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2011年6月13日月曜日

原子炉の暴走―臨界事故で何が起きたか - 石川 迪夫

まず起きない、とは起きるという意味だ。それを起きない、と勘違いしては見損じる。そんな経験が2011年の3月に起きた。

自動車保険なら多くの人が対人無制限をつけるのに、原子炉は何故そのような保険に加入しなかったのか。そのオプションは高すぎたのだろうか。しかし事故が起きてしまえばその支払はべらぼうなものになった。

今から20億年前アフリカのオクロには天然の原子炉があった。この天然原子炉は数十万年に渡り核分裂を続けたのだがそれは30分間は連鎖反応し2時間30分は休止するものであった。

この自然状態での臨界はウラン鉱に地下水が流れ込む事で起きた。水が中性子減速材となりウランから発生した中性子を減速させ連鎖反応を起こす。連鎖反応による熱で地下水が沸騰し蒸発すると減速材としての効果が薄まり臨界は停止する。そこにまた新しく地下水が流れ込み臨界状態になる。これを核分裂物質が無くなるまで繰り返したのである。

現在、福島の地にある原子炉の核燃料は崩壊熱を出し続けている。これは臨界とは違う話だがこれも自然の現象である。

津波であれ、原子炉の破壊であれ、それは全て物理学的な力に過ぎない。どれも奇跡ではないし、悪魔の力でもない。単なる物理的な法則のまま振る舞う現象の一つだ。だから僕たちは科学的に、工学的にその力を知ることができる。

悪魔ではないし神の名で追い払えるものでもない。神の奇跡があるなら別だが、それは神父の仕事であろうし、僕たちに出来るのはその物理的な振る舞いや仕組みを知るよう務めるだけだ。祈りながらでも。

そしてそれを知るために本書がある。

僕が読んだ第二版では今回の福島第一原子力発電所の事故については語られていない。出てこないわけでもないのだが、それは1978年の事故についての記録である。第三版が出るならば2011年に福島で起きた事故が追記される事だろう。

チェルノブイリ事故の詳細と火災発生の推理が著述された本書を読めば、福島はその発生過程も事故推移もチェルノブイリと全く違うことがわかる。

詳細は専門家の検証は待たねばならないが、福島第一原子力発電所の事故は臨界事故ではなく冷却材喪失事故である。

臨界は制御棒やボロンの投入により速やかに回避された。だが崩壊熱の冷却に失敗し温度上昇が被覆管を溶解、気化した金属が水と反応し水素を発生させた。水素が圧力容器、格納容器本体か、配管からか、またはベントにより外に漏れだし爆発に至る、これが推測されているシナリオだ。

臨界が危険なのではない。それによって発生する熱が危険なのだ。それは金属を溶かし、水素を発生させ、水を沸騰する。体積の急激な膨張により周りを破壊する、爆発だ。

構造物の破壊は放射性物質の拡散、封じ込めの失敗を意味する。だから爆発は食い止めなければならない。

チェルノブイリでは黒鉛が延焼することで被害が拡大した。福島第一発電所ではベントと水素爆発で被害が拡大した。だがベントしていなかったなら格納容器本体が破壊され更に被害は拡大していた、かも知れない。

原因や発生のメカニズムがどう違おうとも汚染が起きたことは変わりはない。

原子力事故とは何であろうか、発生した事故とどう向き合えばいいのだろうか。人を一人も殺すことなく、目には見えず匂いもしない味もしない。それなのに人々を戦争に駆り立てるかのような圧迫を与える。

この事故は間違いなく戦争なのだ。

本書は、甚大な被害と影響を与える原子力事故とは何であろうか、に一つの回答を示すものである。事故にはメカニズムがある、それを詳しく、一般に広く伝えようとするものである。

本書に述べられた事故の幾つかの挿話はそこに人の存在を常に示唆している。人に誤りがあったり、勘違いがあったりする。

だが、1942年12月、世界初の原子炉CP-1がフェルミによって臨界して以来、原子炉についての研究を人類が一切して来なかったわけではない。

今回の事故が突然起きたわけでもない。長いとは言えないまでも30年、40年を懸けて安全について研究してきた歴史がある。臨界は危険であるという考えは、臨界を人為的に起こし反応度事故を研究する炉NSRRの存在を知れば考え直さなければならない。

安全な臨界と危険な臨界があることをまずは知ろうではないか。

その上で、我々が溶解熱について未だ研究の途上にあった事に思い至ろう。僕たちは反応度事故によってではなく溶解熱による事故により無様な姿を晒している。

冷やすだけだよ、と舐め切っていたのかもしれない。それは原子炉の研究としても後回しだった。燃料をお風呂につけておくだけの話しだから、それは運用設計の問題である、と誰もが甘く見ていたのかもしれない。

人間は、人間のために原子炉を作った。しかし、そこで起きる連鎖反応は人間のために起きているのではない。薄く散り積もった人間の倫理で物理現象を語ってはならない。実際に起きているのがどれだけの事故だろうが、それに対して過去の経験を知っておく事は決して無駄ではない。

炉心に反応度が残っている限り、原子炉は反応度の補償を行うために必死の努力を続けている。燃料温度を高めボイドを発生して反応度補償を行いつづけるわけであるが、その最後の手段が炉心の破壊という連鎖反応を自ら壊すことで、反応を停める。暴走出力による原子炉の破壊とは、人間でいえば罪を詫びての切腹である。稿を進めながら原子炉とはかくも健気なものであるかと、つくづく思わずにはいられない。(p.338)

この告白は、著者の原子力への愛情である、と僕の陳腐な言葉になる。僕は、こんな言葉は言いたくないと思いながらこれを書いているのだが、それは作者も同じだろう。

陳腐な言葉で済ますには惚れ込んでいるはずなのだ。そんな言葉で俺の思いが言い表せるか、著者の道程が書かれたそんな本である。


我々は未知のものには社会全体で恐怖を感じる。これは個人の恐怖では断じてない。

ある日起きたら、目の前の人が次々と倒れだす、そんな恐怖を思い描く。自分の目の前で倒れてゆく恐怖。

今回の事故はテロリストでもいない限り爆発させようとした人は一人もおらぬ。それさえ得心しておけば、あの爆発は色々な手段を講じ、しかも考えうるその時の最善を講じた末の結果であると結論付けていい。

あれだけの地震に揺れられ、津波を喰らい、電力を喪失し、水素爆発し、それでもまだ冷却する手段が残っている事に僕は感動さえ覚える。 姿形はボロボロだが、機能は決して消失していない。

エンジン出力低下、しかし航行に支障なし。

ボロボロに傷つきながらも、まだ最後の防波堤として核分裂生成物の拡散を防いでいる。あの原子炉建屋の姿は、感動的だ、とさえ言っていい。

それでもあの事故は愚かなものであったろうか。先の戦争が愚かなように。

ああいう姿にならずとも済んだはずではないか、そんな気持ちが止めきれずにいるのであれば、僕たちはその愚かさの正体を見つけ出す努力を続けないといけない。

二度も、愚かだから、という理由で済ますわけにはいかない。何故起きたのか、どうすれば良かったのか、何が出来たのか 次はどうすればいいのか。

次は同じ愚かさに陥らないために、我々は今、何をしなければならないのか。

一つだけはっきりしている。まずは知ろう、状況を正しく知ろう。
学べば同じ失敗は繰り返さずに済むはずだ。

だが、それでも僕は信じている。愚かさを学んだ賢人であっても、似たような失敗は必ずする、と。

愚かさとはもともと人間が持っている属性の一つではないか。 他人が愚かに見える事は自分が賢い事の証明ではない。穴に落ちた者を笑う者が、もっと深い穴に落ちないはずがない。

では、我々はどうすればよかったのか、これからどうするのか。

今よりももっといい未来はきっとあったはずだと信じるのはいい。 それなのに、どうしてその未来は我々の手の中に来なかったの?

先の戦争をしなかったら、どうなっていただろう。 原子力発電所を建造しなかったら、どうだったろう。 今更言っても詮無い事だ。

それでも愚かさだけでは終わってはいけない何かがある、そこには。

我々はあの戦争をした、それがどうかしたか、 我々は、この事故を起こした、それでどうした。 ここまでなら、今でも言える。でもその先の言葉は?

僕たちがどうしようもない物理の力に流され、どうすることもできない放射性物質に汚染されている。これに科学的に合理性のある対処が必要なのは疑いようがない。

それでも、これらの物理的な力の問題は最後は心の受け止め方という問題に変化する。我々はその災害を心の問題として捉え直す以外にケリの付け方はない。人間は、如何なる種類の物理的な災害であれ、心の問題として決着を付けなければ生きられない生き物ではないか。

古来、多くの災害や戦乱の中にあった人間が心の問題に目が向いたのは間違いだろう。その中で、死という問題が浮上するのは自然な流れだと思われる。

古来、いくつもの天災が起き、人々は無力を感じてきたはずである。

時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王 あめやめ給へ

この自然のどうしようもない事、人の世に起きるどうしようもない事。これらに対して、人の心はどういうあり方をするのか。

南無阿弥陀仏と念仏すれば救われる、という思想は、いずれ人の力でどうしようもないものであれば、ただ念仏する、その心のありようだけが仏に通ずるという意味であろう。
念仏の中に、傷ついた心も傷つけた行いも全てが含まれる。念仏を唱えれば救われると信じる心でなければ、仏の姿なぞ見えない。そうでない仏になぞ用はない。

宗教はそれを生んだ地理や自然に育まれる。

だが我々は過去の人と同じように感じることはもうできない。科学知識は、単純な祈りや念仏の無意味さを表面的かもしれないが教えてしまった。

降り積もる放射性物質に対して、人が祈るだけで終わる訳がない。しかし、科学知識が有ろうが無かろうが自然の力はまたもや人を圧倒した。神もまた人を圧倒し懺悔をさせ、閻魔大王も人を圧倒し罪の申し開きをさせる。どれもみな同じ構造ではないか。

圧倒された力の中で誰かを動かせられるわけでもなく、自然を御せるわけでもなく、それでも我々がこれと向かい合うためには、何が必要か。

我々はあの戦争でさえ祈りが通じなかった、と未だに思ってはいまいか。戦後に語られる全ての話しは負けたから成立している。その成立する条件を当時の人々が知らないはずもなかった。最後は祈るように、それを変えようと命を投げ出していったのではないか。

ただ、祈り念仏を唱えるだけではどうしようもなかったのである。太古であれば、我々の神が負けたのだと、そう思ったかもしれない話だ。

倶利伽羅剣を科学に持ち替えているだけなら何も新しくない。その神が打ち破られる日まで祈り続けるのか。

如何に地上の王となっても35億年後にはアンドロメダ銀河に飲み込まれる。銀河の神がアンドロメダの神の前に膝を屈する日まで祈り続けるのか。

そうではない、我々は十分に科学を学んだうえで、この心の持ち方に光を注ぐ新しい何かが我々の中から生まれてこなければならない。

畢竟、我々に試されているのは、この国の、社会の、私達の、そして私の死生観なのだ。

今の私達には圧倒的なまでに死生観が足りない。江戸時代にはあったであろうその死生観は、たぶん、あの建屋のようになっている。

人はなぜ生まれ、そしてどこへ行くのか。こんな疑問を感じてしまう程に、この時代の死生観は脆弱だ。

今、甚大な放射能汚染が起きている事は哀しみである。しかしそれは本当に我々が忌避し憎むべき敵なのだろうか。

それを生み出したのは人類ではない。 この宇宙である。

かくあるべくして存在している原子が、そう振舞うのであれば、 それは原子の意思であろう。

今、福島で東北で日本中で経験していることは、 みんなを鍛え、それぞれの未来を明るくすると思われる。

漁が中断された海には魚が溢れ、避難区域には、人の手の入らない自然の森が生れ、苦しい生活のなかで多くの人にアイデアが溢れる。

名もなき人々と世間から呼ばれている「名を知らぬ人達」が 懸命になっている事から僕も少しでも学びたいと思う。

忸怩たる思いで彼らを見ている人も多い、 指導者を変えてしまえ、俺の方がもっとうまくやれると言う声も聞く。

昨日の彼らは教科書通りの成功などは出来ていないかも知れない。 だが、今日を悩み通し、明日はきっと上手くやり遂げる。

ここで何も学べないようであれば、僕たちは何のイノベーションも生み出せない。

"昨日のアイツ"じゃ今日の対局のあの猛追はなかった
そしてその逆転の手"今日のアイツ"は気付けなかったけど
"明日のアイツ"はきっと気づく