どこか深いところからゆっくりと浮かび上がるように、彼は意識を取り戻しかけていた。
ホーガンの示した未来はとても素敵だ。それはそのままで過去でもある。そして人類の始祖でもある。
それが例え空想を呼ばれようとも。ここにあるものは素敵だ。
1978年に書かれた本書では、未来の話だがソビエト連邦が登場し、DECのコンピュータが使われている。電話はなんだか黒電話のような気もする。
それは古くに書かれた事の証拠であって、本作の斬新さには何ら影響しない。恐らく、人類が月に立ち、木星に飛び立つようになるまで、本書の斬新さが失われる事はない。決して、絶対に。
人はどこから来て、どこへ行くのか、我々は何者か
ゴーギャンが見つけたこの哲学とも詩とも区別できない疑問は、誰のものでもある。星空を見た時に感じる不思議さは、現代人だけの特権なのか、太古の人々も同じ思いであったのか分からないが、人が宇宙へもつイメージは科学と空想の複合物となって、我々の生き方に密着している。
哲学がそうであるように、我々は既に、科学の認知の外では生きていけない。18世紀から始まった科学という考え方は、我々の生活、社会、制度、理念、宗教、あらゆる世界のものを染め抜いている。科学としての説得力を持たないものは、遠からず力を失い笑いを誘う存在になる。そんな、道化として生きながらえるしかない世界の中でそれでも生き残ってゆくだろう。
何故なら、それを生みだしたのもまた人自身であるから。人が自ら生み出したものを、科学という審判で捨て去ることは得策でない。科学による証明は、数学の証明と異なり、常に覆される可能性を秘めているからだ。
空想と笑いたければ笑え、その説得力というものが、どれほど不確実の上に成り立っているかを自分の目で確かめてみればいい。自分の大地が揺るぎないと信じるのは道化だ。そして、信じてもいない事を信じているかのように振る舞うのが道化だ。
それが成立する条件を列挙してみれば、その瞬間に道化は王となることができる。真実の王となる事ができるのだ。
宇宙や、深海など、科学が認知できていない世界には、まだまだ考えられる限りの空想が残っている。科学の立脚した上で空想は、それが切り開く新しい世界観が人を宇宙へ連れて行くと信じる人達によって紡がれる。
ホーガンが、地球人の物語を太陽系の海に求めたのと同じように、僕にも自分の空想がある。
我々の太陽が、遠い将来、赤色巨星となり膨張を始め地球を飲み込みかねないことがわかっている。どうなるにしろ、50億年後には、確実に我々はこの星を捨て、宇宙に飛び立つしかない。その時は確実に来るのだから、今から、宇宙で出てゆく準備をする事は大切ではないか。
我々が最終的に宇宙に飛び立つ生命体であるかはわからない。だが、不確定な0%を理由に、我々が歩みを止めてよいとは思わない。
この地上で人類だけがそれを可能にする唯一つの種ならば、我々の手で宇宙への道を切り開いてゆくしかないだろう。
3億年前、魚類が切り開いた道に続こうじゃないか。海から地上へ進んだ我らが先輩の後を継ぎ、地上から宇宙へ。その役割が与えられているからこそ、私たち人類の酷い行いをこの星の生物は、許してくれているんだろう、と勝手に思っている。
宇宙に飛び立つのは、地球の生命体、全ての意志だ。その手段は人類だが、その依頼主が人間である必要はない。
作者のJames Patrick Hogan氏は、残念ながら2010年7月12日に亡くなられた。彼の後を継ぐものたちは、今も星を目指している。
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