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2019年5月16日木曜日

「蛇に睨まれた蛙」は実際はどうなのか

蛇に睨まれた蛙のように身動きできなかった。

睨まれたから身動きできないのだろうか。それとも。。。

ヘビとカエルの距離は同じである。

この時、ヘビの移動範囲とカエルの移動範囲は、円で示す事ができる。



ヘビの移動範囲の中に入らない限り、カエルは助かる。もしカエルの方が素早く動けるならば、カエルが後からジャンプしても捕まりはしないだろう。カエルの方が遅いならば、先に動きだしても捕まる可能性がある。それは次の式で決まる(角度の違いは考慮に入れない)。
(最初の距離+カエルの移動距離ーヘビの移動距離)<0(追いつかれた)

カエルの移動方法はジャンプ、ヘビは鎌首をもたげてから伸ばす動作であるが、これもジャンプと呼ぶことにする。すると、ひとつの移動動作は、次の時間合計で表せる。
(体の向きを変える)+(ジャンプする)+(空中に滞空する)+(着地)

項目説明
体の向き向きを回転する時間。
ジャンプする姿勢を整えてからジャンプするまでの時間。
空中に滞空する飛翔速度×距離。飛翔中に向きを変えるも可。
着地する着地し次の姿勢が取れるまでの時間。


ヘビの場合(鎌首をもたげた状態にあるとする)。
  1. 体の向きは移動中に変えられるので0。
  2. 鎌首の形なら0。そうでないなら時間が必要。
  3. 飛翔速度はカエルより早い。飛翔中に角度を変えられる。
  4. 着地すると体勢を整え鎌首をもたげる(縮める)必要があるため暫くかかる。
カエルの場合。
  1. 前方のある角度に対しては0。大きく変えるのは遅い。
  2. ジャンプするまでに必要な時間は0。
  3. 飛翔速度はヘビより遅い。飛翔中に方向転換はできない。
  4. 方向は限られるが連続してジャンプ可能。

このような諸元スペックの違いがある。

これらの違いから、ヘビは連続して襲うことが難しいのでチャンスは一回。逆にカエルは最初の攻撃をかわせば、逃げ切る可能性が高い。

飛翔速度はヘビの方が早いから、カエルが生き延びるために必要なのは角度を変えてヘビをかわすだけである。それで相手の移動範囲の外に出るしかない。ヘビは飛翔中の方向転換が可能であるから、それも含めた範囲外にジャンプするしかない。



赤枠がヘビが最初に取れる角度、黒線がひとつ決定した場合の角度とすれば、カエルは、その外にジャンプすればよい。もしカエルが先にジャンプすれば、ヘビはそれに応じて角度を決定でき、捕食する可能性が高い。逆に、カエルがヘビのジャンプする角度を見てからジャンプする方向を決めれば、かわす可能性が高くなる。

だからカエルは相手が動いた後しかジャンプする方向を決められず、そのためには睨まれようが睨まれまいが、相手の出方を待つしかない。

カエルは確かに身構えているし身動きも取れない状態であるが、決してビビッて動けなくなったのはなく、後の先で対応するしかない。相手を先に動かせ、それに応じて適切な方向にジャンプする。それが最も生き残る可能性が高い。それを両者は知った上で睨みあっている。

すると、ヘビは無駄な体力と悟って諦めるか、捕食行動を取るかを選択できる。カエルは、状況が変化するまで構えるしかない。これが合理的と思える。

実際がそうであるかは知らないが、それを確かめるのは科学の領域であって、この話の範囲ではない。


2019年5月6日月曜日

「いかがなものか」の用法研究

「いかがなものか」という問い掛けは如何なるものか。この言葉に潜む意図、それを無意識でも使いたい人間の心理とはどういうものか。

「これを禁止するのはいかがなものか?」

これは意見ではない。疑問文だ。主張でもない。疑問文だ。反対であるか。恐らくそうだ。賛成であるか。恐らく違う。だが、疑問文だ、どういう意味か。

以心伝心や阿吽の呼吸は、意思伝達のコストが低く、高速で、コミュニケーションの極意である。人間は意思伝達に言語を使用する。言語は多彩な意味を伝える事ができ、歌となって人の心を動かしたり、小説になって人を楽しませる。

その利便性との引き換えとして、誤解や思い込みの原因となり、集団が大きくなるほど、言葉の正確性は重要になる。人の間違いを言語はそのままトレースする。それが積み重なり増加してゆけばいずれ組織を蝕む。

ハンドサイン、アイコンタクト、ボディランゲージなどは非言語コミュニケーションと呼ばれる。意思疎通するのに言語はなくともよい。絵画や音楽にもメッセージ性はある。それらも言語と同じ前提条件で成り立っている。

コミュニケーションは前もって符丁しておかなければ成立しない。初めて出会ったふたつの文化圏は、先ず互いの意思疎通を通そうとする。符丁を探す段階があり、それさえ乗り越えれば、言語を理解するまでほんの少しである(可聴範囲が同じ場合)。

そして、言葉には非言語コミュニケーション的側面がある。言葉を字句通りの意味で理解してはならない。人間は言語コミュニケーションを使用して、非言語コミュニケーションを行う事ができる。これが AI の課題部分だ。

これらを支えるものが共感力である。生物は未来を予測する事で生存率を高めてきた。集団を形成する動物では相手の意図を知るのが有利である。群れて走るなら他の個体の進路が予想できなければぶつかってしまう。数秒先の未来と、現実とをすり合わせる。

相手の気持ちを予測すれば、思いやりであったり、相手が嫌なことはしない事も、相手の行く先で待ち構えておく事もできる。当然であるが、他人の気持ちを完全に理解する事は不可能であるから、分かったつもりが実は違ったり、思想の違いから袂を分かつ事もある。人は完全には理解しあえないが、ある程度までは理解できる。

政治家は忖度される存在である。いつの間にかそんな常識が生まれた。深読み、裏読みし、相手の考えを汲み動ける人はいつも出世する。

そういう関係性で「いかがなものか」と聞かれた人は次のように理解する。先生は禁止したくないのだな、ならば賛成意見を提示すればいいのだな。相手の反対意見が前提条件にあり、それを受けて、私の自発的な意見を構築すればよい。

「では禁止せずに、こうすればいかがでしょう。」

そこで返された答えは、質問の答えではない。如何なものかと聞かれたら「あなたがどう思うかを先ずは明言してください」それ以外の応答はないはずである。

「いかがなものか」は、はっきりと問い掛けている訳ではないし、明確な主張でもない。どちらでもない、謂わば独り言である。それでも相手が目上だったり上司であれば切る捨てる訳にもいかない。

自分の立場を自覚した上で問いかけている。そして相手が反対の意見に同調することも期待している、立場で言えば強制でさえある。しかし、重要なのはその先で、自分は反対という立場を決して表明していない、という点にある。私はただどう思うか、と相手に聞いただけである。

これは独り言である。聞いてみただけで何かを期待したものでもない。ただの質問である。返事がなくても構わない程度の質問である。だから、どう受け取ったかは、質問された側の自由であって、私の本意ではない。聞いた方がどう受け止めようとそれは私の問題ではない。

これは婉曲な批判や疑問の表明でさえない。いつでも当人は質問しただけと言い逃れできる。これは婉曲ではない。曖昧である。その曖昧さの中に、相手の意図を巧みに読み取ることを強要した言葉だ。

通常、そういう場合は、自分は反対であると断言するのが一般的である。それが言えない立場なら黙っているのが普通である。反対意見は表明したいが、明言もしたくない。そういう場合は、空気を読んでほしいと相手に期待する。河辺正三と牟田口廉也はこれによって無能として日本歴史に名を刻んだ。

私はこれに反対するが君はどうするかね、と聞かれれば私も先生に従いますと答えればよい。裏切りは血の池であるから。私は如何なものかと思うが君はどうだね、と聞かれたら、私も如何かなものかと思います、と答えるしかない。これで何かが決着するのだから、そこには言葉の意味以外の何かがあるのだ。

どこにも責任の所在を残さないまま、話を進める。質問し、相手の意図を汲んだだけだから。だれも決断していない。問題が起きれば、何時でも下のものを切り捨てられる。切り捨てることを前提として質問している。下のものは忖度しただけであって、先生の意図を汲んだだけと弁明できる。互いに裏切るコストはあまりに低い。私は問うただけである、私は何も決めていない。最初からそれを狙っている。

これは人の上に立つと自覚している人が、決断の責任を回避しながら、相手に忖度を強いる言葉である。忖度した側にも責任を負わせないようにする言葉でもある。だからこの言葉を好む人を私は信用できない。

あなたはこの意見に反対するかも知れない。それは如何なものかと思う。

ごきげんいかが?

2019年5月1日水曜日

国家はなぜ衰退するのか - ダロン アセモグル,ジェイムズ A ロビンソン

収奪的制度と包括的制度の違いに焦点を当てて歴史を振り返る。日本に対する記述は正しいとは思えない。東洋の政治理念に対する理解不足があるように思われる。もちろん、こういう誤解や誤読によって導かれた結論には警戒する必要もあろう。

だから、それ以外の地域、著者が詳しいであろうヨーロッパ、アフリカ、南米、ヨーロッパの影響を強く受けた地域、に関する主張も鵜呑みにできない。

それでも、著者たちの視点の確からしさは十分に堪能できる。そして、収奪的制度、包括的制度の違いが、文化や歴史の必然ではなく、偶発的なものであり、それが決定的なまでに経済の発展性に影響を与える、という彼らの直感は、少々の間違いなど無視できるほどに、否応なく自分たちの国の現状について考えさせる。その行く末を思わずにはいられなくする。

包括的制度はとても簡単な人間理解に立脚している。人にインセンティブを与えれば、勝手に経済活動を開始する。黙っていても人々は自発的に経済活動に参加する。すると多くのイノベーションが発生する。勤勉に勉強し、更なる工夫、よりよい効率、新しい視点、時に邪悪さも含みながら、その地域に豊饒をもたらす。誰も命じてなくてよい。参加する人が多ければ多いほどこの働きは活発になる。

それは単にお金を払えばいいというだけの問題ではない。自由がいる。発想の自由、活動の自由、継続の自由、権利の自由。人々の可能性を重視するならば、皮膚の色、男女、民族、階級、出自などは規制する理由にならない。総和を小さくするのは不利である。パイを大きくするには小麦粉を増やすしかない。より多くの人に参加を求め、より多くの自由を促し、大小様々な創造性に託す。これが包括的制度である。

その反例に、収奪的制度における鉄道敷設反対が挙げられる。鉄道に反対するのはそれ以前の既得権益者たちだ。彼らの職を守る、彼らの権益を保護する。そうすると鉄道というイノベーションは生まれない。収奪的制度では、イノベーションとそれ以外の区別ができない。だから優先すべきものが他になる。

豊かになれば、市場に参加する者が増える。貧しくなれば、市場から簒奪しようとする者が現れる。短期的な利益を最大限にし、その間に稼げるだけ稼ごうとする者たちが出現する。これは社会の活力を失わせ停滞する道だ。残り火を奪い合う競争しか発生しない。

近代の包括的制度はイギリスで生まれた。名誉革命が絶対王政から立憲君主にシフトし、彼らは何回かの危機も回避し、包括的制度のまま産業革命へ突入する。

もちろん、それで市民が平等になったのではない。貧富の格差がなくなったのでもない。産業革命期の労働者の平均寿命は20才にも満たないと言われている。そのような状況がマルクスに資本論を書かせ、ロバート・オウエンらは工場法を誕生させた。

イギリスは包括的制度を保ち続けた。それが大英帝国に繁栄をもたらす。そのイギリスも WW2 後は世界の中心ではいられなかった。その後の中心であるアメリカも今やその座から降りようとしているかのようだ。一体何が世界の覇権を決定づけるのだろう。

次に中心となる国家はどこか。その国家も包括的制度の国であろうか。それとも収奪的制度の国だろうか。本書は収奪的制度の国家が繁栄しないとは主張していない。ただ長続きはしない(100~300年)と主張している。

これから世界で壮大な社会実験が始まる。中国は共産党による収奪的制度の国に見える。だが経済発展や技術革新はまるで包括的制度の国にも見える。中国がこれだけの力を得たのはどうしてか。

中国経済に限れば、包括的制度が働きインセンティブが十分に機能しているように見える。インターネットの技術革新に最も鋭敏に反応している。だが富を得たものは最後は必ず政治と対決する。共産党もそれを十分に警戒しているはずだ。もし彼らが包括的制度を選べば政治が折れる、もし収奪的制度が勝利すれば経済は停滞する。

世界的にみればグローバル企業が国家を超える新しいコミュニティを誕生させてもおかしくはない。国家の衰退を超えて企業が生き残るためには、もし地域の問題が解決できないなら自分たちが乗り出すしかない。経済活動に不利な地域からは移るしかない。ならば国家に変わって企業が統治する地域が出現しても何ら不思議はあるまい。その前に人間はAIによって全員が企業から追い出されているかも知れないが。

インセンティブ、市場への参加、自由な競争、規制撤廃。こういう言葉が乱立した時期が日本にもあった。それは本当に包括的制度への移行であったのか。談合は悪である、既得権益はイノベーションを妨げる障壁である。たしかにそれは包括的制度に見えた。その改革は正しいように思われた。

しかし談合はそれだけの話ではなかった。持ち回りで仕事を回すのは安全保障として機能していた。参加する企業には信用がある。だから査定するコストは小さくて済む。誰かが失敗しても速やかにそれを肩代わりするコミュニティとしての役割も担っていた。地域での強靭な経済活動の担い手、そして市場を支える役割を軽視してはならなかった。

人間のコミュニティには二種類ある。入口の障壁が高いものと、低いものだ。高い障壁は入るのは難しいが入れば信用によって動きやすくなる。だから経済活動に強い競争はないが、将来設計がしやすく、その代わり、互いに我慢しなければならない状況も経験する。

一方で障壁が低い場合は、自由が武器になる。どう参加しようが、どう競争しようが自由である。その代わり、結果に対する責任は重くなる。犯罪に対する罰も重くなるし、不正などに対するペナルティも厳しい。

これらふたつのコミュニティでは、規制と罰則の総和は同じだ。規制で事前に防止するか、罰則で事後に決着をつけるかの違いだけである。それぞれに長所もあれば欠点もある。どのような場合にも通用する万能の方法などない。日本は、基本的に障壁の高いコミュニティであったし、アメリカは障壁の低いコミュニティであった。

もちろん、イノベーションが必要な業界は障壁の低い包括的制度が望ましい。

イノベーションを生むために規制撤廃するのではない。イノベーションが起きつつあるから規制撤廃が必要なのだ。順序を逆にしてはならない。

それを狡猾に利用した悪者が、この国を変えた。イノベーションの必要のない業界に改革を要求をし、常に新しく起こり、激しく競争し、そして様々な理由で退場するのが望ましい地域でもないのにそれを導入した。

なのに規制は撤廃したが罰則は強化しなかった。やったもの勝ちで責任を取る必要もない。そのやり方で古い既得権益を排除し、自分たちが新しい既得権益者へとなる道を作った。そのために法制度も整備した。これが彼が口にした改革の正体である。

いつの時代も、富を合法的に収奪しようとする者はいる。自分たちの利益のために国を作り替える者もいる。己の利益を追求するために改革を声高に唱える者はいる。収奪者もまた改革者の顔をしたがるものである。

本書には、収奪的制度のために発展できなかった類例がたくさん載っている。包括的制度で発展したイギリス、アメリカ、ボツワナなどの類例もある。セレツェ・カーマの話には感動する。しかし、包括的制度から収奪的制度に変わり没落した事例はない。

日本がその最初にならなければよいのだが。