記者会見のオープン化は政治家を判断する明確な物差しになりうる。海千山千の政治家達を、この基準で区別する事が可能である。そう主張する。
記者クラブという魑魅魍魎の既得権益に挑む著者の姿が面白い。記者クラブが牛耳る記者会見をオープン化しようとする流れは民主党の政権交代がひとつのピークとなった。フリーのジャーナリスト達は、明日にでもフルオープンが実現すると誰もが期待した。だが、実際は、大臣の号令でどうこう出来るものではなかった。
記者クラブは根深いのである。既得権益は強力なのである。これが日本的組織の強靭さでもある。この強靭さで世界とも戦ったし、戦後の経済も立て直した。同時にその強さに虐げられてきた人もいる。
記者会見のオープン化を目指す政治家が全て正しいわけではない。当たり前だ。誰だって間違える。考えだって同じではない。
だから。間違いもする人間だから、オープン化する政治家は信用できる。自らオープン化する場所を提供する人とは対話が出来るから。記者クラブを温存しようとする勢力は、大臣であったり、官僚であったり、マスコミであったり正体は見えない。著者が幾ら声をあげようが、その姿は見えない。その正体が誰であるのか、名前や顔があるのか。恐らく筆者でさえ最後まで誰が敵であるか分からずじまいなのである。誰かひとりが犯人であるならどれほど簡単か。
これは大河である。誰かひとりを面と向かって罵倒さえすればそれで状況が変わるような話ではない。だから、筆者の手になるこの本は面白い。記者会見のオープン化が実現したとき、著者がジャーナリストとして生き残れるのか。それは分からない。オープン化したら消え去ってゆく人かも知れない。
そんな状況の中だからこそ、著者の活動に価値がある。彼は決して自分の利益のために戦っているわけではない。リングの上に上がらせてくれ、負けてもいいから、と主張している人だ。
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