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2023年2月26日日曜日

日本国憲法 第九章 改正(第九十六条)

第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

○2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

短くすると

第九十六条
憲法の改正は議員の三分の二以上の賛成で、国民の承認を経なければならない。この承認は、投票において過半数の賛成を必要とする。

○2  憲法改正の承認を経たとき、この憲法と一体を成すものとして公布する。


要するに

憲法は育てるものである。捨てるものではない。

考えるに

市民の智慧は騙され上手な点にある。なんど嘘をつかれても許せる者に政権を渡す。この許容度が民主主義を支える。上手に市民に語り掛ける者が何を相手に戦っているかを市民は知らない。興味もない。

裏切りとは、裏切りが分かっている限りは裏切りではない。人は誰も自分が間抜けだとは思いたくないから。嘘は嘘と分かっている限り嘘にはならない。それは真実を導くから。民主主義はどこまで許すかを試すゲームである。真実も誠実も人を説得する為にあるのではない。

民主主義の投票を棄権しても罰はない。何故なら、罰則で市民を脅せばもう民主主義でなくなるから。王政であれ独裁制であれ、脅迫の中に民主主義の精神は生き延びない。

そこに市民の自発性が見つからないなら、そこに自由意志の発現はない。もし罰則しなければ成立しない民主主義があるなら、そのような国家は滅びるべきである。そうまでして民主主義の形骸が存在する理由はない。

民主主義は自ら滅びる事を止めない。滅びの選択がされた時には一層の加速をするシステムでさえある。如何なる選択も尊重するから。システムは選択を否定しない。滅亡を回避する仕組みは備えておらず、その選択を許容する。その選択を最大限に支持する。故に繁栄も滅亡も民主主義の関知する所ではない。

アメリカ憲法の起草者たちは憲法が如何に簡単に踏みにじられるかを知っていた。為政者の都合で、国民の熱狂で、金銭の授与によって。如何に簡単に打ち捨てられるかを知っていた。

合衆国憲法が長きに渡って続いているのは幸運だからではない。憲法がアメリカ合衆国となるように構造化されたからだ。王の代わりに憲法を掲げている。人民が国家がそうなるように成長させてきた。

この系譜に日本国憲法もある。この憲法の起草者たちがそこに思い至らなかったはずがなく、最終的にそれをどうするかは日本とそこに住む人々が決めるべきであると託した。

しかし、ともかくはこの憲法に自分たちが今までに築いてきた全ての理想を込めておく。それは夢想でも理想でもない。確固と地に足を付け日々止む事のない現実として存在するものが込められている。その声が聞こえてくる。

合衆国憲法がアメリカを支えてきた。王を持たない国家において王の代わりに憲法がある。大統領は憲法の傀儡である。その奉仕の中に憲法起草者たちは自由という理念を掲げた。

考えに考え抜いた末の結論として未来を託す思想の中心は自由であると結論した。自由という思想だけがこの先の困難に対抗しうると信じた。

自由が人間に与える創造性は、他の何ものをも凌駕する。そう信じたから自由を中心に据えた。人が乗り越えられる限りの困難はその時代の人々の自由な創造性に託す。それがアメリカの未来に対する信念である。唯一の、未来へ向かう人々が手にできる武器である。銃などそれと比べれば余りに鉄の固まりに過ぎぬ。

もちろん鉄の固まりが人を砕きその命を奪う。しかし何億発、何兆発を撃とうと自由にはかすり事はない。銃弾は人間を屈服させる事はできる。絶滅させる事さえ可能である。しかし人類の滅亡が自由という思想を滅ぼす事にはならない。弾丸は自由に対しては完全に無力なのである。

人間は単なる自由の担い手なのか、歴史の中で自由を運ぶ存在であるのか。ならば、我々がどこかの地点で滅びてもそこに自由はあるだろう。また別のだれかが運ぶ日が来るまでそこにあるだろう。

自由は当然ながら国を蝕む。自由は自由と対立するから。その対立を憲法は支持している。どうやってこの対立に決着を付けるのか。アメリカの歴史はその苦悩と決断と銃弾の中にある。幾つもの沈んだ人たちの上に。

アメリカの自由

アメリカの自由は常に途上にあるから、黒人を奴隷としたし移民を産業構造の底辺に組み込む事にためらう事もない。労働力を安価に入手する手段は正義である。そのために自由で理論武装する。その為に経済学者は存在するのである。

アメリカの二大政党は、富の象徴である民主党と白人の象徴である共和党が対立している。この対立は先鋭化し、その闘争は国内を分断している。それでも、両者の間にどのような思惑があるにせよ、自由という理念を否定する事はあるまい。

如何なる対立があろうと自由の価値を疑ってアメリカという国は存在できない。そしてこの自由の中に、武力と言うものがない事は自明であろう。武力で訴えられるなら自由という思想は必要ない。相手を屈服させる簡単な方法は幾らでもあるのだから。その力を事実アメリカは手にしているのだから。

銃、格差、マフィア、ギャング、国境、国民の分断、アメリカの前に立つ壁はそびえて深い。にも係わらず、恐らく、これらの問題の割に、アメリカの犯罪発生率は低いように思われる。状況的はもっと世紀末であっても不思議はない。国家はもっと没落していても不思議はない。

アメリカは今も強い経済を維持し世界の市場の中心にある。もちろん、それは資源が続いているから可能なのであろうが、その条件は世界のどこも同じであろう。基軸通貨であるからアメリカは繁栄しているのか。するとデジタル通貨の流通がその源泉を脅かすかも知れない。

資源があり金融があり人々が集まってくる。それが人々の創造性の源泉となり国に力を与える。アメリカの衰退が始まっているのだとしたら、それは資源の枯渇が理由のはずである。

民主主義は常に経済の脅威に晒されている。経済を優先する限り、民主主義を成立せしめる幾つもの価値観は邪魔なのである。それを経済人は良く知っている。金は基本的人権よりも遥かに有益である。民主主義の理念が経済発展の邪魔になる。それを自由な討議によって変えて行く。

地球温暖化は国家という大きさを超えた問題である。アメリカ経済はこれを無視している。ハリケーンの被害がもしかしたら認識を変えるかも知れないがそれは経済的理由であって環境の問題ではない。つまり金銭の課題であって人間の課題とは捉えていない。アメリカは果たして民主主義の国か、それとも経済大国の国か。

それでも貧困に暮らす人々もアメリカの理念を疑ってはいないはずである。無政府主義者でさえアメリカ憲法と対比しなければ自分たちの根拠を示せない。常に憲法を中心に思想は展開される。

自由は言論を求めている。自由は暴力のある場所には存在できないから。しかし言論は自由を必須としない。言論が誰かを脅迫し、誰かの名誉を貶め、誰かを傷つける。言語にはそのような力があり、言論は人を通じて暴力と化す。

では言論の自由はどのような根拠で成立するのか。言論の自由を認めれば我々は言論の暴力に対して有効な対抗手段を持てない。それでも自由は重要であると主張する。その言葉は自由が求めたものか。自由が必要とする対話であるか。

言論の自由を認める事で自由の討論が可能となる。自由を認めない時、自由の討論さえ侵害される可能性がある。

対話を通じて議論を重ねてゆく中でしか自由は生き延びられない。自由という火を絶やさないためには言語という薪をくべ続けるしかない。それ以外の方法を人間は知らない。自由であるとは全ての失敗を認める事だ。

そうする事でしか様々な自由を試す事は出来ない。そして失敗を認めるとはそこに暴力的なものが何もないという事である。

Michi Hypothesis

社会契約は近代国家を成立させるための基本的なセットアップである。この仮定なくその後の議論は続かない。この仮説を基盤として近代国家の仕組みは構築されている。

しかし契約だけでは人を奴隷とする事も正当になる。それを許さない為の思想が必要である。それが全て網羅して防ぐ事の出来る基礎的な考え方、それが基本的人権である。この補助線は例え野生の状態であろうと人間に備わっている不可分の権利として定義する。

それは誰かが奪ったり与えたりするものではない。だから基本的人権にはどこにも神の概念を必要としない。

奴隷であろうと人間であるなら基本的人権はある。故に奴隷を認める場合は必ず人間ではないと定義するしかない。それだけが基本的人権を無視する方法である。牛に基本的人権はない。鳥にも基本的人権は与えない。だから農場が作れるのである。

鳥に基本的人権を与えるとはどういう意味か。それは有無の問題ではなくなっている。与える事ができるものは基本的人権とは呼ばない。特別に基本的人権を認めるなど論理的に有り得ない。ましてそのような好き勝手を人間に許されているのか。

当然であるが基本的人権を無視して人間を扱う事は物理的に可能である。それを自然は禁止していない。物理学にも書かれていない。だから人間農場を作る事は可能である。だが、例えそうであっても基本的人権を失ってはいない。これが前提である。では鳥には基本的人権がないのか。

基本的人権は根拠である。それを絶対的に無条件で正しいとするものである。だから全てのシステムに浸透する事が可能である。社会契約が正当と見做すには基本的人権という仮定が要る。この仮定を実現しているものは何か。

それが乃ち人間の家畜化である。一万年前に人類は飢餓を乗り越える為に食糧を安定供給する方法を見つけた。これが牧畜と農耕の始まりである。蓄積された食料は未来への見通しを生み出した。穀物の備蓄によって数カ月~数年先までを計算可能とした。

未来への見通し、保存可能な穀物、干し肉などの食料が数カ月先の未来を計算できるようにした。未来までの分量を計算する能力とそれが実現する手段が手に入った。

この計算の確かさを守るためには、様々な脅威と対峙しなければならない。他の集団の略奪から守る為には武が生まれる。鼠から守るためには建屋を必要とする。カビから守るためには洞穴に住むわけにもいかない。全て集団で対処する必要がある。そのためには団結が必要である。

団結するには自由という対価を払わなければならない。自由を失う事が人間の家畜化になる。我々は自分たちを家畜化する事で初めて農耕牧畜を手にする事ができるようになった。そして国家が誕生する。

人間の家畜化は狼が犬になるのと同じ進化上の道程である。人間の自由は家畜としての自由に等しい。決して狼の自由と同じではない。我々の自由は犬の自由である。自由のどこが違うのか。何をもって人間の自由は家畜的で、野生動物の自由とは異なるのか。

自由という観点で見るなら狼の群れにも完全な自由はない。狼は厳しい階級を持つ。群れの中には独自のルールがある。これは群れを作る動物に共通して見られる特徴である。

野生であれ家畜であれ完全な自由は存在しない。しかし家畜と野生の自由には違いがある。それが柵の有無になる。家畜は柵の中で生きる。狼は柵の外で生きる。

柵があるとは、自然とは直接対峙していないという意味である。

狼たちのruleは野生の中で自然のlawと直接的に対面している。群れの中にもruleはある。しかし、そのruleは自然の中で生きる過程で培われてきたruleであり、常に自然のruleに晒されながら淘汰されてきたruleである。

もしそのruleが自然のlawと解離したなら滅びるだけである。自然淘汰はそういう形でruleを試し続ける。狼のruleは自然淘汰の結果として今も存在している。生き残っているとはうまく機能しているという事だから。

一方で人間は自然との間に柵を立てた。柵の存在により自然のlawを分断したのである。これが可能なのは人間が農耕牧畜を行ったからである。農耕牧畜によって食料を蓄積できたからである。

人間の自然との対峙はその殆どが食料の入手にある。その中には捕食からの回避も含まれる。未来への見通しを持って生活を実現する力が、つまりは柵を立てたという事になる。未来を計算する力が、柵を生み出したとも言える。柵の中で成立するものは将来を予測する力を基にする。この力を失えば柵は簡単に瓦解する。柵を作り自然との間に境界を作る。その外と内で異なるlawが成立した。

当然だが柵があっても自然のlawの脅威は常に我々の眼前にある。自然災害、野生動物の襲撃、病原菌の蔓延、柵は実際には何も隔てていない。柵は幻想である。透明な壁でさえない。実は何もない。だが目に見えないがそれは絶対にある。それを受け入れる事で初めて我々は初めて柵の中という空間を構成可能なのである。

人間の脳が推論する力を持つ。それで将来を見通す働きに応用する、この数学の能力が我々の未来を計算可能とする。そして計算した結果、我々は安心を得る事ができる。今ある食料は何時迄もつか。もし予期せぬ災害や火事で失われた時はどうなるか。我々の予測する能力はこれを刻一刻一刻と訂正する。物理的な柵の外の自然環境と脳の中のある柵の中の仮想現実が重ね合って存在している。

裸の王様は自分の着る服が透明である事は百も承知していたはずである。それでも道化を大衆の前で演じる。決して柵の存在に気付かれてはならない。民衆に気付かれるくらいなら間抜けと笑われる方がずっとましだ。

人間は柵によって自然という驚異から逃れている。少なくとも食料については実現した。飢えから解放される事で初めて法を受け入れる事が出来る。それと引き換えに税の要求にも応じる事が出来る。

必要ならば階級も認めようではないか。奴隷として生きる事も受け入れよう。それによって人として生きる事が可能になるのだから。自然環境では決して得られない生き方が出来る。柵の中で初めて人は人という存在になった。

家畜として生きる事が人間らしさである。これを失うと野生状態での生存競争に晒される。その世界には何の躊躇もない。生き死にだけが全てを決める。奪われる事も奪う事も生の前では全て正義である。この自然の法の前に勝者も敗者もない。全て生き残る為だけに。

そのような世界から我々は少しだけ引く事ができた。農耕をし牧畜をし未来を見通し柵を立てた。その時から人間は家畜した。何も羊や牛たちだけが家畜なのではない。我々自身が自然から我々を守る道を選び柵の中へと入った。

人が人を支配する。奴隷とする。これらは全て家畜同士の争いに過ぎない。全てが柵の中で行われている。自然のlawはこれを禁止していない。物理学の全てが様々な非道を認める。では柵の中ではどのような論理が働くか。

人間である限り、全の人が柵の中では家畜として存在している。王も独裁者も家畜である。もし全てを自由にできる、他人を自在にできると思い込んでいるなら、そこに根拠はない。それがしたければ柵の外に出ればいい。その時は、柵の中のルールは存在しない。

柵は人間が生きてゆく上で危険な自然環境から逃れる為に作り出した仮想空間である。そこで飢えから逃れるのと引き換えに新しい価値観を想像した。だから柵の内と外は異なるruleである。

全ての人が家畜である以上、そこに住む誰も権力も暴力も人を支配する根拠を持たない。それが通用するのは野生の中だけである。それを持ち込む事は柵を破壊するに等しい。よって権力に強制力はない。そこで家畜同士の合意の上でなら存在する、そういう話にした。

家畜である人間の牧場主には誰ならなれるのか。もちろんどんな人も牧場主にはなれない。よって神だけが該当する。キリストが麦について語る時、その麦はその当時でさえ野生種ではなかったはずである。神だけが家畜の支配者になれる。家畜に神の代理はできない。

人が人を支配できると考えるのは論理的に成立しない。家畜が家畜を支配するなど牧場主から見れば笑い話しである。柵の中にそれを許す概念はない。

自然のlawは何も禁止していない。可能な事は全て許可されている世界である。そこでは人を支配する事も禁止ではない。

だが王にしろ独裁者にしろ自分の正統性を常に示さなければならない。これこそが我々が柵の中にいる証拠である。柵の外にいるなら理由を求める必要はない。

暴力による支配は、ある点では柵の外にあるlawを柵の中に取り込んだ状態である。その時点で柵は崩壊している。しかし、それでも柵があると多くの人は信じたい。だから立ち止まってしまう。裸の王様が最も恐れた点がここにある。

独裁者は柵の中のlawに守られながら、一方的に他人に対しては自然のlawを適用しようとしている。それが支配だと考えている。その特権は自然から奪ってきたものを独占しているという幻想なのである。

その独占を維持する為に武力が必要だし金も必要である。武力も金をそれを生み出すものは全て自然が与えている。ケシの花が今年も実をつけるように、石油が今月も噴き出すように、小麦がまた収穫できるように。土を掘れば鉱物があるように。太陽が今日も地球を照らしているように。

これらを収穫して独占する。それが独裁者の力だ。この独裁者の経済はその本質が狩猟採取のモデルになっている。自然から略奪する事で成り立っている。これは未来を見通せない方法である。

栽培したり坑道を掘る人々の力は農耕牧畜型の労働である。所が独裁者はこれを自然からの収奪として見ている。人々を柵の外に追い出す事で柵の中を独占している。そこで人々に課せられる法は自然のlawである。人々がそれでも柵の中にいると考えている限りは独裁者は安泰であろう。

改憲の方向

憲法は日々更新されている。日々の司法の判決が憲法の地層を形成してゆく。そこでは時代の流れによって変更する圧力が生じる。これを適切に修正する力がその国の能力になる。その能力を失ったなら滅びるべきである。

これだけの科学知見が増大する時代にあって、技術の発展により地球の距離が日々短くなってゆく中で、70年に及び一度も改憲ができなかった明治憲法は異常であった。伊藤博文と当時の人々が如何に優秀であるとは言えあの時点で完璧な法体系が築けた筈もない。それは彼らも良く知っていたであろう。憲法義解を書いた人物がそこに懸念しなかった筈がない。

日本人は明治維新によって憲法を手に入れたたが、その育て方は一度も学習してこなかった。そして歴史によれば、憲法を修正し長く維持する国は歴史も長く続き、全てを刷新しては置き換えてゆく国家は寿命は短い。

改憲は国の力を試す場所である。そこは分岐点である。どちらの道を選ぶか。御成敗式目は何度も改訂されながら運用されてきた。その国のポテンシャルはすべて改憲に発揮されると見ていい。滅びる国家であるかどうかは改憲を見れば分かる。

外交官はそれを本国に報告するはずである。友として付き合えるのか、狩るべき獲物として見るべきかを。その事に日本人は余りに無知、無学、無分別である。短絡にも勘悪く、学習していない。

我々は現行憲法にさえ無頓着である。そのような国民にどうして未来を託す必要があるだろう。世界はそこまで温和ではない。

世界の困難

この世界は有限だから、地球の資源も有限である。アメリカと雖も無制限に移民を受け入れる事は不可能であろう。ヨーロッパの混乱も同様だろう。新しく人々が移住してくれば、そこに軋轢が発生する。利権を巡る争いが生まれる。

争いが起きるには敵を識別する必要がある。その方法は簡単で文化、習慣、宗教、人種、民族など、違いのアイコンを見つければいい。軋轢はマーキングしさえすれば簡単にエスカレーションする。そこに憎しみというエッセンスを加えれば問題解決は難しい。憎しみを取り除くのは難しい。経済的に不満を解決する方法、例えば分配する仕組みでは憎しみは癒せない。

理由などいらない。違いが相手を叩く理由になる。経済的な問題は消え理由のない闘争が始まる。人々は何もかも見失ったまま戦争にさえ突入する。誰も簡単な答えを聞くはずもなく。

トランプ大統領の慧眼は、中産階級である白人階級の崩壊がアメリカの崩壊につながると見抜いた点にある。これを煽れば大衆の半分は自分の側と読んだ。その根底にあるものが貧富であろうが、人種であろうが、何も関係ない。

その答えがあやふやになればなるほど、対立は激化し、人々の分断は強化される。それが私が勝利する方程式だ。誰も答えなど望んでいない。目の前の敵を示せば勝手に動き出す。誰もがアメリカのためにと言いながら銃を手に取る。

無知は時に力である。

2023年2月4日土曜日

恐竜の姿勢 II

博物館で人間の骨格を展示するなら、立った姿勢を維持したければ補助用の鉄棒が必要である。これは意識を失った人間が自然と倒れるのと同じ理屈である。人間が立っている為には常にバランスを維持し続ける必要がある。姿勢における動的平衡は常に生命的な働き掛けによって維持されている。

よって、骨格だけを接続して立たせる事は難しい。姿勢は接着剤で維持できても(筋肉の変わり)、足と地面の間だけはどうしても固く接続しておく必要がある。弁慶だって籠を背負って長刀を持っていたから可能だったはずである。

四足歩行の動物ならば、これが骨だけを組み立てても立った姿勢を維持できる。単に地面に置いておいてこれが倒れる心配はない。これは車が倒れないのと全く同じ原理である。バイクはこける。だからスタンドが必要である。

鳥も二足歩行の動物である。人間が垂直方向で重心を支えるのに対して、鳥は前後方向で質量を分配している。それでも鳥の姿勢は恐竜とはかなり異なる。また重さの違いもある。小さいほど重力の制約は小さくなり自由度が高まる。

鳥の体の大きさはその時代の環境に依存しているはずである。よって各時代の空を飛ぶ動物の最大サイズを見れば、それが可能となった条件が推測できる。鳥の大きさを制限する条件を考える上でこれは重要なパラメータとなり、その影響は地上性の動物にも掛かっているはずである。

恐竜時代の空を飛ぶ動物の大きさを現在と比較すると、待機中の浮力は現在よりも相当に大きかったのではないか。つまり空気が重たかったのではないかという考えも成立する。

鳥は空を飛ぶために体を軽くする。バランス上は前後方向に少し頭が外れても頭は軽いから成立できる。それでも頭が重そうなハシビロコウはほぼ垂直に立っているように見える。

巨大な鳥である駝鳥やエミュー、モアが全て同じ体系であるのも偶然ではないはずである。体の重さを足で支える。その足を長くしなければ移動の面で淘汰されていたのだろう。足の長さは重心が上にあるという意味だから、首を長くしないと地面にあるものを食せない。そうして首を長くしてこれでバランスを取る事もできる。尾は消失させた。

駝鳥はまだ足が体のほぼ中心にある。所がモアなどは足は体全体の後ろの方にある。少し恐竜のアンバランスさに近いように見える。駝鳥と同じ背骨の水平さだと前に倒れそうである。

二足歩行のメリットは前脚の用途だろう。鳥は翼に人はマニピュレータとして使う方向に進化した。

恐竜も二足歩行の動物である。所が恐竜は前脚の用途を無くした。駝鳥と同じように退化させる方向に進化した。二足歩行の恐竜はそのいずれも重たい頭蓋骨を持つ。肉食なので強力な顎を持ち、骨も厚くしなければならないはずだ。鳥が軽くする過程で失った歯も捨てていない。

キリンのように足の長い動物は重心が高い位置にくる。鹿などもそうであるように、長い首を持つ。そして首の長い動物は頭を小さくする。現生動物では長い首をもつものはくにゃくにゃと自在には曲げられない。重力に打ち勝つ為にほぼ垂直の姿勢を取る。

首がくにゃくにゃにしない機構を持っている筈である。筋肉で厚く覆い頸椎に自由度を制限するロック機構があると思われる。これはブラキオサウルスに適用さえる物理学のはずである。長い首を水平に維持するのはどの時代でも難しかったのではないかと推測できる。

象のように大きな頭蓋骨を持つ動物に長い首は厳しい。短くしても骨の機構だけで重力に抗うのは難しく思われる。よって筋肉も相当に参加してこれを支えていると考えられる。最も頭蓋骨が大きな動物はくじらであるが、あれは水中で浮力を得ているから可能である。

大気中で同様の浮力を得る事は例え1億年前とはいえ考えにくいが、それでは空を飛ぶ動物があれだけのサイズを維持できた説明ができない。すると違っていたと考えるのが妥当である。なお、おばいけは鯨の尾びれの肉である。

現生の動物の中に、頭が大きく重く、首が長く、二足歩行という構造は例がない。もちろん、移動中に一時的にそのような姿勢を取る動物はいる。ヒトやサルも二足で前かがみに移動する事は可能である。

鳥も体全体のバランスは前気味である。ただし鳥の脚は前から後ろ方向に斜めに刺さるようにしてバランスを取っている。それでも鳥の前後構造は恐竜程の水平さではない。

博物館の恐竜たちは展示する時に頭の支えが欠かせない。現在の恐竜の復元図ではふつうに立てば頭の方に向かって倒れるのは必至である。それを防ぐには頭を高くしバランスを取る必要がある。しかしそれでは尾が長すぎる気もする。それでは旧来の怪獣型の姿勢になるが、この姿勢では足跡に尾を引きずった後がない不思議が説明できそうにない。

水平に頭と尾を維持するのを彼/彼女たちは骨格と筋肉だけで支えていた。化石を見る限り、頭蓋骨だけで数十キロはある。この重さは幾ら大気濃度、湿度、組成が現在とは大きく異なっていても、今の所納得できる説明ができない。こんな重い物体を水平状態で支えるのを通常の姿勢とするには何らかのそれが無理でない効率的な姿勢であるという説明が要る。

重たい頭が端にあり姿勢を維持するには反対側にも同じ重さを用意すればどうだろう。つまり必要な要件はやじろべえである。博物館の恐竜もバランスを考えて頭の反対側に尾を直線状に配置する。脚を支点にすれば重心はその下になるには頭と尾を腰よりも下にすればいい。それを筋肉と腱だけで支えるのは大変そうではある。

すると背骨が下にだらんと下がらないようなロックする機構があると便利そうだ。しかし、それでは頭を下げれなくなる。ただの一本の棒状の背骨では何かと不便そうである。だいいち活動が制限されすぎて進化の淘汰から逃れられそうにない。

頭を地面に付けられないのでは水を飲むのにも苦労しそうである。湿度が高くて水を飲む必要はなかったとしても、獲物は通常は地面に倒れている。あの小さな手では持ち上げて食べるのは難しい。頭を下げられなくては困るであろう。しかしやじろべえである。尾を上に持ちあがれば自然と頭は下がるはずである。

それ以外にも頭の位置は常に足の曲げ伸ばしで調節する事も考えられる。フォークリフトと同様に上下運動だけで頭の位置を上げ下げはできそうである。だが、これは少し不便そうな気がする。急に襲われた時に反撃しにくい気もする。しかしキリンもシカも水を飲むときはぼぼ同じリスクを受け入れているので不能ではない。

尾の先に何か重たいものがあったとする。その痕跡が化石に残っていないのは脂肪や筋肉など柔らかい組織だったからだろう。頭の大きさと吊り合うだけの重たさのものを尻尾に付けておく。尾の先に大きなこぶを持っている姿ならバランスは取れているように見える。

小型の恐竜は重力と筋力のバランスの均衡点でやじろべえ型である必要はなさそうである。またそういう恐竜の頭は割と小さくも見える。すると大型の成長するにしたがって尾に重りとなるコブが生まれるというのはそれなりに魅力的な生態だ。

恐竜も重さに比例して動きも鈍重になるだろうから、狩りは下手になるはずである。するとやじろべえ型の恐竜に俊敏な動きは求められない。スカベンジャーが自然と見えるのも止む無しである。

ライオンやワニなど肉食の動物は顎の力が重要なので自然と頭蓋骨も頑丈で大きくなる。それと比べると小型の恐竜の頭のスマートさは捕食相手がずっと小型であったのではないかという気もする。虫は沢山いたからそれを食していた可能性もある。虫なら頑丈な顎は必要ない。

石炭石油を生み出した時代はかなり温暖な時代だったらしい。ジュラ紀や白亜紀も同様の温暖さであった。今よりも15度は高く二酸化炭素濃度も高い。それがどのようなバイオームを生み出していたかは知らないが、生態系は豊かであったろうと空想する。

当時の温暖化と現在の温暖化の違いを科学はきれいには説明してくれない。その違いを把握しておかないと、単純に温暖化は危険ではないという結論に飛びつきそうである。

しかし、現在よりかなりの温暖化であっても生物の生存が可能であった時代があり、その時代のエネルギー収支は数億年に渡って安定していた。なぜ現在よりも高いCO2濃度であったのに当時の地球は金星化しなかったのか。

ある種の鳥は生まれてから砂や石を飲む事で、消化に役立てる。後天的に何らかの形で尾の重りを得る事も可能だろう。すると、子供の頃は通常の姿勢であるが、例えば、成熟した時には、雌の背中に雄を乗せて行動する習性が可能かも知れない。繁殖相手をおんぶする事で頭の重さの不均衡を解消する、別にチョウチンアンコウよりは不思議な生態ではあるまい。

しかし大多数の肉食種で頭が重そうな化石ばかりが出ている状況から、全ての二足歩行の恐竜が種を超えてその様な習性を持っていたというのは少し説得力が乏しいかも知れない。

恐竜の尾が長いのは途中や先端に重しとなる部分を作るのではなく、尾全体の重さでバランスを取る為とすると、脚の後ろがいきなり尾であると考えるのではなく、頭と同じ位の位置までは太かったのではないかという考えも成立する。尾の途中までは太い状態なので、それで前後のバランスが取りやすくなる。

すると骨盤を超えて尾の半分くらいまでは消化器官などがあって、排泄器は尾の中ぐらいの位置にあったと考えても理屈は立ちそうである。幸い恐竜の骨盤はそこで消化器を止めるような構造にはなっていなさそうである。

外観の尾はもっと短かく胴体は後にもっとずんぐりと長かったという姿を空想する。当時の恐竜たちは決して吠えたりはしない。


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