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2010年8月16日月曜日

ショーペンハウエルの読書について

本書の訳は古いせいもあって今の人には読み辛いかもしれない。

翻訳家は、ドイツ語がよく分かっている故、そのニュアンスを残そうとしているのだろうか。一般読者が読むには、最初は少々苦痛な文章だ。

だが、一週間ばかり気が向いたときにパラパラと適当に開いて読んでいると訳文のリズムがなんとなくわかる。すると、何となくだが、意味が頭に入ってくるようになる。

それは、ショーペンハウエルの言う所の
「習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから、読書のさいには、ものを考える苦労はほとんどない。」
「 実は我々の頭は他人の思想の運動場に過ぎない。」
「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。」
「読書は、他人にものを考えてもらうことである。」

そういう読書は、
「読まれたものは反芻され熟慮されるまでには至らない。だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものになる。」

だが、この言葉に何らかの真実があるか、よく分からない。まじめに受け取っては、馬鹿らしいかもしれない。

本書には幾つもの版があるはずだが、岩波版とPHP版の訳を比較してみる。読みやすいと思う方を読むのがいいだろう。
「ところが読書や学習は思い立ったときにすぐにできるが、思索はそうはいかない。

火をかき立て、燃えつづけさせるには空気を供給する必要があるが、思索も同じである。思索において空気に当たるのは、対象に対する関心である。

それは純粋に客観的な関心の場合もあるし、主観的な関心の場合もあるだろう。」

岩波版では次のようになる。
「ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。

つまり思索はいわば、風にあやつられる火のように、その対象によせる何らかの関心に左右されながら燃え上がり、燃え続く。

この関心はまったく客観的な形をとるか、ただ主観的な形をとるかのいずれかであると言ってよい。」

正直な気持ち。箴言家であり哲学者である彼の本を読んだところで、そこから得られるものはたぶん、ない。面白いか、どうかも分からない。

だが、素敵なフレーズは幾つもあるし、常識として読んでおくのは良いかもしれない。
「論争にのぞんで彼らが言い合わしたように選び出す武器は権威である。」

ここには、苦々しく世間と対峙し、不正義に憤り、嫌みを言う文が羅列されているだけだ。そこでは、自分の好むものと対比して、駄目な例をよく持ちだしている。

その幾つかは実名である。そこにある対比を感じながら読む。
「一般に、フランス語、つまり膠でつないだような卑しい言語の貧しい文法をはるかに高貴な言語であるドイツ語の中に取り入れたりすることも、退廃的なフランス趣味である。」

これは、あるドイツ人の愚痴だ。愚痴を延々と読まされているようなものだ。科学知識と人間が折り合いを付け始めている時代の愚痴の連発だ。

それは、酒場で聞ければ面白いのだが、それができないので本で読んでいる。

「もう、あいつらの書くもんなんて、人の書いたもんをちょろっと摘まんで紙面を埋めてるだけじゃねぇか。

それが、俺の本より売れるんだから、嫌になっちまうよなぁ。しかも、ドイツ語なのにクソ見たいなフランス語ぽく書きやがってよ。

しかもしかも匿名で書くやつまでおる。匿名、だぜ、名無し。平凡な頭脳で、退屈で、凡庸のクズ野郎のくせに、こっちから反論もできやせん。

あいつらと論戦したって、負けるこたぁありゃせん。が、それもできん。

おりゃ、ヘーゲル嫌いじゃ。あいつなんかカントの後継者じゃなねぇ。

全く世間の奴らはわかっちゃいねぇんだ。

俺こそが、カントの、正統な、後継者、だ!」

本当は、全文、酒場での飲んだくれの愚痴として訳せば、大変面白い、と思ったりもする。それが、本書を読んでの正直な感想になる。

汝、非礼なる翻訳者よ、すべからく翻訳に値する書物をあらわし、他人の著書の原形をそこなうなかれ。


とは言え、この文章も「パンが目当ての執筆者」が書いてある訳であるが。

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