本書には、並大抵ではない読書家がどれだけ本に飢え、どれだけの本を遍歴してきたかが綴られている。
戦後の闇市での話は、それだけでも小説のように面白いし、登場する本の多彩さに驚かされる。
ドストエフスキー論でのジイド、シェストフ、ベルジャエフ、森有正への言及や
ハイデガーと小林秀雄の対比には、作者の興味の主体が現れているようで面白い。
それでも、本書のタイトルは”看板に偽りあり”だ。
なにもかも、は教わってはいない。
芥川龍之介、芭蕉、萩原朔太郎、蕪村、松岡青蘿、加藤暁台、和田光利、日夏耿之介...
これらは、本書を適当に開きパラパラとめくって目に付いた名前に過ぎない。
こんな感じでそれはそれは多くの作家の名前が出てくる。
小林秀雄だけに教わったわけではない事はあとがきにもあるように著者も自覚している。
文学のいいお師匠さんが大勢いた
それでも、このタイトルはいい。
"快なる哉"と膝を打った人も多いのではないか。
小林秀雄の名前に魅かれてこの本を買ったのであれば、仕方ない。
なにもかもを教わっていなくとも、それはみな同じではないか。
同じ魅かれたもの同士、その気持ちがわからないでもないし、的を得た表現に脱帽しておこう。
それに、結構な引用もあるので、そこに何か出会いがある。かもしれない。
例えば、僕は、これが与謝蕪村の作品だと知ってびっくりした。
これで江戸という時代へのイメージがまた変わってしまった。
北寿老仙をいたむ
君あしたに去りぬ
ゆうべの心 千々に何ぞ 遥かなる
君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ
岡の辺 なんぞ かく悲しき
普段から耳にしている蕪村の歌と何んと違うか。
春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に
五月雨や大河を前に家二軒
山は暮れて野は黄昏のすすきかな
違うのなら、これは僕の方に誤りがある。
一体、時代に対するイメージはかくも狭く、実際は茫洋としたものであるか。
萩原朔太郎の驚きは、今の僕達の驚きでもある。
さて、もう終わる。
本書では小林秀雄が保田與重郎の弔問に訪れたシーンが印象深い。
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