空海というのは誰でも知っている。だから最澄を読んでみないか。
空海はまず名前がかっこいい。いまや仏教は葬式で何かを語る職業となったが、昔はそんなものではなかった。座禅を組んでいたら手足が腐ってもげ落ちた、そんな達磨まで居るのだ。
貴族の出家とか、仏像への祈願くらいなら、今の僕たちにだって想像できる。問題を起こした政治家は入院し、退官した官僚は人類愛に目覚める。
だが、人生をかけて希求する、海で溺れても構わない、それでも海を渡りたい。仏が守ってくれるはずだ、そんな能天気な信仰で超えられるような艱難辛苦ではない。どうも人間というものは、犬死をまったく躊躇しなくなってからが本物のようだ。
現代では空海の思想など失われている。既に生きる事の意味を問う事は哲学や倫理の仕事でさえない。いわんや宗教おや。加えて最澄である。名前がカッコ悪い。地味だ。最も澄んでいる、意味は悪くないが、どうも弱そう。そんなイメージ。
空海に弟子入りしたとか、密教を教わろうとしたら断られたとか、もう才能からして負けていた人である。名前にカリスマ性がない、何も良い所がない、興味が持てぬとしてもむべなるかな。まるで映画のモーツァルトとサリエリだ。
だいいち二人とも仏教の輸入業者であって、翻訳家である。中国の思想をどこまで先鋭化して導入したかは知らないが、名前と比べると、その思想はもう知られていない。密教など呪文や風水で竜神を操る術だと思われている。我々は科学と工学の世界に生きるものである。今さら呪文などお呼びでないのである。式神なんかじゃ公開鍵式暗号さえ破れるかっての。
我々は陰陽も密教の違いも知らぬ時代に生きている。かつての仏教徒が何に悩み、何を求め、どういう地平線を目指したかも知らない時代に生きている。
そういう現代から空海や最澄とどういう向き合うべきか。彼らの権力闘争を、ただ仏を手段としたマインカンプと解釈すべきか。それともそれ以外の何かがあったとすべきか。
平安初期において仏教は既に官僚登用の道であり、現世を謳歌をする手段であった。その仏教の中に何かを見つけようとしたふたりが、そこに何を見いだしたのか、それは同じものであったのか、まったく違う地平線だったのか。知識か実践か、理解か行動か、この国では二つの拮抗する対立軸があるとき、それは両方とも真実として残った。彼らの対立軸がなんであれ、どちらもがこの国の一時代を支えた思想であったことは間違いない。
だとすれば、ふたりの思想はもう気づくことも出来ないくらいに、僕たちの血肉となっている、そう考えるのが自然だ。そうでなければ合点がいかぬ。
そういう諸々の疑問を踏まえながら、最澄をイメージできるのがこの漫画だ。
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