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2014年6月7日土曜日

妻から渡された感動の絵手紙 / Welcome Home Darling

Welcome Home Darling - Imgur
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漫画である。この優れた漫画を見て鉄拳のパラパラ漫画を思い出した。そこにあるのは素朴さだけではない。

日本の漫画は手塚治虫から始まった。もちろんこれは正確でも正しくもない。しかし系統で考えるなら宮崎駿も大友克洋も手塚治虫の系統にいる。では手塚治虫は漫画の系統樹のどこにいるかと問えばディズニーの亜種であろう。

手塚治虫の功績は作品のみならず系統樹の爆発的な発展にあるだろう。彼から始まった多様性を否定するものなどいまい。例え否定してみても既に起きてしまった事だ。

手塚の系統でない日本の漫画家はそう多くはないと思われる。田川水泡、横山隆一、長谷川町子らであろうか、しかし、これさえはっきりしない。お互いに影響を受け合っただろうから。明らかに手塚治虫という系統樹はあるのだが、その独自性を明瞭に定義するのは難しい。いわんや、海外の漫画との違いにおいてをや。

シーンという音さえ鳴らせてみせる漫画の技法は、絵だけではなく、ストーリーや思想、世界、生命、感情、などを表現するに足る媒体である。今や漫画は子供が読むものではない。自分の中にある何かを表現するに足る手段のひとつである。

この漫画に手塚治虫にはない何かがある。彼にはなかった何か新しいものがあるように見える。手塚治虫が表現しなかった何かがある。そしてこれを今風であると感じる。丸と棒だけで表現された表情に古さはない。それはインターネットにあるからだろうか。

このシンプルと比べれば日本の漫画は丸く立体である。それは過剰とさえ思われる。削ぎ落すだけ削ぎ落した後に残ったものは美しい、そういう美しさを我々は知っている。それがここにはある。

この漫画は左から右に流れる。この竜線(視野の導線)の違いは大きいかも知れない。日本語の文章も今では左から右に流れる。"ルメラヤキクルミ"と書かれている事に違和感を感じる。これは横書きと縦書きの違いだろう。日本の漫画は縦書き、英語の漫画は横書きである。日本の漫画も横書きで台詞を書けば左から右の竜線に変わるはずである。

日本の漫画は表情が多彩である。漫画の記号が絵の描写に置き換わっている。絵画の魅力をコマの中に取り込む。ヘタウマと呼ばれる人たちも記号があるから伝わるし伝わる事を見越しているから絵の下手さが成立する。故に絵の下手さは額面通りに受け取るべきではない。コマは絵の表現と記号的読み取りによって成立する。絵は次々と新しい手法が取り込まれてきたが、さて記号的な面で何か新しいものが生まれたかは疑わしい。

書き込まれた魅力のある絵を唯の〇×に置き換え(ネーム)ても漫画は成立する。何故なら記号は残っているからである。一方でこの絵でなければならぬという漫画もある。例えばスヌーピー (Charles Monroe Schulz) はあの絵が語りかけてくるものが大き過ぎて他の絵には置き換え不能に思える。

漫画の魅力は絵だけではない。しかし絵がなければ漫画ではない。しかしコマがなくても漫画ではない。コマとは時間の流れであって、そういう点では漫画はプログラミング的だ。両者には今の場所を示すものがある。コンピュータのプログラムカウンタと同じものが漫画にもある。漫画は読み手にここまで進んだ事を示すためにコマがある。それを示すものをコマと呼ぶ。読み手はコマを読み取っては話を理解し次のコマに進む、その働きはコンピュータがプログラミングを実行するのに似る。

この漫画で金がとれるかどうかは関係ない。自分の心情を表現する手段に漫画が選ばれた。それはよみ人しらずの歌のようだ。手塚治虫は空襲の下でも漫画を描く事を止めなかった。それに歌でも詩でもなく映像でも写真でもなく漫画を選んだ。

漫画からいつかは職業漫画家は消えてしまうかも知れない。短歌や俳句がそうであるように。短歌や俳句は誰もが読むが、この時代に職業歌人が居ることを誰が知っているだろう。

この漫画には何かがある。それはかなり大切なものだ。この記号で十分である。コマがあり、記号があり、言葉を添えれば、感情を伝える事が出来る。そして日常のリアリティな感情を伝えるこの漫画で十分である。それが成立すればこの絵に魅力が溢れてくる。

手塚治虫に感動したのは漫画による思想の表現であった。漫画は日常の喜びを伝えるだけではない、子供を喜ばせるものでもない、漫画の可能性は深淵なテーマを語る事さえ可能なのだと。それをやってみせた。

漫画は日記にもなれば小説にもなる、思想を語る事もできる。そして同じ事を語るにしても、言葉で語るでもなく、文字で書くのでなく、歌うのでもなく、動画や写真でもなく、漫画という独自の表現形式がある。人が触れれば全てが表現形式になりうる。そのひとつに漫画がある。

これだけ絵が上手い人がいる。魅力的な漫画がある。しかし恐らくこの漫画では商業誌に乗らないだろう。と言う事は僕たちは今も見逃している数多くの漫画がある。商業誌に載る職業漫画家ばかりが優れた漫画家ではない。それはこの世界の漫画の一部に過ぎない。それをインターネットが発掘した。これは驚くべき事と思われる。そこに何かがある。世界は変わりつつある。