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2018年7月1日日曜日

特攻について

なぜ特攻か

海軍2431、陸軍1417、合計3848。これが航空機で特攻した人の数である。専用機も練習機も区別もなく飛べる機体は何でも投入した。零戦一機でみなさんの機体はすべて叩き落とします、と難詰された参謀もいた。特別攻撃は航空機のみならず艦船も潜水服も生身も投入された。あらゆる戦場で、これが日本の最終手段であった。同じ頃、アメリカは原子爆弾の開発を着々と進めていた。

艦船に対する戦果、沈没54隻、損傷359隻。

特攻隊は何の役にも立たなかった、犬死である、そう言えたならどれほど簡単な話であるか。戦術的には効果が皆無とは言えなかった。戦略的には十分に敵の足止めをした。

連合軍に与えた心理的な効果も大きかった。当然である。特攻とは巡航ミサイルの先駆けである。電子機器が用意できなかった代わりに人間を載せた。そういう兵器であるから無力のはずがないのである。

この早すぎたミサイルを投入しても、戦争の趨勢を変える事はできなかった。足留め、その為だけに命を散らせていった兵士のなんと多いことか。特攻だけが死んだ兵士の数ではないのである。

では、その稼いだ時間で我々は何を成したか。敢えて言うなら、それは為政者たちが戦争を辞めるための時間稼ぎであった。

特攻の殆どは沖縄戦に投入された。あの時点で沖縄戦に勝利できると考えた者はいなかったはずである。どれだけ時間を稼ぐか、誰もがそこに注力した。3月26日から6月23日までの約三ヶ月、市民をも巻き込んだ戦闘である。

この三ヶ月が何のために必要だったのか。当時の日本人に聞いても、誰も答えは持っていない。講和を模索していた人々でさえ、どうやって戦争を止めるのか、何も答えられなかった。

誰も戦争の止め方を知らない。講和を口にするだけでも殺される恐れがあった。必勝を叫ぶ者たちもどうやれば勝てるかなど知らなかった。戦争の戦略も戦術も皆無だった。ただ敵の足止めをする。それしか残っていなかった。

当時の日本に劣勢をひっくり返すだけの力はなかったし、戦局に影響を与えるような新兵器が開発される予定もなかった。石油どころか、食料さえ冬には枯渇する。

その死がどういう理由で必要かを誰も説明できない。いつまで持ち堪えればいいのか。そんな事を知っている人は誰もいない。これ以上の戦争継続に理由などなかった。もしその人達が生きていればどんな未来があったろう。そんな事を考える事さえ馬鹿らしくなるほど、誰も何も知らなかった。

この状況をどうするんだ、そう思った人はたくさんいたであろう。それはおそらく政府中枢でさえもそうであったろうと思われる。鈴木貫太郎はじっと座っていたはずである。その目は死んではいない。ひとつの隙も逃さない。何を待っているかは知らないが、その時が来たら必ずつかみ取る。それが何であるかは知らないが、その時になれば、私には分かる、だから私が首相の座にあるのだ。

特攻が後世に与えた影響。日本と戦争するリスクには常に特攻がちらつくだろう。それが戦後の日本の平和に寄与したかどうかは知らない。自爆テロが日常の世界になった。自爆テロは無人兵器の先取りであろう。テキサス州サンタフェ高校で銃を乱射した若者は、日本の特攻に何かを見ていたと聞く。

どれほど精神的な高尚を叫ぼうと、それは作戦上の悪あがきに過ぎず、特攻に散った者たちへの謝罪や鎮魂になるはずもない。そんなものよりも生きる時間が欲しかったはずだから。

もし1945年の冬に本土上陸戦が起きていたら、どうなっていたであろうか。戦力は首都圏に集中するしかない。九州上陸に対抗した後に、中国、近畿、中部と暫時反撃を試みる兵力など残っていない。首都圏に全てを集中し要塞化、強力な防衛線を築く。それ以外の方法はなかったであろう。それ以外の地域はすべて見捨てる。必要な食糧と労働力を全国からかき集めたら、残された人々は勝手にやってもらうしかない。餓死か自死しか残っていないとしても。もし連合軍に救助されれば幸いである。

なぜ政府はもっと早く戦争を止められなかったのか。

政府はアメリカと戦争をする前にもっと重要な事案があった。それはクーデータを抑え込む事である。政府の一挙手一投足はすべてそれを警戒したものであった。陸軍大臣さえ、それを気にせずに発言などできなかった。

そのような状況の中で政府は戦争を継続していた。アメリカとの戦争はクーデターを抑え込む余暇での出来事である。そのような状況でいかに講和まで辿り着くのか。講和の相手であるアメリカの意向などどうでもよかった。如何にクーデターを抑え込み講和まで持ち込むか。政府の懸念はそこにしかなかった。

送る言葉

結果としてこの時間稼ぎは、アメリカが原爆を投下するための時間稼ぎとなった。それが戦争を集結する。政府の誰もが、これを好機と捉えた。動けば早かった。たった10日で日本は戦争を辞めたのだ。

そのためだけに、特攻だけでは足りず、30万の命とふたつの都市を必要とした。最後の瞬間まで、クーデターを抑え込み、敗戦へと持ち込んだのである。8/6 になるまで誰も何によって戦争を止められるか、知らなかったはずである。

もし原爆が広島と長崎で爆発しなければ、講和など出来なかったであろう。戦後の世界がどのような構造になったかは知らない。それでも、戦後のどこかの時点で核兵器は使われていたであろう。それが数発で終わるのか。際限なくエスカレートして人類は滅亡していたかもしれない。

あの二回だけで終わったのはあそこで使われていたからかも知れない。キューバ危機を経験したケネディ、フルシチョフ政権が広島、長崎のことをどれだけ知っていたかは知らない。だが彼らは押しとどまった。それが死んだ人たちへのレクイエムになるとは思わないけれど。

特攻のような死が普通の人間に耐えられるはずがない。だから、その死には意味が与えられる。そうしなければ、残された者が耐えられないからだ。だから、彼らを今も軍神として祀っている。

そろそろ彼らを解放してあげるべきだ。我々の自己満足のために、いつまで彼らに戦争を背負わせるのか。いつまでも我々の都合で死者をあの戦争に括り付けておくつもりなのか。プロメテウスのように永遠に留めておくつもりか。

もう解放すべきだ。彼らの死を無駄死にと呼ぶ事で、はじめて戦死者たちをあの戦争から解放できる。いつまでも御国に縛りつけないであげられる。特攻の軍神ではなくひとりの日本人として彼らの生命を旅立たせよう。

特攻も次第に歴史の埃を被ってゆく。トロイの木馬に隠れていた兵士と同じように物語の中に溶け込んでゆく。歴史の一部となって残ってゆく。

彼らを送り出すこと、それが笑顔ならうれしい。

僕は「風立ちぬ」に描かれてた零戦の飛行を思い出した。

戦後の宗教観

犠牲的行動は、人類の普遍的な価値観のひとつである。宮沢賢治もグスコーブドリの伝記を書いた。そういう行為から神が生まれる事もある。

だが特攻に限れば、他の人に命じた人のなんと多いことか。俺もあとから行く。そう嘯いて生き残った人々のなんと多い事か。それならば、最初から言わなければ良かったではないか。そうすれば少なくとも卑怯者の烙印は押されなかったであろう。もちろん、彼らは恥ずかしげもなく言い返すだろう。あそこで戦争が終わるとは思わなかったと。

宇垣纒は自分では飛行機は飛ばせず、部下を率いて特攻した。パイロットがどうして準じなければならぬのか。そのような事にさえ思い至れない宇垣という男は無能である。戦争とは最大効率を追求する人間活動である。この程度の簡単な原理さえ把握できない人間が戦争の指揮をしていた。勝てるはずがない。

自ら軍事法廷に立つ度胸も、自らに銃口を向ける勇気も持てない軍人がトップに立った不幸である。それともこのような人材しか生み出せなかった国家の当然の帰結と考えるべきか。

大西瀧治郎は、2000万の特攻があれば決して負けはしません、と言ったそうだ。彼には2000万の特攻機を用意する算段など何もありはしなかった。小学生でも分かる簡単な算法さえ出来ない男だったのである。そういう連中があの戦争を指揮をしていた。

この地上から日本人が滅びても特攻は続ける。それで彼は何を守りたかったのか。彼は何があれば満足したのか。自らの精神疾患に国を巻き込んだだけの話ではないか。国を滅ぼす事に何も疑問を感じられなかった男である。

己の権限で計画し、兵たちの志願という形で塗り固めた嘘つきである。その最後を切腹して果てたが、12時間も生き延びたそうである。自分ひとりを殺すこともできぬ男にどうしてアメリカを倒せようか。自分の無能に恥いることさえ出来ぬ男であった。裁判を受ける根性も、民衆からのリンチに見を投げ出す勇気ももなかった、そういう男である。

命令を出しておきながらぬくぬくと戦後を生き延びた者のなんと多い事か。特攻隊の行動はアメリカに一種の畏敬の念を植え付けたであろう。だがそれは死んでいった兵士たちの殊勲であって、生き延びた者たちのものではない。今に至るまで、それを横取りしようとする連中のなんと多い事か。

褒め称えられるべきものたちは散った。卑怯者が生き残り、戦後の再起を図った。意地汚く卑劣で卑怯な者たちがこの国に残ったのである。誠実に特攻した者よりも、上手く立ち回り生き延びた者が戦後の平和を謳歌する。そんな戦後ならば焼き滅ぼしても構わない。西郷隆盛ならばそう主張した事であろう。

我々日本人が宗教を知らないという事はない。だが、我々の宗教観は、敗戦によって決定された。あれだけの命を散らせても神の加護など起きなかったではないか。ならば、もう無理に決まっているのだ。見放されたか、神はいないかのどちらかしかない。これが現代の我々の宗教観である。

危急の時に役に立たない神など飾っておく程度で宜しい。そう言えるようになった戦後の価値観は大きい。これは他の国の人たちには恐らく理解してもらえない話だ。それ程までに我々は徹底して命をかけた。かける程度では足りず、薪をくべるように命を浪費した。

あの戦争は日本人にとっての宗教戦争だったのだ。神を呼び出すためにどれだけの命を戦場に投じればよいか。神が出現するまで投げうった。バカバカしいと思うだろう。誰もが神は出現するはずだと信じて身を捧げていた。

その無駄な命のお陰で、我々はどんな神だってファッションくらいにしか思わなくなった。命を投じた量が違う。そう誰もが思っている。そのための命だった。無駄死と呼べるか。誰か風に聞け。

毎日新聞より

戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争 - 毎日新聞
特攻戦術が採用された背景として、熟練の航空機搭乗員の減少がある。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめとする日本機は戦果を上げる一方で、その防弾性能の低さから、損害も増加させた。太平洋戦争は1942年8月にガダルカナル島の戦いが始まると航空消耗戦となり、逐次投入で貴重な戦力を消尽させていった。42年10月の南太平洋海戦では出撃216機のうち、約6割の130機を失ったとされる。

連合艦隊は翌43年4月の「い号作戦」終了後の研究会で、戦闘機の日米の実力差は開戦時には6対1とリードしていたが、同作戦では1対1くらいとほぼ並んだと判定した。戦史叢書によると、開戦時の海軍搭乗員約7000人のうち、44年3月時点では既に6割近く、約3900人が戦死していたという。

主力である第一、第三、第五の各航空艦隊に所属する搭乗員(偵察員を含む)計2661人について、沖縄戦直前の45年3月10日時点でまとめた技量の資料が表である。約4割の1180人は要錬成の「技量D」で、飛行教程を終えて3カ月未満の技能では、作戦可能とはいえなかった。このクラス分けも44年9月1日に改正されたもので、開戦前までは「技量A」と認定されるのに飛行教程終了後2年9カ月程度の期間が必要だった。「技量C」も、飛行教程終了後9カ月とされていた。

この開戦前の基準を当てはめると、沖縄戦当時の搭乗員の実態は、ほとんどが「技量D」だったことになる。実際に当時の事故統計によると、計139件のうちの計101件が「人員ニ起因スルモノ」であり、技量の未熟さが関係するものと思われる。

戦闘機爆撃機・攻撃機偵察機練習機桜花
海軍316460395655
陸軍423232282130
出典:「陸軍航空特別攻撃隊史」

沖縄戦などがあった1945年3~7月に投入された陸海軍機計1813機のうち、約3割(計536機)がそもそも実際の戦闘には向かない偵察機・練習機、旧式戦闘機などが占めた。もともと低速・低馬力なうえに無理に爆装したため、運動性能はさらに低下した。

高速の戦闘機であっても、爆装すれば同様の影響は免れない。爆撃機・攻撃機は爆弾・魚雷の搭載能力を持っていたが、空戦には当然適していなかった。しかも、熟練工の不足、工作精度の低下による新造機の性能劣化、オクタン価の低い劣悪な航空燃料の使用などで、スペック通りの性能を発揮することも難しかった。いずれにしても、米戦闘機に追尾されれば振り切ることは不可能に近かった。


それでも、軍は特攻戦備に突き進んだ。

神風特攻隊の初投入を目前にした44年9月には、特攻専用機である〝人間爆弾〟「桜花」の量産を開始。

機種別最高速度
米軍 P51700km/h
米軍 F4U670km/h
桜花650km/h
米軍 F6F610km/h
彗星艦上爆撃機560km/h
四式戦闘機 疾風624km/h
零式艦上戦闘機530km/h
一式陸上攻撃機430km/h
九八式直協偵察機348km/h
E5系新幹線320km/h
練習機 白菊225km/h

米海軍は最新の科学技術、効率的な組織運用により、特攻戦術を無効化していった。精神主義の日本軍は物量だけでなく、米軍の合理主義にも敗れ去った。

特攻機の主目標は大型の正規空母(2万~4万トン級)を中心とする機動部隊。その外周部に、米軍は対空捜索レーダーを搭載した駆逐艦「レーダーピケット艦」による早期警戒網を設け、日本の攻撃隊を感知。空母の戦闘機隊で迎撃した。

迎撃網を突破した日本機に対しては、輪形陣を組んだ護衛艦艇の対空砲火が待ち受けていた。距離、高度、方位、速度を測定できる対空射撃指揮レーダーと連動。さらに一部の砲弾は最新の「近接(VT)信管」を装備していた。信管が電波を発し、敵機を感知すると砲弾を破裂させるため、直撃する必要はなかった。

こうしたシステムを統制したのが空母などに設置したCIC(戦闘情報センター)だ。ピケット艦の情報などを分析し、効率的に戦闘機隊を差し向けた。1945年5月の戦況について、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督は「神風の脅威を自信を持ってはね返すところまで来ていた」と記す。


衝撃力弱く「無意味さ」認識していた大本営

特攻隊は正規空母はもちろん、戦艦、巡洋艦も実際に沈めることができなかった。撃沈した護衛空母は1万トン足らずと正規空母の半分の大きさで、量産性に優れていたため「ウイークリー空母」「ジープ空母」などと呼ばれる代物だった。

米軍は「ダメージコントロール」能力にも優れていた。艦艇には専門の「ダメージコントロール」部隊を配置したり、自動消火設備を装備したりするなど、被害を最小限に食い止めた。たとえ撃破されても、沈没を免れれば造船工場での修復が可能だった。沖縄戦には正規・軽空母16隻、戦艦23隻、護衛空母28隻、巡洋艦39隻、駆逐艦205隻などを投入(「世界の艦船」803号より。雨倉孝之氏調べ)。開戦後の被害艦艇は後方に下げる一方で、艦隊編成に穴が開かないよう工夫していた。例えば、護衛空母は常に18~20隻が第一線に配置される態勢だったという。

米艦被害の実態は特攻機の命中率の低さに加え、体当たりの衝撃力の弱さも影響している。空中投下する爆弾に比べ、航空機の突入速度は遅い。大本営もそれは認識しており、1945年5月には「現有特攻機の装備と攻撃法では貫徹力不十分等のため、大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できないと認められる」と関係幹部らに通知し、対策を求めた。しかし、それでも、特攻は終戦まで続けられた。


「統率の外道」とされた特攻戦術に、前線の搭乗員らは否定的な見方をしていた。

当時の最前線の雰囲気はどうだったのか。「大空のサムライ」として知られ、64機撃墜のエースだった坂井三郎氏(故人)は戦後、加藤寛一郎・東大名誉教授(航空宇宙工学)のインタビューに答えている。「士気は低下した。大義名分のもとに帰還する確率が、たとえ1万分の1でもあるから士気が上がるんです。大本営と上の連中は上がったと称する。大うそつきです」

海軍のエース、菅野直大尉(1945年8月戦死)はフィリピンで特攻待機の上官命令に逆らい、「行く必要なし」と部下を押しとどめた。陸軍の佐々木友次伍長(ごちょう)は特攻出撃したが、生還した。ところが大本営が「戦死」と発表。それ以降、「特攻しろ」との参謀らの非難にさらされ続けた。「殺すことばかりを考えている」と上層部を批判した佐々木伍長は、通常攻撃を続け、戦争を生き抜いたという。

海軍の美濃部正少佐は夜襲専門の「芙蓉部隊」を創設。用兵次第では通常攻撃がまだ有効であることを証明した。練習機による特攻を提示した参謀らに対し、美濃部少佐は下の階級にもかかわらず「成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦1機で全部撃ち落してみせます」と叱責した。


司令官らはどうしたか。

一航艦司令長官から軍令部次長に昇任していた大西瀧治郎中将は終戦を迎えると自決。五航艦司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は45年8月15日、部下を率いて沖縄方面へ特攻出撃した。二航艦司令長官などを務めた福留繁、軍令部で特攻作戦を推進した黒島亀人の両提督、陸軍で特攻を指揮した富永恭次、菅原道大の両将軍は戦後を生き抜いた。


特攻隊員の7割は学徒出身だったと言われる。

高学歴で速成教育に適していたからだが、彼らは欧米の思想、文学などに親しんできた者も多かった。

陸軍の上原良司大尉(慶大経済学部、1945年5月戦死)もその一人。自由の偉大さは証明されつつあるとして、出撃前夜に書き残した。「(権力主義の国家は)必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います」「自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが、吾人にとっては嬉(うれ)しい限りです」

戦果

空母数。
アメリカ日本比率
戦争前に就航していた数96100:66
戦時中に就航させた数11819100:16
戦没12(9%)20(80%)

沖縄戦に参加した連合軍の艦船数(総数329)。
正規空母軽空母護衛空母戦艦大型巡洋艦重巡軽巡駆逐艦護衛駆逐艦
米軍11622182121715657
英軍500204
新西蘭軍000002不明
加軍000001不明
英新西蘭14~16
合計166222021224227
(モリソン戦史の部隊編成表より)
太平洋戦争の質問です。沖縄戦での、米国海軍、英国海軍、ニュージーランド海軍... - Yahoo!知恵袋
沖縄戦が起こった当時、アメリカ軍の軍艦の総隻数? - はどれくらいだったの... - Yahoo!知恵袋

特攻による戦果。
正規空母護衛空母戦艦巡洋艦駆逐艦輸送船、上陸艇など
沖縄戦参加艦船数17221831213
撃沈03001331
比率0%13%0%0%6%
特攻で損害を受けた艦船の一覧 - Wikipedia

特攻機数。
フィリピン戦~硫黄島戦
(1944/10/05~03/26)
沖縄戦
(03/26~06/23)
合計
特攻機数海軍315機
陸軍253機
海軍983機
陸軍932機
海軍1,298機
陸軍1,185機
命中/至近命中154機256機410機
被害艦数129隻229隻358隻
奏功率27.1%13.4%16.5%
特別攻撃隊#戦果 - Wikipedia

Suicide Attack & the After|軍事板常見問題 第二次大戦別館