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2014年12月21日日曜日

人型ロボットの操縦法

アニメでは自然とロボットが操縦される。しかしロボットの操縦についてアニメの世界でもコンセンサスは得られていない。故に様々な作品で独自の操縦法が編み出されている。

作品操縦法考察その他
鉄人28号二つの操縦棒とスイッチ歩く、走る、飛ぶなどの移動能力がレバーで、殴る、蹴るの動作がスイッチで指示する。重機の操縦法に近い。
ジャイアントロボ音声指示音声解析、言語解釈の後に用意されたコマンドに変換する。コマンドがない場合は自動的に生成する必要もあり、また一度パースしたコマンドは蓄積してゆく必要がある。
マジンガーZバイク、車のハンドル飛べないロボットでは移動指示は車と同様でよい。兵器の使用は音声、スイッチで行う。ジャンボーグ9、ザブングル
グレートマジンガー飛行機のコックピット飛ぶロボットでは飛行機と同様の操縦法を行う。兵器の使用は音声、スイッチで行う。グレンダイザー、ザンボット3、ボトムズ、ザク
ライディーンモーションキャプチャー、ゼスチャー体の動きをロボットの駆動系に伝達する。人間の体で表現できない動き、例えば変形などは音声で指示する。飛行状態の時は、別の操縦席に移動する。ジャンボーグA
ガンダム2つの異なるレバーとペダル、スイッチ右手で移動、左手で兵装を操作し、ペダルでエンジン出力をコントロールする。ダンバイン
エヴァンゲリオン脳波感応型、神経接続型脳波や神経信号を読み取りロボットの駆動系に伝達する。最新の義手、義足と同じ方式。
その他キーボード、コンピュータへの打ち込み既存のコマンドを入力して動かす。必要ならばプログラミングして新しいコマンドを投入する。パトレイバー


ロボットの操縦するのに必要となる動作を挙げる。

動作。
  1. 地上 - 歩く、走る。
  2. 斜面 - 登る、降りる。
  3. 段差 - 上がる、降りる。
  4. ジャンプ - 飛び降りる、飛び上がる。
  5. 飛行 - 上昇、下降、移動。

姿勢。
  1. しゃがむ。
  2. 伸び上がる。
  3. 前かがみ。
  4. 後ろそり。
  5. 座る。
  6. 立つ。
  7. 寝る。
  8. 横向く。
  9. 腕を回す。
  10. 首を回す。

攻撃。
  1. 格闘型 - パンチ、キックを繰り出す。
  2. 刀剣型 - 刀の振り方を選択する。
  3. 銃型 - 戦車のように砲撃する。
  4. ミサイル型 - 戦闘機やイージス駆逐艦。

ロボットを操縦するには入力デバイスが必要だ。入力デバイスを使って操縦者はロボットに意思を伝達する。同時に使えるデバイスの数は人間側の都合から上限がある。人間には二本の腕、二本の脚、十本の指を超えるデバイスは扱えない。

イデオンはロボットの形はしているが大量のミサイルを運搬する航空機か軍艦である。移動方向とミサイルの制御だけをすれば良く、イデオン砲やイデオンソードも制御できそうだ。イデオンの操縦なら6人もいれば可能という気がする。

入力デバイスには常に操作するデバイスと必要に応じて操作するデバイスがある。コックピットにはボタン、スイッチがたくさんある。

ロボットを操縦するときにモデルとなるのは人間の脳である。人間の体を動かすのに脳はどれだけの筋肉にどれだけの命令を出しているか。人間の筋肉は600を超える。それに繋がっている神経は其れ以上の数だろう。そんな数の指示を人間がロボットに出せるわけがない。

だからロボットを操縦するには人間は大まかな指示を出しコンピュータに補助させる必要がある。これは現代の戦闘機がコンピュータなしでは飛べないのと同じである(Fly-by-Wire)。人間の操縦をコンピュータがサポートするのである。

移動や攻撃の指示するのも人間はターゲットを示すだけで、指示を受ければロボットが自律的、自動的に行う。ロボットは各種のセンサーから周りの地形を認識し、相手との距離を計算し、目標地点に移動する、または攻撃を行う。

格闘技ならターゲットに向かって右手、左手、右足、左足の技を繰り出す。格闘ゲームと同様の指示で発動する技もあるだろう。刀剣ならターゲットを切る、突く。銃やミサイルは現行と同様の指示をする。

操縦者は攻撃のコマンドを与える。それを受けてロボットは状況を判断して最適な技を繰り出す。

ロボットの操縦を検討するならモデルとすべきはガンダムの黒い三連星の戦いである。このモデルを使ってロボットの操縦について検討する。これが不可能な方法は現実性がない。必要なのは外部で起きたことに対して人間はデバイスにどういう指示を行い、ロボットがどう挙動するかの設計である。

状況入力出力
0ジェットストリームを仕掛けてきた。移動方向を黒い三連星の方向にセット。速度0。ビームサーベルを抜く。ビームサーベルを抜き、向きを変える。
1ガイアが胸部の拡散ビームで目くらましをかける。ビームを検出、上に逃げることを指示。上に向かってジャンプしセンサーをビームから守る。
2マッシュが身をかがめたガイア越しにバズーカを向ける。バズーカを検知、何も指示しない。危険検出システムが自動的にバズーカの線上からボディを逃す
3マッシュがバズーカを撃つ。指示なし。砲撃を避けるためにガイアの上の乗り足場とする。
4マッシュの機体が目の前に。サーベルで攻撃を指示。マッシュを突き刺す。
5ビームサーベルが突き刺さった機体が突進してくる。突き刺さった所からサーベルを縦切りに指示。縦切りにする。
6機体が爆発しそうである。今の場所から離れるよう指示。ジャンプする。

移動する方向はひとつのレバーで指示をする。それはゲームセンターのようなものでもいいし、シフトレバーのようなものでもいい。このレバーで二次元の方向を指示する。

高さは足踏み式のペダルで行う。これが上下方向を指示する。ペダルを踏み込めば高さを取ろうとする。

もうひとつの足踏みペダルが移動速度を調整するアクセルになる。ブレーキはないが、アクセルを離せば自動的に停止しようとする。

兵装の制御は残りの手で行う。兵装の選択、アタックを指示する。

ターゲットの指示はスコープを使う。スコープは、人間の瞬きをコマンドとして入力する。二回瞬きで視線の先を目標に確定するとか、三回の瞬きをすれば指示をキャンセルするなど。

コンピュータは危険検出システムを搭載し、危険に対しては自動防御、自動回避運動を行い安全性を高める。自動回避機能は ON/OFF できる。

2014年11月27日木曜日

クーベルチュール - 末次由紀

この人が描く漫画の特徴のひとつは、背景に描かれたエキストラたちの存在感にある。作者がどれほど丹念に登場人物を描いているか、色々なコマの端々からそれを想像する、時間が楽しい。

例えばちはやふるの何気ない描写、歩道の向こう側を歩いているだけの親子。その人物にさえ何らかの物語がある。そう確信させるだけの力がある。背景に散りばめられた物語。

それは登場する人物、端役も含めて、作者がちゃんと息をしているように描いているからだと思う。端役の人物からもその人たちの人生が将来が見える。

クーベルチュールはその端役に焦点を当ててみせた漫画だ。この作家が普段はひとコマだけのために描いた人物に焦点をあてる。特別に考えられたわけではない。カメラを他にパーンしてみた。誰だって端役としてどこかの風景に映り込んでいる。この物語の端役はちはやふる、ちはやふるの端役はクーベルチュール。

2014年11月24日月曜日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q - 庵野秀明

つまり :Q とはキリスト的なものに何か仏教的なものを導入しようとしたのではないか。


嫁殺しの男が嫁の復活を画策しゼーレの計画に注目する。楽園から追放された時に人類は別の生き物に変わった。もういちど元の生き物に戻ろうとするゼーレ。それを利用し嫁をサルベージしようとする男。

使徒:狭義ではキリストの12人の弟子、広義では「遣わされた者」。故に使徒は誰かに遣わされた者でなければならず、その背景にキリスト教の世界がなければならぬ。ここからユダヤ、キリスト教の原罪が物語を支配する。

従ってエヴァンゲリオンとは原罪から人間を救う物語でなければならぬ。人々を苦しみから救う。それが補完計画というキーワードの説得力である。

それが知らされずに計画されている。だから陰謀なのである。例えそれが正しいとしても、不信や盲目を生み出すだろう。そこに己のエゴからその計画を遂行しようとする男がいる。かくして様々な人間の業が絡み合い物語を複雑にする。

人が原罪から救われるために補完がある。この補完する力と使徒との間には何らかの関係がある。
  • 原罪
  • 使徒
  • 補完計画


もし神が全能であるなら、人がリンゴを食べることも初めから知っていたに違いない。楽園から追放されるのもヒトが土に還るのも、最初から仕組まれていた事だ。人は原罪から逃れられない。それが神の計画であった。それを補完する。
「原罪の汚れなき、浄化された世界だ。」「かつて楽園を追い出され、死と隣合わせの地上という世界に逃げるしかなかった人類。」

人類は楽園から追放され、そこにはふたつの選択があった。神に許しを請い原罪を取り除いてもらうよう生きるのか、それとも神との関係を断ち自ら原罪を取り除くべく生きるのか。
  • 神に許しを請う
  • 神との関係を絶つ


もし知恵の実を食べたのが原罪ならば、知恵を返し善悪を知らない状態に戻ることもできたろう、それとは逆に善悪の向こう側に自ら辿り着くこともできるだろう。それが物語の方向性になるかと思う。
  • 善悪を知らない世界に戻る
  • 善悪の向こう側に行く


ジャイアントインパクトが人類を生み出した。ならばセカンドインパクトは何か。少なくとも太古の神話に使徒は登場しない。セカンドインパクト以降から使徒は地上に出現するようになった。だからセカンドインパクトを使徒の楽園追放と呼んでも差支えないのではないか。
  • ファーストインパクト - 人の楽園追放
  • セカンドインパクト - 使徒の楽園追放


新たに楽園を追放された使徒が楽園に戻りたくて人類を襲撃する。そしてネルフのセントラルドグマには何かがある。
アダム、われらの母たる存在、アダムより生まれしものはアダムに還らねばならないのか、人を滅ぼしてまで。うっ、ちっ、違う。これは、リリス!そうか、そういうことかリリン!」

使徒は楽園に戻るためにアダムを欲した。しかしそこにあったのはリリスであった。リリスは使徒を呼び出すための囮だった。リリン(人間)は何を計画していたのか。

なぜ使徒を誘き寄せ破壊する必要があったのか。そこに人類補完計画の中核がある。
  • アダム
  • リリス - 生まれながらに知恵を持つ
  • イブ? - リンゴにより知恵を持つ


「ベン・シラのアルファベット」によればリリスは女として創造されたアダムの最初の妻である。イブのようにアダムの肋骨から生まれたのではない。そしてアダムに対等の立場を要求する。

リリスは誕生した時から知恵があったのである。しかしイブにはそれがない。無邪気にアダムとリンゴを食べる事でイブは初めて知恵を手に入れたのである。

楽園追放とはつまりイブの知恵に対するものである。なぜエヴァンゲリオンにイブが登場しないのか。そこに何か補助線がある気がする。綾波の無表情さは知恵の実を食す前のエバの姿ではないか。リリスとイブの対比がエヴァンゲリオンの物語ではないだろうか。

楽園から追放された人類に死が訪れた。それまでは人類も不死の存在であった。イブが知恵を手に入れた時に人は死にようになった。だから人は不死を求めるのである。楽園に戻るか、それとも手に入れた知恵で永遠の命を得る方法を見つけるか。これがゼーレの求めた考えと思われる。

人類補完計画とは人類を楽園に戻すための計画である。ではなぜその計画に使徒が必要なのか。

人類が楽園に生きていた頃、その楽園には他のものたちも住んでいたに違いない。その中に使徒も居たのではないか。人が楽園から追放された時、使徒から生命の実を少しだけ盗み出していたとしたら。これが人類の原罪ではないか。
  • 人類の楽園追放 - 生命の実の一部を盗みだす - 原罪
  • 使徒の楽園追放 - 生命の実を取り戻す戦い


生命の実を盗まれた使徒はどうなったか。使徒の生命の実は不完全になってしまった。そのため彼らもまた死の存在になってしまったのではないか。使徒にも死が訪れるようになった。彼らの生命の実は不完全になってしまったのだ。

楽園にいる間はそれでも死から免れられたのかも知れない。しかしセカンドインパクトで使徒は楽園から追い出されてしまった。使徒にとって死は受け入れがたいものであろう。だから人類が盗んだ生命の実を取り返そうとするのだ。

盗んだ生命の実がひとつに戻りたがっているから人は孤独を感じるのである。

人類は使徒を破壊する。使徒が居なくなった場所に人工的な使徒を配置する。そこで生命の実を返す。人為的に生み出された楽園の中で人は孤独を感じることなく永遠の命を手にすることができる。これを人類補完計画の骨子とする。

人には盗んだ生命の実を使徒に返す気などなかった。人類補完計画は使徒への贖罪でさえない。彼らを利用し己れの業で楽園を作り出そうとしているのである。
  • 使徒の破壊
  • 人工的な依代による人工的な楽園の生成
  • 生命の実の統合


エヴァは生命の実を持つのだから使徒の抜け殻なのだろう。その抜け殻の中に人の命を貸し出したものがエヴァンゲリオンである。エヴァンゲリオンは人類が作った人工的な小さな楽園とも呼べる。エヴァに取り込まれる事がひとつの楽園である。
人はこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きられます。その中に宿る人の心とともに。たとえ50億年たって、この地球も、月も、太陽さえなくなっても残りますわ。たった一人でも生きていけたら、とても寂しいけれど、生きていけるなら。


微かな楽園の記憶が現実よりも違う何かを望むのなら、この世界を捨てて別の世界に行こうとする人が居るのは当然だ。それは現実よりもインターネットの中にリアリティを感じるオタクのように。現実以外の何かを理想とすることを求道と呼ぶのではないのか。

エヴァンゲリオンからユイを取り戻すとは、ユイを楽園追放する事と同じである。ゲンドウの計画はここにあった。人類補完計画がエヴァンゲリオンを使って楽園の中に取り込まれる事なら、ユイを取り戻すのはその逆である。つまり人類補完計画の符号を逆にしたものがゲンドウの計画なのだ。

その符号の違いはリリスとイブを取り違える事で実現する。第二使徒であるリリスが実はイブであったという解釈も可能であるし、イブの死骸からエヴァンゲリオンを作ったと解釈してもいい。

そしてユイを楽園追放した時にユイの魂を受け入れる肉体が必要となる。それが綾波レイだ。
  • ユイ - エヴァンゲリオンから楽園追放される
  • 綾波 - 追放されたユイを取り込む存在


綾波は魂の容器だから人形の方が良かった。もし綾波が魂を持ってしまったら、それはイブが知恵の実を食べたのと同じ事が起きてしまう。ユイを取り込んだ後の綾波はどこに行けばよいのか。綾波が楽園から追放されてしまうのだ。

サードインパクトによって生命の実がひとつになる。その瞬間にユイをサルベージして綾波の中に取り込む。それがユイを取り戻すゲンドウの計画であり、ゲンドウは楽園など欲していなかった。

ゲンドウの行動はただユイを失った寂しさから、つまり全体ではなく特定の個とだけひとつになろうとしているのである。
  • ゼーレ - 全体でひとつになろうとする、全員で楽園に帰ろうとする
  • ゲンドウ - ユイとだけひとつになろうとする、個により楽園を得ようとする


どちらも原罪を乗り越えていない。どうすれば人は原罪を抱えたまま生きてゆく事ができるのか。そのためにはキリストが必要なのかも知れない。キリストというピースが欠落したままエヴァンゲリオンは終われるか。
  • キリスト的な救い


このような多宇宙のような様々な解釈がなされた場所に多くの観客が立っている。誰もが自分なりの解釈で世界観を作り上げ、その結末を待っている。
  1. さらに広い世界が出現する、仏の掌
  2. 異なる次元や世界へ移動する、別次元
  3. 未来へ希望を託す、再出発
  4. 最初からやり直す、初めに戻る、輪廻
  5. 破滅、別れ、死、終末、絶望

物語には終わらせ方というものがある。観客が終わったと思うためには何かが必要である。それは何か。

疑問だらけであれ、意味不明であれ、謎解きがなくとも、終わりを見た時に観客はそれを受け入れる、または見放す。それが終わりというものだ。終わりを拒絶されたのがエヴァンゲリオンであった。「世界の中心でアイを叫んだけもの」に何が欠けていたのか。

一体この物語はどういう世界であったのか。これでは世界が完結していない。

あの最後の放り投げに満足したのはごく一部であった。この作品に庵野秀明を見ていた人は十分に満足したと思う。作品を見ていた人には足りまい。

この作品を終わらせないのは監督自身だ。物語を回収しないのは白黒結論をつけてしまうのを恐れているからではないか。

どのような物語であれ終わると陳腐になるものである。何も付け加える事ができなくなるから。物語の終わりには作家は死なねばならない。作品に生命の実を返すから。そして作家は違う世界へと行く。

作品がいつまでも終わらないのは作家が不死を願っているからだ。だがキリストは死なねばならなかった。蛹が死んで蝶は生まれるのである。死ぬからこそ不死である。

2014年11月16日日曜日

竜の卵 - ロバートL.フォワード

38 分の生涯を過ごす中性子星上の生物と人類の邂逅。

直径 20km、600 億G の重力、成層圏 5cm の世界に済む、体高 0.5mm、体長 2.5mm、体重 80kg の12の赤い目を持つ生物、チーラ。彼ら/彼女らの姿をどのようにイメージしてみるか。ゴキブリか。カフカの虫か。僕は王蟲のちっちゃい奴だった。

チーラと呼ばれる種の物語。人間よりもチーラの方がとても面白い。だがそれはチーラ達の歴史が人類の歴史ととんでもなく似ているからだ。歴史の中を彼らは淡々と生きてゆく。そのたんたんさに引き込まれる。

彼らが砂漠を裸で彷徨っていた、まだ3つ以上の数をたくさんと呼ぶ時代から、この未知の生物を主人公とする歴史物語は始まる。そして、人類にとっての 30 分が彼らの一生涯である事が邂逅した時から意味を持ち始める。

これは決して架空の空想の物語ではない。しかし人類にとってまだ到来せぬこの未来の物語は、まだ起きていない物語である。だからといってチーラの存在を疑いはしない。彼ら/彼女らは必ず存在する。

2014年11月15日土曜日

量子コンピュータとは何か - ジョージ・ジョンソン

「複雑すぎてどんなに賢い人にも理解できないものなど、この世には存在しない」そう信じるようになったのがいつだったか、私はよく覚えている。

はしがきの冒頭である。

それからギターアンプやテレビの仕組みに熱中する若い頃の思い出を著者が語る以上、量子コンピュータは「複雑すぎてどんなに賢い人にも理解できない」ものに決まっている。

魅力的なはしがきの本は買いである。この導入部ならきっと著者の苦難も達成も失敗も面白いに決まっている。この数ページのはしがきだけでこの本は買いなのである。

そういう考えだから失敗する。はしがきで読者は本を買う。故に作家ははしがきに全精力を傾ける。このはしがきになら、裏切られても仕方がないと諦めがつく。

過去、このはしがきは読んだ事はない。読んでいれば必ず覚えていると本書を買う。そして家に帰ってみれば、本棚に文庫本となる前の単行本が鎮座して御座りなります。

単行本は2004年11月初版発行、現在2014年。

なるほど、時間は残酷かつ優しい。記憶など信用できないと知っていたのに。

2014年11月12日水曜日

記者会見ゲリラ戦記 - 畠山理仁

記者会見のオープン化は政治家を判断する明確な物差しになりうる。海千山千の政治家達を、この基準で区別する事が可能である。そう主張する。

記者クラブという魑魅魍魎の既得権益に挑む著者の姿が面白い。記者クラブが牛耳る記者会見をオープン化しようとする流れは民主党の政権交代がひとつのピークとなった。フリーのジャーナリスト達は、明日にでもフルオープンが実現すると誰もが期待した。だが、実際は、大臣の号令でどうこう出来るものではなかった。

記者クラブは根深いのである。既得権益は強力なのである。これが日本的組織の強靭さでもある。この強靭さで世界とも戦ったし、戦後の経済も立て直した。同時にその強さに虐げられてきた人もいる。

記者会見のオープン化を目指す政治家が全て正しいわけではない。当たり前だ。誰だって間違える。考えだって同じではない。

だから。間違いもする人間だから、オープン化する政治家は信用できる。自らオープン化する場所を提供する人とは対話が出来るから。記者クラブを温存しようとする勢力は、大臣であったり、官僚であったり、マスコミであったり正体は見えない。著者が幾ら声をあげようが、その姿は見えない。その正体が誰であるのか、名前や顔があるのか。恐らく筆者でさえ最後まで誰が敵であるか分からずじまいなのである。誰かひとりが犯人であるならどれほど簡単か。

これは大河である。誰かひとりを面と向かって罵倒さえすればそれで状況が変わるような話ではない。だから、筆者の手になるこの本は面白い。記者会見のオープン化が実現したとき、著者がジャーナリストとして生き残れるのか。それは分からない。オープン化したら消え去ってゆく人かも知れない。

そんな状況の中だからこそ、著者の活動に価値がある。彼は決して自分の利益のために戦っているわけではない。リングの上に上がらせてくれ、負けてもいいから、と主張している人だ。

2014年11月11日火曜日

ヴィンランド・サガ(10) - 幸村誠

漫画の1コマや1ページが絵画に等しく、これはどこかに飾って眺めていたいな、という場面がある。

例えば、永井豪のデビルマンの最後の怒りであったり、キャンディキャンディのおちびちゃんしかり。

この巻の最後もまた、まるでミレーの農夫のような気がした。それは長い憎しみや辛い戦争の後に訪れた祈りの絵ようだった。ここに描かれたものは過去に描かれた宗教画と何も変わらないし、宗教を画題とするのに飽き足らず、海岸や睡蓮を描こうとした画家たちと何も変わらない。

この最後の絵と出会うために此処まで来た、そのためにページをめくってきたと確信する。ここで「ほら見てごらんパトラッシュ、あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」と言えないのが残念だ。

2014年11月10日月曜日

からん - 木村紺

また続けられそうだったのだけど、終わってしまった。だけどこの終わり方は悪くない。

どういう理由で終わったのか知らないけれど、この漫画は十分に生きている。作者が後悔一杯という感じも受けなかった。清々しく終わったと思う。

最後の方は登場人物たちが少し急ぎ過ぎで成長しちゃったけれど、その微妙な違和感は仕方ない。それは、少しだけ、未来を先取りした風景だと思えば十分だ。描き下ろしの理由もちゃんと全員の未来を見せておくという作者の願いだったのだろう。

何気ない京都の風景のように本当に自然に存在していて、どのキャラクターも生きている、という感じがした。どちらかと言えば、この漫画はドキュメンタリーだった。

だからここで話が終わったとしても、彼女たちは今も京都の町を歩いているんだろうな、と思わせてくれる。作者の思い描くストーリーにはもう付き合ってくれなくなった、だから終わったのかな。そんな感じさえしてくる。

摩訶般若波羅蜜多心経

かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃ、はらみつたじ しょうけんごうんかいくう、どいっさいくやく。
観自在菩薩、行深般若、波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

しゃりし。
舎利子。
しきふいくう、くうふいしき、しきぞくぜくう、くうそくぜしき、じゅそうぎょうしき、やくぶによぜ。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識、亦復如是。

しゃりし。
舎利子。
せじよほうくうそう、ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

ぜこく、くうちゅう、
是故、空中、
むしき、むじゅ、そう、ぎょう、しき、むげん、じ、び、ぜつ、しん、い、むしき、しょう、かう、み、そく、ほう。
無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。

むげんかい、ないし、むいしきかい。
無眼界、乃至、無意識界。
むむみょう、やくむむみょうじん、ないし、むろうし、やく、むろうしじん。
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
むく、しゅう、めつ、どう。むち、やく、むとく。
無苦・集・滅・道。無智亦、無得。

いむしょくとくこ。
以無所得故、
ほいだいさつた、えはんにやはらみつたこ、しんむけげ、むけげこ、むゆうきょうふ、
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、
えんりいっさい、てんとうむそう、きゅうきょうねはん。
遠離一切、顛倒夢想、究竟涅槃。

さんせしょぶつ、えはんにやはらみつたこ、とくあのくたらさんみやくさんぼだい。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

こち、はんにやはらみつた、ぜだいじんじゆ、ぜだいみやうしゆ、ぜむじょうしゅ、ぜむとうとうしゅ、
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
のうじょいっさいく、しんじつふこ。
能除一切苦、真実不虚。

こせつ、はんにやはらみつたしゅ。
故説、般若波羅蜜多呪。

そくせつしゅわち。
即説呪曰、
ぎゃーていぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい、ぼじそわか。
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
はんにゃしんきょう
般若心経

読み下し文(適当)
るに自在じざいなる菩薩ぼさつ般若はんにゃとして波羅蜜多はらみったふかおこないいしとき五蘊ごうんみなくうらしてれば、一切いっさい苦厄くやくす。

舎利子じゃりしや。
いろくうことならず、くういろことならず、いろすなわくうくうすなわいろ
け、おもい、おこない、る、亦復またくのごとし。

舎利子じゃりしや。
もろもろのりくうあいなり、うまれることもなくほろびることもない、よごれることもなくきよめられることもない、えもせずりもしない。

ゆえくうまんなかにあり、
いろいらない、け、おもい、おこない、るもいらない、
みみはなしたいらない、
いろこえかおり、あじさわり、りもいらない。

せかいい、すなわいたれ、こころせかいい。
無無明むむみょうではあるし、また無無明むむみょうではい、
すなわいたれ、無老死ふろうふしではあるし、また無老死ふろうふしではい。
くるしみ、あつまり、ほろび、みちしるべ(の四諦したい)もい。
ちえい、またるものもい。

ってところきがゆえ菩提薩埵ぼだいさつたは、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたりて、ゆえこころ罣礙けげし、罣礙けげえに、恐怖きょうふることなし、一切いっさい夢想むそうとおとおくに顛倒てんとうし、ついには涅槃ねはんきわめる。

三世かこ、いま、みらいにいるもろもろほとけは、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたりて、ゆえ阿耨多羅三藐あのくたらさんみやく三菩提さんぼだいる。

ゆえる、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたおおいなるかみことばおおきなるあかるきことばうえなるものことば等等ひとしいものことば一切いっさいくるしみをのぞく、真実しんじつにしてほろぶことなし。

ゆえく、般若はんにゃ波羅蜜多はらみつたことばを。

すなわく、もとのことばにてわく、
羯諦羯諦ぎゃーていぎゃーてい波羅羯諦はらぎゃーてい波羅僧羯諦はらそうぎゃーてい菩提薩婆訶ぼじそわか

般若はんにゃこころきょうなり。


解釈
般若心経で最も多く出てくる文字は無である。無という字は空ではない。無ではなく空。しかし何もないのは空ではなく無である。

そらには色がある。科学によれば空は無ではない。空気の反射が空を染める。太陽が沈めば暗闇になる。ならば色即是空とは太陽が沈んで青空が暗闇になる事であろうか。空即是色とは暗闇が次第に明ける事であろうか。その繰り返しが輪廻の発想であろうか。

移ろいゆく物をよくよく見れば同じ事象の表裏と気付く。滅びも誕生も同じだ。変わっているように見えても、何も変わっていない。変わっていると感ずるのは、私がいて、そして私が消えるからであろう。それは原子の流れだ。

私が見なくても星の輝きが止まる事はない。私が見た事もないどこかの星が輝く。目を瞑れば色は消える。私が瞬きをする度に、色即是空と空即是色が交互に表れる。空は闇ではない。思えば闇もまたひとつの色である。ならば色が無いとはどういう事か。

空とは原子から生命が生まれる事かも知れない。生命はそれから原子に戻る。その一瞬に命が移ろう。なぜ原子は生命を成すのか。結合し分離する原子とは。

空とは真空の事かも知れない。粒子と反粒子が生れ対消滅する。プランクより短い時間に。空即是色、色即是空、それは移ろいゆく粒子なのだろうか。空は宇宙の法則を述べるのか。

私の感覚さえ幻と見做す。しかし幻と思った所でこの体が消える訳ではない。この痛みが消える訳でもない。

思い込めば人は幸せになるかも知れない。しかしそう信じる働きは精神による。その精神も幻と言う。と言う事は思い込みを幻と呼んでいるのでもない。

脳内麻薬が分泌されれば悟った気になれるかも知れない。しかしそれは脳の内側だけの話しである。それも幻と言う。喜びも悲しみも消える。それを虚しいと感じる私にも意味がない。消える。空とは消える事か。

この世界で私がしてきた事は忘れられ消えてゆく。ならばこの読経にも意味がないはずだ。どうせ無に帰すなら教典も意味がないはずではないか。全てが無というのなら生まれたての赤子にも意味がないはずだ。

しかし生まれてしまったのである。意味がないからと飢えてしまうのが良いのか。全てが無ならば人も生きるに値しない。もし私が全ての空を無と見るならば。

空とは私に世界をどう見るかを問うているのだろうか。この世界の秘密を伝えているのだろうか。それとも「仏がどう世界を見ているか」を伝えるのだろうか。

仏にとって色は空と変わらぬ、空は色と変わらぬ。仏が見れば色あるものも空となる。空も色をなす。誰かの知覚、想い、行い、知識も仏には空であり、かつ、実在する。

この世界が空なのではない。この世界が色に満ちているのでもない。あなたが色でありかつ空なのでもない。全ての法則も人間のルールも宇宙の成り立ちも、仏には空である。

仏には人が見る世界も空である、人の心が捕える世界も空である。人の悟りも、人の煩悩も空である。

老いる事も死ぬことも、不老不死もどうでもいいのである。この世界のあらゆる苦しみも、その苦しみからの逃れることも、衆救も、悟りを希求することも、仏にはどうでもいいのである。人がそれを知る事も得る事も仏にはどうでもいいのである。

もしこの世界から太陽がなくなれば人間はとても苦しい目にあうだろう。しかし仏にはそれもどうでもいい。ならば仏は人を苦しみから救わないのだろうか。痛みを感じている人間の救いにはならないのだろうか。おそらく仏に救われた人などいないのである。それが空であろうか。空とはそういう事であろうか。

キリストが人々の苦しみを背負ったように、仏は苦しみを見つめる。人を苦しみから救うとはどういう事か。仏からすれば、人を救うとは最後のひとりが救われるまでその場所に居つづける事である。故に仏が見る最期の景色には人は誰も居ないはずである。苦しむ人が居なくなった。その景色を空と呼ぶのか。

空という言葉だから残った。空だから何にでも比喩される。空に何を見るかでその人の色が決まる。仏には空間的な広がりがある。それは空という言葉に空間的な広がりがあるからだろう。

人の中に仏はいないと思う。しかし人の中に仏へ変化するものはあると思う。この仏典の中に仏はいないと思う。しかし仏へと通ずるものがあると思う。

人を眺めれば、人は良き人にも悪き人にもなる。だがそれはその人の本性ではない。人は置かれた状況によって如何にも移ろう。よき家庭人が大量虐殺の首謀者である事も可能であるし、人を殺していた者が虫の命を助ける事もある。良き母が誰かをいじめる事もあれば、苛められたものが更に弱き犬を叩くこともある。人は移ろう。その本性に空がある。人は自分が生まれた場所、置かれた立場によって様々な色をなす。

人を眺めれば、人は他の誰の気持ちも理解する事ができる。哀しみも喜びも憎しみも。だから人は誰かと寄り添えるのであるし、だから人は人を追いつめる事もできる。自分の中に空があるから、誰かの心と同調できる。重ねる事も取り込む事も裏をかく事もできる。空は何にでもなる。何もかもが空になる。それはどんな色にも染まる。

人を眺めれば、誰もがそうなっていた可能性がある。ならば、自分がそうでなくとも、その誰かの気持ちは必ず理解できるはずである。もし理解できないのなら、それは自分の中に何か拒むものがあるからではないか。人は誰もが誰もを理解できる。理解できぬならそこに空がない。ゆえ色もない。

何もかもを捨て去ることが空であろうか、それとも無であろうか。捨て去ってしまえば楽になる、重荷を下せば安寧が得られる。いや常にそうであろうか。それを捨て去ると決意し、捨て去ってしまえば無になる。捨てると決意し、それを眺め、手放さなければこれが空ではないか。

理解できない苦しみがある。理解できないのには理由がある。何故なら人には理解できない苦しみというものはないからだ。理解できないのであれば、それを妨げる何かがある。それを捨ててみる、と決意する。そうして捨てれば無の状態であり、そこで眺め立ち止まり苦しみの敢えて側に居る。それが空ではないか。あなたがそこに居ないのが無であり、そこに居るのが空である。

どれも仏には同じだそうである。仏はその何もかもを受け入れる。だから空間的な広がりなのである。仏はあなたの近くにも居る。仏の側にもあなたの居場所はある。そうではあるまいか。

2014年11月8日土曜日

風立ちぬ I - 宮崎駿

「風立ちぬ」予告を観て。



飛行機のエンジンが動く。そこに少年が乗り込む。

飛行機が飛ぶ、親指のない手袋みたいな翼。

絵を描いている少女。モネの日傘を差す女。


飛行機の羽、普通なら丸くする。なぜ指が4つもあるのか。

作るのも大変だし、空気抵抗も悪い。普通に考えれば。

もちろん知っている。

金属製の飛行機はナウシカでやった。

団扇で飛ぶ飛行機はラピュタでやった。

ほうきも飛ばした。

リアルな飛行機には豚を乗せた。

鳥に変身して飛ぶのも、龍が飛ぶのもやった。

アルバトロスもラムダもやった。

屋根から屋根に人も飛ばした。

翼の上を走るのもやった。

魚の上を走るのもやった。

彼は同じ事を二回もしない。

必ず何かを新しくしようとする。

常に新しいものを探しているのではないか。

この少年の凛とした顔はどうだ。

宮崎駿でよく見る顔だ。

男の子が一人前になる時の顔だ。

パズーが凧の上で見せたのと同じ顔だ。

人の演技は、昔から変わっていないのかな。

クラリスもナウシカもシータも辿ってゆけばラナになる。

クシャナもドーラも辿ってゆけばモンスリーになる。

だけれども、これほど見て来ても、物語は新しい。

人はその状況でどう動くか。

そう言いたいがようだ。

この映画も面白いに違いない。

何が面白いかではない、どう面白いかもでもない。

面白いか面白くないかと言えば必ず面白いに決まっている。

映画を見るという事は、ああ面白かった、と感動で終わる事ではない。

そこが出発点である。

一体、なぜ面白いと感じたのか、この面白さの源泉はどこにあるのか、と問う事である。

そうやって自分の中に何かを見つける。

映画を語るとは自分語りに違わない。



2014年11月7日金曜日

阿・吽 - おかざき真里

空海というのは誰でも知っている。だから最澄を読んでみないか。

空海はまず名前がかっこいい。いまや仏教は葬式で何かを語る職業となったが、昔はそんなものではなかった。座禅を組んでいたら手足が腐ってもげ落ちた、そんな達磨まで居るのだ。

貴族の出家とか、仏像への祈願くらいなら、今の僕たちにだって想像できる。問題を起こした政治家は入院し、退官した官僚は人類愛に目覚める。

だが、人生をかけて希求する、海で溺れても構わない、それでも海を渡りたい。仏が守ってくれるはずだ、そんな能天気な信仰で超えられるような艱難辛苦ではない。どうも人間というものは、犬死をまったく躊躇しなくなってからが本物のようだ。

現代では空海の思想など失われている。既に生きる事の意味を問う事は哲学や倫理の仕事でさえない。いわんや宗教おや。加えて最澄である。名前がカッコ悪い。地味だ。最も澄んでいる、意味は悪くないが、どうも弱そう。そんなイメージ。

空海に弟子入りしたとか、密教を教わろうとしたら断られたとか、もう才能からして負けていた人である。名前にカリスマ性がない、何も良い所がない、興味が持てぬとしてもむべなるかな。まるで映画のモーツァルトとサリエリだ。

だいいち二人とも仏教の輸入業者であって、翻訳家である。中国の思想をどこまで先鋭化して導入したかは知らないが、名前と比べると、その思想はもう知られていない。密教など呪文や風水で竜神を操る術だと思われている。我々は科学と工学の世界に生きるものである。今さら呪文などお呼びでないのである。式神なんかじゃ公開鍵式暗号さえ破れるかっての。

我々は陰陽も密教の違いも知らぬ時代に生きている。かつての仏教徒が何に悩み、何を求め、どういう地平線を目指したかも知らない時代に生きている。

そういう現代から空海や最澄とどういう向き合うべきか。彼らの権力闘争を、ただ仏を手段としたマインカンプと解釈すべきか。それともそれ以外の何かがあったとすべきか。

平安初期において仏教は既に官僚登用の道であり、現世を謳歌をする手段であった。その仏教の中に何かを見つけようとしたふたりが、そこに何を見いだしたのか、それは同じものであったのか、まったく違う地平線だったのか。知識か実践か、理解か行動か、この国では二つの拮抗する対立軸があるとき、それは両方とも真実として残った。彼らの対立軸がなんであれ、どちらもがこの国の一時代を支えた思想であったことは間違いない。

だとすれば、ふたりの思想はもう気づくことも出来ないくらいに、僕たちの血肉となっている、そう考えるのが自然だ。そうでなければ合点がいかぬ。

そういう諸々の疑問を踏まえながら、最澄をイメージできるのがこの漫画だ。

2014年10月22日水曜日

Gのレコンギスタ - 富野由悠季

この希有な作家性を日本の商業は飼い殺しにしている。彼の作り出した世界は莫大な利益を生み出したが、それに比べれば彼は余りにも寡作だ。富野由悠季には鈴木敏夫が居なかった。それが残念で仕方がない。

彼が作り出してきた様々な世界観、ダンバイン、ザブングル、イデオン、はどれも物語だけでなく、風景があり、経済があり、群落があり、政治があり、宗教がある。作品の前にその社会がどのように成立しているかという作り込みがある。想像すれば、まず監督自らがその世界に住んでみたのではなかろうか。その世界に住む吟遊詩人であるから、物語を語ることができたのではなかろうか。

ガンダムという成功も社会がきちんと作り込まれているからこれ程に続いたのだろう。それは歴史であり地理であり物理である。オリジンとターンAが同じ歴史とは信じ難いが、それを成立させるだけの強靭さをガンダムの名は持っているのだろう。レコンギスタもガンダムの名を冠する物語として生まれた。

未だガンダムが登場する作品しか作れない事は、この国の貧弱さだ。どこにも彼の作家性に惚れ込み資金を提供する者が居ない。それでも彼はガンダムという背景さえもらえれば十分である、新しい作品を描くのに何も困る事はないと語る。その強靭さが悲しい。

ターンAがガンダムである必要性はなかった。あれは多宇宙のなかのひとつのガンダムとして存在する。モビルスーツという言葉とミノフスキー粒子さえ出しておけばガンダムとして成立する。しかし彼がどれほど新しい駆動系を考え出したか。それを思えば新しい何かを見てみたかったという気もする。

彼が残したロボットの多彩さ、モビルスーツ、ウォーカーマシン、オーラバトラー、ヘビーメタル、オーバーマン。これらの名称は新しく発明されたものである。発明には理由がある。新しい名称が新しい世界を象徴するからだ。

その新しい世界には、様々なストーリー、キャラクター、スピンオフ、クロスオーバー、を受け入れるだけの拡がりがある。その尤も成功した世界がガンダムだ。連邦とジオン、近未来の戦争、モビルスーツのある生活。

彼の作品は最初に生活がある。人々の生活の中にロボットが登場する、その逆はない。生活の延長に物語を紡ぐ。ザンボット3に自衛隊が登場するのも、自衛隊に接収されるのも、少しだけ日常ではない生活に過ぎない。

生活を描く。そこにロボットという非日常を入れる。そこには本来違和感があるはずである。その非日常を当たり前のものとするために富野節がある。この非日常的な会話が物語にある生活を非日常的なものにする。それが視聴者にロボットと生活の間に本来あるべき違和感にリアリティを与える。

Gレコを観て彼の作家性に始めて気が付いた。彼の描く女性が如何に魅力的であるかに初めて気が付いた。

富野由悠季は女性を描かせれば当代随一の作家である。彼の作品には常に魅力のある女性が登場した。敵であれ、味方であれ、ゲストであれ、どの女性もである。そして女性によって世界は語られる。知らぬうちに僕は作品に登場する女性の視線で物語の中に入り込んでいたらしい。

Gのレコンギスタであれば、ノレド・ナグを通して作品を見ている。これは彼女が作品の中心点に居るからだ。視聴者と作品を繋ぐ場所にいて、その世界の対立を教える。彼女が居る所からふたつの対立軸へと足を踏み入れる。



もちろんこのキャラクターだけが中心に居るのではないだろう。物語が進むにつれて作品の中の様々な女性が入れ替わり立ち代わり僕の視点となる。その彼女たちの生活の中に何もかもが登場する。それを僕は見る。女性が生活の事なのである。

セイラやミライやフラウだけではない、ミハルやハモンも同じであった。マチルダもそうであったし、不幸にしてきちんと描けなかったキシリアでさえ同じだ。彼女たちによってガンダムという世界に生活が営まれたのである。

コロスはどうだ。

どの作品にも魅力的な女性たちがいる。

恵子の最期も、アキの最期も、生活の延長にあった。勝平のお母さんとミチが海岸で待つのもそうではないか。


Gレコも同じだと思う。これは登場する女性を楽しむ作品である。彼女たちの生活を通して、この世界がどうなっているのかを知る。誰の正義か、誰の主張かも、そんなものさえ彼女たちの生活の中にある。彼女たちを通して世界を見る。これがGレコではないか。

そこにはガンダムさえ必要がない。ガンダムという過去を見る必要はない。「前世紀の遺物」とは20世紀の、という意味であろう。しかしガンダムであっても構わない。女性は魅力的である。そして作品がどこに向おうともそこは変わらぬと思う。

彼の口に出さぬ恨みを想像する。だがそれが何になろう。この新しい物語との出会いと比べれば。

2014年10月16日木曜日

Imagine - John Lennon

想像してごらん、は違うと思った。お前らちっとも考えてないだろう、ほんの少し想像するだけでいいのに、という怒りみたいなものがあって、それをとっても優しい口調の歌にしたんじゃないかと解釈し訳す。

Imagine there's no Heaven天国なんてないかも知れないとどうして想像してみないの
It's easy if you tryやってみれば想像するなんて簡単だよ
No Hell below usこの大地の下に地獄なんてないというのも
Above us only sky幾ら見上げても、僕たちの上には空しか見えないのに
Imagine all the peopleどうして想像してみないの、全ての人が
Living for today今日を懸命に生きているんだろうなって
 
Imagine there's no countries国なんて本当はないかも知れないよ
It isn't hard to doそう想像するのはちっとも難しくないのに
Nothing to kill or die for殺し合いをしたり死んだりする理由にはならない
And no religion too宗教のためにどうして殺し合うの
Imagine all the peopleどうして想像しようとしないの、この世界の全ての人が
Living life in peace本当に幸せに生きたいと願っているって
 
You may say I'm a dreamer君には僕が世間知らずって見えるかもしれない
But I'm not the only oneでもそう考えているのは僕だけじゃないよ
I hope someday you'll join us君にもいつかそれをわかって欲しい
And the world will be as oneそうしてそれが世界に溢れてゆくんだ
 
Imagine no possessions自分だけが独占すればいいなんて思わなくなれば
I wonder if you can僕は願っている、もし君がそれをしたら
No need for greed or hunger飽食の人の横に飢えた人がいるなんてもう沢山だ
A brotherhood of man隣人を愛せよと誰かが言ってたよね
Imagine all the peopleどうして想像できないの、全ての人が
Sharing all the worldこの世界でいっしょに生きているんだって
 
You may say I'm a dreamer君はそれでも僕が馬鹿に見えるだろう
But I'm not the only oneそれでも世界は変わるんだよ
I hope someday you'll join us僕は君にもいつか想像して欲しいんだ
And the world will live as one僕たちはそういう世界の中で生きているんだよ

2014年10月13日月曜日

モンキーターン - 河合克敏

モンキーターンは読み始めると止まらなくなるが、ふと冷静に何が面白いのかと問われると返答に困る。

強烈なキャラクターがある訳でなく、印象的なシーンがある訳でもない。河合克敏が描くどの漫画も日常を超える事はないが、いずれの漫画も面白いから不思議だ。

これらの日常は分野によって切り取られている。
  1. 帯をぎゅっとね - 柔道
  2. モンキーターン - 競艇
  3. とびはねっ - 書道

いずれも技術が支える世界を描く。技術が実在するから好き勝手に妄想を膨らます訳にもいかない。日常は決して超えられない。だけど日常の中でほんの瞬間に技が炸裂する。何もかもが僕たちの日常の中で起きていることだと訴えているかのようだ。

日常の瞬間の切り取り、この漫画の真骨頂だろう。だけどそれが魅力かと問われれば少し違うと思う。この漫画には優れた情報誌、業界紙としての面白さもある。そこに実在する人間がいて、生活がある。そこにほんの少しだけのフィクションを加える。そのフィクションも溶け込んでゆき、その一瞬のために丁寧に、じっくりと丁寧に日常を積み重ねてゆく、それはこの世界で生きる誰もが経験していること。

その日常のささやかな積み重ねが作者の技量であって、その素敵な腕前に僕たちは強固な信頼を寄せているのだと思う。この漫画を支えているものは作者への圧倒的なまでの信頼感だと思う。

2014年10月5日日曜日

大津波 - 宮崎駿 / 未来少年コナン 第19話

東日本大震災の津波を見た時に思い返されたのはコナンの大津波であった。テレビに映る現実に驚きはしたががそれは津波に驚いたのではない。崖の上のポニョもまた津波の映画であった。彼は津波を描いた。彼の潜在意識は確かに実写化した。それは全く知らない風景ではなかった。コナンの大津波を見ていた者はその大きさに驚かずに済んだのである。

シーン出来事、セリフ意図

沖、夜

ガンボードが燃えている。二度の爆発。
正面から爆発する描写。
側舷から海に飛び込むインダストリアの戦闘員たち。
沈むガンボードを海で漂う脱出した乗組員たちが見ている。
遠景から海が燃えている描写。最後の大爆発。


知らない人が見ても、面白そうと思われるようにインパクトのある出だしから始める。

海岸、朝

砂浜。打ち寄せる波。蟹が戯れている。


時間の経過。沖合から場所が移動した事を暗示。



村の通りを歩くインダストリアの乗組員たち。家の中から除くハイハーバの村人たち。
家の中から除く描写。
家の地下室に閉じ込められたジムシーと村長も覗いている。
村長「ジムシー、間違いないぞ。見たか、あのしょぼくれた様子を。」
ジムシー「うん。」


モンスリーたちは落ち込んでいないのかという暗示。


地下室

村長「やっぱりあの音はやつらの軍艦が沈んだ音だったんだ。」
ジムシー「もう大砲使えないね。」
村長「それだけじゃないぞ、もう麦を取り上げても持って行けないって訳だ。」
おばさん「ラナを連れてゆくことも出来ないわ。」
おじさん「うーむ。だが、ラナはどこに収容されているのか。」
村長「心配するな先生。この島から一歩も出てないわい。」
ドアが開き、インダストリアのクズウが入る。
クズウ「医師のシャン、モンスリー議長がお呼びだ。出ろ。」
ジムシー「おじさんだけ?オレは?」
クズウ「お前は関係ない。早くしろ。」


初見の人でも物語に入れるよう最小限ではあっても状況を説明する。


執務室

窓の外は明るい陽射し。
二人の部下が力なく立っている。
モンスリーのバストアップ。
モンスリーは立ったまま戦闘員たちに話をする。
モンスリー「ラナを船室に残したまま逃げ出してきたって言うわけね。」
戦闘員1「申しわけありません。」
戦闘員2「誘爆と火災が酷くて脱出するのが精一杯でした。」
モンスリー「弁解はやめなさい。大切なガンボートを失った上、ラナまで。」

そこにシャンが部屋に入ってくる。
モンスリー「生死不明にして済むと思っているの?」
モンスリー「お前たちは三等市民に降格します。下がってよろしい。」
戦闘員「はい。」
部屋から出てゆく戦闘員のふたり。
モンスリーに駆け寄るシャン。
シャン「ラナはあの船に乗っていたんだな。」
モンスリーがきちんと椅子に座る。
シャン「無事なのか?」
モンスリー「残念ですが船室に入ったまま沈んだという事しかわかりません。」
シャン「なんという事を。見殺しにしたのか。」
モンスリー「お待ちください、先生。ガンボートを爆破した犯人はコナンなんです。姪御さんが死んだとしたらその責任はコナンにあります。」
わなわなするシャン。
モンスリー「お陰で当方にも負傷者がたくさん出ましたの。その手当をして下さいません?。」
シャン「断る。」
モンスリー「これは命令です。背けば奥さんを射殺しますよ。」
ドゥーケが入ってくる
ドゥーケ「お呼びですか?」
モンスリー「では忙しいものでこれで。」
クズウに連れられてシャンは出てゆく。

モンスリー「ドゥーケ、すぐ村の人間を全員広場に集めなさい。集合出来次第直ちにバラクーダ号の沈んでいる入り江に出発すること。」
ドゥーケ「はい。」
敬礼して執務室を出るドゥーケ。入れ替わりに次の命令を受けるための部下が前に出る。
部下「風車村へ出発します。」
モンスリー「大事な任務です。風車村から船の引き揚げと修理に必要な資材を残らず調達しなさい。」
部下「はいわかりました。」執務室から出てゆく。

執務室の外で立ち話をしているの部下たち。
「驚いたね隊長には。ガンボードをやられてもビクともしてないぜ。」
モンスリーが声を掛ける。
「オーロを呼びなさい。」
「はっ。」
オーロのアップ。
オーロ「なんだよ、直ぐに人質を処刑しないのか。このまま有耶無耶にしたら舐められるだけだぜ。」
モンスリーと二人で会話している。フランクに机に腰かけている。
モンスリー「そういうあんたはコナンの銛が怖いんじゃなあい?」
オーロ「言うなよ、今度会ったら蜂の巣にしてみせるぜ。」
モンスリー「頼もしい事。その勢いでコナンを必ず捕まえてきて頂きたいわ。」

クズウがお茶をもって廊下を歩いている。入れ替わりでオーロが出てゆく。
モンスリー「クズウ!」
クズウ「はい。只今。」
モンスリーの執務室。椅子に横向きに足を組んだまま。
モンスリー「弾薬の残りは調べた?」
クズウ「はい、えーと、弾薬のほとんどがガンボートに積まれたままでした。」
モンスリー「戦闘を一回やればなくなってしまうわね。」
クズウ「はあ。節約するよう命令はしましたが。」

お茶に口を付けるモンスリー。
モンスリー「ふふふ。」
笑い出す。クズウ驚いて
クズウ「はあ?」
モンスリー「これ本物の紅茶ね。20年振りだわ。」

クズウ「次長、我々はどうなるんですか、船はないし、ラナは沈んじまうし、弾もないし。このままこの島に取り残されてしまうんですか?」
それを聞いたモンスリーは目を見開いて笑う。
モンスリー「はっはは。船がなければバラクーダを引き揚げればいい。ラナが死んだのなら村ごと人質にすればいいのよ。人質を処刑するのに何発の弾が要るって言うの?太陽エネルギーさえ手に入ればガンボードの損失なんか問題じゃないわ。村を占領しているのは我々よ。それを忘れないように。」
クズウ「はい。そうですね、元気が出てきました。」
モンスリー「分かったら行きなさい。」
クズウ「はい。」
部屋を出る。

執務室にモンスリーただ一人。
沈黙、考え込んでいる。
そこに外から鳥の鳴き声。


ガンボートの乗組員、シャン、オーロ、クズウ、それぞれで、立っている、椅子に座る、机に腰掛ける、と振る舞いが違う。振る舞いの違いによって相手との立場を暗示する。

シャンを登場させたのは、モンスリーと対話させ、ラナの状況、コナンの状況を会話で説明するため。

部下の動きから効率の良さを示し、モンスリーに優れた指導力がある事を暗示する。

その後のひとりにする事で騒々しさから静寂への対比させ、回想への自然な流れを作る(騒々しい時に回想するのは自然でないため)。

(暗示とは振る舞いで示す事、明示はセリフで示す事)


裏庭

モンスリーが裏庭に出る。
ベンチに座りふうと呼吸する。
陽射しを受けている。
ふと気づく。犬が歩いている。
モンスリー、急に明るい顔になって(プライベートの顔に戻って)
モンスリー「犬だわ、まだ犬が生き残っていたなんて。ムク、ムク、おいで、ムク。ムク。」
去っていく犬。
モンスリー「ムク…」
顔をアップにしてゆく。回想への導入。犬の鳴き声がする。


犬を回想のきっかけとする。またハイハーバーには自然が残っておりインダストリアとの対比を強調する。

これはハイハーバーの方がインダストリアよりも良い環境 (≒正義) である事を暗示している。

回想

子供の声で「ムクー、ムクー、ムクってばー。」
走っている茶色の犬。
丘を走っている思春期のモンスリー「駄目よー戻ってらっしゃい。」
おばさん「モンスリーちゃん、出かけるわよー。」
丘の下に車が止まっている。おじさんとおばさんの影。
振りむいてモンスリー「待って。ムクがいけないの。」再び走り出す。
木を挟んで追い駆けっこするモンスリー「駄目よ。」
ムク「ワン、ワンワン。」
モンスリーが捕まえようとすると逃げ出すムク。
モンスリー「ムクったら。ワーーン。」しゃがみこむ。
心配して近づくムクに抱き付くモンスリー。
モンスリー「捕まえた。ウフフ。」
ジェットエンジンの音。上を見上げるモンスリー。
丘の上を飛行する爆撃機の編隊。
心配そうなモンスリーの顔。

無音ブラック。

辺り一面が火災の中、倒れているモンスリーの顔を舐めているムク。
ムク「キュンキュン。」
目を開けるモンスリーが立ち上がる。
遠景まで地割れして火災を起こしている都市と都市と都市。地平線の向こうまで横にパンしても赤い。
見つめるモンスリー。
地平線の向こうから都市群のビルさえ飲み込む巨大な津波が向かってくる。
それを見つめているモンスリー。その足元で横たわっているムク。
モンスリー「海が来る。」
ムクを起こそうとするモンスリー「ムク、ムク。ムク、どうしたの、ムク。」
津波がすぐそばに迫ってくる「起きてムク。ムクー。」一人と一匹を飲み込む津波。


大変動前のモンスリーを描く。この描写で敵であるモンスリーの内面を描き、視聴者に対して悪人から少しニュートラルな方向に立場に置くお膳立てをする。

津波をここで描く事で、大変動時には津波が合った事、津波が起きる事は自然である事、津波が突然起きるわけではない事を暗示する。


回想

穏やかな海の色。木製の扉の上で横たうモンスリー。
そこに船がやってくる。それはガンボード。多くの人が甲板上に居る。
船の甲板「人だ、女の子らしいぞ。」「生きているの?」「機関停止。」「船を止めろー。」
ステップの上からモンスリーを助ける人「おい、まだ息があるぞ。」


生き残った事、孤独である事を暗示する。


回想
ガンボート

若きモウに抱えられ震えているモンスリー「安心しお嬢ちゃん。おじさんたちとインダストリアへ行こうな。」
モンスリー「ムクが、ムクが…」
海上を疾走するガンボード。サイレンの音。重なる今のモンスリーの顔。


モンスリーがなぜインダストリアに居るかを描く。またインダストリアが決して悪い国ではない事を描く事で、レプカに敵 (悪)を集約させる。これは対立関係を単純化し分かり易くするために必要である。

漫画版ナウシカを読めば、もっと複雑な人間関係でも想定できる事は想像に難くない。


裏庭

ベンチに座って思い出にふけるモンスリーの姿。塀の上から見ている。
見ているコナンの顔。
芝生の上のコナンの足、近づいてくる。足音。
気付くモンスリー、目を開ける。下から上へパンする視線。コナンの姿。
驚いた顔のモンスリー「コナン。」
対面しているコナンとモンスリー。
モンスリー「ラナを助けてくれた?」コナン頷く。
モンスリー「フフ、ほんとにあなたって子は。」表情が変わる「でも、手加減はしないわ。」
銃を抜くすぐに撃つモンスリー。素早く避けるコナン。
合計八発を撃つがコナンは逃げてゆく。部下たちが駆けつける。
クズウ「なんですか。」
モンスリー「コナンよ。」
クズウ「え、どっちに逃げました?」
モンスリー「無駄よ。」
さっさと執務室に戻るモンスリー。
茫然としてそれを見ているクズウたち。


ラナが無事である事をモンスリーが知る必要はないため、ここでモンスリーとコナンが出会う事は必然ではない。

しかし、コナンにラナの無事を聞く口調、コナンがラナを救う事を信じていた会話から、二人の間に信頼関係が存在する事を暗示する。更には、モンスリーが仕事に忠実であり、敵対関係である事も強調する。


麦畑

軽快な音楽、麦畑を走っているコナン。


走るシーンを挿入する事で場面を切り替える。音楽を挿入する事で気分を変え、モンスリーのシーンを忘却させる。


廃墟の家

焼かれた家を覗き込むコナン。
ガル「コナン、こっちだ。」
コナン「おじさん。」
ガル「早くこい。」手招きしてコナンを家の中に呼び込む。
家の中の焼け具合を見てコナン「ひどいな。おじさんラナは?」
ガル「生簀の洞穴に残してきた。あそこなら見つかる心配がないからな。」と薬品を手にする。
火薬を調合しているガル。

ガル「そうか、やっぱりあのバラクーダとかいう船を引き揚げて直すつもりか。そうはさせんぞ。」
コナン「おじさん、また爆弾使うの。」
ガル「ん?」
コナン「爆弾はもうやめようよ、怪我人が出るもの。」

ガル「コナン、よく聞け。麦刈りが迫っとるんだ。村中あげてやらにゃならん仕事だ。船の引き揚げなんかにこき使われとったら麦の穂がみんな落ちちまうんだ。しかもありゃ鉄の船だぞ。鉄を打つのに島中の木を切って炭を焼くことになる。あの船の帆布とロープを作るのに村中の娘がかかっても何か月もかかるだろう。やりゃにゃならん。あのぼろ船を真っ二つにしちまうんだ。」

コナン「分かった。直せないようにしてしまえばいいんだね。」
ガル「その通り、やつらの先手を打つんじゃ。忙しがにゃならんぞ。」
コナン「うん。」
ガル「今度のはシャンの薬も入れたからな。」
爆弾を見せてガル。「あんな船、一発でドカーン。」


これからの展開を説明する。モンスリー、村人はバラクーダ号を引き揚げるために海岸に集まる。コナンたちは爆破するために海岸に集まる。これで物語は海岸を中心に進む事を説明した。これは津波に遭遇するのを自然とするため。この理由がチープだと B 級映画に見える。

出来事は、自然に、かつ必然に、かつ偶然でなければならない。


海岸

バラクーダ号の船長室のダイス。
振り向いてダイス「な。なんだ今の音?」
辺りを見回しつつダイス「落ち目になるとオドオドしていけねえな。」
ダイス何かに気付いて船の窓から外を見る。
ダイス「かっ。」窓から隠れる。
こっそり浜を見る。浜辺に人だかり。
ダイス「何の騒ぎだこりゃ。」
浜辺に村人が集まっている。
船長とジムシー。
指示をしているモンスリー。
ダイス「村中がこの入り江に集まっているぜ。」

ボートで沖に沈んだバラクーダに近づく戦闘員。
ダイス「まずいぞ。こっち来る。」
ダイス「スープ、スープ、あ。あちい、ダアー。最後の食い物が。」逃げ出すダイス。
バラクーダ号から飛び降りるダイス、その反対側に戦闘員のボートが横付けする。
ダイス「ありゃ背が立つぞ。ずいぶん潮が引いたな。」歩いてバラクーダから離れるダイス。
島影からバラクーダを見ている二人。
コナン「おじさん、みんなもう来ちゃっているよ。」
ガル「うむ、早いとこ仕掛けにゃならんな。」
海の中を顔を沈めてそっと近づくコナンとガル、反対に離れるダイス。気付かず擦れ違い。


ダイスは笑いを作れるキャラクターだ。彼を登場させることで、海岸の状況を説明すると共に、笑いで小休止を入れる。ダイスがここで船を降りるのはラナと出会う為である。



途方に暮れて歩いているダイス。
芝居がかってダイス「あー、俺ほど不幸な男がいるだろうか。船を失い、食い物を失い、身を隠す所とてない。ガク。」
ウマそうの鳴き声がする。
ダイス「子豚だー、おいでおいで子豚ちゃん。食べないからおいでおいで。」
ダイス「さぁとんかつちゃん。棒でぶったりしないよー。」後ろに棒を隠しながら。
ダイス「ちょっとこっつんこするだけだからね。」
棒が振り落される、ダイスに。
気絶するダイス、棒を手にしたラナの姿が。
ラナ「船長さん。」
ダイス「ラナちゃん…」


道端で偶然にラナと出会っても嘘くさくなる。ラナとダイスが出会うのにもイベントが必要である。ダイスはコントによって自然に話を進められる便利なキャラクターである。


洞穴の中

フライングマシンが海に係留されている。
ダイス「いやー。これはすごい隠れ家ですな。してこのみょうちきりんな乗り物は?」
ラナ「おじいさんが昔使っていたんです。」
ダイス「ふーむ。ラオ博士が。あの人は立派な方だ。で、コナンは?」
ラナ「村の様子を見に行ってます。」信用していない顔付きと声で。
ダイス「ほうですか。久しぶりに我々二人きりという訳ですな。」急にお腹の音。
ダイス「いや、腹が減って、腹が減って。」照れているダイス。
ラナ「魚で良ければ一杯あります。ここはガルおじさんの生簀ですから。」
ダイス「いや、そうですか。では早速。なるほど。相当魚影が濃いいですな。」
生簀に顔を突っ込むダイス。そこに魚が来て顔を噛む。
ダイス「あイタイイタイ。」
生簀の魚が騒ぎ始める。飛び跳ねる魚。
ダイス「ここの魚はどうかしているぞ。」
ラナ、生簀から出て崖の上へ向かう。
ダイス「ラナちゃん?どこへ。待って、待って。」


フライングマシーンは、次回への布石である。ここでダイスに説明させることが伏線になっている。魚が暴れる事で、ラナが異変に気付く。ここから物語は終盤に向かって進み始める。

このラナの気付きが自然に描ければ、その後の全ての出来事が自然に感じられる点で重要である。そこにダイスのコントを差し込む事で、より自然に伏線を印象から消し去る事ができる。


崖の上

ダイス「どうしたんだい、急に。」
ラナ「テキィたちがいない。」
ダイス「テキィ、あの鳥か。」
静かな島。林からも音がしない。海も静か。空も静か。見回すダイス。
ダイス「そういや、やけに静かだな。波ひとつないぜ。」
ラナ「前もこれと同じことがあったわ。インダストリアのサルベージ船にいた時に。」


ここで何かが起きる事を暗示しているが、CM 明けにはラナには確信になっている。この変化は CM の間に起きるのであって、そこを自然とするために CM 前に強い印象を視聴者に持たせておく。

パタパタ

海岸

バラクーダ号。トンカン音がする。船体を修理中。
「よいせ、こらせ。」
コナンとガルが船の入ろうこっそり近づく。
ガル「こう見張られては中に潜り込まんと仕掛けられん。」
海を見てコナン「おじさん、何だかおかしくない?海が浅く成り過ぎてる。」
遠くまで潮が引いている。
ガル「何年かに一回はこれくらい引くことがあるんじゃ。さぁ行くぞ。」
モンスリー「いい具合に潮が引いてくれたわね。」
クズウ「もうすぐ穴の改善(?)が終わるはずです。」
モンスリー「潮が満ちたら船が浮くわ。後は分かっているわね。」
クズウ「はい、連中に命令して一気に岸まで引き寄せます。」
浜辺で座っている村人の方を見る。
クズウ「へへへ。おとなしいもんでさあ。」
モンスリー「オーロたちは?」
クズウ「コナンを探しに出たっきりです。」
モンスリー「そう。」
バラクーダの方を浜から眺めている。


津波の前に潮が引く事のは必ずしもそうではない。しかし子供には印象深く残る知識である。



オーロを呼ぶ仲間。
オーロ「どこだ?」
指さす方向に崖の上のラナ。
仲間「ラナだけじゃなく、ダイスまでいるぜ。」
オーロ「やっぱりな。海の近くと睨んだ通りだったぜ。


ラナとコナンの間に起きる事を自然とするためにオーロが必要であった。物理的にふたりは会えないけれど、気持ちが繋がるためには二人の間を邪魔する人間が必要なのである。


崖の上

ダイス「ラナちゃん。その異変って何が起こるんだい。」
ラナ「わからない。でも海から何か来るんだわ。」
ダイス「海から?」
ラナ「村の人に知らせなきゃ。」
ダイス「村の連中ならみんな入江に集められているぜ。」
ラナ「たいへん。」走り出す。
ダイス「ああ、待ちな、海にいっちゃいけねぇ。モンスリーたちが居るんだ。捕まっちまうぜ。」
ラナ「船長さん、お願い。この子豚、ジムシーのなの。預かってて。」
ダイス「ラナちゃん。」
ラナ「早く海から離れて。高い所に逃げて。」
ダイス「ラ、ラナちゃん。た、高い所、、。」ひとりで慌てているダイス。


ラナもダイスも決して津波とは言わない。ダイスには津波の知識はあるはずだし、海から来て高い所に逃げるものが津波であることは簡単に思いつくはずである。しかしそれに気付かない。

視聴者はそれを知っており、物語の中では誰も気付いていない視聴者の知識優位の状況を作る。これで視聴者に危機感が増幅される。と、同時に物語の中で気付いた時にどうなるかを想像する面白さが加わる。



走ってゆくラナ。待ち構えるオーラたち。
オーロ「よー。」ラナを取り囲む。
オーロ「へへへ、おっとっと。」
ラナ「通して、早くしないとみんなが死んじゃうの。」
オーロ「おー、そいつは大変だー。みんな死んじゃうのかあ。」
ラナ「海が変なの。異変が起きるのよ。早くみんなに知らせないと。」
ラナをつかみながらオーロ「うるせえ。下らねえ御託を並べるんじゃねえ。」
ラナ「本当よ。村の人が。」
オーロ「そんな事はどうでもいい。そのお嬢さん面が気に食わねえんだよ。博士の孫だってんでみんなちやほやしやがってよ。だがな、俺は違うぜ。言え、コナンはどこだ。」
ラナ「早くしないと間に合わなくなっちゃう。信じて。」
オーロ「信じてだとよ、イッヒッヒヒヒ。」バカにした笑い。
ラナ「オーロ、あなたってどうしてそんな人間になっちゃったの?」
オーロ「ええい、黙れ。」ラナを突き飛ばす。
ナイフを出して脅す。
オーロ「さあ可愛い子ちゃん、ゆっくり話をしようじゃねえか。逃げようなんて考えねえことだぞ。」
ラナ「コナン…」


オーロはここで二人の間に起きる事にリアリティを与えるために必要とされたキャラクターであり、これが終われば話からは退場する運命である。ここでオーロは思いっきり悪い人間として描いている。通常ここまで悪に染まったキャラクターは更生不能である。しかし津波が来ているにも係らずそれを無視する (馬鹿として描く) にはこういう描き方をしないと説得力が出ないのである。


海岸

火薬を取り付けているコナン。
振り向いて「ラナっ。」
ガル「ラナ?」
コナン「ラナが今呼んだ。」
ガル「はあ、空耳じゃろ。コナン、導火線を寄こせ。」

ギシシシ。バラクーダが横にかしぐ。
修理中の村ひとたち、ドンゴロスが滑って海の方に落ちる。
海の中だと思って泳ごうともがくドンゴロス。
ドンゴロス「うん?水がない。」

浜辺の村人もそれに気づく。「どうしたんだ、どうしたんだ。」立ち上がる村人たち。
戦闘員「座れ、座れ。座らんと撃つぞ。」
戦闘員「座れ、聞こえんのか。」村長とジムシーも座る。
先ほどよりも更に潮が引いている。
浜辺には逃げ遅れた魚が跳ねている。
先ほどまで海に使っていた島の完全に姿を現す。

ジムシー「おじさん。」

クズウ「やけに静かですね。」
モンスリー「詰まらぬ事言ってないで作業を続けさせなさい。」

コナン「おじさん、大丈夫?」
ガル「まずいぞ、コナン、導火線が濡れてしまった。」
コナン「おじさん、出直そう。どうもおかしいよ。」
ガル「何が。潮が引いたんでかしいだだけだ。」
コナン「違うよ、さっきから変なんだ。胸がどきどきするんだ。」
ラナの声「コナン。」


いよいよ事が起きるための準備段階である。次第に近づいてきている事 (時間経過) を暗示する。また、バラクーダ号の爆破は失敗させなければならない。そのためには導火線が湿ってしまうのが必要であった。演出としては、例え予備を持っていたとしても、それも使えなくさせるイベントを挿入すれば良いだけである。



オーロのナイフの前で目を瞑っているラナ。
ラナ「コナン、海を見て。」


コナンが海を観なければ津波に全員が飲み込まれる状況がここで揃う。ここでラナとコナンの間の思いが通じるかが物語の趨勢を決める事が決定的になる。


海岸

コナン「海を見るの?」


コナンには聞こえている。しかし、まだ動かない。これは観客を焦らすためである。



ラナ「海を。」
オーロ、ラナに平手打ち「この、この、やい、どうしたってんだい。返事をしろい。」
ラナ「コナン、海を見て。」
オーロ「こいつ、俺を甘く見てやがんな。」部下の二人は不安を隠すような表情。
オーロ「さあこれが最後だ。答えないとその顔を切り刻んでやるぞ。」

木の影から見ていたダイス、胸にウマそうを入れたまま「オーロめ。なんという事を。くーー。やめろー。」
ラナに駆け寄るダイス。
ダイス「ラナちゃん、ダイス、お役に立ちますぞ。キエー。」空手の格好をするダイス。
ダイス「いただき-。」ラナを抱えて走り出すダイス。
オーロ「待てー。」拳銃を撃ちながら追い駆けるオーロたち。
声に出して叫ぶラナ「コナン、海を見て、海を見て。」


ラナに叫ばせるためにダイスが登場する。ダイスはラナを海岸に連れてゆくのが目的であった。コナンに思いが通じたのでオーロの役割も終わったと言える。


海岸

飛び上がってコナン「うん、海を見る!」
ガル「おい、コナン、どうした。」

コナン、バラクーダの船底から駆け上って甲板に出る。
戦闘員「コナン!」
コナン、マストの上を駆け上る。

戦闘員の銃声。
モンスリーが振り向く、ドンゴロス、村人。
ジムシー「コナンだ。」

バラクーダ号マストの上。
遠くの海。
コナン「はあー。」
ずうっと遠くまで潮が引いている。水平線だけが揺れている。

目を凝らすコナン。
水平線はもっとはっきりと揺れている。津波?
コナン「!、津波が来る。」
マストから下に向かってコナン「みんな逃げろー、津波だ。」

たちまち銃を浴びせられる。
コナン「津波だー。やめろ、危ないじゃないか。」
コナン銃弾を避けながら声がもっと伝わるようにマストの先へ移動する。
コナン「津波が来るんだよー。津波だってばー。」
戦闘員にはコナンの声は聞こえていない。
ロケット弾を撃とうとする戦闘員を制して。
モンスリー「お待ち。コナン、蜂の巣にならないうちに降伏なさい。」
マストの上からコナン「みんな聞いて、津波がこっちに向かっているんだ。だから水が引いたんだ。」
モンスリー、顔をしかめる。村人騒然となる、戦闘員も慌て始める。
コナン「高い所に逃げるんだ。急げ、早くー。」
後ずさりする戦闘員たち。
銃を空に向けて撃つモンスリー。
戦闘員に向けて銃を構えて「逃げるものは射殺します。」
村人に向かって戦闘員「座れ、動くな。座れ、動くものは撃つぞ。」
モンスリー「コナン、そんな嘘を私が信じると思うの。」
それを聞いてコナンはマストから滑車付ロープを使って降りてくる。
ゆっくりとモンスリーの方に歩いてきて無言のまま。
それを見るガル、ドンゴロス、村人。
コナン、モンスリー。無言のまま。
モンスリー「本当なのね、コナン。」
頷くコナン。
力が抜けたモンスリー。
コナン「みんな、逃げろ、急いで。」
戦闘員もパニックのように逃げ出す。作業していた村人たちも一斉に丘の方に向けて逃げ出す。
船長「走れ、丘まで急ぐんじゃ。」戦闘員も村人も交じって走っている。

撃ち捨てられたライフル銃、靴などを踏み越えて逃げる人々。


津波に気付いたコナン。しかし気付くだけでは足りなくて、モンスリーがそれを信じるまで。ここで二人の信頼関係が完結するのであるが、その演出には様々である。射殺まで言っていた人が急にコナンを信じられるのは何故か。ここに来て二人の間にはある種の信頼関係が合った事が重要になってくる。全くの敵対関係にあれば、このような展開には出来なかったはずである。


海岸

コナンを待っていたジムシー。
ジムシー「コナン。」逃げようとする。海の方を見るコナン。
モンスリーが逃げるともなく一人立ちすくんでいる。
コナン「モンスリー。」戻ってゆくコナン。
モンスリーの所まで戻ったコナンとジムシー。
コナン「モンスリー、何しているんだ。早く。」手をつかんだ所で沖を見る。
目前にまで押し寄せる津波。
コナン「来た。間に合わない。」

その時に銃声が。
オーロに追われてダイス、ラナが浜辺へ来る。
ダイス「逃げろー。津波が来るぞー。」叫びながら一目散に走るダイス。
コナン「ラナ」

オーロが立ち止まって一発撃つ。その時に仲間の二人津波に気付き逃げてゆく。
転ぶダイス、放り投げられたラナをコナンがキャッチする。

オーロ「コナン。この間の礼をたっぷりさせてもらうぜ。」
コナン「それ所じゃない。あれを見ろ。」
津波は巨大になり更に近づく。

オーロ「うるせぇ。けりを付けぬうちは逃がさねぇぞ。」
コナン「ようし僕だけなら相手してやる。」
ラナ「コナン。」
コナン「みんなバラクーダに乗るんだ。急いで。船長、モンスリーを。」
ダイス「合点だい。」
ラナ「コナン。」
ジムシー「早く。」

大津波の前に対峙するオーロとコナン。

オーロ、銃を捨てナイフに持ち変える。
オーロ、イヤーとの掛け声でコナンを突く。コナンは笑顔で軽くしゃがんでかわす。下から切りつけるがこれも余裕でスウェーバックでかわす。横に切りつけてもジャンプしてかわす。驚いて再度突いた所で右足の指でナイフをつかみ、左足でオーロの顔を蹴るコナン。ナイフをぐにゃりと曲げるコナン。
オーロ「止めろー。」
殴りかかるオーロ「くそう」
さっと避けて背中を叩いて気絶されるコナン。ガッツボーズを取るも、直ぐに津波を目にしてオーロを抱えて走り出す。バラクーダ号を駆け上るコナン。


重要な役を終えたオーロの最期に見せ場。オーロはコナンに対してライバル心、敵対心を持っていたが、この直接対決で、それを砕いておく。これでこの後の展開で一切登場する心配がなくなる訳である。


遠景

迫る津波。

ついに津波が島を飲み込む。
バラクーダの上から津波がかぶってくる。
砂浜を駆け上ってゆく津波。
ヘルメットや帽子が打ち捨てられた道を波が埋める。
木々の梢さえ飲み込み押し流してゆく津波。
ハイハーバ島の潮位がどんどん上がってゆく。
次第に上がる速度が遅くなり止まる。

丘に逃げた人たちの近くまで来る波。
波の中からバラクーダの浮かんだ姿が見える。
その光景を見ている村人たちと戦闘員たち。
海に浮かんでいるバラクーダ。


この描写が大津波のメインであり、かつ、バラクーダを丘の上に陸揚げする事で、大団円でのあのシーンへの伏線となっている。


丘の上

クズウ「あ、水が引いてゆく。」

丘の上から潮が次第に引いてゆく。
潮位が下がり、小島も姿を見せ始める。
バラクーダが森の中に取り残されている。
斜面に泊まり、水がどんどん引いてゆく。
遠くにある海。まるでカリオストロの城みたい。




バラクーダ

バラクーダから出てくるコナン、ラナ、ジムシー。
コナン「船が丘に上がっちゃった。」
ジムシー「水が引いてくぞ。」
ラナ「村の人たち大丈夫かしら」


全員が無事である事を示す。


丘の上

喜ぶ村人たち。
村長「村は無事じゃ。良かった。」

肩を組んでいるドンゴロスとクズウ。

ドンゴロス「ははははは。で、どうなんだ、まだやるのか?」
クズウ「やるって?」
ドンゴロス「とぼけるな、戦争をまだやるのかって言ってんだ。」
クズウ「そ、そのちょっと待って。」
周りを見る。銃を取り上げられている戦闘員、手を上げる戦闘員たち。
クズウ「あああ、負けました、降伏します。」


戦闘員が敗北を認める。これは武力的に負けた事実を暗示している。


バラクーダ

バラクーダ号の中のモンスリー。ヘルメットを脱ぐ。じっと見ながら。
モンスリー「負けた。」


モンスリーの自覚。これは武力的な敗北だけでなく、コナンとの信頼関係によってインダストリアへの忠誠が揺らいだ事を暗示している。


バラクーダ

コナン「さあ、思い切って飛ぶ。」
ラナ「えい。」
ラナ着地に失敗してコナンの方によろける。
コナン「うわ。」
ジムシーが笑っている。
コナン「船長、先行ってるよ。」
ダイス「ああ、おらあバラクーダの船長だからな。一番最後に船を降りるんだ。」
コナン「ラナ、行こう。」
村へと走り出す三人。
それを見るダイス「まったく大した奴だぜ、あいつは。」
笑いながら走るコナン、ラナ、ジムシー。

陸に打ち上げられたバラクーダ号の遠景。

ハイハーバーから敵がいなくなり、不安が消えた状況を暗示する。


物語の流れと概要
大津波は、未来少年コナンの反撃の狼煙である。物語はここから反転し大団円へ舵を切る。ここで重要なキャラクターがモンスリーである。物語はモンスリーの裏切り (レプカから見て) により一気に進む。彼女は物語の趨勢を決定するキャラクターである。このような登場人物をバランサーと呼ぶ。

大津波では次の事を行った。
  1. モンスリーとコナンの関係(裏切り)
  2. インダストリアの降伏(戦闘員の処分)
  3. オーロの退場(ハイハーバでの争いの元凶を処分)
  4. バラクーダの陸揚げ(大団円への伏線)
  5. フライングマシン(手段の提供)
  6. フライングマシンの操縦者としてのモンスリー(手段の実現)
  7. インダストリアへの再渡航(動機付け)

津波によってモンスリーたちは降伏する。コナンたちが再びインダストリアへ向かう動機付けにする。物語の転換点が津波であった。全員が津波と遭遇するためには、津波は偶然でも必然の流れが必要である。
  1. バラクーダ号の爆破と沈没
    バラクーダは浜辺近くで沈んでおく必要があった!
  2. ガンボートの消失
    沖合で沈没する必要があった!
  3. バラクーダ号の引き上げが計画される必要があった
    海岸に全員が集合する理由があった!
  4. 海岸で作業を行う必要があった
    これで全員が津波と遭遇する必要ができた!
  5. 全員が津波と遭遇する
    津波にはぎりぎりまで気付かないこと!
  6. 津波によってインダストリアは敗北する
    津波からの避難で壊滅した!

ラナはコナンと一緒にいてはいけなかった。もしふたりが一緒にいたなら異変に早く気付いてしまうだろう。そうするとコナンはそれをモンスリーに伝えるだろう。それではモンスリーたちが余裕をもって津波から避難できてしまう。

ここでインダストリアの戦闘員には退場してもらう必要があった。後顧の憂いなく戦闘能力を全て津波で洗い流しておく。モンスリーの強靭さも打ち砕いておく。完全な敗北によって初めて和解が説得力を持つのである。現実ならば戦闘員は村人によって射殺されたであろうが。

物語で起きる事象にキャラクターが気付かないのにはパターンがある。
キャラクター描き方代表的なセリフ
ダイス気付く素養があったとしても、その時は間抜けとして描かれる。え、なんだって!
モンスリー気付く素養があったとしても、気にしなければならないことが他にあった。そんな馬鹿なことが起きる訳ないじゃないの。
ラナ型気付くのにその場にいない。みんなに知らせなくちゃ。

モンスリーの心理
モンスリーがハイハーバーに来た目的は太陽エネルギーの秘密を知るためである。その秘密を知るためにはラナが必要であった。ラナがラオと繋がるからである。なぜ太陽エネルギーが必要かと言えば、インダストリアのエネルギー問題である。エネルギー問題を解決しなければインダストリアは立ち行かない。原子炉は燃え尽きようとしている。

そうであれば津波が来たからと言ってモンスリーが心変わりするはずがない。当然コナンに救われたからと言ってインダストリアを裏切れるはずもないのである。

モンスリーが態度を変えるためには、考えが変わる必要がある。太陽エネルギーを得た所でインダストリアは救われないのだと。

モンスリーはそれまで異変はないと考えていた。しかし大津波と遭遇して異変に対する考えを改めたのである。異変が起きるのであれば彼女のこれまでしてきた事は意味がなくなる。彼女が浜辺で立ち尽くしているのは、津波が来たからではない、モンスリーがしてきた全ての事に意味がなかったと思い知ったからである。

パッチが言っていた。「インダストリアは海の底に沈む。」と。モンスリーは大津波によって初めてインダストリアが消滅するかも知れないと信じた。

彼女はゆっくりと考え始めたはずである。自分はどう行動すべきかを。物語の最期の主題は沈没するインダストリアからの脱出である。残念ながらこの主題はギガントの印象が強すぎてほとんど消えてしまうのだが。

このようなモンスリーの心理変化があって、始めてコナンと行動を共にする事が納得できるのである。モンスリーは何もコナンの事が好きになって一緒に行動するのではない。そういうキャラクターではないのである。

演出上はモンスリーの心境の変化は複数の描写によって説得力を補強している。それは、モンスリーは良い人だから良い人と分かり合えるのだと言う情緒的な説得と、異変の発生という両面から視聴者を説得するのである。「負けたわ」は様々な解釈が入り込む一言である。
  1. モンスリーの過去を描く
  2. コナンと優しい会話をさせる事で良い人にした
  3. コナンとの間に強固な信頼関係が成立した
  4. 過去の津波にトラウマを抱えていた
  5. 大津波の出現にショックを受けた
  6. インダストリアの戦闘員が降参した

このようなモンスリーはクシャナの系譜である。
作品キャラクター
ルパン三世 カリオストロの城不二子
風の谷のナウシカクシャナ
天空の城ラピュタドーラ
もののけ姫エボシ
千と千尋の神隠し銭婆
ハウルの動く城ソフィー
崖の上のポニョリサ
風立ちぬ黒川夫人

演出の技術
物語の技術とは自然に事件を起こしたり新しい展開を導入する事である。それが唐突ならば物語からリアリティは失われる。クリエータは自然に見える技術を身に着ける。そこにはちゃんと法則がある。演出はその法則を応用した技術だ。

物語は次の3つから構成される。
  1. キャラクター
  2. 場所
  3. 時間

時間経過の表現方法には次の方法がある。
  1. 太陽、季節の描写
  2. 会話
  3. ナレーション

場面遷移の表現には次の方法がある。
  1. 風景の描写
  2. 人物による描写(人物が居る場所を暗喩する)

これに音楽や画面の色や明暗を組み合わせる。

物語は流れを持つ。
  1. 複数の場所、人物が並列して進行する
  2. 物語はある場所や時間で集約しようとする
  3. 集約した所で方向を転換し再び拡散する

緊張と弛緩、収縮と拡散、のリズムが物語である。

変化の描画に、三回目の法則がある。
  • 三回目の法則

変化をする前に同じ描写を2回繰り返し、3回目で変化を描く。これが序破急である。物語は序破急のフラクタルである。

もちろん、基本を完全に身に付ける事など不可能である(マイケル・レドモンド九段)。それでも切磋琢磨を怠らざれば 6 割には 6 割の力がある。

カラー版 国芳 - 岩切友里子

歌川国芳 、江戸時代末期の浮世絵師。ねこの浮世絵師。

国芳の浮世絵を見ていると、その絵の前後の動きが見えて来る気がする。この絵の前にはこういう動きがあって、この後はこういう風に動きそう。この想像が国芳の楽しみかも知れない。

国芳が今も生きていればアニメーションを描いたのではないだろうかと思えてくる。どんなアニメーターになったことか。アニメーターが国芳の浮世絵を見たならば、動かしたくて堪らなくなるのではないかと空想する。こんな空想は不遜だろうか。

かぐや姫の物語を思い出しながらそんな事を想うが、平成狸合戦ぽんぽこで高畑功が既にやっている。

国芳の人生に触れたければ「ひらひら 国芳一門浮世譚」も面白い。

なぜこうも江戸期の人たちの描く作品は斯くもユーモラスなのか。

応天の門 - 灰原 薬

この星のクライムサスペンスは Sherlock Holmes と John H. Watson に極まる。

本作も時代を平安時代に、Holmes を菅原道真に、Watson を在原業平に置き換えた作品である。SP がもつ絵の魅力は変わらない。

この手の作品は Holmes/Watson というコンビの基本形を如何にアレンジして新しいバディを生み出すかに掛っている。本作もそれを踏襲して史実に忠実に 20 才の年の差を上手く使う、ふたりの関係はコミカル。軽い味付けの良い点は、胃もたれしない所だ。

「略無才学、善作倭歌 (学はないが、和歌は上手い)」と言われた在原業平の造形が新しい。これが作品にリアリティを与えている。在原業平は十分に魅力的なおじさんに仕上がっている。略無才学をどう描くか、単に学がないのか、それとも空気が読めぬのか、今後が楽しみな配役である。魅力的なおじさんが登場する作品に駄作なし。

本作は、次の知識があれば十分に楽しめる。
  • 菅原道真、学問の神様。頭が良い。福岡太宰府に左遷されるが、後に神様に昇格。
  • 在原業平、和歌の名人。伊勢物語の主人公。色情狂。

平安時代の新しい景色。

2014年9月28日日曜日

述べて作らず、信じて古を好む - 孔子

巻四述而第七之一
子曰 (子曰く)
述而不作 (述べて作らず)
信而好古 (信じていにしえを好む)
竊比於我老彭 (ひそかに我が老彭ろうほうに比す)

述べるとは、古人から伝わるものを伝えると言う事。作らないとは、そこに自分の言葉を継ぎたさないこと。国語辞典によれば、
古人の言動を伝え、述べるだけで、作り話はしない。天下の道理は、古人の論説中にすべて包含されているという意。孔子が学問に対する自分の態度を語った言葉。(大辞泉)

そういう孔子の言葉が残っている事は不思議だ。彼の言葉は残り、古の人の言葉を知る人は少ない。

孔子が信じたものは何だろうか。古人の言葉を信じているのか。古人の言葉をそのまま受け取るという自分の読み方をだろうか。彼は作らずと言う。しかしその古人の言葉の読み方は恐らく独特なのである。

述べるためにはその前に読む必要がある。孔子は古人の言葉を何度も読み返しただろう。読む度に様々な思いがありや発見があっただろう。どのような解釈も受け入れる強さが古人の言葉にはある。古人の言葉には何も継ぎ足さない。古人の言葉には何も継ぎ足す必要がない。私の読み方に表れたものは正しく古人の言葉の中にあるものだ。それを信じる。

孔子が読む古人の言葉は他の人が読む言葉と変わらない。それをありのままに読むことは難しい。何故なら作らずに読む事は出来たとしても、作らずに語る事は難しいから。誰も自分の考えから逃れられない。自分から逃れられない。誰もが読む。言葉は同じだ。その同じ言葉を述べる時、(この文も同様)、誰もが自由な解釈を、誰もが流布する解釈を、私を、述べる事になる。

述べる事は難しい。古の言葉を作らずに述べる事は難しい。それが孔子には出来たのだろうか。私にはできる、これはそういう言葉だろうか。ではそれが思い込みではなく、正にそうであると私が言えるのは何故だと思うか。それが何もないのだ。

私は古を深く愛する。私の読み方がどうであれ、世人とどう異なろうとも、確かに私は老彭と語り合えるのだ。きっと馬鹿だと思われるから他の人には言わないのだけれど。


君たちの言葉は作り過ぎだ。それは古人の言葉を述べるというよりも、自分の言葉である。自分の言葉を述べるのに古人を利用しているのだ。私は古の強さと美しさと正しさを、存在を信じている。それが好きである。だからそれを自分のために利用したいとは思わない。だから私が述べる時は人知れずただ(自分の中で)老彭と語り合う時だけだ。

2014年9月27日土曜日

情報の伝達 III - 入口と出口の厳しさに見るコミュニティ

これは研究の結果ではなく、ざっくりとした仮定である。

失敗の道理 - 安全と信用と失敗の類似性
情報の伝達 I - 報告について, ランチェスターの法則
情報の伝達 II - ディズニーのSCSE

コミュニティへの参加には次の3つの状態がある。
  • 入る時
  • 中に居る時
  • 出る時

日本の大学は入学するのが難しい、アメリカの大学は卒業するのが難しい、と言われる。これは、日本の大学は入る事でコミュニティに参加できる、アメリカの大学は出る事でコミュニティに参加できる、と見做す事ができる。この考え方は、他のコミュニティにも敷衍できると思われる。
  • 入口で厳しいコミュニティ
  • 出口で厳しいコミュニティ

入口に関門を設ける。関門を通るには許可が要る。許可の為に試験や儀式がある。この関門には易しい、厳しいがある。

コミュニティへの参加を許可された者は、コミュニティの信頼を得る事ができる。この信頼の強さは入口の厳しさと比例する。あるコミュニティに属せば見知らぬ者の間にも信頼関係が造成される。それはコミュニティの審査、試験を通過したという事が、その人をコミュニティが保証している事を意味するからである。関門の厳しさは、この保証の強さである。

信頼は裏切られても許すが、信用は許さない。コミュニティはこの信頼によって支えられる。もちろんどんな裏切りも許す訳ではない。コミュニティの信頼は無制限ではない。その限度はコミュニティ毎に異なる。

コミュニティが与える信頼は強力である。この信頼が人間関係のコストを下げる。コミュニティへの信頼が人間関係の信頼と同じになる。コミュニティがそれを保証する。コミュニティは信頼関係を安いコストで提供する。コミュニティに属する事にはメリットがある。それ故にコミュニティに参加する人はコミュニティが長く存続するよう良い改善を与えようとする。
  • 信頼関係のコスト
  • スタータス
  • 参加意識

家族や親族もコミュニティのひとつである。生れてくることでこのコミュニティに無条件で参加できる。それ以外で参加するには婚姻がある。もちろん社会通念から生れた瞬間から参加を拒絶された人もいる。

日本という国に参加するのは難しい。その条件は厳しく、明文化もされていない。国籍だけでは不十分である。帰化だけでは受け入れらない。この国に生まれ育たなければ日本というコミュニティに参加したことにならない。それが排他的と外部には映るかも知れない。
  • 審査
  • 許可

罪を憎んで人を憎まずは同じコミュニティだから成立する。本気の憎しみは相手をコミュニティから追放する。

アメリカのような多民族の国家はコミュニティへ参加するのは易しい。富んだ者も貧しい者も世界中から移民する。アメリカは来る事には寛大である。入口が易しいのでコミュニティに参加する事で得られる信頼は小さい。

それ故にお互いを理解するためのコストが必要になる。そのコストが議論である。自分の主張をするのは自分の意見と通す為ではない、信頼関係を構築するためのコストである。
  • 自由
  • 議論

多様な人の集合であるため行動も制限できない。だから行動の自由がある代りに後から自分の行動を説明する事が求められる。responsibility は責任の事ではない。コミュニティへの説明であり、お互いを理解し、信頼するための手段である。

そこで理解が得られず、信頼できない場合は罰則がある。行動の自由がある以上、罰則は厳しくなる。そうしなければコミュニティの抑止力がない。こうして出口を厳しくするのである。
  • 説明
  • 罰則

何かが起きる前に規制して抑止するのか、何かが起きた時に罰則で抑止するのか。入口が厳しいコミュニティでは、何かが起きないように予め調整する。その代りそこで起きた事はコミュニティ全体で対処する。

入口が易しいコミュニティでは、行動の自由を与える。相手への理解が不足しているため行動を前もって規制する事ができないからだ。それは多様な価値観や文化を持つコミュニティになりやすい。問題は起きてから対処する。その対応は理解する所から始まる。説明を求めるのだ。

規制は、官僚が好き勝手にやっている訳ではない。法律があり、それを稼働させるために、手続きがいる。通常は書類である。それがなければ許可できない、それを行政と言う。
  • 規制
  • 法則

規制を縮小するには法律を変える必要がある。規制を撤廃をしたければ法律を廃法するのが一番早い。規制を緩くすると過誤も増えるし悪用も増える。それに規制を強化せずに対応するなら、入口での点検を強化しないのなら、出口を強化するしかない。つまり罰則を強くするしかない。入り口で規制を強めるか、出口で罰則を強化するか。このトレードオフしかない。
  • 規制を強めるか
  • 罰則を強めるか

入口が厳しいコミュニティは中に入ると過ごし易い。幾ら酷くてもそこまではしないだろう、という信頼が共有され、それが前提となって人間関係を成り立つ。

入口が易しいコミュニティには自由がある。どこにコストを払うかで仕組みが変わる。どの時期に最大のコストを払うかである。これは善悪ではなく、構造の違いが、人間の関係性、信頼関係、行動、問題へのアプローチの違いとなる一例である。またコミュニティの外に対しては無関心になりやすい。

入口が厳しい入口が易しい
関門が厳しい懲罰が厳しい
入学試験が厳しい卒業試験が厳しい
参加すると強い信頼がある参加しても強い信頼はない
理解してから参加参加してから理解
共同体を形成組織を形成
以心伝心議論
排他・閉鎖・秘密公開・オープン
信用を重視契約を重視
合議で遂行役割で遂行
責任を分担する責任は個人に帰す
結果責任説明責任
義務は平等に分担義務は役割に応じる
規制罰則
問題が起きる前に防止する問題が起きてから対処する
見捨てない見捨てる
内部をかばう内部をかばわない
贔屓する贔屓しない
個人を重視組織を重視
個人は取り換え不能個人は取り換え可能
犯罪に寛容犯罪に厳しい
失敗に厳しい失敗に寛容
単一民族的多民族的

日本の罰則は厳しく設定されている。しかし運用は担当者の裁量に任せる。通常は緩く運用し、問題がある時に厳しくする。運用に幅を持たせる事で緊急時にも対応する。これが成立するのは運用者への信頼があるからである。

最近の日本はこの運用の幅を認めない方向に進んでいる。それが公平であるという世論が形成されつつある。これはコミュニティの質が変わりつつあるからだろうか。

戦前の陸軍は中国大陸で暴走をしたが誰にも止められなかった。厳しい罰則も与えなかった。石原莞爾が満州国を建国した時に彼を厳しく罰しておけばよかった。彼をきちんと死刑にしておけばよかった。そうすれば日本は全く違った歴史を、どのような未来かは分からぬが、歩む事ができただろう。

厳しく罰するには陸軍は優しすぎた。厳罰はこのコミュニティでは無理であった。それができるのは全く違うコミュニティである。もし陸軍が全く違った性質のコミュニティであったなら歴史は全く違ったであろう。それは日本というコミュニティも全く違う事を意味する。ならばこの国の全ての歴史が違っていたはずである。

歴史が全く異なる前提で、ひとつひとつの事件を語っても仕方ないか。結局その暴走は梅津美治郎が関東軍総司令官 (1942) に就任し、部下を処罰するのを待つしかなかったのである。

2014年9月23日火曜日

なぜ π は 3.14 で教えなければならないのか

五円玉の図柄を思い出せるだろうか。正確な復元はできなくとも、五円玉のテーマが分かれば想像の助けになる。

五円玉の意匠は産業である。
  • 農業(稲穂)
  • 工業(歯車)
  • 水産業(海)



数を数え

もっと正確に記憶したければ「数を数える」。
  • 稲穂の数:3
  • 実の数:27
  • 歯車の数:16
  • 波の数:12

さて、ここで思いだすのはシャーロックホームズの階段話しである。
「君は、玄関からこの部屋まで上がってくる階段はずいぶんと見ているだろう?」
「ずいぶん見ている」
「どのくらい?」
「何百回となくさ!」
「じゃ聞くが、階段は何段あるかね?」
「何段?さぁ知らないね」
「僕は17段と、ちゃあんと知っている」

階段なら数えられもするが莫大な数になれば数えるのも大変である。

例えば手でお米をつかんだら何粒あるだろうか。

概算

  • 全体の重さを測る。次に10粒の重さを測る。
  • お米を手の中からゆっくりと落して行き全てが落ちるまでの時間を計る。次に1秒に落ちるお米の数を数える。
  • お米を平らな所に四角に広げる。広げた縦と横の長さを測る。次に1cm四方のお米の粒を数える。
  • お米を平らな所に四角に広げる。下から懐中電灯を照らし明るさを計る。明るさとお米の数の関係から計算する。

概算は個数を求めるのに別の何かを測定して変換する。比を使い一部から全体を求める。
全体の個数 = 一部の個数 × 比
  • 一部の個数を数え間違えれば全体の個数も間違う
  • 何倍するかの比を間違えれば全体の個数も間違う

これが成立するには全体が平たくなっていなければならない。まばらであれば一部を求めても何倍すべきかが狂う。平らにするとは平均を求める事だ。平均されているから一部から全体を求める事ができる。

こうして 統計学 として色々な所で使われている。
  • 選挙の出口調査
  • 世論調査
  • 視聴率
  • 食品の放射性物質検査

さて概算は全てを数えた訳ではないので必ずしも完全に正しいとは言えない。この実際の数と概算の差を誤差と呼ぶ。誤差には必ず許容できる範囲があり、許容できるかどうかを精度を呼ぶ。
  • 実際の値
  • 平均
  • 概算
  • 誤差(実際と概算の差)
  • 精度(許容される誤差の範囲)

式の変形

長方形の面積が (縦 * 横) で求められるのは、四角形の縦と横の同じ長さの長方形だからだ。もし4つの辺の長さが違っている台形ならば (縦 * 横) では面積は求められない。

台形の面積
(上辺 + 下辺) × 高さ ÷ 2

上辺:

下辺:

面積の公式
図形変換面積の式
台形(上辺 + 下辺) × 高さ ÷ 2
平行四辺形上辺と下辺が同じ
(上辺 + 下辺) × 高さ ÷ 2=
(底辺 + 底辺) × 高さ ÷ 2=
2底辺 × 高さ ÷ 2
底辺 × 高さ
長方形上辺と下辺が同じ
(上辺 + 下辺) × 高さ ÷ 2=
(横 + 横) × 縦 ÷ 2=
2横 × 縦 ÷ 2
横 × 縦
正方形上辺と下辺と高さが同じ
(上辺 + 下辺) × 高さ ÷ 2=
(1辺 + 1辺) × 1辺 ÷ 2=
2辺 × 1辺 ÷ 2
2辺
三角形上辺が 0 の時
(上辺 + 下辺) × 高さ ÷ 2=
(0 + 下辺) × 高さ ÷ 2
底辺 × 高さ ÷ 2

台形の面積のある場所が同じであったり 0 であったりする事で他の公式に変形する事が分かる。辺の長さが全て同じなら正方形だし、上辺を 0 にすれば三角形の面積である。これはお父さんが教える事であって学校が教える事ではない。台形の公式だけ覚えておけば事足りる。

面積を求めるにも色々な辺の長さが出てくる。小数点が出てくると話が面倒になる。小数点と言えば π である。π が 3 から 3.14 になると計算が非常に面倒になる。それに比例して間違いも増える。

ゆとり

3.14 が 3 になった時にこれを批判した人は多いが、その理由を説明できた人はわずかだった。ゆとり教育にはそれなりの目論見があった。ゆとり教育は教育の中心を学校から家庭にシフトする目論見であった。それが圧倒的多数の反対にあったのは、学力ではなく学歴に価値観を置いたからであろう。

ゆとり世代にはかつてない程の天才が多い。ゆとり教育とはほんの一握りの天才を育成するシステムであったのではないか。天才達に余計な手だしをさせない指針がゆとりであった。天才は何もしない方が育つ。その代りに早熟の天才でない多くの人々へのトレーニングはおざなりにされた。トレーニングが必要な人に届かない事が増えたのである。

面倒臭い小数点の計算

日常生活での誤差を 3 と 3.14 で考えて見よう。

なお当然の話しであるが π を 3.14 にするのは、小学生に面倒臭い小数点の計算問題を数多く解かせるためである。小数点の計算は面倒臭い。π のお蔭である。

小数点の計算の違いはふたつ。小数点の数を数える事と後から点を付ける事だ。その途中は全て整数の計算として行う。小数点以下を取っ払って整数で計算する。
計算小数点の位置確かめ残
足算
1.52 + 1.5 =
152 + 150 =
302
小数点の位置(2)は変わらない
3.02
1 + 1 = 2
引算
32.145 - 18.9 =
32145 - 18900 =
13245
小数点の位置(3)は変わらない
13.245
32 + 18 = 14
掛算
2.61 * 1.51 =
261 * 151 =
39411
両方の数(2+2)の和
3.9411
2 * 1 = 2
割算
31.85 / 1.3 =
3185 / 130 =
24.5
同じ比なので考慮しなくてよい
24.5
31 / 1 = 31

数学者からして小数点など大嫌いである。だから階乗が生まれたのであって小学生が嫌いなのは当然である。敢えてそれをさせるのは脳を鍛えるためである。スポーツ選手のランニングと同じだ。電卓があるから計算しなくてもいいと言うのは、車に乗ってグランドをぐるぐる回るのと同じだ。それではトレーニングにならない。走る事そのものには価値がないのと同じで π の値にも意味はない。

π

円周、面積、表面積、体積で 3 と 3.14 を使った時の答えの差を求める。誤差はどれくらいか。どこまでが例外として認められるか。一般的なコンピュータで採用されている π値、3.141592653589793 でも算出してみる。

円の面積が正確に求められる事は遠く将来までないだろうが、現実世界は最小でも素粒子など有限の小ささになるので円周率も有効桁を設定すれば十分だろう。

πの歴史
直径:
π円周面積表面積体積比(%)
2.9
3
3.1
3.14
Math.PI
3.15
3.2
//円周。
function circumference(pi, diameter) {
 return 2 * pi * diameter / 2;
}
//面積。
function area(pi, diameter) {
 return pi * Math.pow(diameter / 2, 2);
}
//表面積。
function surface(pi, diameter) {
 return 4 * pi * Math.pow(diameter / 2, 2);
}
//体積。
function content(pi, diameter) {
 return (3/4) * pi * Math.pow(diameter / 2, 3);
}

近似値

誤差を認めるとは近似値で良いという考えである。どうすれば許される誤差の範囲の中でより早く答えを見つけるか、またはその方法を発見するか。これが算数の終着点とも言える。

近似値で良いという考えが大切だ。高いコストを払って正解を探し出す事は時に重要である。しかし高いコストは時に正解に辿り着けない事がある。その時にそれとは別に例え正解は手に入らなくても近似値ならば入手できるかも知れない。

それをずっとトレースする事で傾向が何か見えて来るかも知れない。だからカオス理論は傾向を盲信する事が危険である事を教える。全てが一次比例で変化している訳ではない。

2014年9月20日土曜日

夏のFree&Easy - 乃木坂46



夏だからやっちゃおう!
心に溜めてたあれもこれも
水着より開放的に
さあ ストレートに

夏だからやっちゃおう!
今まで躊躇してたことまで
太陽は許してくれる
サンシャイン

なんで太陽が許してくれたら、なんでもやっちゃえるのか、それが分からない。

これは「太陽が眩しかったから」にも通じる不条理 (カミュの異邦人)。

20 世紀の不条理を 21世紀のアイドルが歌う。

太陽はこの世界の生命の源。

生命は太陽の熱を感じるために生まれた。

生命とは、太陽の熱が丁度よくて喜び、

原子と分子が、太陽の気持よさを存分に味わう為に形態した。

太陽の熱で振動するものが生命であった。

故に太古から太陽は神であった。

もし神が許してくれるなら、この世界では無敵であろう。

だから太陽が許してくれたら何でもできるのか。

しかし、神が許しても人間は許さないのではないか。

「太陽が許しても私たちは許さない!」セーラームーン。

神は何でも許される根拠にならない。

現在の宗教は太陽神を否定する。

いずれの宗教にも太陽神は居ない。

太陽はただの現象となり、人間の探求の対象となり、天文学から物理学が生まれた。

太陽神の倒れた墓所に科学は産み落とされたのである。

「神は死んだ」ニーチェ。

人類はそこで太陽の秘密を暴いた。

この世界には神が始めた戦争がある。

太陽を希求することはこれらの戦争の拒絶とも言える。

太陽はこの戦争を始めていない。

一度は捨てた人なのに

それさえも太陽ならば許してくれると

そう彼女たちは歌っているのである。

2014年9月16日火曜日

みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ - 大橋巨泉

みじかびの
きゃぷりきとれば
すぎちょびれ
すぎかきすらの
はっぱふみふみ



漢字表記
身近かびの
キャプリき取れば
すぎちょ尾れ
すぎ書きスラの
はッパ文々

口語訳
みじかにあって
キャップをカプリと取れば
それをちょいっと、おしりに挿して
すぐに書けるねスラスラと
パッパと文が幾らでも湧いてくる

わかるネ

2014年8月16日土曜日

無能ということ - 東條英機

無能ならば銀河英雄伝説である。銀英伝は無能を読むためにあるとさえ言える。

さて先の大戦を考えるにつけ無能は避けて通れない課題である。果たして無能とは何であろうか。

東條英機と言う人は、無論無能極まりない人であった。彼への評価は無能でよく日本を破滅へ導いた。彼が何を考えたか、どう行動したかは関係ない。結果を見れば何もできなかった。挙句の果て自殺にさえ失敗した。その無能ゆえ絞首刑にされたのである。

そうは言っても東條と同等の無能は幾らでもいた。戦争の原因も彼だけに起因できない。独逸や伊太利と異なり日本にファシズムはなかった。当時の日本は軍部のクーデターを抑え込む事が最優先事項であった。首謀者など何処にも居なかったが何かをきっかけにクーデターは確実に起きた。全体が大きな流れのうねりとなりそこに居たと言う理由だけで誰かが首謀者へ昇格してしまう。

ひとたびクーデターが起きれば革命へ通じたであろう。それが政治の最重要課題であった。誰もが目先の利益だけに汲々としていた。だが各自が操っていたその細い糸は日本全体を震撼させる要石へと繋がっていたわけである。貧しさも格差も資源も外交もそれと比べればプライオリティは下げられた。クーデターを抑え込むために日本は大陸に向かい、その片手間でアメリカと戦争を行ったのである。東條英機はそういう時代の無能の象徴なのである。

もちろん彼への正統な評価はもう暫く待つ必要があるだろう。あの時勢で他の誰なら上手くやり遂げたのかは誰にも分からない。しかし当時の人々に東條英機以外の選択肢がなかったのは確かである。それが我々には他の選択肢があると主張できるのは不遜だ。恐らく誰がやってもあの程度にしかならなかったのである。ただ変わりの人が居たとしても無能と呼ばれる人の名前が変わっただけであろう。

だだし彼だけに責めを負わす事ができぬ事と東条英機が無能であった事は全く別の問題であって、それによって彼の無能が揺らぐ訳ではない。もちろん他の誰がやってもああにしかならない事は彼が無能でない事の証明ではない、誰もが無能の証明である。再評価も彼があらゆる点で無能とは言えない事を証明するに過ぎぬ。牟田口廉也が無能であり、富永恭次が無能であり、服部卓四郎が辻政信がそうであったのと同様に無能は揺るがない。

東條英機は首相として無能であり、陸軍大臣として無能であった。一方で大佐としてなら有能であったろう。どうして大佐で終わらなかったのか。なぜ彼は出世してしまったのか。なぜ彼は大臣になれたのか。これが無能の本質である。無能とは人事が生む。無能は人物の属性ではなく、地位の属性である。

与えられた責任と官職に無能が付く。人事が不幸な場所に人を配置した結果である。誰だって無能と有能の集合体である。組織の中に無能が出現する(ピーターの法則)。

靖国神社は戦没者墓地の意味合いを持っていたが今やそれは失われた。東京裁判の有罪人が合祀された事で外交問題に発展した。非難する者たちも擁護する者たちも誰も英霊が神として存在するなどと信じてはいない。ただの墓地でない事が非難を成立させる。これは神道に対する批判であり無理解とも言える。逆に言えば日本人の独特の神への信仰を説明していないのである。

海外の人々からすれば先の戦争は宗教戦争であろう。少なくとも天皇への信仰と戦争の遂行は同じにしか見えない。宗教的な狂信さがなければあの戦争は理解できないのである。ここに不信感の根本があり、そして今も戦争の戦死者たちを神として崇めているなら、同根に戦争を起こしたものが日本には残っている、という疑問は払拭できていないはずである。

戦死者の神格化が、日本人と海外の人々の理解を妨げている。日本人はその気さえあれば鯖の缶詰でさえ神格化できる。鯖の缶詰が神様であっても何も困らない民族である。この国に住む多くの人はそれが腑に落ちる。だがそれは日本人だけある。この土地に育まれた神との関係性は恐らく一風変わっているのである。

これが海外の人々には夢にも思わない思想なのであろう。お前らは神の名を叫び特攻までしたではないか。あの狂信的な信仰心は神に向けられていたではないか。そのお前たちが今も戦犯を神と崇めているのなら、またあの狂信が蘇らぬとなぜ言えるのか、それを危険視して当然ではないか。

違うのである。誰も天皇を神と崇めて死に赴いたのではない。日本人の特攻は天皇への信仰が支えたのではない。死に赴いたものがどのような言葉を残したのであれ、天皇の為に死んだのではない。誰にとっても天皇は鯖の缶詰であった。彼らはただ社会からの要請を受け、黙ってそれを受け入れたのである。日本というコミュニティが根底にあり天皇はその色に過ぎない。誰もが社会に属する者として自分に出来ることをしようとした。

バカバカしさを知っている者も知らなかった者も等しく社会からの要求に自分の命を捧げた。それは信仰ではなく社会への同調であろう。社会の存在を信じ自分たちの社会を大切に思い自分の思いを託し社会を成立させるひとりとして働いた。自分の死後を託せると信じた。彼らは社会の犠牲者であり生贄ではあっても殉教ではない。その死は宮沢賢治が描いたグスコーブドリの伝記や映画アルマゲドンに近かろう。

社会の構造として天皇はやはり機関であった。だが天皇機関は天皇が存在しなければ成立しない。20 世紀の科学が神と対峙し多くの無神論を生んだように天皇を失墜させる危惧があった。それを失った時に社会は分裂せずに済むかという問題も孕んでいたであろう。日本を占領した GHQ は早々と天皇を象徴と見抜いた。これは実に正しい慧眼と思われる。日本人では惜しい事に見抜くのは無理であった。

2014年7月26日土曜日

凡人ということ

異様な名前をつけられたお蔭で、一命を失った人間もある事は、「ジゲム、ジゲム」の語るところだが、平凡な名前も面白くないものである。小林も平凡、秀雄も平凡、小林秀雄で平々凡々という事で、今までずい分人にも迷惑をかけ、人からも迷惑を蒙っている。
同姓同名

凡人という言葉は難しい。誰もが持っている感性を凡人と呼ぶなら、それは他と簡易に置き換え可能である。其れが自己の存在意義を乏しく感じさせる。人が自分らしさを希求するのは特殊性の希求である。それは他との置き換え不可能性の希求に等しい。これは多分に社会が人間に均一化を要求する事への自然な反応であろう。

社会、環境からの要求に対して人が反発する。人は己の存在を感じなければならない。ではなぜ特殊性を望むのか。個性として他人と違う事を求めるのか。

だが差別を見よ。肌の色の違いにさえ社会は寛容ではない。我々の世界が宇宙人と出会えないのも、異なる姿かたちの彼らと出会うには未だ早いからである。今の我々は出会えば必ず差別する。我々は誰かと比較しなければ自己を存在させられない。それが社会からの要求への反発かも知れない。

現代社会でセックスが重視されるのもまたセックスの要件が相手が自分を必要としている確認にある。相手に必要とされている事を知る。その為の行為である。現代とは順位付けの時代である。セックスも順位付けのひとつである。

順位付けは社会からの要求への反発である。社会からの要求は、人間が均一であり、高品質になる事である。これは商品に求めるものと全く同じである。もし人間が精神を有したいならそれでも構わない。精神を失う方が要求に叶うなら、それも可能である。社会は人間に労働力という純粋な商品である事を要求する。よって次第にその役割がロボットに取り換えられるのは自明である。ロボットよりも優れた労働力を人間は持たないからである。

この動きは当然である。生産社会が求めるものは生産性に帰結する。我々の社会は、生産社会と購買社会の混合であるが、人間に求められるものはふたつの社会で異なる。

生産社会で人間の存在価値はどこに残るのか。これはギリシアの太古から論じられた話であって、太古、労働は卑しいものであった。対価を得ないものが貴いと見做した。近代資本主義は労働が信仰になり人間の生き方を変えた(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - マックス・ヴェーバー)。そして、現在は労働から人間を駆逐しようとしている。

凡人を語る上で、これらの社会から希求は切り離す事ができない。凡人とは社会が個人に貼る属性である。それに対抗する人間側からの様々な働きかけが組み合わされて世論は形成する。

資本主義は民主主義ではない。人間を商品として扱えば、安価で高品質な人材を求めるのは明白である。そこに人間性が欠如する事を最初に発見したのはカールマルクスであったと思う。彼は人間性の回復の帰結が共産主義と喝破した。しかし 20 世紀が提示した共産主義の本質は強烈な競争と禅譲であった。

ビッグデータの動きは購買層全体を解析する新しい手法である。これは人の流れをひとつの商品と見做す。資本主義は効率を求め、それは生産者だけでなく購買者も商品として扱う。個々の顔を見る必要はない。お金の動きという現象に注目すれば何かが見えて来る。それを数学で扱えば十分だ。資本主義は数値の操作に集約する。

資本主値は企業のグローバル化を進め、社会から人間性を取り除き、労働の純粋な商品化を求めた。それによって投資家や資本家だけが勝者となるのか。人間的な生活は彼らだけのものになるのだろうか。恐らく資本主義はそれも許さない。購買者も労働者も資本家も商品として流通しなければならない。富の集中と格差が起きても停滞は許さない。

資本主義は人間の証明を求めない。21世紀はそれを証明するための戦争も起きるだろう。世界を覆い尽くす資本主義は、いつか国家からも独立するだろう。自らセキュアを求め、警察、軍隊と類似したものを保有するだろう。その先に企業と国家の戦争が起きても不思議はない。

21世紀の企業は新しい帝国主義になる。国家の帝国主義の代わりに企業の帝国主義が始まる。グローバル化とは国家と企業を巡る新しい世界の覇権であろう。19 世紀の帝国主義が海と大陸の覇権なら、21世紀の帝国主義は、情報の覇権であろう。その先に人はどのような理念を見出す事ができるのか。

これまで国家に属していた企業は次第に自分達の活動を害する国家とは対立するだろう。人々は国と国家を異なったものとして扱うだろう。誰もが生まれ育った土地への愛着はある。それが国を愛することである。

しかしそれが直ちにその時の政府、国家を支持する事にはならない。この考えを延長すれば人は国には属しても国家に属する必要はない。出自の国を大切に思う事とどの国家、体制に属するかは分離できるのである。企業には自分達の活動に不利益な国家とは対立する選択がある。

もし統一政府というものが生れるならそれは国家間の協調からではなく、企業からの要求からではないだろうか。自分たちの活動する環境をより安定した世界にしたいという要求から生れるのではなかろうか。

こうして世界が統一された時に、人間に画一化を求める資本主義は、それ故に人材が枯渇し衰退する。画一は停滞する。画一は革新しない。それを食い止めたければ人間に多様性を求めるしかない。多様性を生み出すには様々な文化や歴史の違いが必要だ。離しておけば勝手に変わってゆくという性質を生物は持つ。グローバル化は同じなろうとする力である。エントロピーからすれば、世界統一が自然の流れである。比して負エントロピーが生物の多様性である。


我が国は先の戦争に負けた。なぜ負けたのか。そこには量と質の二面性があった。質は可視化しにくいが量は可視化しやすい。我々の兵器は、零戦や大和は、質では負けていないと思いたくなる。量に対抗するには、という反省が戦後の強迫観念になった。持たぬものは質に飛びつくしかない。それが戦前であるなら、戦後は、そこに生産性が加わった。高品質を保ちながらの大量生産が可能となった。

そして今では経済効率以外の理念は存在しない。経済効率の前では不快さを排除する事も正義になる。それが生産活動の効率に叶うならば。効率以外の行動原理に何があるか、と問う。あるのかないのか。あるなら、本当にそれは必要か。

小泉純一郎をきっかけにこの国は変わったように見える。あの時からはっきりと経済効率こそが正義であると決定されたように思われる。この効率を正義とする原点には先の敗戦がある。言い替えるならば今の効率至上とする流れは先の敗戦に帰結している。我々は未だにあの敗戦を引っ繰り返そうと戦争を継続している。全てがあの時に集約しているはずである。

世界の全体が大きな変化に直面している時に、我々は今一度、あの敗戦へと立ち戻る必要がある。なぜ負けたのか、負ける戦争をする愚かさを誰も止められなかったのは何故か。何が足りなかったのか、どうすればあのような惨めな敗戦をせずに済むか。この答えを未だ誰も手に入れていない。それにケリと付け教科書に書けるようにする必要がある。


凡人が居れば天才が居る。天才とは何か。どのような天才も理解者を必要とする。他人から理解される事が天才の要件である。遠すぎれば見つけられない。近すぎれば凡人と変わらない。ちょうどいい距離に居るものだけが天才になる。

子供の可愛さは親が一番よく知っている。他人には理解できないくらいに。ならば誰だって自分の子供に対しては天才である。しかしこの天才は単なる親ばかである。同様にある分野で天才である事が、他の分野でも天才である根拠にはできない。天才は万能ではない。およそ多くは凡人だろう。

ならば、どのような人も凡才と天才の混在である。さて、天才とは周りが決定するに過ぎない。その多くは社会が要求する。均一で高品質の価値観の最上位に過ぎない。天才は発掘される。発掘されない天才もある。なぜこの天才を見つけられなかったのか。

誰も気付けなかった。気付けたのなら運が良かった。気付けた事の不思議さに、気付いた者が驚く。気付く事に凡才も天才もない。そこまでは誰もが同じ場所に居る。そして気付いた後に、どう動くか、ここが決定的な分かれ目か。

2014年7月13日日曜日

陸軍における歩兵補助ロボットの研究

オリンピック記録がパラリンピック記録に追い抜かれるのは時間の問題であろう。生身の足よりもバイオニクス義肢の方が速く走れる。遠くに飛べる。それはテクノロジーであるから人間を追い抜くのは自明である。

走り、登り、踊ることを可能にする新たなバイオニクス義肢


軍需で研究する事にはメリットがある。
  1. 失敗に寛容である。軍需は民間よりも失敗に寛容である。
  2. 民間よりも予算の投入がしやすくベンチャーがチャレンジしやすい。
  3. 民間へのフィードバックが多大である。

これは発注元が倒産する恐れがない事による。軍需への研究をしないばかりに ASIMO は 10 年以上のアドバンテージをあっという間に抜かれてしまった。世界の目を開いた功績は ASIMO にあるがそれを継いだ者たちは HONDA ではなかった。世界中の軍需でありそれに予算を出した陸海空軍の官僚であった。

そして福島第一原子力発電所の事故が二足歩行のロボットの必要性を現実のものにした。その研究には多大の予算が必要でありそれが提供できるのは軍需と思われる。

軍需に大量の予算を投入する国が世界をリードすると言う考えはそう外れていまい。恐らく日本が民間の歩みで築いたアドバンテージは中国が大量に投入する軍需により追い抜かれるであろう。

さて有る時、自衛隊の隊員が演習をしているのをテレビで見て、これらの活動には人工外骨格、パワードスーツがあれば面白い事になると思った。そういう補助により出来る事がずっと増えるはずである。

陸軍は歴史の始まりからその最後まで歩兵(普通科)を捨てられない。人工外骨格、パワードスーツは人間を補助し、移動距離を延ばし、荷物の量を増やし、安全性を高める。人の体に装着し、歩き、体への負担をなくし、バランスを自律して取る装置である。

軍事利用
  • 従来では使用できない重い兵器、兵装を使用できる
  • 防弾チョッキをつけての行動を可能とし安全性を高める
  • 100kg超の荷物を背負い長時間の山中行軍が可能となる
  • 輜重部隊の荷積み、荷卸し能力が向上する
  • 10m の高度からロープ無しで飛び降り安全に着地できる

民間へのフィードバック
  • トラック内に補助装置を搭載し荷積み、荷卸しで使用する
  • 介護業務での負担を軽減する
  • 障害者、負傷者の自立をサポートする
  • 警察、消防での使用
  • ゲリラ、テロリストの使用

2014年6月7日土曜日

妻から渡された感動の絵手紙 / Welcome Home Darling

Welcome Home Darling - Imgur
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 ~ http://imgur.com/a/FO2Pk#12


漫画である。この優れた漫画を見て鉄拳のパラパラ漫画を思い出した。そこにあるのは素朴さだけではない。

日本の漫画は手塚治虫から始まった。もちろんこれは正確でも正しくもない。しかし系統で考えるなら宮崎駿も大友克洋も手塚治虫の系統にいる。では手塚治虫は漫画の系統樹のどこにいるかと問えばディズニーの亜種であろう。

手塚治虫の功績は作品のみならず系統樹の爆発的な発展にあるだろう。彼から始まった多様性を否定するものなどいまい。例え否定してみても既に起きてしまった事だ。

手塚の系統でない日本の漫画家はそう多くはないと思われる。田川水泡、横山隆一、長谷川町子らであろうか、しかし、これさえはっきりしない。お互いに影響を受け合っただろうから。明らかに手塚治虫という系統樹はあるのだが、その独自性を明瞭に定義するのは難しい。いわんや、海外の漫画との違いにおいてをや。

シーンという音さえ鳴らせてみせる漫画の技法は、絵だけではなく、ストーリーや思想、世界、生命、感情、などを表現するに足る媒体である。今や漫画は子供が読むものではない。自分の中にある何かを表現するに足る手段のひとつである。

この漫画に手塚治虫にはない何かがある。彼にはなかった何か新しいものがあるように見える。手塚治虫が表現しなかった何かがある。そしてこれを今風であると感じる。丸と棒だけで表現された表情に古さはない。それはインターネットにあるからだろうか。

このシンプルと比べれば日本の漫画は丸く立体である。それは過剰とさえ思われる。削ぎ落すだけ削ぎ落した後に残ったものは美しい、そういう美しさを我々は知っている。それがここにはある。

この漫画は左から右に流れる。この竜線(視野の導線)の違いは大きいかも知れない。日本語の文章も今では左から右に流れる。"ルメラヤキクルミ"と書かれている事に違和感を感じる。これは横書きと縦書きの違いだろう。日本の漫画は縦書き、英語の漫画は横書きである。日本の漫画も横書きで台詞を書けば左から右の竜線に変わるはずである。

日本の漫画は表情が多彩である。漫画の記号が絵の描写に置き換わっている。絵画の魅力をコマの中に取り込む。ヘタウマと呼ばれる人たちも記号があるから伝わるし伝わる事を見越しているから絵の下手さが成立する。故に絵の下手さは額面通りに受け取るべきではない。コマは絵の表現と記号的読み取りによって成立する。絵は次々と新しい手法が取り込まれてきたが、さて記号的な面で何か新しいものが生まれたかは疑わしい。

書き込まれた魅力のある絵を唯の〇×に置き換え(ネーム)ても漫画は成立する。何故なら記号は残っているからである。一方でこの絵でなければならぬという漫画もある。例えばスヌーピー (Charles Monroe Schulz) はあの絵が語りかけてくるものが大き過ぎて他の絵には置き換え不能に思える。

漫画の魅力は絵だけではない。しかし絵がなければ漫画ではない。しかしコマがなくても漫画ではない。コマとは時間の流れであって、そういう点では漫画はプログラミング的だ。両者には今の場所を示すものがある。コンピュータのプログラムカウンタと同じものが漫画にもある。漫画は読み手にここまで進んだ事を示すためにコマがある。それを示すものをコマと呼ぶ。読み手はコマを読み取っては話を理解し次のコマに進む、その働きはコンピュータがプログラミングを実行するのに似る。

この漫画で金がとれるかどうかは関係ない。自分の心情を表現する手段に漫画が選ばれた。それはよみ人しらずの歌のようだ。手塚治虫は空襲の下でも漫画を描く事を止めなかった。それに歌でも詩でもなく映像でも写真でもなく漫画を選んだ。

漫画からいつかは職業漫画家は消えてしまうかも知れない。短歌や俳句がそうであるように。短歌や俳句は誰もが読むが、この時代に職業歌人が居ることを誰が知っているだろう。

この漫画には何かがある。それはかなり大切なものだ。この記号で十分である。コマがあり、記号があり、言葉を添えれば、感情を伝える事が出来る。そして日常のリアリティな感情を伝えるこの漫画で十分である。それが成立すればこの絵に魅力が溢れてくる。

手塚治虫に感動したのは漫画による思想の表現であった。漫画は日常の喜びを伝えるだけではない、子供を喜ばせるものでもない、漫画の可能性は深淵なテーマを語る事さえ可能なのだと。それをやってみせた。

漫画は日記にもなれば小説にもなる、思想を語る事もできる。そして同じ事を語るにしても、言葉で語るでもなく、文字で書くのでなく、歌うのでもなく、動画や写真でもなく、漫画という独自の表現形式がある。人が触れれば全てが表現形式になりうる。そのひとつに漫画がある。

これだけ絵が上手い人がいる。魅力的な漫画がある。しかし恐らくこの漫画では商業誌に乗らないだろう。と言う事は僕たちは今も見逃している数多くの漫画がある。商業誌に載る職業漫画家ばかりが優れた漫画家ではない。それはこの世界の漫画の一部に過ぎない。それをインターネットが発掘した。これは驚くべき事と思われる。そこに何かがある。世界は変わりつつある。

2014年5月22日木曜日

恐竜の姿勢

今の学説に異議あり。どうも納得できない。

これでは頭が重すぎる。当時の酸素濃度が濃く、体が巨大化するのに有利であったとしても、この構造ではバランスが取れない。先端に重量のある頭を置き、そのカウンターとして尾を延ばしている。これでやじろべえとしては成り立つ。すると恐竜は、やじろべえが揺れるように前後に揺れていたのだろうか。

これだけ重い頭と尾を重力に逆らって支えるには筋力では難しいだろう。すると強い靭帯と骨格で支えていたと考える必要がある。そうすれば、下へだらんと垂れることはなかったであろう。あの重さを支えるには靭帯だけでは難しく、背骨の構造が下に曲がろうとするのを支えていたはずだ。背骨には曲がるのを止める突起があり、そこは変形したり摩耗しているはずだ。

二足歩行を手に入れたのは、猿の他は鳥である。この鳥の祖先が恐竜であることは既に常識であるが、しかし、鳥と恐竜では体を支える構造が全く異なるように思える。しかし鳩のように歩く時に頭を前後するのは遠い恐竜でも同じであったろうか。

トリケラトプスの復元図を見ても不思議はない。


(wikipdeia トリケラトプスより)

昔のティラノサウルスもウルトラマンの怪獣のようで不思議はない。



しかし現在のティラノサウルスはどうも頂けない。


(wikipdeia ティラノサウルスより)

勿論、この復元図にも理由があるのであって、尻尾が上に立っているのは、恐らく、足跡化石に尾を引きずった後がないからであろう。尾を上に上げていたのなら、頭は下がるであろう。

軽い骨格なら重力はある程度は無視できる。しかし恐竜は大きいのである。頭も尻尾も大きい。大きいとは重いと言う事である。この重さを支えるのは筋肉である。恐らく当時の酸素濃度が今よりも濃くなければ筋肉はこれだけの巨体を支え切れないのだろう。彼らの重さは現在の哺乳類とは比較にならない。動物にとって重力に逆い続けるのは困難である。人間の腕でさえ 10 分も上げておくのは苦痛だ。

How often have I said to you that when you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth?
Sherlock Holmes


恐竜復元では、骨格を鉄柱で支えなければ立つ事さえ難しい。勿論、人間の骨格だって何かで支えなければ立たせる事は難しい。だが人間は意識を失えばどうせ立っていられない。その意味で骨格が立たないのに不思議はない。また足の置き方によっては人形を立たせておく事が出来る。しかし恐竜は人形でさえ、あの頭の大きさ、重さで前のめりになって倒れてしまう。


(wikipdeia エミューより)

人間は重心の上に真上に重たい頭を乗せそれを背骨で支えている。鳥も頭を上に置く事でバランスを取ろうとする。しかし恐竜は頭を横に伸ばしている。

この復元図は不思議なのだ。


まぁそれはいい。テレビの恐竜は捕食者が狩りをする時に怪獣の如く雄叫びを上げる。音を立てるならそれは存在を相手に知らしめる威嚇である。捕食者が狩りをする時は安全に確実に効率食よく可能な限り短時間で仕留めようとする。狩りの基本は相手に気付かれる事なくどこまで近付けるかにある。もし鳴きながら追いかけるのであれば、それは群れで相手を追い込むなどの理由がいる。でなければ科学への好奇心を持たないか恐竜への尊厳が足りないと思う。

2014年5月6日火曜日

ジークフリード・キルヒアイスの憂鬱

ラインハルト様ともあろうかたが、一時の利益の為に、なぜご自分を貶めるようなことをなさったのですか。

ラインハルト様、わたくしはラインハルト様がこの世界を地獄にすると言うのなら、喜んでそれを支持しその先頭を歩くでしょう。何故なら、わたくしの正義はあなたの正義だからです。わたくしの正義はラインハルト様と同じものです。わたくしはその正義を受け入れれば済みます。それで構わないのです。

しかしラインハルト様の正義は他の誰のものでもありません。それはあなた自身のものですし、それはヴェスターラントの惨劇を許し忘却できるような正義ではありません。

ですからこの事件はこれから何時までもラインハルト様を苦しめてゆくことでしょう。民衆の苦しみがあなたの心に突き刺さり、決して抜けない棘となり、何時までもラインハルト様に襲い掛かることでしょう。

その苦しみに気付く人は少ないでしょう。誰もラインハルト様の苦しみを分かつことはできません。それがラインハルト様を死へと追いやってしまわないか、わたくしはそれが心配です。

ラインハルト様。あなたは自分自身でさえ気付いていないでしょう。わたくしには分かるのです。あなたはこの惨劇を決して忘れることも許すこともできないでしょう。あなたはそういう方なのです。あなたの正義はそういう性質です。そういうお方ですから、わたくしはこの惨劇が起きてしまった事を心配しているのです。

あなたの正義はあなただけのものです。それは帝国の誰にも同盟の誰にも持ちえない。この銀河でただあなたのみが有する資質です。それは如何なる法よりも如何なる体制よりも尊ぶべきもの、そしてこの銀河を支配するに資するものでしょう。ゆえにそれはラインハルト様さえ飲み込んでゆきかねない。

もしわたくしがその重荷を肩代わりできたなら、どんなによい事でしょう。どうすればわたくしはその苦しみの一部を引き受けることができるでしょう。それが可能なら、そうすることでラインハルト様の苦しみが軽減するというのなら、それが良いことと思うのです。他の苦しみで、この苦しみを忘れることができると言うのなら。

そう、私は、あの死体の秘密を知っている。知っていて、それを誰にも告げず、それでも、敢えて、それを止めようと思っていないのです。これはひとつの賭けになるかも知れません。わたくしは危険を承知の上でそれでも赴こうとしています。あなたの苦しみの一部をこの身に引き受けるために。

2014年4月23日水曜日

江田憲司くん江

始めに申しあげておきますが、わたくしは「結いの党」などというどこの馬の骨かも知れぬ、烏合の衆など、全く眼中にないのであります。

恐らく彼らもこれまであった無策で無能で定年までの年金欲しさに議員になった烏合の衆であります。彼らが目指しているものは政治ではありません。彼らは守銭奴であります。自分を高く売り込みたい、議員辞職後にテレビのコメンテータの席が欲しい、そういう輩であります。

みなさま、私たち新垣結衣の党の面々を見てください。彼らは私たちと全く異なるものであります。彼らの主張をよく読んでください。それは、どこかで聞いた、どこかで見た、いつか通ってきた同じ道なのであります。

民主党の大敗は、おそらくこの国にとっての幸いであります。あの失敗があり、二度目の失敗があり、そしてやっと三度目の成功を手にすることができるのであります。

では民主党の失敗とは何か。彼らは二大政党という体制を目指したのであります。その指向や良し。Aがダメな時にBというバックアップを用意すると言うのは大変に合理的な主張であります。バックアップの重要性、二の矢三の矢の重要性は、先の福島第一原子力発電所の事故からもみなさまよく知っておられる話しでありましょう。

しかし彼らは失敗ました。なぜですか。それは違いを見せようとしたからであります。彼らは政策だの理念だの違いで戦おうとした。そして勝った。そしてそのままずっこけた。

この進みに進んだ国家において今さら争うべき違いなどないのであります。彼らは勘違いしているのであります。違いがあるから別れるべきだ。違うのであります。別離したから違ってくるのであります。話しは逆なのであります。

これは何も政策の話しでない。これは進化論が示す真実であります。別の種になったから違う場所に生息するのではないのであります。違う場所に生息するから別の種に変わったのであります。

では同じならひとつで十分であるか。それは違います。選択可能な二つが有る事は大変に重要な事であります。

そうであるべき最大の理由は、癒着の分断、利権の切断であります。全く同じ主張をするふたつの勢力がある。目指す所もほとんど同じだけれども、利権と癒着は異なるのであります。癒着が強くなってきたら、Aを停止しBを動かす。切り替える、それだけで馴れ合いをリセットできるのであります。これは汚れたTシャツを洗濯機に入れるのと同じであります。その後に着る服が違わなければならぬ謂れはない。

それが二大勢力の重要な点であります。この重要さはふたつあるという構造の畢竟でありまして、重要な事はこの構造を持たなければ生み出せられない効果という点にあります。これが関係者に対して有効に働くのです。相手をないがしろにしたり、情報を隠蔽したり、ごまかしを出来なくする仕組みなのあります。

今日のボスが明日には没落する、今日の乞食が明日のボスになるかも知れぬ。そうなれば乞食相手に露骨な嫌がらせは出来ないはずであります。誰がボスになるか分からなければ自らを島流しにするような振る舞いは慎むものであります。

違い、色の違い、理念、方針、そういうものは40年後にはっきりとすればよいのであります。気の長い話ですが、今の子供達が老人になっている頃にあれば十分であります。

これが政権交代、権力闘争というものでありましょう。

さて、われら新垣結衣の党であります。わが党は今後、発展的解消もありえます。踏み台になっても一向に構わないのであります。そりゃ新垣結衣に踏まれるならば、男子の本懐、これ以上の喜びはないのであります。

キカイダーの孤独、ハカイダーの哀しみ - 石ノ森章太郎

キカイダーの孤独、ハカイダーの哀しみ。これさえ描ければ作品は成立する。キカイダーが孤独なのは、ただ一人、人間の心を持たないから。ハカイダーが哀しいのは、ただ一人、人間の姿ではないから。この対比が本作品の面白さではないか。

だがキカイダーは難しい。アンドロイドにはリアリティがでない。どうテクノロジーのバランスを取っても、近未来に自律型のロボットが登場するとは思えない。更には心を持つ、持たないで悩む機械ならばその存在に説得力がなければ感情移入はできまい。

アンドロイドで有名な存在にはスタートレックのデータがある。だがあれは近未来ではない。心を持つロボットにはアトムがある。キカイダーはアトムが持っていた人間らしい心へのアンチテーゼとも言える。機械がそんなに簡単に心を持てるものだろうか、そしてもし機械が心を持てるのならば、良心のない人間の心を機械と置き換えてしまえないだろうか。

良心回路はキカイダーのテーマを内包するが、この回路の存在が物語からリアリティを失わせる。その存在が物語を破綻させそうである。今の時代ならばただ命令を聞く心を持たないロボットの方がドラマになる。ターミネーターのように。

心を持たないロボットがどうやって良心を持つのだろうか。自分の行為に疑問を持つのが良心なら、どうやってアンドロイドは自分自身を疑えるのだろうか。疑うにはふたつ以上の基準がいる。

人間にも生まれつき良心を持たない人がいるかも知れない。なんらかの脳の障害から良心がないように見える人が生まれても不思議はない。ヒトラーの蛮行は良心があったろうか。それともヒットラーにはヒットラーの良心があったのだろうか。

シンドラーや杉原千畝が取った行動こそ良心であろう。しかし戦後に彼らを貧困に追いやった人たちはどうであろうか。もちろん彼らにも良心はあった。ただ彼らに対しては発動しなかったようである。

キカイダーをやるなら良心という心の問題で立ち止まらなければならない。

だからキカイダーをやるなら、良心を持たない人間が登場しなければ意味がない。その人間と対比して、良心を回路として持つキカイダーと良心を捨ててしまったハカイダーが対比される。

そうするためには良心回路と呼ばれるものを法律や道徳がプログラミングされ、そこから答えを出す、という形に置き換えた方が話しは簡単になるかも知れない。そこでキカイダーは法に従って行動をする。しかし実際にはそれが人間の良心と間で齟齬が生まれる。キカイダーにはその違いが認識できない、という様な描き方をする

いずれにしろ、キカイダーでもハカイダーでもない。良心の在り方を象徴するふたりの存在が必要になるであろう。

例えば、国家や企業の力が巨大になり、富めるものと貧しいものとの格差が大きくなった近未来。その貧困の中にひとりの天使と呼ばれる良心を象徴する人間が居る。それと敵対する悪魔と呼ばれる良心を全く持っていない凶悪な犯罪者がいる。彼らはどうしてそういう人間に生まれたのか、それは謎のままである。生まれながらであるか、育った環境によるものか。

ここで天使と呼ばれる人間を守護するのがキカイダー、悪魔の手下として天使をつけ狙うのがハカイダーとなる。ハカイダーの頭部は赤い液体で満たされている方が今風かも知れない。その頭部が破壊され赤い液体が噴き出す場面、吹き出す血液を補う為に人間に襲い掛かり、捕えた人間の心臓にチューブを差し込み、血液を奪い取る場面、これが中盤のクライマックスである。

一方のキカイダーは機械である。人間との受け答えもプログラミングされたものである。そのキカイダーは、第一義として法令を順守するようにプログラミングされている。その次のプライオリティで天使の言葉を実行するようにプログラミングされている。そのために悲劇が起きてしまう。

それを受けて嘆き悲しむ天使、その言葉を聞いて、キカイダーに良心回路と呼ばれる新しい仕組みを組み込もうと発想するエンジニア。その新しい回路の仕組みとは?悩む、そうか、悩むアルゴリズムを組み込めばいいんだ。悩むためにはふたつのものがいる。ふたつの間で揺れ動き、その上で決断する、または決断をしない仕組みだ。

天使と悪魔はなぜ戦うのか、それぞれが勝利した時に人間の社会はどう変わってゆくのか、ふたりの戦いを通して未来の行方を描く。

2014年4月18日金曜日

政を為すに徳を以てすれば - 孔子

巻一爲政第二之一
子曰 (子曰く)
爲政以徳 (政を為すに徳を以てすれば)
譬如北辰居其所 (たとえば北辰の其の所に居て)
而衆星共之 (しかも衆星のこれにむかうが如し)

孔子の時代に現在のような宇宙観があった訳ではないだろうが、天体に何かしらの規則や法則がある事は知っていたであろう。故に天の法則が乱れる時(異変が起きれば)はその影響を人間も受けるであろうしそれが社会に影響を及ぼすと考えるのは妥当な推論であろう。今の天文学では天変地異は法則の乱れではなくガンマ線バーストや超新星爆発などの現象として起こる。

天空には、北辰、つまり北極星が天の中心にあり、その周りを星々が回っていると言う事は当時の人々も知っていたわけである。徳によって政が治まる、と考えた事よりも、徳によって政が治まるのにはそういう法則がある、と捉えた方に注視する。今なら経済学や社会科学の研究であろう。

徳、というものが数式に出来るかは知らないが、孔子の慧眼は、物理法則と同じように徳というものを捕えていた所であろう。

徳が法則であれば誰もが手にする事ができる。もし法則でないならば、何によって得られるかは誰にも分からない。人によってどうしても得られないと言うのなら、徳とはそういう性質のものであろうか。だから徳を北極星に例えたのではないか。徳が大切なのではない。政を為す上で法則がある。それが徳である。

法則に適うかどうかが重要である。故にその法則を見出す事が重要である。故に、自分が信じた法則が疑いようもなく正しいとしても、未来に渡ってもずうっと正しいと考えたであろうか。孔子がそう思っていたか否か。

孰れにしろ「北辰の其の所に居て」という言葉からは宇宙服を着て星の上に立つ孔子の姿が思い浮かぶ。彼の思想は今も残り、未来も残る。人類が宇宙を生活の場にしても、やはり宇宙服を着て、北辰(を巡る惑星の)の上に立つ孔子の姿が思い浮かばれるであろう。

2014年3月25日火曜日

HERO - たがみよしひさ

目の前にいる彼女を殺さなければ世界が破滅する。それが宇宙人から託された正義の代行なのか、それともリアリズムの幻想に捕らわれた精神の錯乱か。この漫画はその選択の物語である。

君は地球人か?
私はクラナスのファープ。宇宙パトロール隊員だ。

エレノアにミノオを護送中、その一体に逃げられてしまったのだ。そのミノオを追って私は地球にきた。

ミノオはこの近くに降りたはずだ。地球時間で10日程前になる。

ミノオは寄生体だ。他の生命に寄生して生きる。そしてミノオは寄生した生命の生殖で繁殖する。

ミノオに寄生された生命は約10日でミノオの意識に占領されるがしかしその生命は一年ほどで死に至る。

今のうちに、ミノオの個体数の少ないうちに奴等を根絶しなければ地球人は滅びるだろう。

ミノオを根絶させる方法は唯ひとつ、ミノオに寄生された生命を殺すコトだ。君にミノオに寄生された生命を見分ける方法を授ける。

君がミノオを倒すのだ。

私もできればそうしたい。だが私にはその時間がないのだ。私はもうすぐ死ぬ。私はこの星の大気では生きられないのだ。もうすぐ...

自分しか知らぬ、他の誰も知らぬ証明も不可能なものが理由になるのか。それは妄想かも知れぬ。客観的に見れば妄想に違いない。もしそれが妄想ならばただの犯罪だ。だが、もしそれが妄想でなかったなら?

もしかしたら、ぼくは異常なのかも知れない

けれど、もしもそうではなかったら
人類はいま、滅亡の淵にいる

そのような決断を自分ひとりで決めなければならない。主人公は孤独だ。ことの顛末を調べた刑事たちは恋愛の嫉妬からくる怨恨による犯罪と結論づけるだろう。だれがこんな話を信じるだろうか。

人は他人と共有せずに客観を得ることなどできない。私しか知らない根拠では誰もが不可解と言うだろう。

それでも決断は人の数だけある。この物語もそのひとつだ。

決断の結果は受け入れるしかない。もしその決断が単なる精神錯乱だとしても、それで決まりならば安心できる。人は結果を待っているときが不安なのだ。脳があらゆることを想定しようとするから。

ミノオもファープもいないのよ。それはあなたの虚構なの。

誰もその決断を引き受けることなど出来ない。ただひとりに託されたのだから。

そしてそうしなかった時の結果など誰にもわかりはしない。証明できないから。だから引き受けるしかない。

全人類の未来をひとりの若者が背負う。どちらに転んでも彼には未来がない。何も起きないならば彼はただの犯罪者か人類の救世主のどちらかだ。何も起きなければ世間では日常の中で突発した異常な犯罪者に過ぎない。彼がその答えを知ることはない。どちらを選ぶ?

そうかも知れない。

人生は幾つもの結果の積み重ねだ。試験に合格したり落ちたり、誰かと出会ったり別れたり。そういうものが人生を彩る。しかし断じて結果の集合が人生ではない。人は結果を得るために生まれたのではないし、生きているのでもないし、死ぬのでもない。

決断が人生なら、決断しないのも人生である。何気なく通り過ぎた事も人生だ。いつも気にもしないその道をもし曲がっていたら、もしかしたらもうこの世にはいないかも知れない。

ミノオはいなかった。ファープだっていなかった。

決断しようが決断すまいが立ち止まろうが通り過ぎようが人生は流れてゆく。決断したら結果が欲しいだろう。だが決断しなくても結果は刻々と人に降り注いでいる。

ではなぜ決断には結果が欲しいのだろうか。不安や焦燥の中で自分の決断に答えを求めるのか。それは立ち止まっているからだろう。答えが訪れるのではない。答えをつまかえなければそこから動けないのだ。どんな答えでも間違えていようとも答えが要る。

何故か。結果を知らなければ人は決断を忘却できないから。

おれは明子が憎かった。明子を抱いた加藤が悪かった。カッコが良くてスマートでもてる伊吹が憎かった。

けれどもしもそうではなかったら

2014年3月15日土曜日

政府事故調 - 東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 最終報告

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会
中間報告 / 最終報告

技術者の視点から、なんとも残念だ。政府事故調の中間報告にあった基本方針は削られた。それは残念と思う。この報告書が示したものは、この国にある科学とか論理性の欠落だ。

事件の責任者を糾弾するのが目的ではない。もう一度同じことが起きた時に、次はもっと上手く動けるかを検証するのが目的ではなかったか。

責任者を追求しても仕方がない。何がどうなったのか、その過程でどう判断されたのか。間違った判断や行動が問題ではない。その判断の根拠を詳らかにする事が重要である。同じ根拠なら次も同じ判断を下す可能性が高い。そこで違う振る舞いが出来るようにするにはどうすればよいか。

技術者たるもの、時系列に並べ、ひとつひとつを検証するしかないのである。それ以外のどのような方法もない。棋士が棋譜を一手ゝ前に戻すように事象を前に戻して行く。

技術者ならば、技術的な対策しか見つけられない。人間の判断ミスが致命的であるなら、そうなってしまうシステム設計に問題がある。果たして、技術者から見てどうしようもない状況だったのか、それともまだ何か手があったのか。もちろん現場の人たちは懸命に打てる手を探し打ち出したのである。

リベンジするなら次はもっとましにしたい。それが大切だと思うのである。それは人の気持ちや心構えではない。それは工学による技術的な指摘でなければ意味がない。これだけ古い機械ならば、答えは単純である。最新式ならば同様の状況でどうなっていたか。それを検証するために何が起きたかをまず列挙しなければならない。

事故とは状況の変化に過ぎない。
  • 事故は被害を生じる
  • 被害とは物理的現象である

そこから事故を分類する。
  • 人間では回避不能な物理的破壊を起因とする
  • 人間から対策でき回避可能と思われるもの

堤防は被害を回避するための対策である。そこで堤防の高さや強度が足りないのは、回避可能と思われる。だがそれは無限の予算が有ると仮定すればの話しだ。現実的に高さが足りなかった事をどう考えるのか。そして堤防を超えられた時に、二の矢、三の矢が準備されていたこと、それが有効に動いたかをどう考えるかである。

対策にはふたつある。
  • 事故の起きる前に打てた対策は何か。
  • 事故の収束中に打てた対策は何か。

誰も前もって有効な指摘はなかったし、指摘したが無視された勢力も起きた時への準備も研究も皆無なのである。誰もがするかしないかのふたつしか考えていなかった。

問題を認識しながら対策がなおざり、お座なりになる事は十分に考えられた。結局は限られた予算に問題がある。無尽蔵の予算なら対策も出来たろう。だが現実は予算は限られており事故には間に合わなかった。自然に対して反論するなら地震が起きるのが早すぎたのである。

さて、我々はどうすればもう少し良い対策が打てただろうか。それを妨げた人間を見つけだし戦犯とすべきだろうか。見せしめか。結局は、変わらない。記憶が薄れ世代が変われば同じ事が発生するに違いない。故に終わる事のない改善の連続だろう。それが停止してしまう方がおかしいのである。
  • どうすれば発見できたか。
  • どうすれば対策できたか。

我々はこれだけの巨大な津波でなければ十分に対策してきたのである。数百年前なら何千人も死ぬような津波にも粛々と対抗し有効に対策してきたのである。だから突破された時に被害が甚大化するのは当然であろう。
  • 今後の装置はどうすべきか
  • 今後の装備はどうすべきか
  • 今後の運用はどうすべきか

委員長所感に書かれているものはエンジニアの根底であろう。恐らくエンジニア魂を伝えたいのであろう。この事故は我々エンジニアの敗北なのである。それは前の大戦と同様に。我々は二度も繰り返してしまったのだ。
  1. あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる。
  2. 見たくないものは見えない。見たいものが見える。
  3. 可能な限りの想定と十分な準備をする。
  4. 形を作っただけでは機能しない。仕組みは作れるが、目的は共有されない。
  5. 全ては変わるのであり、変化に柔軟に対応する。
  6. 危険の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る。
  7. 自分の目で見て自分の頭で考え、判断・行動することが重要であることを認識し、そのような能力を涵養することが重要である。

問題は限られた予算の中で取られた行動は、最大の効率と効果の交点である。問題の検証とは、自分が同じ立場ならまさにそう行動したであろう、その理解を得るまで追求する事である。

原子力発電分野では“ありそうにないことも起こり得る(improbable est possible)、と考えなければならない”と指摘された。どのようなことについて考えるべきかを考える上で最も重要なことは、経験と論理で考えることである。国内外で過去に起こった事柄や経験に学ぶことと、あらゆる要素を考えて論理的にあり得ることを見付けることである。発生確率が低いということは発生しないということではない。発生確率の低いものや知見として確立していないものは考えなくてもよい、対応しなくてもよいと考えることは誤りである。
さらに、「あり得ないと思う」という認識にすら至らない現象もあり得る、言い換えれば「思い付きもしない現象も起こり得る」ことも併せて認識しておく必要があろう。

「あり得ない」と叫ばないような技術者など信頼に値しない。しかし、有り得ないという理由から起きないと判断する技術者も信頼に値しない。全ての技術者の仕事は「あり得ない」と叫んだ所から始まる。

「あり得ない」と叫ぶには根拠が居る。根拠があるから「あり得ない」と叫ぶ事ができる。技術者はこの根拠を頼りに問題と取り組む。根拠があって初めて間違いに気付ける。

「ありそうにない」ことは「ある」。「ほとんどない」ことは「ある」。「あり得ないと思う」は「ある」。「起きえない」ことは「ある」。数学的に「ない」を正しく証明しない限り「ない」とは言えない。

我々のやる事には必ず失敗がある。絶対に誤動作しないシステムなど存在しない。だから技術者はその確率を 0 に近づける事しかできない。だから事故の可能性は常に「ある」。有り得ない事が起きる事を防ぐ手立てはない。

原子力は津波が来た時点で敗北は確定していた。そこからはどれだけまともに負けられるかの勝負であった。ならば勝負は地震が起きる前に決まっていた。あの規模の地震が起きればそうなるしかなかった。孫子のいう、戦う前に勝つ状態になっていなかった。

にも係らず、懸命に努力した人々が押さえ込んだ。もう一度おなじ事が起きたなら、今と同様であるか、もっと良く対策できたか、それとも悪くなるか。この経験は必ず次に生きる。そう感じる人々が今も動いていると信じる。

これらの報告書を読みながら、僕には今川義元の桶狭間の戦いを検証しても同じような報告書が出来るのではないかと言う感想がしつこく湧き上がった。結果が出た以上、何んとでも言える。答えを知っているものは常に傲慢である。過去を上手に検証するとは如何に難しいか。

この事故調査はファインマンのチャレンジャー号(ファインマン氏、ワシントンに行く)よりも遥かに難しいものであったに違いない。なのに政府、国会、民間ともこの論文ほどの面白さがない事を残念に思う。技術者を育てる良書が生まれなかった事を残念に思う。

この事故は我々の何も変えない程に小さいものだったのだろうか、大海の荒れ狂った波が引いてしまえばいつもの小さな波に戻るように、この事故も忘れられて平穏を取り戻してゆくのだろうか。それとも、我々はこの傷口からまだ目を背けているだけなのだろうか。

だが確実にこの事故を境にして新しい技術が生まれている。新しい取り組みを始めた人がいる。私たちは確かに、今もこの事故を受け止め続けているのである。

2014年3月8日土曜日

鬼の生物学的考察

1. 要約

鬼は昔から記録されているが未だ発見されていない種である。過去の記録から鬼についてどのような生物であるかを考察する。

2. 序論

鬼は古い戯画、物語にのみ登場する。そのため架空の生物と信じられている。しかしその形態から鬼はヒト亜科である可能性が極めて高い。

もし架空ではなく実在する生物だとすれば人類学に対する貢献は大きいのである。ここでは伝承を理由にその実在を否定するのではなく、伝承であるからこそ鬼の実在は肯定できる立場に立つ。

これから実在したであろう鬼を過去の記録から考察する。この考察には誤りが含まれている可能性がある事は予め断っておく。

3. 本論

3.1 特徴

鬼の伝承から得られる特徴は以下の通りである。
  • 体格 - コーカソイド系(モンゴロイドより大きい)
  • 顔 - コーカソイド系または縄文系(太い眉、大きな鼻、体毛が濃い)
  • 肌色 - 赤、青。(モンゴロイドが初めてコーカソイドを見た時の感覚と一致)
  • 頭部 - 1~数本の角がある
  • 口腔 - 犬歯は人より大きい
  • 体格 - 雄が雌より大きい
  • 性格 - 雄は凶暴、雌は濃艶(ただし1人のヒトによって鬼の集落全体が敗北した事例がある)
  • 道具 - 鉄製の棍棒
  • 食性 - 酒を好む
  • 言語 - 人と会話が出来る
  • 服飾 - 皮製の衣服、雄は下腹部、雌は乳房と下腹部のみを隠す
  • 住居 - 洞穴
  • 集団 - 群れを形成する
※天狗も肌色が赤いので有名であり、天狗=コーカソイド説は多々ある。


3.1.1 住居

鬼の多くは離れ小島や山奥に住んでおり、洞窟で暮らしていた。鬼は家族よりも大きな集落を形成していた。鬼退治の伝承を詳細に研究すれば群れにはリーダーが存在している事が示される。集団のリーダーは体が大きい個体が選ばれるようである。


3.1.2 衣服

鬼の服飾は動物の皮をなめし切断したものをまとっている。雌では衣服で乳房を隠している事が特徴的である。その代表的なものはラムであるが、一般的に近代以前に乳房だけを隠す風習は珍しい。

いずれにしろ鬼が裁縫や織機を行っていた可能性は低い。これらの技術を持たなかったのか、植物性の衣服を着る事を嫌っていたのかは不明である。

また体毛が濃いのを動物の皮をまとっていると当時の人が考えた可能性もある。しかしそれでは彼らは裸で暮らしていた事になる。それならばそれが伝承に残っているはずである。


3.1.3 道具

鬼は鉄棒を持っている。しかし家屋を建築する技術がなく、機織りもしないなど高い技術を持っていたとは考えにくい。よって鬼が製鉄技術を持っていたとは考えにくい。またヒトからそれを学んだ形跡もない。もし製鉄技術があれば、棍棒以外の武器や針や鍋などの生活道具があるべきである。しかしそれらの記録がない。

これらの事から鬼は鉄棒をどこから入手したかという疑問が生まれる。


3.1.4 交易

よって鬼が持っている鉄棒は鬼が製造したと考えるより、ヒトとの交易で入手したと考える方が妥当である。鬼はヒトとの間で交易を行っていたのだ。これにより鬼の酒好きについても、鬼が醸造技術を持っておらずとも、人から酒を入手して飲んでいたと考えられるのである。鬼殺しという酒が存在する事も、かつてヒトが鬼に納入していた可能性を示唆している。

しかし鬼が貨幣を使っていた証拠はない。何によって交易が可能になったのだろうか。伝承によれば鬼はサンゴや金銀を収集する。その為にヒトからの略奪も経験した話しが残っている。これらの事実からサンゴや金銀によって物々交換を行った可能性がある。


3.1.5 種の推察

絵物語によれば鬼の雌は雄よりも体格が小さい。これは哺乳類一般にみられる特徴である。

上に示した特徴から鬼はコーカソイド系(白人)に非常に近い。日本においてはキリストの墓があるの伝承もあり、太古からコーカソイドが移住した可能性はある。その一部として鬼も日本に来た可能性がある。ネアンデルターレンシスの最期の末裔の可能性もある。

鬼はアジアに定住したコーカソイド系の種であった可能性がある。しかし角があるのでコーカソイドと同じ種ではない。

鬼が日本に移住したと仮定するが、コーカソイドとモンゴロイドが何時までも棲み分けをした可能性は小さい。どこかで混血しどちらかの種がもう片方に飲み込まれるはずである。その場合、角が劣性遺伝であれば、鬼と人とのハーフでは角が生えない。

鬼の伝承がある地域(滋賀)や、鬼を起源とする風習がある地域(秋田)は美人が多い。少なくとも色白の美人が多いとされる。これはその地域での鬼との混血が原因である可能性も捨てきれない。

もし混血することなく鬼が絶滅したのでれば、鬼はヒトと棲み分けていたと考えられる。その時にヒトから襲撃されたり食べ物が取れない年に淘汰され絶滅したのかも知れない。


3.1.6 闘争能力

サンゴや金銀をヒトに略奪される場合、一応の抵抗は試みるものの、敗北が濃厚になれば素直に財宝を明け渡している事から、これらの物品が宗教的象徴や儀式に使われていたものとは考えられない。そういう場合は、絶滅してでも抵抗を続けるものである。

鬼とヒトがいくさをした記録もない。多くても3人程度のヒトに成敗される話ばかりが残っている。伝承の中には一人のヒトとペットによってひとつの集落が敗北している。これ程に弱い存在であればヒトからの襲撃に耐えられたとは考えられない。つまり鬼が金銀財宝を豊富に持っていたという話は疑わしい。

逆に鬼がヒトの集落を襲ったりヒトを食した話しも多数あるが、彼らの住居は人里から離れた小島や山奥であり、ヒトを避けていた。またヒトとも交易しておりヒトを襲撃する理由がない。また戦闘能力の低さから襲撃しても返り討ちの可能性の方が高い。これらの伝承はヒトの盗賊や倭寇が鬼と称して略奪をしたものであろう。


3.1.7 越冬の謎

人類はアフリカで登場した。よって自然状態でアフリカでは生きる事ができる。しかし世界中に広がる過程で自然状態のままでは無理である。なぜなら冬が越せないから。よってヒトが広く世界に分布できたのは、簡単に言えば冬を乗り切れたからである。つまり衣服の発明と住居の獲得である。火の発見、加工技術の向上、知識の伝承によりヒトは厳しい冬を乗り切ってきた。越冬が可能であれば、その地域に定住できるのである。

さて多くの鬼の描写は彼らを南国で居住している存在として描き、そこに描かれたものを信じるならば、鬼の生活環境では日本の厳しい冬を越すことはできない。

ここに最大の謎がある。

つまり「鬼はどのように越冬したのか」である。


3.2 類似する動物からの推察

角を持つ主な動物。
  • 牛 - 草食
  • ヤギ - 草食
  • 羊 - 草食
  • トリケラトプス - 草食
  • カブトムシ - 樹木の樹液
  • ユニコーン - 草食
  • パン - 酒
※鬼と類似した生物に主にヨーロッパに生息していたパンがいる。しかし鬼とパンの角は、牛と羊の違いがあるため、別々に発生した収斂進化の一例と思われる。

角を持つ多くの動物が草食性である事は注目に値する。これには進化論の性選択が影響していると思われる。

性選択とはどのような個体が好まれるかによってその種の進化の方向が決まる事である。肉食動物の場合であれば、捕食に有利な個体が好まれる。そして捕食に有利であるとは、なわばりをもつ能力とほぼ一致する。若く、体格の良い、健康な個体がなわばりを確保し異性にアピールする。

肉食動物で角を持つ動物はいない。これは肉食動物では角が性選択においてなんら役に立たない事を意味している。捕食者にとって角は俊敏な動きを妨げるだけの邪魔ものであり、生きていく上でなんら役に立たない。

一方で、草食動物では、餌は草であるから食うのに困る事がない。そのため草食動物では異性へアピールするのになわばりなど食性で有利なものは使えない。食性以外の何かで個体の強さを訴える必要がある。そのひとつが角であろう。

牙を持つ主な動物
  • トラ - 肉食
  • いのしし - 草食
  • 龍 - 魚食

牙の有無では食性は決定できない。一般的にその動物の歯の全体を検証しなければ食性は分からないものである。


4. 鬼の実像

これまでの考察から鬼の実像を記す。
  • 外見 - コーカソイド系亜種
  • 文化 - 加工品を作り出す能力が低い
  • 戦闘 - 暴力行為に弱い
  • 交易 - ヒトとの間に交易があった
  • 財宝 - 持っていなかった

これらの事実から次のふたつの謎が明瞭である。
  1. どうやって越冬したのか
  2. 交易で交換したものは何か

これについて本論文では以下のように結論する。


4.1 越冬について

角をもつ動物の特徴から鬼はヒト亜種としては極めて珍しい食性を持っていると思われる。つまり、
  • 鬼は草食である

鬼の牙は肉食動物の牙ではなく、イノシシなどと同じく木の皮を剥いだり、土を掘るのに使われたのではないか。また鬼の越冬については草食性で角をもつ動物で越冬するニホンカモシカの生態が参考になる。

伝承にあるような服装では越冬など無理である。もしかしたら冬用の衣服を持っていたのかも知れないし冬用に体毛が濃くなったののかも知れない。しかしそれでは記録が残っていない理由が説明できない。

  • 鬼は冬眠をする

こう考えれば、鬼の服装が夏のみが意識されている事も明らかであり、冬の鬼に伝承がない理由も明らかとなる。鬼が冬眠する習性を持っていると仮定する事で、様々な謎が説明可能になる。鬼とヒトの交易も春から秋までの間だけ行われた事になる。


4.2 交易で交換していたもの

では物々交換で鬼が払ったものは何であろうか。伝承では鬼の雌はヒトの雌よりも美しく描かれている。また、般若の面が鬼をモデルにしている事から、鬼の雌は非常に強い情念を持っていた事が伺われる。また鬼の逞しさもまた象徴的である。

鬼の雌をヒトに抱かせる事で交易を実現していたのである。もちろん鬼の雄とヒトの雌の関係も否定できない。略奪することもなく、また交易を実現するほとまでにそれは魅力的であり、また理性を保たせるほどに多くの人が大切にしたと思える。

鬼は歓楽街を形成してヒトと交易していたのである。そこにはヒトからの嫉妬などもあったであろう。そしてそのような情念が今のヒトの世界に残っている。そして次第にヒトとの混血が深くなり、歴史の中に消えて行ったのであろう。

ならばヒトが鬼が島で略奪した逸話にも別の解釈が必要になる。彼らが鬼から略奪したものは、サンゴや金銀財宝ではないのではないか。サンゴ、金、銀、財宝という名前の鬼の雌ではなかったのか。4人の雌を略奪した事と、ヒト側が4人(伝承では1人と3匹)である事は偶然の一致であろうか。


5. 結論

歴史上に登場する魅惑的な女性が鬼に例えられるのは偶然ではあるまい。日本人は自分の配偶者を鬼呼ばわりするのも偶然ではあるまい。ここには古くから鬼と交わってきたヒトの歴史が隠れているのである。

鬼の頭部を持つ類人猿の化石は見つかっていない。これはごく最近にホモサピエンスと分化した種、または亜種だからであろう。また目撃例や歴史上の文献が少ない事から、ごく少数が発生し速やかに遺伝的にヒトと統合された種であると考えられる。

彼らが極めて希少であったこと、また性の魅力によりあっという間にヒトと交雑してしまったために彼らの化石証拠などが見つからないのであろう。

我々日本人の女性の美しさ、気高さ、そして情念の深さはおそらく鬼との交配によって得られたものである。

日本人は人種の雑種である。日本は世界中のあらゆる人種が流れ着いた最果ての島である。

本論文では更に加えて日本人は鬼との雑種でもあるという事実を提唱するものである。今更新しい混血種がひとつ加わった所で何も問題はあるまい。

雑種の坩堝ではそれぞれの個体毎に影響の強い血は異なる。そこには幾つもの系統が混在しており、個体毎にどの影響が大きいかは異なる。だから日本人には典型的な美人がない。幾つもの系統があるから、どの系統が一番美しいとは結論できない。それぞれの系統ごとに美人がいるのである。

鬼の化石は見つかっていない。しかし多くの伝承から瀬戸内のどこかの鬼の墓がある可能性が高い。

鬼はヒトに近い類人猿として誕生しネアンデルターレンシスやフローレシエンシスよりもヒトの近くにいた。彼らの絶滅を研究することは、我々ホモサピエンスがより長く生存するためにも必要である。

今後の発掘が期待される。


6. 最期に

鬼の物語は、平安末期の今昔物語集には既に登場する。我々が幼年期に最初に鬼に触れるのは、なまはげや桃太郎である。近年は鬼を扱った物語が多く創作されている。永井豪の手天童子、鬼 ―2889年の反乱―、高橋留美子のうる星やつら、江口夏実の鬼灯の冷徹などがあげられる。鬼はヒトの鏡でもある。人間社会を比喩し対比するには絶好の題材である。長くヒトが記録し、これからも考察を続けていく鬼という存在を忘れてはならない。鬼に感謝しよう。


7. 参考文献

手天童子 - 永井 豪
フィンチの嘴―ガラパゴスで起きている種の変貌 - Jonathan Weiner
泣いた赤鬼