この問いかけから始まる本書は、これを説明する自信がない人を読者にしたい。
特に、小学生、中学生の子供を持つ親が対象である。そう見える。
しかし、あとがきまで読み終わってみれば、どうも違う感じがする。本書は子供と読む方がいい。算数・数学の分からないを大人になるまで待っている必要はない。分からないに子供と大人を区別する必要はない。
マジックを見ればどうして何故とすぐに知りたがるのが子供だ。ならば、数学に躓く子供に、種明かしがあるのなら、是非とも知りたいと思うのは、親だけではない。子供こそ、種明かしを知りたがるはずだ。
わさわざ隠しておくほどの種でもあるまい。分かるかどうかは読ませてから決めればいい。例え分からなくとも何度も挑めばよい。
そもそもで言うなら、子供が数学を理解する必要があるわけではない。教育の一環として近代国家は数学を与えてはいるが、何故数学であるかは問われない。「当たり前だから」で済まない問題もある、と本書も教えている。
数学はあらゆる教科の基本にあるから知っておく方がいい。数学が求める厳密性や証明の確かさには触れておく方がいい。だが、それは専門家を求めての事ではない。まして数学を嫌いになるのは余りに惜しい。
数という単純な部品だけでどれだけの世界が広がるかを見ておく事は、壮大な宇宙やこの星の自然の豊かさと比べても決して小さくも退屈でもない世界なのである。どんな分野でもどんな視点でも、その根底に面白いがある。本当は全ての人が面白いに触れられればいいのだけれど。
教育は、成長途上にある子供の脳に与える栄養だし、新車の慣らし運転にも等しい。無理をしたら壊れるが、止まったままにしておくわけにもいかない。野生の動物たちは生まれた瞬間から立ち上がる事が要求される。
人間の子供も成長する過程で脳に栄養を与え、慣らし運転もしながら鍛えて育ててゆく必要がある。成長途上にたくさんの回路を開いておかないと、後からでは大変/出来ない事も沢山ある。
暗記したり推理したり証明したり勘を試したりひらめいたり悪さをしたり嘘をついたり体を動かしたり走ったり見たり聞いたり寝たり起きたり病気になったり怒ったり泣いたり逃げたり悲しんだり喜んだり。
経験は多ければ多いほどよい。脳は軽く鍛えるだけじゃ駄目だが、単一に鍛えても不十分。国語、算数、理科、社会、英語、音楽、美術、体育と学校の教科はシンプルだがこれに学校生活を加えれば、鍛錬としてはまずますではないか?
回路が作れるなら何でもいいが、同じ鍛えるなら将来に役立つ方がいい。将来役立つ、とは、人類が長い年月をかけて築き上げたものを引き継ぐ、くらいの意味でよい。
将来に役に立つから学ぶのじゃない、育つために学ぶのだ、それは鍛えるための方便だから、子供が理解するはずがない。
ある時期、ゆとり教育でπを3と教えるのに批判が起きた。この著者も批判派であるが、ゆとり教育の本質は学校で3と教える所ではない。親が3.14と教えてくれ、ということなのである。
ゆとりは、教育をゆとりにしたのではない、学校をゆとりにする目的であった。そのゆとりで自分の子供に3.14を教えられない親の変わりを務めようとした。ただ、そういう親が多すぎて破綻しただけの話。
これはリソースの分配の問題であって、それに失敗したのだから、そのツケはどこか別の場所で払う事になる。
数学は公式や方程式だけで出来ているものではない。そこには、計算を簡略化するためのテクニックも散りばめられている。今ではコンピュータでやるからいらない、というものもあるかもしれない。
しかし、計算機でやればいいじゃん、という子供の戯言は聞く必要がない。子供が計算機を使わずに問題を解く事に意味がある。それが鍛えると言う事だし、育つと言う事になる。
運動のトレーニングをするのにランニングは欠かせない。ランニングを自動車で走っては目的に合致しない。
以下に目次の幾つかを挙げる。子供たちを面白がらせる種明かしがここにあるかも知れない。
- マイナス掛けるマイナスはなぜプラスなのか
- 文字式という落とし穴
- 二次(二乗)の代数の難しさ
- ルート数の難しさ
- 「割り切れないもの」の深淵
- 何がこどもを幾何嫌いにするのか
- 得意な子もとまどう
- 公理系はRPG
- 文章題との運命の出会い
- サイン、コサインはアラビアで実用化された
- 対数関数(log)は計算機のはしり
- 図形を方程式に変える
- 微分という魔法の算術
- 幼児は数を何だと思っているか
- 数を理解できない天才少女の話
- 数学的帰納法とはどんな原理だろうか
- 「自然数」は数学者にも難しい
- 無限+無限?
- 無限の大きさを比べる
子供は待つ事ができるが、この本を送れるのは親のあなただけかもしれない。
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