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2019年5月6日月曜日

「いかがなものか」の用法研究

「いかがなものか」という問い掛けは如何なるものか。この言葉に潜む意図、それを無意識でも使いたい人間の心理とはどういうものか。

「これを禁止するのはいかがなものか?」

これは意見ではない。疑問文だ。主張でもない。疑問文だ。反対であるか。恐らくそうだ。賛成であるか。恐らく違う。だが、疑問文だ、どういう意味か。

以心伝心や阿吽の呼吸は、意思伝達のコストが低く、高速で、コミュニケーションの極意である。人間は意思伝達に言語を使用する。言語は多彩な意味を伝える事ができ、歌となって人の心を動かしたり、小説になって人を楽しませる。

その利便性との引き換えとして、誤解や思い込みの原因となり、集団が大きくなるほど、言葉の正確性は重要になる。人の間違いを言語はそのままトレースする。それが積み重なり増加してゆけばいずれ組織を蝕む。

ハンドサイン、アイコンタクト、ボディランゲージなどは非言語コミュニケーションと呼ばれる。意思疎通するのに言語はなくともよい。絵画や音楽にもメッセージ性はある。それらも言語と同じ前提条件で成り立っている。

コミュニケーションは前もって符丁しておかなければ成立しない。初めて出会ったふたつの文化圏は、先ず互いの意思疎通を通そうとする。符丁を探す段階があり、それさえ乗り越えれば、言語を理解するまでほんの少しである(可聴範囲が同じ場合)。

そして、言葉には非言語コミュニケーション的側面がある。言葉を字句通りの意味で理解してはならない。人間は言語コミュニケーションを使用して、非言語コミュニケーションを行う事ができる。これが AI の課題部分だ。

これらを支えるものが共感力である。生物は未来を予測する事で生存率を高めてきた。集団を形成する動物では相手の意図を知るのが有利である。群れて走るなら他の個体の進路が予想できなければぶつかってしまう。数秒先の未来と、現実とをすり合わせる。

相手の気持ちを予測すれば、思いやりであったり、相手が嫌なことはしない事も、相手の行く先で待ち構えておく事もできる。当然であるが、他人の気持ちを完全に理解する事は不可能であるから、分かったつもりが実は違ったり、思想の違いから袂を分かつ事もある。人は完全には理解しあえないが、ある程度までは理解できる。

政治家は忖度される存在である。いつの間にかそんな常識が生まれた。深読み、裏読みし、相手の考えを汲み動ける人はいつも出世する。

そういう関係性で「いかがなものか」と聞かれた人は次のように理解する。先生は禁止したくないのだな、ならば賛成意見を提示すればいいのだな。相手の反対意見が前提条件にあり、それを受けて、私の自発的な意見を構築すればよい。

「では禁止せずに、こうすればいかがでしょう。」

そこで返された答えは、質問の答えではない。如何なものかと聞かれたら「あなたがどう思うかを先ずは明言してください」それ以外の応答はないはずである。

「いかがなものか」は、はっきりと問い掛けている訳ではないし、明確な主張でもない。どちらでもない、謂わば独り言である。それでも相手が目上だったり上司であれば切る捨てる訳にもいかない。

自分の立場を自覚した上で問いかけている。そして相手が反対の意見に同調することも期待している、立場で言えば強制でさえある。しかし、重要なのはその先で、自分は反対という立場を決して表明していない、という点にある。私はただどう思うか、と相手に聞いただけである。

これは独り言である。聞いてみただけで何かを期待したものでもない。ただの質問である。返事がなくても構わない程度の質問である。だから、どう受け取ったかは、質問された側の自由であって、私の本意ではない。聞いた方がどう受け止めようとそれは私の問題ではない。

これは婉曲な批判や疑問の表明でさえない。いつでも当人は質問しただけと言い逃れできる。これは婉曲ではない。曖昧である。その曖昧さの中に、相手の意図を巧みに読み取ることを強要した言葉だ。

通常、そういう場合は、自分は反対であると断言するのが一般的である。それが言えない立場なら黙っているのが普通である。反対意見は表明したいが、明言もしたくない。そういう場合は、空気を読んでほしいと相手に期待する。河辺正三と牟田口廉也はこれによって無能として日本歴史に名を刻んだ。

私はこれに反対するが君はどうするかね、と聞かれれば私も先生に従いますと答えればよい。裏切りは血の池であるから。私は如何なものかと思うが君はどうだね、と聞かれたら、私も如何かなものかと思います、と答えるしかない。これで何かが決着するのだから、そこには言葉の意味以外の何かがあるのだ。

どこにも責任の所在を残さないまま、話を進める。質問し、相手の意図を汲んだだけだから。だれも決断していない。問題が起きれば、何時でも下のものを切り捨てられる。切り捨てることを前提として質問している。下のものは忖度しただけであって、先生の意図を汲んだだけと弁明できる。互いに裏切るコストはあまりに低い。私は問うただけである、私は何も決めていない。最初からそれを狙っている。

これは人の上に立つと自覚している人が、決断の責任を回避しながら、相手に忖度を強いる言葉である。忖度した側にも責任を負わせないようにする言葉でもある。だからこの言葉を好む人を私は信用できない。

あなたはこの意見に反対するかも知れない。それは如何なものかと思う。

ごきげんいかが?

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