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2021年1月23日土曜日

流転の王冠

ひどい爆発である。それで我々は大きく吹き飛ばされてしまった。消えた仲間もいる。

最初に着地した場所は、とても乾燥していて長くは生きられそうにない砂漠地帯だった。しかし、何度か場所を変わる内に、洪水の溢れる場所にやっと辿りついた。幸いに我々は、こういう状況こそが得意だ。

周囲を確認すると、多くの仲間は元気である。この流れにのって各自、分散しよう。

この洪水の中では我々の自由などないに等しい。だから各自がバラバラになって流れに身を任せる。どこに辿り着くかは運次第。だが、ここはそう極悪な環境ではない。どちらかと言えば、居心地がいいくらいだ。

どこに辿り着くかは知らない。多くの仲間は恐らく生き残れはしないだろう。だが、行くのだ。これが我々の方法論。

この生温かな海のような場所で漂っていると、大きな大きな浮遊物に何度もぶち当たる。その形も色も様々である。仲間の幾人かはそれに取り付こうと努力しているが、失敗しているようだ。入り込むのに成功したものもいるようだが、その後は見えない。

流れにのると、上下、左右、あらゆる場所に運ばれてゆく。その先に巨大な瀑布がある。そこを真っ逆さまに落ちてゆくと、その先にあるのは酸の海だ。そこに落ちると溶けてばらばらになる。そうはなりたくないものだ。だが、それは我々の自由ではない。祈るとしよう。

仲間の幾人かは、この巨大な洞窟の中で発生した巨大な隆起で上の方に押しやられた。それで天井に取り付いたようである。その壁の中に潜り込もうとする仲間がたくさん見える。だが、そこには巨大な番兵がいて、次々と取り込まれ溶かされ殺されている。どれくらいの数が無事に潜入できるだろうか?

私は残念ながら瀑布の方に流されるコースにいる。どうやら運の無い個体だ。残念だが、仕方ない、これが我々の戦略だから、これは織り込み済みの事象だ。そう諦めかけた時、流れに大きな変化が起きて、私はあっと言う間に良く知らない方向に流されていった。

気が付けば、そこは真っ暗である。私は、周囲の気配を観察してみた。轟轟と風が吹いている。何かが脈動して流れる音もする。そこは入り組んだ巨大な構造物で網の目のようだった。光の届かない場所だけれど、暖かく、なにより私の気分がいい。

よく分からないが高揚感がある。腕を伸ばして壁沿いを伝ってみる、すると、私の腕を掴もうとするものがいた。これはどうやら私を取り込んで溶かそうとするやつだ。ああ残念だ。

と、壁の方から別の腕が伸びてきた。素早く私を掴む。私もがっちりとそれを握り返す。その腕は私を壁の方へ引き寄せた。瞬間にぽっかりと大きな穴が開いて、私を中に導いてくれたのである。助けられた?

そこは巨大な工場のようだった。まるで自分の家のような気がした。暖かな場所だった。とてもいい匂いがして、私は自然と服を脱いだ。そして、そこに溶けていった。

私の意識は巨大な宇宙の中に溶け込んでゆくような感じで、私を運んでくれる手を感じる。そこには別のものがいて、私に抱き着いた。私は何もしなかったし、出来る事もなかった。完全に身を託していた。好きにしてくれ。

私は私の声を聞く。いつの間にか、私は私の声が辺り一面で響いているのを聞く。そこに不安も心配もない。私の感情は言い様のない達成感を感じている。これでいい。これを私は待っていたのだ。

私は飛ばされ、流され、そして辿り着いただけである。私は何もしていない。ただ漂っていた。ただ粛々と世界に従ったまでの事。だのに世界は私に何かを贈ってくれた。この世界がギフトである。それ以外は思い過ごしだ。

私たちはこの先でどうなるのか、運命は私の知る所ではない。私がこの世界から消えたとしても、それは私の意思ではない。

ただ私は漂う。この世界の一部なのだから、世界は私によって既に変わっているはずで、誰かが世界を大きく変えたなど単なる幻想である。

例えこの世界が私を滅ぼそうとしても私の存在を世界は支持した。だから私はここに居るのだ。私を生んだ世界が私を滅ぼす。それに抗う手段を持たない私でも、私は私の存在を消しはしない。それは肯定せよ。

例え流転しても私は存在した。存在したから私も流転する。私は成すが儘に流されただけだが、私にも機序はある。

2021年1月1日金曜日

人類史俯瞰、生命の発生 - 経済 II

出鱈目でいいから人類史を俯瞰する。

生命の誕生

この星に生命が出現したのは、地球が誕生した45億年前よりは後である。海の安定が40億年、最古の生物化石が39億年前の地層から発見されているので、この一億年の間に生命が登場したと考えるのに不都合はない。

最初の生命が出現するまでに、化学反応から生命反応へのエポックは起きたはずで、先ず化学反応(または量子的変化)がある。次に生命活動と呼ばれる反応が起き、最後に自分をコピーする能力を獲得した。そう仮定してもそう的外れでないはずである。

最初に生命と呼んで差し支えないものが登場した。最初の生命体は恐らく一代限りの化学工場であったろう。たった一回だけの反応だったかも知れない。

それが大量に発生しては消える状態が長く続き、次々と生命活動と呼ぶべき現象が登場しては消えていったのでマクロで見れば、生命が存在していた状態と呼べたはずである。もしかしたら火星などはその状態のまま海が干上がったかもしれない。

端緒の海はいのちのスープであったと仮説する。その海を巨大なひとつの細胞と仮定しても何ら困らない。細胞内でアミノ酸から様々な器官が作られるのと同じ。その中で様々な化学変化が起きては止まりを繰り返していた。

この生命のスープが干上がる前に、地球では、生命は反応をより促進するために、外と内を区別する壁を持った。タコがツボを好むように、周囲にある袋状の中で化学変化が起きる方が安定していた。

化学反応と生命反応

化学反応と生命反応の違いは何か。それをコード化の有無と仮定する。コード化とは反応がコードに従って行われるようになる事である。全ての生物はコードを持て降り、化学反応はコードを使って進めている。ウィルスもコードを持つという点では生命様物質であろう。ただ外界からエネルギーを取り込む器官を捨てたのである。つまり食事を止めた生命になる。

さて、コード化の仕組みはどのように出現したのか?化学反応の繰り返しの中からどう手順に従えばコード化が可能となるのか。まず、記憶を蓄積する。それを再利用する。

再利用とは、分解と合成という意味であるから、その手順をなぜヌクレオチドで記録して置く事になったのか。記録は偶然できたとして、それを再利用するためには、そこに辿り着いて、読み取り、他に持って行って、再現しなければならない。

これらの幾つかの連続する反応がどのように自然発生するのか。これを探求するのは一つ一つの現象を最小単位にまで分解して、それが自然発生的に良く起きる現象にまで分解しなければならない。

恐らく現在の生物では複雑すぎる。最新の電気自動車をどれほど分解して調べても内燃機関は思いつかないだろう。まして馬車や牛車に辿り着けるか。

例え100万回に一度しか起きない現象でも1兆回やれば100万回が期待できる。実験室で生命が誕生しないのは単に分母の数が余りに小さいからという結論はある。しかし、どらくらいの偶々の組み合わせで生命になるのか。

1億年ではあまりに少なすぎないかという疑問は拭えない。だがである、ひとつの型が決まればあとはほっておいても加速して促進されると仮定すればありそうにも思えてくる。

プログラミング

コードと聞けばコンピュータプログラミングである。しかしプログラミングには人間の意図が深く介在している。何も意図せずにコードを死ぬほど書いて(約一億年)それで Microsoft Windows は誕生しうるかという話でもある。それくらい生命の発生に何らかの意図は前提できない。

考える事は出来ないが、しかし、原子、分子は、一定の条件が揃った環境下では、自然と生命体としての結合をする方向性を持っている事は間違いない。それを原子の意思と呼んでも差し支えあるまい。これは、そうなる性質が初めから原子には備わっているという意味である。

高分子や有機物は自然に合成される。だから材料はあった。問題は材料の組み合わせとその順序である。それが起きやすいという事は前提条件である。起き易いとはこの場合は不可能ではないの意味である。

それらが組み合わさる過程でどういう機序でコード化になったのか。その分子メカニズムは思いつかない。C言語のコンパイラは今ではC言語自身で書かれている。しかし最初のコンパイラはCで書かれていない。最初はそれ以外の言語で書くしかない。

RiboNucleic Acid

同様の事を現在の RNA に例えるならば、最初の前駆体は今では失われている。最初は数個のコドン(最小のコード単位、RNAならACGUの3ペア)であったろう。

アミノ酸と結合したコドンが出鱈目に組み合わさる。コドンだけの列が出鱈目に作られる。それらは絡み合い易い性質を持っているなら、最後まで動く羅列と途中で止まる羅列が大量にあったろう。幾つかの組み合わせは蛋白質の合成に成功しただろう。

最初のコードが地球上に存在しないなら、火星で見つけるか、想像するしかない。想像は人間の得意分野であるし、火星に人類が行くのも間違いない(滅亡しなければ)。

生命を辿る道がたったひとつしかないとは考えられない。よって、幾つかの候補が見つけられれば、そのうちのどれか一つが正解と高を括っていてもそう困りはしない。どうせ過去の事である。見た者は誰もいない。間違っているなら誰かが指摘する。

生物とは蛋白質を合成する仕組みである。現在の方式は DNA から転写し mRNA を作り、tRNA がコードとアミノ酸のマッピングを行い、リボゾーム上で実行し、コードとアミノ酸から蛋白質を製造する。mRNA はアミノ酸の組み合わせ順を定義したファイルみたいなものと言える。

第9章 タンパク質の生合成 - 東京医科歯科大学 教養部 生物学分野
[翻訳] BioNTech/Pfizer の新型コロナワクチンを〈リバースエンジニアリング〉する|柞刈湯葉 Yuba Isukari|note

しかし、車の構造を知っている事と、それを製造する事は違う。ましてどのような設備が必要かを列挙するのは、全く異なる。車を運転する事と、それを使って何をするかだって全く違う。

どうやって製造する車を決定するのか、それをどう設計するのか、いつ頃に何台を生産すると計画するのか、生産したものをどのようなルートで販売するのか。既に多くの謎が解き明かされているが、不思議はまだ尽きない。

コードの獲得後

最初の生物は無意味に蛋白質を作るだけの工場として存在していただろう。ただ蛋白質を作っては環境に吐き出す。新しい化合物が環境に生まれれば、それが別の反応に影響を与えるのはそう突拍子ではない。

ある物質が反応を促進し、ある物質は反応を抑制する。資源が無限に近いなら、それらは丁度良いセットを作る所に落ち着くだろう。だがこれだけでは、どこにもコードが入る余地がない。

しかし、逆言えば、コード化で実現された反応経路は、その他の化学変化よりも大量に生産するだろう。偶然よりも僅かに高い確率で起きるならば、100万年もあれば他を圧倒するだろう。

どうも生物は貪欲に反応を促進する仕組みのように感じられる。生物という反応は、それ以外の反応よりもずっと複雑で効率よく進める。

太陽エネルギーが余剰な環境ではより効率良くエネルギーに最大限に利用する構造が誕生するのか。それが生命体という形式であるか。それが自然の中でどう発生するのか。これが火星に生命の痕跡を見つけたい理由である。

生物は外界から何かを取り込み、外界に何かを吐き出す。この吸引と吐出の繰り返しは、取り込むものが無機物であろうと有機物であろうと、まして生命体であっても区別はしない。また取り込まれる側も、内で分解されようが外界で分解されようが化学反応としては何も変わらない。

もし、その環境が居心地よければ、そこに居座る事も躊躇しない。その内側を自分の環境として利用すればいいだけである。それがその物質にとっての世界そのものに変わる。鯨に飲み込まれようがそこが快適ならいいのである。

コピー化

同様に吐き出すものが別の生命体様物質であっても誰も何も構いはしなかったはずである。外界を取り込むとは、何かを吐き出す事と同値なのだから、吐き出すものが、生命ではない物質であろうが、自己とは異なる物質であろうが、自己と同じ物質であろうが、生命は気にしない。そういう現象が頻繁に起きる。

原初の生命が仮に一代限りの存在であっても、条件さえ合えば百年や千年は活動を持続できたはずで、だから生命としてそれで困る事はなかった。仮にその個体が活動を停止しても似たようなものが次々と発生するので、これも困りはしない。全体を見れば生命の溢れる世界である。

しかし、生命のコピーはコード化が実現した後ならそう難しい話ではない。何かを合成する時に設計図を他の化合物から自分自身に変えれば良いだけだ。合成のメカニズムは他の化合物の時とそう変えなくて良い。

そしてコピーする事が進化論的に他を駆逐したのは、最初のコピーは、増殖を開始したり停止する仕組みを持っていなかっただろうから、がん細胞のように増え始めればあっと言う間にその環境を占有したであろう。自然発生的に起きない現象と自己を何度も複製できる機能を比べれば有利さは明らか。

その結果、その環境はコピーできる物質で占有される。増加し過ぎてエネルギーの奪い合いが生じる。資源が枯渇するまでそれは続く。恐らく、生命のスープはコピー可能な生物の登場で枯渇し失われたと想像する。

生命がコピーを作る機能を獲得した時に、増加を止める方法が必要だ、それは増加する刺激が必要という意味でもある。それができない場合は、絶滅する可能性が高い。増加は適度に抑制しなければならない。これが生き残る戦略になる。無制限に繁殖すれば環境を食い尽くしてしまう。

だから、なんらかの刺激でそれを制御する方が生き残り易い。その刺激は外界に求めるしかなく、例えば、個体数の減少、何かの濃度、周囲の温度などが考えられる。しかしこのような自然の刺激では環境が安定している事が前提になる。もし刺激が起きなければ増加する事ができない。増加が起きないなら減少する方向にしか進めない。

雌雄化

なぜ雌雄という方式が採用されたのか。この方法は、外界からの刺激を生物自身が決定できる点で画期的である。ふたつの個体の出会いがコピーの刺激になるなら、無制限の増加を避けられる。距離で制御でき、自然環境に完全に依拠せず、しかし、行動様式が適度な抑止となり、爆発的な増大が避けられる。

最初の頃は遺伝情報の交換など必要としなかった。出会いが刺激になるとは、片方を食べていたで良い。取り込んだ方を分解すれば複製に使う材料も手に入る。何も困りはしない。

もし、何らかの理由で材料が不足すれば、反応はそこで一端中断する。反応が停止していた生物の中に、別の反応が停止している個体が入り込めば、材料が供給されたに等しい。反応の再開が起きる。この時、遺伝情報は複製ではなく混合、交換として使われても不思議はない。

生物は太古から外界のエネルギーを利用し、余剰な資源を積極的に使って反応してきた。エネルギーの多少、資源の獲得と交換、伝播、略奪、効率と優位性、自然淘汰圧、それによって生じる増加と減少、全て経済学の範疇で語る事ができる。

二千年後の高校生たちは、今の人類種と同じであるかどうかは置いておくとして、理科の授業で生命誕生の実習をしているかも知れない。その姿は、未来が明るい事を示す。例え人類にとっての未来でなくとも。この宇宙がリップするまでにはまだまだ時間がある。