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2021年10月30日土曜日

2021/10/27 電気使用禁止処分特別抗告棄却

刑事裁判を考える:高野隆@ブログ:「裁判所の電気」使用禁止処分(4):特別抗告棄却決定

事の起こり。
刑事裁判を考える:高野隆@ブログ:「裁判所の電気」使用禁止処分


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裁判官景山太郎が裁判所内での弁護士の電気の使用を禁止した。この電気の使用とはパソコンの電源であって、当然ながら電源なしではパソコンはそのうち使えなくなる。電気が発明された1900年初頭ならこの禁止も分からないではない。しかし今は2021年である。

その電気代を払うのは裁判所でありその予算からである。それを部外者に使用させる訳にはいかないという主張は、もちろん、裁判所の運営に関する指摘である。

国家は裁判においては公平な裁判となるよう必要な措置をしなければならない。それなくして司法の独立は維持できない。もし国家がそれを疎かにする事で公平な裁判が望めないなら、それは司法の危機である。その現状に裁判官が屈服する姿は見たくない。

少しでも裁判所のコンセントを解放すれば、見境なく全員が電気を使用するようになるだろう。なかには必要もないのに私用の携帯の充電まで行う人間が出現する。よって、裁判官、弁護士、検察の如何なるものも裁判所のコンセントから私用の機器の充電は許すべきではない、それが適切な予算の使用である。この主張は決して間違ってはいない。少なくともひとつの大切な視点である。この主張をするのがもちろん行政の人間ならば。

裁判官の判決は全てを自らの良心に依る。それが憲法が求めるものである。よって自ら行政の犬に成り下がる裁判官がいたとしてもそれが彼/彼女の良心ならばそれを咎める事は出来ない。クーデター政府でさえその妥当性を認める裁判官を必要とするのと全く同じ原理である。

令和3年(し)第885号

本件抗告の趣意は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法例違反、事実誤認の主張であって、刑訴法433号の抗告理由に当たらない。
よって同法434条、426条1項により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

令和3年10月27日

裁判長裁判官:岡村和美、裁判官:菅野博之、三浦守、草野耕一

電気使用禁止処分特別抗告棄却決定20211027

この定型文が意味するものは、上告は405条に該当しないである。憲法違反、憲法解釈の差異、過去判例との差異のいずれとも該当しないという判決である。

刑事訴訟法

第405条(上告のできる判決、上告申立理由)
高等裁判所がした第一審又は第二審の判決に対しては、左の事由があることを理由として上告の申立をすることができる。
憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。
最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
最高裁判所の判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと。


第433条(特別抗告)
この法律により不服を申し立てることができない決定又は命令に対しては、第405条に規定する事由があることを理由とする場合に限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。
前項の抗告の提起期間は、5日とする。

第434条(抗告に関する規定の準用)
第423条、第424条及び第426条の規定は、この法律に特別の定のある場合を除いては、前条第1項の抗告についてこれを準用する。

第426条(抗告に対する決定)
抗告の手続がその規定に違反したとき、又は抗告が理由のないときは、決定で抗告を棄却しなければならない。
抗告が理由のあるときは、決定で原決定を取り消し、必要がある場合には、更に裁判をしなければならない。



例えば、裁判官が脅迫されている場合、検察官、弁護士が十分な意見を述べられない場合、提示された証拠が無視される場合、それは明らかに司法の信用性を失墜させる。それを無視する事は司法の崩壊と等しく、相手がどのような武装勢力、革命軍、内乱であってもこの原理は揺るがない。

すると、パソコンの使用を著しく制限する事は、司法の存続にとってどれくらいの問題であるかと言う話になる。必要なら予備のバッテリーを幾つでも持ち込めば良い。それは誰もが経験する日常茶飯事である。大事な会議や発表会がある時は、機能性パンツを履いて挑む人もいる。準備とはそういうものだ。

よってパソコンのコンセント使用は、本当に裁判の遂行上必須であるかという話になる。停電したから弁護できませんは、少し情けない。

コンセント禁止が司法の独立性を激しく傷つけたとは言えないのは自明だ。これが今回の高裁、最高裁の判断になる。

電気を禁止する裁判官が次に弁護士の発言までを禁止する事はないだろうか。あらゆる主張を無視して自分の都合をよい判決をしないだろうか。その危険性はあるのか、ないのか。

もちろん、検察には許可して弁護士には禁止したという話ではないだろう。

裁判は、裁判官と検察と弁護士で作り上げるものである。裁判はこの三者の一種独特な協力関係がないと成立しない。誰かが誰かを不信に感じたり、裏切ればその時点で裁判とは呼べない儀式に成り下がる。

では、電気使用の禁止は不信の行為にはならないのか、という結論になる。もし禁止するなら何故予め通告しなかったのか。もしそれをしないなら、それは裁判所の無能である。なぜ無能な裁判官に裁判を託す事が許容できるのか。ならば決して看過できない事例ではないか。無能と告白した者に裁判を託す正当な理由は人類がこの先一万年を生きようとあり得ない。

なぜ裁判官には電気の使用を禁止する命令を出す権利が有するのか。もちろん、裁判官にはの裁判を進行する権限がある。それを著しく阻害する場合は必要な措置を取る事も許されている。そこには全員の良識と合意があるはずである。

では、コンセントの使用を禁止する職能的な権限はいつ国家が裁判官に与えたのか。どの法が与えている範囲に入るか。コンセントの使用が裁判の進行に何らかの支障を来すとは考えられない。電気を使用されて困るのは裁判官ではない。その裁判でもない。裁判所を運営している人たちである。

もし裁判所の事務員たちが困る、辞めてくれというのなら話は分かる。それは行政上の問題であり、使用したい人と使用させたくない人との間で実務的な協議を行い、最後は金を払うから認めてくれ、それならこれくらいの請求で、辺りに落ち着けば何も問題はない。

つまりこの裁判官は司法の範囲を超えているのではないか、という疑念である。彼が指摘したのは明らかに行政に係わる問題である。なぜ司法の者が司法の場で行政に関する命令を出せるのか。

もし裁判官が自分の権限を越えて命令したのならばこれは看過できまい。裁判官が有する自由は無限ではない。この命令の根拠はどこにあるのか。その妥当性は何によって支えられているのか。この権限の範囲に関する闘争になるはずである。裁判官だから国家には敵しないはずがない、は夢想であって、国家の崩壊は必ず司法から始まる。

裁判官がもし司法の範囲を超え行政官の行動に出たのならこれは三権分立への重要な挑戦であり、国家として看過できるはずがない敵対行為である。なぜそのよう疑念ある行為が最高裁で争わずに済むと考えられるか。

2021年10月25日月曜日

最高裁判所裁判官 国民審査 2021

第七十九条
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。

短くすると

第七十九条 ○2 最高裁判所の裁判官の任命は、衆議院議員総選挙の際国民の審査に付す。

要するに

最高裁判所裁判官 国民審査は憲法79条に根拠を置く。だから投票する者は×を付けるのである。ではどのように辞めるべき裁判官を決めるのであろうか。憲法は我々に一体何を求めているのか。

考えるに

自分と意見を異にするものを排除する手段は昔からたくさんある。命を奪う方法から奪わないまでも遠くに追いやったり、その力を奪い去ってしまうなど幾らでもある。我々は群れを作る動物から進化した。だから、力の均衡に対する感覚は鋭敏である。

民主主義の理想はそれを否定する所から始まる。聖徳太子が書いた和を以て貴しとなすとは、議論を尽くせという戒めである。

では議論の結果、どうしても相いれない場合はどうするのか。それについて 17条の憲法に記載はない。多くの人はその場合に対して悲観的であろう。

人類は早くから法を持ち、対立を解消する方法を模索してきた。それが裁判の公平が統治の根本にある理由だ。それが理想であると語る為政者はひとりもいない筈である。

問題の解決を誰かが決める以上、そこには様々な恣意性や誤謬が入り込む。人間は神ではないからそこは否定的になるしかない。

しかし目の前に問題がある。それに決着を付ける方法は裁判を最上とせざるえない。少なくとも人間はそこにしか到達できていない。その先を思い描いた者はいない。

選挙

選挙は民主主義に住む者に与えられた唯一の権利と言える。この権利を奪う事は基本的人権を奪うに匹敵する。何故なら投票権を奪う者は基本的人権を奪う事にも躊躇するはずがないからである。

それくらい投票する権利は分かりやすく具体的である。奪わない事がこれほど簡単な権利はない。それされも奪わずにいられない人が基本的人権のような抽象的で具体性のない権利を侵さずにいる訳がない。韓非子の殷之法、刑棄灰於街者と同じだ。

この権利を行使しない事は、唯一の権利の放棄に等しい。投票の放棄は奴隷と同じである。なぜなら自分で考え行動する機会を自ら放棄するに等しいから。自分で考える機会を失わないで、参加する事を止めないで。

それを失えば奴隷扱いされても文句は言えない。もちろん、基本的人権は如何なる暴力も奪えない。常に如何に蹂躙されてもその権利は全く傷つかない。

しかし、権利を奪えない事は、人間が侵害されていない事と等しい訳ではない。全ての命は等しく尊いにも関わらず幾つもの命が毎日この世界から消えている。人間としての尊重も尊厳も得られていない人が沢山いる。

そういう状況を看過すべきではない。だからと言って最前線で取り組んでいる人々を支援する以外の何か直接的な方法がある訳でもない。

問題に消えろと言って消えるものではない。もしそうなら暴力によって簡単に解決できる筈である。それが必ずしもそうではない事に議論の必要はあるまい。

この国で選挙に行かなくてもそれで生活に困らないのは国家がその人を何ら気にしていないだけの事である。

政治家を選ぶ時、我々はその理想や理念、人柄から選ぶ。多くは政党で決める。それが決めるコストが最も低いからだ。

選挙とは一種の革命であるから、人数が多い方が勝つ。どちらがより多くの人間を集めるかで革命の成功と失敗は決着する。人数を見れば実際に戦うまで もない。これが選挙の原理で、それにどうしても我慢できない人はクーデターや暴動を始める。

審査

では裁判官の国民審査は選挙なのか。自分の考えに近い人を選び、意見が異なる人を排除する為の投票か。その考えを敷衍すれば、辞めてもらいたい裁判官とは乃ち判決に異議がある人の事になる。

だが、実際に判決を詳細に読めば、完全に同意できない事は少なく、また整合性や憲法が要求するものへの解釈の違いは、自分に近いか遠いかであって、必ずしも自分が正しいとは言えない。

自分の考えを通すだけなら好き嫌いで選ぶのと変わらない。政治家への投票は最終的にはそれで構わないが、裁判官も同様の考えでは困る。なぜならこれは審査である。

では何をもって審査するのか。このくそ忙しい生活の合間に、果たして我々は最大15人の最高裁判官たちの信条を深く知る事など可能であろうか。

情報が欠落している。少なくとも個別にそれぞれの情報に当たらなければ知りえない情報では審査できない。つまり憲法はそのための仕組みが国家に必要と訴えている。それはそれぞれの国の主要なテーマとしてあるべきだ、そう考えている事になる。

アメリカのドラマには司法をテーマとしたものが多い。その中では憲法に対する言及も多く目にする。アメリカのドラマを見ていれば否応なくアメリカ憲法の幾つかの条文に触れる事になる。その考え方への違いや判決の根拠についても考えさせられる。

つまり、民主主義の根幹は司法にある。それが憲法の訴えるものである。日本でも裁判所の判決は年に何度も新聞の紙面を飾る。

我々はその判決の結果によって行動を決めようとするが、もちろん、重要なのは、その結果に至る根拠である。その説明責任は全て裁判官にある。

しかし、それは全て判決文の中に書かれているものである。よって、それを如何に市民に伝えるかはメディアの重要な役割になる。メディアを詳細に観察すれば、その国の民主主義の形態を知る事が可能であろう。

日本におけるメディアの発信力が弱い事は衆議院選挙を見れば明らかだ。重要な情報はだいたい投票日の20時以降に流れるものである。まして裁判官においておや。

我々は結果においてどう行動するかを決める国民性を持つ。故にその過程においては非常に受動的なのである。

裁判官の弾劾

日本で裁判官を追放するには、弾劾裁判に訴えるしかない。
裁判官弾劾裁判所公式サイト / トップページ (音声ブラウザ対応)

市民は弾劾裁判を始める事はできない。訴追委員会に罷免の訴追を請求するしかない。これは如何に裁判官が大切に守られているかを示す。これは自分の良心に従う為に国家が用意した手厚い保護に他ならない。

もし簡単に弾劾裁判を起こせるようになれば、気に食わない判決を出す度に訴える事になる。人間の性質は元来そういうものである。

では気に食わない以外のどのような理由で裁判官を追放すべきか。もし判決を見てとても許容できない感じる人物はどのような人間であるか。

冤罪事件が起きれば我々は警察に憤りを感じる。杜撰な捜査、証拠の捏造、警察を罰すべき理由は幾らでもあると感じる。当然そのような捜査員は懲役とすべきだ。

しかし冤罪が起きた以上、裁判は結審しているのである。刑事事件なら三回も裁判したのである。その警察の杜撰な捜査を見抜けない間抜けな検察官は社会の害ではないのか。貧弱な証拠と矛盾だらけの答弁に疑問を持ちえなかった裁判官はなぜ生き長らえさせるのか。

冤罪を起こすのは警察ではない。検察官でもない。弁護士の責任でもない。その責任は全て裁判官にある。その者の決断にある。だから憲法は裁判官に以下を要求する。

第七十六条、裁判官はその良心に従い判決をする。
第七十八条、裁判官は公の弾劾以外では辞めさせる事はできない。

冤罪を理由に裁判官を辞めさせる事はできない。その理由は簡単である。冤罪を起こさない事は人間の能力を遥かに超えているから。それは誰にも要求などできない事だからである。

では、国民審査という殆ど実質的に意味のない制度がなぜあるのか。それがどうしても必要となるのは何故か。

如何なる犯罪組織であろうと、裁判官を恐喝し判決を勝ち取る事は国家の存亡に係わる。司法が支配されれば国家は成立しえない。これが民主主義の基本である。故に、如何なる脅迫も跳ね返すだけの気概が裁判官には求められるし、国家はそれを護衛しなければならない。

仮に脅迫があったなら、真の権力の恐怖を命を以って叩き込むのが国家である。ここで躊躇するような国家には存続を訴える権利がない。

それでも許せないというなら、人々は武器を取るしかない。裁判官がクーデターを支持するなら市民には内戦に持ち込むしか手段が残されていない。司法はその分岐点となる機能を有する。

よって裁判官の国民審査が行われている状態を以って、民主主義の機能が働いている事を示し、内戦を起こす必要がない事を内外に知らしめていると言える。この重要な機能の前ではどの裁判官を罷免するかなど小さな話である。

逆に言えば、幾つかの判決からその結論に同意できない裁判官を ×と記する事は民主主義が健全に機能している事の保証である。それで罷免された所で、裁判官は恥と思う必要はないし、それが市民の勝利となる訳でもない。それは民主主義が機能している事の確認作業に過ぎない。

逆説的に言うならば、裁判官は簡単に民主主義の敵になるという事である。

司法と経済

黒人を差別し自由に商品として売り買いしていた人々は、心の底から自分たちの民主主義を誇りとしていた。もし南軍が勝利していれば、大陸にはふたつのアメリカが誕生したであろう。その場合でもどちらの陣営も民主主義を捨てたりはしなかっただろう。

随分と違った価値観を抱く南北が同じ理想を掲げる憲法から出発し、それぞれが修正しながら国家を運営してゆくであろう。

奴隷制度は民主主義の問題ではない。南部から見れば経済問題であった。いずれ優秀な農耕機が登場すれば衰退する制度であった。奴隷はそれ迄の過渡的な労働力である。100年以内には奴隷制を放棄したであろう。

しかし北も南も待てなかった。南は農業の都合から奴隷を欲し、北は工業の都合から奴隷を欲しなかった。分裂と統合の岐路に立ったリンカーンはひとつのアメリカを信じ戦争の轍を踏んだ。彼は民主主義を擁護したが黒人奴隷やましてネイティブ・アメリカンの基本的人権までを擁護する考えはなかった。

南北戦争は民主主義の為の戦争ではなかった。アメリカは一度として民主主義の危機に陥った事はない。アメリカ議事堂を襲撃した人々も民主主義の廃止を求めてはいない。彼/彼女らのひとりひとりは民主主義が正しく運営される事を求めていた筈である。デモクラシーには人の数だけの理想がある。

独裁者と憲法

独裁者と雖も憲法を停止する措置を取らなくては権力を奪取できない。好き勝手に振る舞う為に法を遵守するのである。それを抜きにしては独裁者にはなれない。これが民主主義の原理であろう。

クーデターを起こした者たちは憲法に違反していないと内外に主張する所から始める。正当である為に合法である事は民主主義の根幹である。これはとても法治主義の範囲に納まるような強制力ではない。民主主義という理想があるが故の威力であろう。

どのような国の制度であっても、誰かが野心を抱けば簡単に奪う事が出来る。三権分立も選挙もそれは容易く停止できる。暴力を使えばより簡単である。香港は中国の丁寧な立法の連続により民主派は力を失った。ミャンマーは軍人の既得権益の追求がクーデターを呼び起こした。国際社会の批判にも係わらず民主派の人々は内戦にしか有効な対抗策を見出せない。

国民審査がある事が、乃ちこの国の健常性を示している。そしてこれが最後のひとつになるはずである。

×を掲げよ

我々は単純化しなければ理解できない。それぞれの裁判官の良心の力作である判決を詳細に読む事などできない。ましてその判決の要約を出す事は裁判官の責任である。市民の義務ではない。

完全な裁判などない以上、説明を尽くす必要が裁判官にはある。それを怠る者は裁判官に不適だ。

幸いにも我々はメディアが情報発信できる国家に住んでいる。SNSはより多くの情報を、フェイクやデマを含んで膾炙するだろう。それらによってしか ×をする根拠が得られない。

よって我々は代表的な判決、憲法への解釈に関する部分によってのみ、その判決を審査する事になる。それは裁判官が国民の声を聞くひとつの仕組みとして機能する。

SNSがここまで発達する以前には、裁判官は国民審査から国民の総意を読み取ろうとしていたのだろう、そういう接点として機能してきたのだろう。

余りに反対が多いならば、それは裁判官が考えを改める根拠になる。それは罷免するよりも健全な対話であろう。

例えばトピックスには最高裁判事に就任した時の記者会見概要が掲載されている。それは裁判官の人となりを知るのには役に立つ。しかしその人となりは裁判官の思想を知る事と等しくはない。
トピックス | 裁判所

それを知るには具体的な判決を見るしかない。しかし最高裁判所が扱うのは憲法だけではない。雑多な刑事事件から行政、民事などから、上告を棄却する事も主な仕事である。そのような個々の判例への恨みで ×を付けても仕方がない。

よって我々は憲法に対する態度であったり、社会の価値観の端境期において、先進的な人、保守的な人、その様々な裁判官の態度に対して、意見を表明する場になる。

最高裁判所 裁判官の国民審査 特集サイト2021|経歴や注目裁判での判断は|NHK
最高裁判所 裁判官の国民審査 対象の11人が関わった主な裁判|特集サイト2021|NHK

例えば、「50年以上前の“袴田事件”再審認めるか」では、高裁で再び審理する事を求めた判決への反対意見として、直ちに再審を開始せよと求めた裁判官がいる。最高裁判官たちの健全性が日本という国家を代表するひとつの結実である。

幾つかを読むだけで良い。それが何かの役に立つかと言えば、特に何もない。ただ最高裁判官と市民の間を繋げたという価値だけである。それを読み考える行為こそが憲法が市民に求めているものであろう。

だが何を判決したかより、何を棄却したのかの方がその裁判官の本質を示すのではないだろうか。我々は、そこまで知らなければまともに投票できないのではないだろうか。

投票にはどうしても取り切れない不純物が残る。個人の判断の中にも、それから集団としての投票行動の中にも。それでもそれ以外の方法がない。だから投票には人間性を掲げる必要がある。投票という行為の中にその人の人間性の全てが反映される。

弁護士が持ち込んだコンピュータの電源を法廷のコンセントから供給する事を拒否した横浜地裁の裁判官がいる。その決定を東京地裁は支持した。br /> br /> 簡単にこの国の司法は劣化する。最高裁がこの事案にどのような判定をするのかは知らない(2021/10/25)。しかし、我々はこの国の司法に対して一時も安心してはいけない。その健全性は桜の花よりも容易く散る。だから我々は ×を掲げる。