまた人自身であるから。人が自ら生み出したものを、科学という審判で捨て去ることは得策でない。科学による証明は、数学の証明と異なり、常に覆される可能性を秘めているからだ。

空想と笑いたければ笑え、その説得力というものが、どれほど不確実の上に成り立っているかを自分の目で確かめてみればいい。自分の大地が揺るぎないと信じるのは道化だ。そして、信じてもいない事を信じているかのように振る舞うのが道化だ。

それが成立する条件を列挙してみれば、その瞬間に道化は王となることができる。真実の王となる事ができるのだ。

宇宙や、深海など、科学が認知できていない世界には、まだまだ考えられる限りの空想が残っている。科学の立脚した上で空想は、それが切り開く新しい世界観が人を宇宙へ連れて行くと信じる人達によって紡がれる。

ホーガンが、地球人の物語を太陽系の海に求めたのと同じように、僕にも自分の空想がある。

我々の太陽が、遠い将来、赤色巨星となり膨張を始め地球を飲み込みかねないことがわかっている。どうなるにしろ、50億年後には、確実に我々はこの星を捨て、宇宙に飛び立つしかない。その時は確実に来るのだから、今から、宇宙で出てゆく準備をする事は大切ではないか。

我々が最終的に宇宙に飛び立つ生命体であるかはわからない。だが、不確定な0%を理由に、我々が歩みを止めてよいとは思わない。

この地上で人類だけがそれを可能にする唯一つの種ならば、我々の手で宇宙への道を切り開いてゆくしかないだろう。

3億年前、魚類が切り開いた道に続こうじゃないか。海から地上へ進んだ我らが先輩の後を継ぎ、地上から宇宙へ。その役割が与えられているからこそ、私たち人類の酷い行いをこの星の生物は、許してくれているんだろう、と勝手に思っている。

宇宙に飛び立つのは、地球の生命体、全ての意志だ。その手段は人類だが、その依頼主が人間である必要はない。

作者のJames Patrick Hogan氏は、残念ながら2010年7月12日に亡くなられた。彼の後を継ぐものたちは、今も星を目指している。

2010年8月23日月曜日

フェルマーの最終定理 - Simon Singh, 青木薫 訳

1993年6月23日の事である。

「その講演は、今世紀でもっとも意義深いものになった。」

フェルマーが余白に書いた定理は、有名な以下の理由から証明を知るものがいなかった。

「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことができない」

この余白はそれを書くには狭すぎる

人口に膾炙しているこのセリフは、数学史に永く書き留められるだろうが、これを使った上手い冗談は以外と難しいのである。

本書は、アンドリュー・ワイルズを中心に配した数学史であり数論史である。本書を読まれたら、本書に登場する数多の数学者の姿に感動されたい。そして、ここには登場しなかった多くの数学者に思いを馳せたし。

例えば、ポアンカレ予想を証明したペレルマンの話とか。

さて、著者が語るとおり、これは「冒険物語」だ。大海原の代わりに、数字の海が舞台だ。驚くなかれ、大海原と言えどもたかが数桁程度の有限だが、数は、無限の世界だ。

数学は宇宙よりも広い。

帆船に乗って剣を振るう変わりに、群論だの、楕円方程式だの第一不完全性定理だのが縦横無尽に飛び交う。どうせ、帆船の動かし方も知らない我々だ。

谷山-志村予想、コリヴァキン-フラッハ法がなんであろうが、冒険の面白さを感じるのにちっとも困らない。

数学の理解を求められても困る。しかし、作者が数学を語るのに苦心したそぶりは見えない。一つ一つの事例を丁寧に言葉にして語り、ピタゴラスの定理を知ろうが知るまいが、知識があやふやな人が読んでも十分に面白いように語る。何故なら面白いを伝えたいから。

数学以外の科学分野ではまず仮説を立てて、実験によってそれを検証する。そして仮説の誤りが示されれば、別の仮設がそれに取って変わる。しかし、数学においては、完全な証明こそがゴールである。一度証明されるということは、永久に証明されることなのだ。

これは序文にあるジョン・リンチの言葉である。

この言葉で僕は数学の正体が飲み込めたような気がした。

数学とは証明する学問なのだ。一度証明されたら、明日、宇宙人が来ようがその証明は揺るがない。

計算できるかどうかはあまり重要ではない、というのは素人の考えなんだろう。計算が先に進まなければ、証明もできない。

数は、新しい式に変化することで新しい姿を現す。だが、その変化が数の本質に新しいものを付け加えたわけではないだろう。数がもともと持っている性質が幾つもの違う顔を見せている。

虚数は、仮定の数として定義されたはずなのに、この世界を記述する物理学の公式に現れる。物理法則を示すのに、虚数を必要とするというのは何んとも不思議な気がする。虚数で示される世界は、本当にこの世界に存在しているのか。この問いは、実数は実際に存在する数で、虚数は実はありえない数だと理解している証左だろうか。

このような道を、2500年以上の長きに渡り生まれてきた人間が旅し次の世代へと引き継いできた。

不運により多くのものを失いながら続いてきたそれらの道程はじいさんやばあさんのまたじいさんやばあさん達の物語として積み重なり一つの結実した証明という実を食すに至る冒険劇となった。まるでギルガメシュ叙事詩のようだ、と言ったら言い過ぎだろうか。

数学を数学史で触れる事は楽しい。抜群に面白い数学者の物語であるから。その彼/彼女が何にもまして証明しようとしたものの面白さの輻射熱を遠くから感じるだけだとしても。補遺から数学の端緒に触れる事もできる。

古代ギリシアから始まる螺旋階段を上りながら下を見たり、上を見たりしながら数論を俯瞰してゆく。

サイモン・シンという人の人間の見方はとてもフェアで尊敬に溢れている。この尊敬する態度こそが本書を一貫して流れる本質であり本書の魅力だと思われる。

この物語には、主役はどこにもいない。最後はアンドリュー・ワイルズの活躍となるが、その偉大さを示す物語ではない。誰ひとりとして脇役たりえない偉大なる数学者たちの物語だ。

これまでの数学者の業績の力を借りながら、ワイルズが証明を成功させる過程を描く。一人の人が歩いている道は一つかもしれない。しかしその一つの道は、幾重にも別れ幾つもの未来への道へと変わってゆく。

それらの道の上をワイルズが歩み、証明への道を辿る。それは猟犬のようであり、迷路のようでもある。そこにあるのは数の本質に過ぎない。証明される前も、証明された後も数はその振る舞いをなにひとつ変える事がない。

また、本書を非常に面白く読めたのは、たぶん、この訳者の力に担う所が大きい。こういう訳は、名訳と褒めておけばいいのかしらん。

訳者のあとがきを読むまで訳者が女性とは夢にも思わなかった。著者が男だからだろうか、そのまま訳者あとがきも男だと思って読んでいたからびっくりした。

同時に訳者あとがきを読むまで、ワイルズが谷山-志村予想を完全に証明したものだと信じ込んでいた。ワイルズは自分の証明に必要な部分を証明しただけで、完全な証明はまた別の話らしい。

この訳者あとがきも、優れた作品というべきであろう。

ここで終わりにしたいと思います。

nが2より大きい自然数(n>2)であれば
Xn+Yn=Zn
を満たす自然数X,Y,Zは存在しない。

2010年8月22日日曜日

なにもかも小林秀雄に教わった - 木田元

終戦を海軍兵学校のある江田島で迎えた筆者の読書録を中心とした自叙伝である。
本書には、並大抵ではない読書家がどれだけ本に飢え、どれだけの本を遍歴してきたかが綴られている。

戦後の闇市での話は、それだけでも小説のように面白いし、登場する本の多彩さに驚かされる。
ドストエフスキー論でのジイド、シェストフ、ベルジャエフ、森有正への言及や
ハイデガーと小林秀雄の対比には、作者の興味の主体が現れているようで面白い。

それでも、本書のタイトルは”看板に偽りあり”だ。
なにもかも、は教わってはいない。

芥川龍之介、芭蕉、萩原朔太郎、蕪村、松岡青蘿、加藤暁台、和田光利、日夏耿之介...

これらは、本書を適当に開きパラパラとめくって目に付いた名前に過ぎない。
こんな感じでそれはそれは多くの作家の名前が出てくる。

小林秀雄だけに教わったわけではない事はあとがきにもあるように著者も自覚している。

文学のいいお師匠さんが大勢いた

それでも、このタイトルはいい。
"快なる哉"と膝を打った人も多いのではないか。

小林秀雄の名前に魅かれてこの本を買ったのであれば、仕方ない。
なにもかもを教わっていなくとも、それはみな同じではないか。
同じ魅かれたもの同士、その気持ちがわからないでもないし、的を得た表現に脱帽しておこう。

それに、結構な引用もあるので、そこに何か出会いがある。かもしれない。

例えば、僕は、これが与謝蕪村の作品だと知ってびっくりした。
これで江戸という時代へのイメージがまた変わってしまった。

北寿老仙をいたむ

君あしたに去りぬ
ゆうべの心 千々に何ぞ 遥かなる

君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ
岡の辺 なんぞ かく悲しき

普段から耳にしている蕪村の歌と何んと違うか。
春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に
五月雨や大河を前に家二軒
山は暮れて野は黄昏のすすきかな

違うのなら、これは僕の方に誤りがある。
一体、時代に対するイメージはかくも狭く、実際は茫洋としたものであるか。
萩原朔太郎の驚きは、今の僕達の驚きでもある。

さて、もう終わる。
本書では小林秀雄が保田與重郎の弔問に訪れたシーンが印象深い。

2010年8月19日木曜日

読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤールが書いた本。
原題は「Comment parler des livres que l'on n'a pas lus ?」
英訳は「How to Talk About Books You Haven't Read」

ネットでたまたま見つけた本だが、タイトルが面白い。
検索してみれば、あちこちに書評もある。

だが、読んでいない本について堂々と語る方法を、読んでから語るのは、フェアではない、と思う。

そこで、ここでは一切読まずに書くことを宣言する。
ただし、ちょっとだけ検索し他の方の書評などは参考にした、了承されたし。

さて、本書には、本を読まずに済ませる方法が書いてある。
そして、読んでいなくても相手を納得させる方法がある、と言うのだ。
誰も読んだことのない本であれば、読まずとも堂々と語れるだろう。
それが相手が読んでいるとしても出来る、と言うのだ。

相手を納得させるようなでまかせを言うのだから、相手については知っておきたい。
相手がその本を知っているのか、読んでいるのか、それとも読んでいないのか。
相手は一人なのか、複数人なのか、不特定多数であるのか。

いずれにしろ、どうせ話した内容の多くは覚えていない。
読んだ本のことを覚えていないのと同じくらいに。
それでも、印象は極めて強く覚える。

君が語る内容については直ぐに忘れるが、それをどう感じたかは忘れない。

何が書いてあることは言えなくとも、どう感じたかをはっきりと主張しておく事が重要だ。

さらには「細かい話はバレナイ」である。

誰も全文を暗記しているわけではないので(そういう人もいるが)、
細かい部分をでっち上げても、相手は記憶にないなと思ってくれるし、
そんな個所がない事を指摘されたとしても「勘違いで済ませて」おける。

ちょっとした著者の体験談、失敗談や、猫や犬を使った例え話、世間に知られたエピソードを
さも書かれていたかのようにはさんでおく。

さて、一概に本を読んでいないと言っても、例えば、いろいろある。

全く読んでいない場合もあれば、
頭の10ページだけは読んだ場合もある。
目次や解説書に目を通しただけのものもあるだろう。

これらは、読書感想文を効率よく書く場合に使う例の手だ。

本の著者と書名は、書いてある内容を知るための重要なエビデンスである。
雑誌の宣伝文句から内容を推察し、
国、時代背景、その時の思想について知っている事も推理に役立つ。

本書では、そういうノウハウをまるで推理小説を読んでいるかのように味わえる。
読んでいない事を読んだかのように欺くために、アリバイを作り、取調べでは裏を取らせない。

堂々と語るには、相手からの疑心、本当は読んだ事はないのではないですか、をやり過ごす必要がある。
読んだアリバイを示す必要があるのだ。

内容を語ること、文章の一部を示すこと、相手の質問に答えること。
これらの尋問をやり過ごさなければならないのだが、
そのために、著者は「相手から情報を引き出せ」と言う。

具体的な情報の引き出し方は、本書を読んで確かめて欲しい。

さて、本書で興味深いのは、そういうノウハウだけで読者の興味を引こうとしていない点だ。

このような実践例や体験談を通して、
本を読んだというは、一体何であるか、と。

さて、本を読んだはずの私よりも、読んでいない彼のほうが、その本についてより鋭い指摘をした。

本を読んでいい気になっているのは、一体どこの誰ですか、と問いかけてくる。
お前は本当に分かっているのか、と。

本など、読まずともでっちあげで十分でないか、
少なくとも、読んだ事を語りたいだけならば。

読んだ事は、本当に読んだ事になるのか、夢の中で読んだ本は、読んだ事になるのか。

そこには何かを伝えたいという想いがあるはずである。
面白かったことへの共鳴、考え込んだことの共感、新しい知識の共有。

何故、あなたは読書をするのですか、と言われるのは
面白いとは何ですか、と問われているのに等しい。

その本について読まずに語ることはできる。
だが、それが面白さかった事を堂々と語る方法はない、と言う。

面白さについて堂々と語るためには、書いてある内容からではなく、
それを受け取ったあなた自身の心に聞いてみるしかないからだ。

あなたの心が何を面白いと感じるのか、それはあなたにしか分からない。

何故、あなたはそれを面白いと感じたのだろうか。

そう著者は主張する。

2010年8月16日月曜日

ショーペンハウエルの読書について

本書の訳は古いせいもあって今の人には読み辛いかもしれない。

翻訳家は、ドイツ語がよく分かっている故、そのニュアンスを残そうとしているのだろうか。
一般読者が読むには、最初は少々苦痛な文章だ。

だが、一週間ばかり気が向いたときにパラパラと適当に開いて読んでいると訳文のリズムがなんとなくわかる。すると、何となくだが、意味が頭に入ってくるようになる。

それは、ショーペンハウエルの言う所の
「習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから、読書のさいには、ものを考える苦労はほとんどない。」
「 実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。」
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
「読書は、他人にものを考えてもらうことである。」
そういう読書は、
「読まれたものは反芻され熟慮されるまでには至らない。だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものになる。」

だが、この言葉に何らかの真実があるか、僕には分からない。
まじめに受け取っては、馬鹿らしいかもしれない。

本書には幾つもの版があるはずだが、岩波版とPHP版の訳を比較してみる。読みやすいと思う方を読むのがいいだろう。
「ところが読書や学習は思い立ったときにすぐにできるが、思索はそうはいかない。火をかき立て、燃えつづけさせるには空気を供給する必要があるが、思索も同じである。思索において空気に当たるのは、対象に対する関心である。それは純粋に客観的な関心の場合もあるし、主観的な関心の場合もあるだろう。」
岩波版では次のようになる。
「ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。つまり思索はいわば、風にあやつられる火のように、その対象によせる何らかの関心に左右されながら燃え上がり、燃え続く。この関心はまったく客観的な形をとるか、ただ主観的な形をとるかのいずれかであると言ってよい。」


僕の正直なところを書いておく。
箴言家であり哲学者である彼の本を読んだところで、そこから得られるものはたぶん、ない。
面白いか、どうかも分からない。
だが、素敵なフレーズは幾つもあるし、常識として読んでおくのは良いかもしれない。
「論争にのぞんで彼らが言い合わしたように選び出す武器は権威である。」

ここには、苦々しく世間と対峙し、不正義に憤り、嫌みを言う文が羅列されているだけだ。
そこでは、自分の好むものと対比して、駄目な例をよく持ちだしている。
その幾つかは実名だ。

読者は、その対比を感じながら読み進めるだろう。
「一般に、フランス語、つまり膠でつないだような卑しい言語の貧しい文法を
はるかに高貴な言語であるドイツ語の中に取り入れたりすることも、
退廃的なフランス趣味である。」

これは、あるドイツ人の愚痴だ。
愚痴を延々と読まされているようなものだ。
科学知識と人間が折り合いを付け始めている時代の愚痴の連発だ。

それは、酒場で聞ければ面白いのだが、それができないので本で読んでいる。

「もう、あいつらの書くもんなんて、
人の書いたもんをちょろっと摘まんで紙面を埋めてるだけじゃねぇか。
それが、俺の本より売れるんだから、嫌になっちまうよなぁ。
しかも、ドイツ語なのにクソ見たいなフランス語ぽく書きやがってよ。

しかも匿名で書くやつもおる。匿名だぜ、名無し。
平凡な頭脳で、退屈で、凡庸のクズ野郎のくせに、こっちから反論もできやせん。
あいつらと論戦したって、負けるこたぁありゃせんのに。
それもできん。

おりゃ、ヘーゲルが嫌いじゃ。
あいつなんかカントの後継者じゃなねぇよ。
全く世間の奴らはわかっちゃいねぇ。
俺こそが、カントの正統な後継者だってーの!」

本当は、全文、酒場での飲んだくれの愚痴として訳せば、大変面白い本になるんじゃないか、と思ったりする。
それが、本書を読んでの正直な感想だ。

汝、非礼なる翻訳者よ、すべからく翻訳に値する書物をあらわし、他人の著書の原形をそこなうなかれ。

最後になるが、この文章は「パンが目当ての執筆者」により書かれている。

2010年8月12日木曜日

はじめに

おや、こんな辺鄙な所に釣りをしに来なすったんですかい、お客さん。

ここはね、世界でも有数の大河、アマゾン河の支流のまた支流の端っこ、

ほとんど釣り人なんざこない所なんですよ。

まぁ、そんな釣り人相手にミミズでも売って商売しようとしてるこっちもこっちですかね。

え、これらの餌はどうしたかって?

そりゃそこの店の裏山から取ってきたんでしてね、タダみたいなもんです。

それで金もうけでもしようってのだから、少々、虫のいい話でしてね、

ああ、この店では、虫は売ってませんよ。


まぁ、せっかくここで出会ったのですし、少しここでゆっくりしていって

この店で餌でも買って釣りにゆかれたらよろしい。

さすれば、店主に、わずかばかりの売上が入ります。


まぁ、勿論ね、ここで出会ったからとゆうて

この店でミミズを買ってゆけ、なんてこと、する必要はありゃしませんですわ。

わざわざ釣り具屋で買わなくても、

裏山に行ってちょいとでも掘れば、ミミズなぞ幾らでも手にはいりますしね。

お客さんのお気に入りの釣り具屋さんもあるんでしょう?

まぁ、それよりも、なによりも、アマゾン河まで行けば、

餌など買わなくてもそりゃ入れ食いでうはうはになりますよ。

どんな魚でもいるって噂ですからねぇ。


それにね、お客さん、アマゾン河だけで釣りをするって必要もありませんわ。

他にも魚が釣れる良い河が、幾らでもあるそうじゃないですか。


それどころかね、お客さん、宅配便を待つのが惜しいなら、

財布をもってね、今すぐ近くの本屋さんに行くってのもよいんじゃないですかね。

町に出れば、なんかの出会いもあるかもしれんのですよ。

今日が運命の人と会える日かもしれんのですよ。

そういや、最近は電子書籍とでもいうもんも流行っとるそうじゃないですか、

お客さんはお持ちでいらっしゃりますか?


ああ、そろそろ、行かれますか。

兎に角、店主は、ここでamazonアソシエイトをしとります。

他に行かれても、別に悲しくはありゃしません。

それでも、書評だけでも読んで行ってくれりゃ、そりゃ大変にうれしいですよ。

その内容を気に行って頂けれたら、本当にうれしい。

ここでクリックしたらね、そりゃ私の収入になります。

あなたの行為がね、見ず知らずの店主の収入になる、ちゅうことが

別に嫌な気がしない人は、どうぞ、この店でミミズでも買ってやってください。


今はまだ品揃えも少ないのですが、増やそうという気はあるんですよ。

では、お気をつけて。

よい魚と巡り会えますように。

店主敬白

2010年8月9日月曜日

あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの - 菅伸子

この本は、暫くしたら古本屋でも手に入るから、今すぐに買う必要はない。それくらいには売れている本だ。

だが、今の政治に閉塞感を感じたりこの国に悲観しているのであれば、この本を読むくらいの価値はあるかもしれない。

もちろん、それで将来への不安が解消されるとは限らない。

だが、家族から見た総理大臣の姿を見て、それでも、その姿に何かを感じられないなら、見たいのは人間ではなく、観念かもしれない。

ここにあるのは、妻の目からみた管直人の姿。

ある日、総理大臣の妻になった彼女から見た夫であり、父であり、選挙に勝つ議員の姿だ。

全くもって普通の話として読める。どこにでもいる父親であり、夫であるように読める。なんら専門性のない、間違いもある本である。意見の相違もある。もしかしたら菅直人の専門家くらいは言う人がいるかもしれない。だが、何の専門家でもない彼女の語る夫のエピソードには価値がある。

何故なら、決めるのは彼らだ。

分からないまま決定する事もあるだろう。そのための度胸とかノウハウを磨く職業かもしれない。

逆に選ぶ側は、能力や知能、経験や考え方、度胸、運、これらを含めて、彼がどういう人であるか、だけで託さなければならない。

もし、幾分かの悲観が、管直人に対するものなら本書でその人となりを知るのは無駄にはならないはずだ。

「私を納得させられない政策は、有権者も理解しないわよ。」

そう語る妻の話は、夫像だけでなく、政治家としての管直人の姿も十分に紹介する。

支持者の方から「これでうまくいくのか」と質問されたら、私としては、「まったく分かりません」としか答えられないのです。

支持者に頭を下げてきたのは妻の方が多かったのかもしれない。今やマスコミは、なんだかヒステリーで溢れているから。誰かに向かって、声高らかに非難を浴びせかける。それがあまりに均一なので、違った姿は探さないと見つからない。

ソクラテスが頭を悩ましたもの、トルストイが家出をした原因。幸いにも、管直人の妻はそうではなかったらしい。

「大臣、ちっとも面白くありません。」

そう言わせる管直人について、僕は凄くゆったりとした気持ちになる

本書で、楽観する、を体験できると思う。

この世界の片隅に(上) - こうの史代

広島の街が好きな人。

呉の町が好きな人。

広島弁を愛する人。

海苔の作り方を知りたい人。

舟入本町から呉駅までの行き方を知りたい人。

楠公飯の作り方を知りたい人。

防空壕を作ってみたい人。

戦艦大和の雄姿が見たい人。

当時の結婚式を味わってみたい人。

新婚初夜を覗きたい人。

なんてことのない、普通の生活が描かれているだけ。そこには少しだけ戦争の影があって、でも、笑いがあって、普通に楽しい。

この楽しさは、こうの史代の他の漫画にあるものと同じだろう。作者の特有な明るさと懐かしさが同居する。

昭和 19 年という時間を知っている読者だけが暗い顔をする。

戦場だけが戦記ではあるまい。

これは日本の歴史にようやくと登場した傑作な戦記だ。

これだけの時間があの戦争が終ってから必要だっと言う事だ。

本書の脱稿後に書かれた記事だが、

平凡倶楽部の「戦争を描くという事」から一部抜粋する。

『戦争中の暮しの記録』(暮しの手帖社)という本を読んだ。
その中の「東京大空襲で一晩に死んだ人の数は、ヒロシマナガサキを上回る」という言葉が、心に刺さった。
原爆が東京大空襲にこうして死人の数で競わされているのを見て、何ともいやな気分になった反面、この本の編者がこう書かずにいられなかった背景を考えた。

これと同じ経験を持っているので、僕はびっくりした。「戦争を描くという事」は、この漫画のあとがきのようなものだ。

上巻は昭和19年の7月で終わる。

読み終わると、この漫画はどこで終わるのか、という恐怖が待つ。

あの日?

できれば、終戦の日にどんな顔をしているのか、そこを見たい、という気持ちにもなる。

既に完結しているのだが、できれば、上巻だけを買って読むのがいいと思う。

続きは、上巻を読み終わってから買いに行く。

本屋に買いに行く道すがら、本が届くのを待っている間、きっとこの先がどうなるかを考えるはずだ。

それが、この本のたった一回しか得られない最高の楽しみだと思う。

P.S.
カバーを外して表紙を見るのもお忘れなきように。

2010年7月31日土曜日

秋 - 小林秀雄

よく晴れた秋の日の午後、
から始まる、奈良の二月堂あたりをぶらぶらしていた時の随筆だろう。

若き日の思い出を語り、プルウストについて語る、プルウストについての連想は、ただ圧巻だと思う。プルウストについて書かれたかのように見えるが、このエッセイはそんな所にない。

君ならよく知っているよ。

そう牛に向かって言う時、プルウストの時間は失われて、はっきりとした情景が浮かぶ。

道ばたの石燈籠にに牛がつながれていた。いい黒い色をして、いい格好をしている。コーンビーフになる牛は知らないが、君ならよく知っているよ。日本人は千年も前から君を描いてきた。

2010年7月30日金曜日

読書について - 小林秀雄

僕は、高等学校時代、妙な読書法を実行していた

から始まる小林秀雄の「読書について」。本は、新書、単行本、電子書籍など種類は多く、ジャンル多彩、出版数も莫大だ。どれかを選び読んでゆく楽しみが読書だろうが、活字だけが読書ではない。雑誌、漫画、ファッション、写真集と、本を読むならばそれは読書だろう。

あまりに多い本の中から読む本を選ぶのは大変だ。と言うことは、売る方も大変なはずで、新聞の書評からアルファブロガーの書評まで、本との出合いはビジネスである。本屋で偶然に手にしたものは恋愛で、書評で出会ったものは見合い結婚みたいなものか。

さて、9ページ8節からなるこの小品も、また、読書しながら、読書について考えさせる。タイトルが「読書について」とあるために、まさに読書しながら、自分の読み方を確認しなければならない。本くらい好きに読ませてくれよ、と言いたくなる。

だが、タイトルに影響されて読み方が変わるようでは読書は怪しいし、タイトルなんぞはなから見ないで読んでいるかもしれない。読書は詰まらなければ、二度と読まなければいいし、途中で止める自由がある。読書について、どう書かれていようが、それを受け止める自由は読む側にある。

読み方というものは、誰もが自分なりの方法を持っているだろう。この小品も話はそこから始まる。「妙な読書法」とは、「濫読」の事である。手当たり次第、興味ある本を読んでいた、数種類の本を並行して読んでいた、と書いている。「濫読」は「読書の最初の技術」を得るためにはいい方法だろう、と言う。「濫読」は、本を最後まで読む癖が付く、らしい。

そして、一人の気に入った作家がいたら、徹底的にその作家のものを読めと言う。

その人の全集を、日記や手紙の類に至るまで、隅から隅まで

読み尽くせと言う。そうしていると、その人がまるで隣人のように感じられるようになるそうである。「ONE PIECE」を徹底的に読んでいけば、尾田栄一郎という人の姿が見えてくる、というのである。

作家の傑作だとか失敗作とかいうような区別も、べつだん大した意味を持たなくなる

片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられる

書物が書物に見えず、それを書いた人間に見えてくる

これは「経験」であると書くが、「作家の性格とか、個性」だとか意味をなさない、顔は知らないが「手はしっかり握った」という分かり方をするそうだ。

そのためには、

読め、ゆっくりと読め

相当な時間と努力とを必要とする

という読み方がいる。サント・ブウヴは、

彼ら自身の言葉で、彼ら自身の姿を、はっきりと描き出すに至るだろう。

と語る。

こういう風に読むことが読書であると言う。畢竟、人間と付き合う事と読書は変わらない。これが「文は人なりの真意」であると言う。The style is the man himself. 『一般と個別の博物誌』を著した数学者で博物学者でもあるフランスのビュフォンの言葉だ。本から作者の言っていることが分かる事ではない、本が作者に見えてくる事だ、と。

「人間をよく理解する方法」と同じように「読書」をするべきだ、と言う。なあに簡単だ、自分の息子や娘の手紙のように読んでみればよい。この日本の批評家は、全ての仕事をそうやって来た、とここで告白しているに等しい。それを「朋、遠方より来たる有り、亦た楽しからずや」の一言で済ましても良かったはずである。

自分は、本を読み、絵画を見、それを批評したのではない。彼らの姿が見えるまで、読み、見てきたのだと言っている。姿が見えないのに、彼らを語ることは「亡霊」を語る事だと言う。亡霊について語って平気でいる態度を「無邪気」であると揶揄する。

実生活で、論証の確かさだけで人を説得することの不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。

実生活では、

人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した頭に出会って、友人を得たなどと思いこむに至るか。

人と付き合う時に自明な事が、本を読んでいる時は忘れてしまう、それはおかしな事だと言う。そのおかしさは、結局のところ、人の分かり方にあるのだろう。

みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。

君は君自身でい給え、と。

一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。

読書する人に何かが足りないなど、そんなわけはないのだ。

この小品が掲載されている手頃な本は既にない。全集でしか読めない小品も多いが、最も影響を受けたので最初に紹介した。