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2022年6月26日日曜日

2022/06/17 福島第一原子力発電所事故国家賠償責任棄却

令和3年(受)第1205号 損害賠償請求事件 令和4年6月17日 第二小法廷判決 津波による本件発電所の事故を防ぐために電気事業法に基づく規制権限を行使しなかったことが違法であり、これにより損害を被ったなどと主張して、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求める事案。


(裁判長裁判官 菅野博之 裁判官 三浦 守 裁判官 草野耕一 裁判官 岡村和美)

考えるに

津波への評価、及びそれに伴う対策は、科学的、土木的な裏付けが必要で、予算の計上は電気料金に上乗せされる以上、東日本の電力を担う企業には慎重な対応が求められるのは妥当である。どこにも潤沢な資金はないのである。

もちろん、天変地異であるから、来るか、来ないかも不明である。そのような事象にどこまで手当をするか。積極派も消極派も反対派も其々の根拠はみな正しく聞こえる。

起きてみるまでは起きないものと思うものである。だからそれが不作為なのか慎重なのかを区別するのは難しい。最後は性格の問題になるから。

6m(Onahama Peil + 6M、最低潮位からの高さ)を想定した堤防を備え10mの高さに発電所を作った。これは10mの津波にも耐えられる想定である。当時としても相当に高い安全マージンを取ったと考えられる。

最初に作った時から余裕を持った設計である。問題は、我々の知見は日々刷新される事にある。なのに建屋の高さは変わらない。

東京電力が研究を怠っていたという話ではない。渋々ではあるにしろ軽視していたにしろ、津波対策をしなかった訳ではない。その為の部署も社員もいたしその活動の妨害もしていない。提言を無視または保留はしたかも知れないが捨てた訳ではない。

その態度を是正する権限と義務が国にあったか、そういう裁判である。結果論で言うなら、この被害は現在の技術で避けえたものである。それをしなかった国に瑕疵がなかったとは言えまい。 もし国があの時に違う判断をしていれば。そういう態度の積み重ねがほんの数年でも続けば、結果は相当に変わっていたであろう。国だけではあるまい。地方自治体が、東京電力が、規制委員会が。それを要求する事がそう理不尽な事か。

安全に対する過信は勿論全員にあった。この見損じに当然ながら無能のそしりは免れない。この国の全ての人に。

平成20年には貞観津波は9mと見積られ、それ以前に想定していた高さ6mを超えていると考えられた。その頃には考え得る津波の最大の高さを15.7mとする数字も出てきた。建屋は10mの高さにあるから浸水は避けえない。

東京電力がこの想定で対策を実施していたなら相当に効果的な対策となったと考えられる。それでもこの対策をもってしてもこの防波設備では対抗しえなかった。

平成23年3月11日。発電所は18mの津波に襲われる。建屋は5mの浸水に見舞われた。10mの想定で作られた原子力発電所が未曾有の津波と対峙したのである。

この大地震を予想できた者は一人もいない。もし居ても偶然である。いつもと同じ一日を疑う者はどこにも居なかった。つまり地震が来るのが早過ぎたのである。

この星で起きる最大の津波は1kmを超える。500mの津波が発生した記録もある。しかし、どのような高さを想定した所でどこかで物理的にも経済的にも対策は不可能になる。どのような対策を施してもどこかの事象で我々は敗北する。

それを超えた責任を問われても困る。そこまでの責任を負わされるなら全ての事業から撤退するしかない。しかしそれでは人類の文明は成り立たない。初めから我々の文明は砂上に立つ。だから、どこかに線を引く。この先はもう誰のせいでもないと。問題はたった20mでもそうなのかという話だ。

可能性

仮に、経済産業大臣が、本件長期評価を前提に、電気事業法40条に基づく規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に浸入し、本件非常用電源設備が浸水によりその機能を失うなどして本件各原子炉施設が電源喪失の事態に陥り、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にあるといわざるを得ない。

そうすると、本件の事実関係の下においては、経済産業大臣が上記の規制権限を行使していれば本件事故又はこれと同様の事故が発生しなかったであろうという関係を認めることはできないことになる。(P.9)

本判決のハイライトである。可能性で語れるのならどちらに振るかは恣意的に決めれる。それはサイコロさえ振っていない。結論ありきから逆算するだけでいい。そのような判決を最高裁判所が出しとしたらこれは問題であろう。その判断が、ではない。そのような根拠を持ち出した事が。

可能性の問題なら何度も試してみなければ答えは分からないはずである。そうであったろうを根拠にするなら科学は捨てるしかない。可能性の問題ならどんな結果でもありうる。もっと酷い結果も、無傷で終わる結末も、可能性なら捨てれる筈がない。それが可能性というものなのだから。

ならばこの可能性とは単なる希望ではないか、願いではないか。祈りではないか。ならば。この判決は裁判官の願望ではないか。

可能性を主張するなら何度も繰り返し実験しその期待値、確からしさを測定しなければならない。その可能性が高いと主張するためには条件を変えて何度も試してみるしかないはずである。どのような条件が結果を左右するのか。

全く同じ条件でも違う結果が得られるかも知れない。我々が知らないパラメータが潜んでいるかも知れない。

昨日と同じ今日が毎日続くから明日も同じであるとは言えない。極めて同じであるが、世界は少しずつ変わり、ある時、急に大きく動くのではないか。

たった一つの事例で可能性を語られても絶対に確かとまでは言えない。対策をしていれば事故は防げたのか、防げなかったのか。どちらとも言えない。不確かさを根拠にする以上、対策と事故の因果関係は不定である。

国がなんとか出来たのではないか、という人の気持ちは当然だ。悔やんでも悔やみきれない場合、我々は過去のどこかに分岐点がないかと探す。もしああしていたなら。もしかしたら避けられる未来はあったのではないか。この可能性をどうして捨てれよう。希望がそこにある。

だから、これは責任の問題ではない。傷ついた国民に国がどう寄り添うかの問題でもない。我々は未来にまだ希望を託せるのかと聞く。司法の場ではそれを責任という形でしか問えないのである。

こうしていれば避けられたかも知れない。ならば次は必ず失敗しない。今度こそは上手くやって見せる。そう思えるから次に歩き出せる。次こそは失敗しない。同じ過ちは二度としないという自覚だけが次を切り開く。

対策をしていても事故は防ぎようがなかった。最大の努力をしていても結果は同じだった。ならば次の大地震の時も同じ事に見舞われる事になる。それは原子力発電所に賛成、反対をする以前に、なんとも情けない話ではないか。だれか、これは避けえた事故であった。我々がきちんと対策してれば、こんな事故は決して起きなかった。誰か勝利の宣言をしてくれ。

科学的根拠

福島第一原発事故は従前の津波対策で予防できたか−事故以前の想定津波高さ評価と東電の対応の考察−」に科学的知見を負っているのは確かに見える。

かつ、全体の議論の流れも類似している。もしそのままコピーして作ったのだとしたら、それは考える事の放棄だと思う。それで司法と呼べるか。

これに対し、本件事故以前に、我が国における原子炉施設の主たる津波対策として、津波によって上記敷地が浸水することを前提とする防護の措置が採用された実績があったことはうかがわれず、当該防護の措置の在り方について、これを定めた法令等はもちろん、その指針となるような知見が存在していたこともうかがわれないし、海外において当該防護の措置が一般的に採用されていたこともうかがわれない。

そうすると、東京電力が本件試算津波と同じ規模の津波に対する対策等について検討した際に原審のいうような課題を指摘する意見が出されていたからといって、それだけで、東京電力が上記津波に対する対策を講ずることとなった場合に、上記津波による本件敷地の浸水を防ぐことができるように設計された防潮堤等を設置することを断念したであろうと推認することはできず、むしろ、上記防潮堤等の設置を実現する方策が更に検討されることとなった蓋然性が高いというべきであり、そのような検討を尽くしても上記防潮堤等を設置することが不可能又は著しく困難であったことはうかがわれない。(P.8)

全ての事故を絶対に起こしてはならないと言われたら人類は何もできない。誰もやった事のない対策を世界に先駆けてやればそれは素晴らしい事だ。だが、それをしない事で無能のそしりを受けるいわれはない。それを瑕疵とされたらたまらない。

経済産業大臣が上記の規制権限を行使しなかったことを理由として、被上告人らに対し、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を負うということはできない。(P.11)

損害賠償責任

本裁判は、国家に何らかの責任があるかを問うものではない。責任はあるに決まっている。あれだけの事故を起こして国家に責任がないなどありえない。事故後に生まれた人間であっても国会議員になれば責任が発生する。そういう類の事件である。

当然だが官僚や政治家だけの責任でもない。全ての人間で支えなければならない事件である。そして今日も福島第一原子力発電所の解体の為に働いている人がいる。直接的には関係ないとしても全てはどこかで繋がっている。この国の太陽の下で。

賠償の根拠は「故意または過失によって違法に他人に損害を加えた」事が要件である。もし賠償責任があるならそれは国家の犯罪でなければならない。

例えばロシアではプーチンを批判する事は犯罪である。そして裁判官たちは喜んで法に従い有罪判決を出している。もし無罪にしたなら法の遵守から外れる。裁判官の自由はどこにあるか。我が国の憲法はそれを良心に託すとした。

国家が負う責任は自然災害だけではない。ウクライナの人々はロシアから侵略された。さてウクライナにはその戦争を回避できなかった責任は生じるのだろうか。一年も前からロシアが来る可能性があった。果たしてこれは避けえた戦争であったか。その被害の責任を大統領は負うべきであろうか。

憲法は全ての国民に悩む事を求める。正解などなくて当然だ。誰の責任か、簡単に答えが見つかる程この世界は優しくもなければ凶暴でもない。つまり十分に複雑なのである。

それでも悩む為には根拠を積み重ねるしかない。それ以外の方法を人類はまだ開発していない。なぜ故意でも過失でもないと言えるのか。それについては菅野博之が補足意見を添えた。

本件で問題となる国家賠償法上の判断は、上記のような原賠法等に由来する被災者の救済とは異なる問題である。国家賠償法は、いわば国にも不法行為責任を負わせることとしたものであって、通常の不法行為法と同様に、その行為当時の法令、水準、状況等に照らし、平たく言えば、やってはいけないことを行い(不作為の場合は、やらなければいけないことを怠り)、その結果、損害が生じた場合に、これを賠償させるものである。
果たして国家に損害賠償責任があると考えるべきだろうか。その時、当のあなたには責任は発生していないのだろうか。国家に責任があるなら私に責任はない。民主主義にそのような鼓腹撃壌の理想はない。

全部が繋がっていると仮定するのが民主主義の思想である。だれも無関係ではない。だから無視しちゃいけないのである。
私は鹿児島に住んでいた、だから遠く離れた福島の事故には責任がない。私たちは距離の話はしていない。私は何度も危険だと声を上げてきた。それでも聞いてもらえなかった、だから私には責任がない。私たちは智慧の話はしていない。

責任は最終的には無限である。追求が始まったら終わりはない。誰もが責任がある事になってしまう。そんな責任はどんな人間であっても支えられない。だから時に人は自らの命を絶つ。無限の前で永遠の地に向かうしかなくなったのである。

それが果たして我々の理想か。民主主義は責任を問わない事に決めた。全員で肩代わりするなら誰の責任でなくても良いではないか。だからあの爆発音は今日も全ての人の前で鳴っているのではないか。

我々は決して強くない。誰かのせいにしなければ納得できない人もいれば、閉じこもって自戒から抜け出せない人もいる。人の数だけ、それぞれが、それぞれの考え方、感じ方でこの事故と向き合う。正解はない。その悩む姿を我々の憲法は求めている。

裁判と調停

人間は不可視な存在である。全知全能ではない。起きる事象を全て見通す事も予測もできない。我々は一部分を見通すのが精一杯だ。

元来、裁判所の判決は法、およびその理念に照らし裁判官の良心で決まる。判決の結果がどのような社会的な混乱をもたらそうが考慮の範疇には含まれない。それは行政、立法の問題であって司法は何ら困りはしない。

だから、ある判決が例え国家を滅亡させるものであってもそれは司法が躊躇していい理由にはならないのである。断じて躊躇してはならなぬのである。これが司法の原則である。

しかし強すぎる信念は時に狂気になる。ロベスピエールの狂乱のまま人を断罪するのが望ましい信念か。強烈な指導者に良心を差し出す者は後を断たない。可能な限り穏健であるためには、妥協と妥結は欠かせない。それが私の良心であると主張する事も憲法は認めている。

この国で起きた様々な不幸、薬害、公害の被害、事故や事件、司法は常に無力であった。国が本気で潰す気になれば、被害者が死に絶えるまで待てばいいのである。だから訴えなければ時間は取り戻せない。動いた所で敗訴かも知れない。

しかし、裁判官は判決を書かなければならない。それが唯一、裁判官に対して無能と叫ぶ機会である。判決だけで決めてはいけない。判決の中に展開される論理、信条、限界、その先にある願い、恐らく裁判記録というのは挫折の記録なのである。

思うに

原子力発電所事故に対して政府はその責任を負う。その責任から逃れるなどありえない。しかしその責任が損害賠償程度で十分ではあるまい。もし国家に損害賠償の責任があると判決したなら、国家は責任を取る事ができるようになる。

損害賠償を払う事で国家はその責任を果たした事になってしまう。結審したのならこれ以上の責任は追及できないはずである。損害賠償が責任の取り方と決まったのだから。

その程度で忘却してよい程の責任でも事故でもなかったはずである。誰かを罰したり吊るし上げる事で納得できるならそれはもう風化したのだ。

原子力発電所事故の責任を損害賠償で取らせてはいけないのである。凶悪な犯罪者を今すぐ殺せと要求するのとは違う。事故の責任は永年に続けるべきだし、凶悪な犯罪者には一生の苦痛を与え続けるべきなのだ。死などで簡単に忘却させてはいけない。

ロシアのウクライナ侵攻、石油の高騰。地球温暖化による石炭火力への批判。2022年の夏、そして冬には確実に電力が不足すると指摘されている。このような状況において原子力発電が待望されるのは自然だ。

その時、我々はどれ程の安易さで原子力発電所の再開をするのか。我々はそのような民族である。安易に目先の利益に飛びつき過去など簡単に払拭できると信じている。目の前の果実に飛びつかない者を愚かモノと呼ぶ社会なのである。

我々は原子力発電所の安全係数をより高く設定すれば再稼働できると信じている。しかし、係数の低さが事故の原因だったのではない。安全対策など表層の課題に過ぎない。それがより深い部分にあるものを隠す。安全基準が低かったから事故が起きたのだと結論したいだけだ。そうすれば安心できると信じている。

事故を深く検証してゆけば我々の方法論のどこに欠陥があるかを見つける事ができるだろう。如何に強い安全係数を設定しようと数十年もすれば抜け道だけけになる。なぜ我々はそこまで姑息になれるのか。我々の方法論にはどこかにすっぽりと抜け落ちたものがある。次も原子力発電所の爆発程度で済むなら幸運だ。

誰ももう一度同じ目にあったなら次は大丈夫とは自信を持って言えないまま、突き進むのである。電力が足りない、経済力が足りない、競争力が足りない、自然を乱獲すれば豊かになるではないかと信じて疑わない知性。

どうすればあの時と違う道に進めたか。その模索の方法論さえ我々は知らない。だから、きっとあの時と同じ状況になれば、また同じ道を歩む。

まだ忘れてはいけない。この先、数十年も悩んでいるようでなければ国家として話にならない。

国家にはこの事故に対する責任がある、しかし賠償責任で済むような安易な解決はない。如何なる事をしようが国が責任を果たしたと言える日は来ない。常に批判され続ける必要がある。安易に国の責任にして自分の責任を降ろしてはいけない。問い続ける事だけが唯一の手段だ。それだけが時間を動かし続ける。

全ての人がこれで良いだろうとその責任を背負った時、この無限責任が雲散霧消する。その日の青空はきっと。

参考

福島第一原発事故の不都合な真実「巨大津波は想定されていた!?」(NHKスペシャル『メルトダウン』取材班) | ブルーバックス | 講談社(1/6)
2. 福島第一原子力発電所の現状とこれまでに実施してきた対策|東京電力
第4回公判、東電が津波高15.7m「小さくできないか」依頼 : 風のたよりー佐藤かずよし