stylesheet

2013年8月13日火曜日

罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

第四編
ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフと対話した。それは近況を報告する他愛もない話であった。スヴィドリガイロフとは金を持ち、遊惰と淫蕩の人間であった。ラスコーリニコフとは対比にあった。

あれはスヴィドリガイロフだ。妹が家庭教師を務めているとき、侮辱を加えた例の地主さ。あいつが妹の尻を追い廻しやがったために、妹は細君のマルファ・ペトローヴナに追い出され、あすこの家から暇を取らなきゃならなくなったんだよ。そのマルファ・ペトローヴナは、あとでドゥーニャに詫びをしたんだがね、今度とつぜん頓死したんだよ。P29

夜になってラスコーリニコフはラズーミヒンと共に母プリヘーリヤ、妹ドゥーニャの元を訪れた。そこでマルファ・ペトローヴナがドゥーニャに 3000 ルーブリの遺産を残した事、これでお金の心配がなくなった事を告げた。しかしルージンとラスコーリニコフの対立はどうしようもなかった。

「僕に言わせると、あなたなんかのありったけの美点を掻き集めても、あなたがいま石を投げているあの不幸な娘の、小指だけの価値もありゃしない。」
「するとあなたはあの女をご母堂や、ご令妹と一座させるだけの決心がおありですな?」
「それはもう実行しましたよ、もし知りたいとおっしゃれば申しますがね。僕は今日あの娘を、母とドゥーニャと並んで座らせましたよ。」P45

対話が続きルージンの本性が露わとなり、それを知った妹ドゥーニャは婚約を解消する。

「お前これでも恥ずかしくないのかい、ドゥーニャ?」とラスコーリニコフは訪ねた。
「恥ずかしいわ、兄さん。」とドゥーニャはいった。「ピョートル・ペトローヴィチ、とっとと出て行って下さい。」彼女は憤然にさっと蒼褪 (あおざ) めながら、彼の方へ振り向いた。P47

ルージンは去った。ドゥーニャとプリヘーリヤはラズーミヒンと話が弾んでいた。

「ちょっと僕どうしても行かなきゃならないいんだ。」自分のいおうとしたことに動揺を感じるらしい様子で、彼は漠然と答えた。P61

それはラズーミヒンと家族の温かさに当てられたのかも知れない、自分の罪が彼らに及ぼす影響を考えたのかも知れない。ひとつの問題が片付いたので安心したのかも知れない。いずれにしろ暫く会わない事をそこで家族に伝えたのである。

廊下は暗かった。二人はランプの傍に立っていた。一分ばかり、彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺し貫くような視線は、あたかも一刻ごとに力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識を貫くようであった。P63

ラズーミヒンは家族を託された。ラスコーリニコフにはまだ病気の治療が必要だといい、ラズーミヒンは家族を慰めた。

「あなたでしたの、まあ。」ソーニャは弱々しい声で叫び、釘づけにされたように立ち竦 (すく) んだ。P64

ラスコーリニコフはソーニャの部屋を訪れた。

「僕はお前の不名誉や罪悪に対してそう言ったのじゃない。お前の偉大なる苦痛に対していったのだ。」P78

『彼女の取るべき道は三つある。濠へ身投げするか、瘋癲病院へはいるか、それとも最後の方法として、理知を眩しい心を化石させる、淫蕩のただ中へ飛び込むかだ。』最後の想像は彼にとって最も忌まわしいものであった。P80

ラスコーリニコフはソーニャがこのままでは金銭的理由から堕落してゆくという現実を目の当たりにした。

『これが解決だ、これが解決の説明なんだ。』貪るような好奇心を抱いて、しげしげと彼女を見ながら、彼は一人で心に決めてしまった。P82

ソーニャの部屋にはリザヴェータが持ってきた聖書があった。ラスコーリニコフはラザロの復活をソーニャに朗読してくれるようお願いした。ラザロの復活。イエスが「ラザロよ、出てきなさい。」と言うと死んだはずのラザロが復活した。これはイエスを通して復活の予兆として語られてきた物語であった (この話しはカラマーゾフの兄弟へと続く)。

「イエスはまた心を痛ましめて墓に至る。墓は洞にて、その口のところに石を置けり。イエスいいけるは、石を除けよ。死せし者の姉妹マルタ、彼に言いけるは、主よ、彼ははや臭し、死してより既に四日を経たり。」彼女はことさらこの四日という言葉に力を入れた。P88

ラザロの復活を聞く事でラスコーリニコフの心性に何かが起きた訳ではなかった。しかし彼は話したくて堪らなくなった。

「僕はきょう肉親を捨ててしまった。母と妹を。僕はもうあれ達の所へは行かないのだ。あっちですっかり縁を切って来た。」

「今の僕にはお前という人間があるばかりだ。」と彼は言い足した。「一緒に行こうじゃないか。僕はわざわざお前のところへ来たのだ。僕らはお互いに詛 (のろ) われた人間なのだ。だから一緒に行こうじゃないか!」P89

それがふたりを繋ぐと感じたのだ。そして告白することを予告してそこから立ち去った。

「まぁ一体あなたは誰が殺したのか、知っていらっしゃるの?」P92

翌日、質草の説明をするためにラスコーリニコフは警察の予審部を訪れ、そこでポルフィーリイと二度目の対話をする。そこで自分に嫌疑がある事をはっきりと知る。それは人間がぎりぎりで騙し合う戦いであった。

思いがけない贈物は、そら、あすこに、扉の向うのわたしの住いの方にいますよ。へ、へ、へ!(と彼は自分の官舎へ通ずる、仕切り壁に設けた閉った戸口を指した)。逃げて行かないように、鍵をかけて閉じ込んどいたのです。」P125

「貴様は嘘ばかりついているんだ。おれに尻尾を出させようと思って、人をからかっているんだ。」P126

この贈物とはラスコーリニコフに向かって「人殺し」と言った者に違いなかった。何故ならその者こそが決定的な目撃者に違いなかったからだ。しかし、扉の向うから出てきたのは違った。ニコライが飛び込んできて告白を始めたのだ。

「悪うございました!あれはわっしの仕業なので!わっしは人殺しでございます!」と不意にニコライは、いくらか息をはずませてはいたが、かなり高い声でいった。P129

ニコライはせき込みながら、前から用意しておいたらしくこう答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」と憎々しげにポルフィーリイは叫んだ。「肚にもないことを言ってるんだ!」と彼は独り言のように呟いたが、不意にまたラスコーリニコフが眼についた。

「あなただって思いがけなかったでしょう。ほうら、手が、こんなに、震えている!へへ!」
「それにあなたも震えていらっしゃいますね、ポリフィーリイ・ペトローヴィッチ。」
「わたしも慄(ふる)えていますよ。あまり意外だったもんですからね!」P131

ラスコーリニコフは真っ直ぐ家に戻った。考え事をしているラスコーリニコフの所にあの男が扉を開けて入ってきたのである。彼はラスコーリニコフに詫びた。彼はたんにラスコーリニコフに腹を立て嫌がらせをしていた事を詫びた。そしてポリフィーリイの所で昨夜あったことを何もかも話していた事も告げた。つまり、贈物とは彼の事だったのである。彼の憂いは何もかも消え去った。

ラスコーリニコフはソーニャの父親の葬式へと道を急いだ。


第五編
ルージンが大家のレベジャートニコフに頼んでソーニャを呼んでもらった。訪れたソーニャに対して、ルージンは義金募集をすればどうかと勧める。さらにそれについてもっと詳細な話をしたいと申し入れ、それに先んじて自分もわずかながらといい十ルーブリをソーニャに差し出すのであった。レベジャートニコフはその行為に感動して次のように言った。

「わたしは何もかも聞きました。何もかも見ました。」特に最後の言葉に力を入れながら、彼はこう言った。P167

カチェリーナは夫マルメラードフの葬儀の後に法事を開いた。そこには幾人もの人が集まってきていて、ラスコーリニコフもそこに加わった。法事が進むにつれてカチェリーナと大家で客であるアマリヤとの間に口論が起きた。彼女たちは父親や自分達の素性などで激しい口論を戦わせた。これはソーニャの仕事に対する偏見や嫌悪などが原因としてあるものらしかった。

その口論の最中にルージンが訪れた。ルージンはソーニャが百ルーブリを盗んだと主張し始める。

あなたがお尋ね下すったすぐ後で、わたしの所有にかかる百ルーブリ紙幣が、わたしのテーブルの上から一枚なくなったのです。もしどうかしてあなたがそれをご存じで、それがいまどこにあるか教えて下すったら、わたしは名誉にかけて、またここにおられる皆さんを証人として、あなたに誓っていいます。が、ことはそれで済んでしまうのです。

「わたし存じません。わたし少しも存じません」やっとソーニャは弱々しい声で答えた。P193

ソーニャが無実を訴えようとポケットの中身を全て出そうとした時、紙切れが落ちた。ルージンが拾い上げてみるとそれは百ルーブリ紙幣であった。誰もが彼女が盗んだと思った。

憐れな肺病やみの母親カチェリ―ナだけが彼女の無実を信じ訴えるが、誰も説得できなかった。ルージンはそこに同情するように次のように言い放った。

皆さん!わたしは何です、いま個人的に侮辱まで受けたのではありますが、同情の意味でまあ赦して上げてもかまいません。いいですか、マドモアゼーユ、今のこの恥辱を将来の教訓になさるがいい。P202

ルージンはラスコーリニコフの方をちらと見た。彼は燃えるような眼差しで彼を見つめていた。

なんという卑劣なことだ! P203

と戸口の所で叫んだ者がいた。レベジャートニコフであった。彼はルージンを卑劣と呼び、悪党と呼び、下劣と呼んだ。彼はルージンの目撃者であった。彼は言う。

僕が見たんだ、僕が見たんだ!

あなたが紙幣をそっと押し込むのを。P204

ルージンはラスコーリニコフにとって大切と思われるソーニャを貶める事で、彼と妹を仲違いさせ、ドゥーニャをもういちど手にいれようと画策したのであった。その計画は潰えた。母プリヘーリヤと妹ドゥーニャをペテルブルグに連れてくるという役を与えられたルージンはこうして物語から退場する。

その日の夜遅くソーニャの元をラスコーリニコフは訪れる。

さあ、ソフィア・セミョーノヴナ、ひとつ見てみようじゃありませんか、今度はあなたが何をいい出すか!P216

ソーニャと二人きりになって、そこで彼は聞く。もしルージンの企みを知っていたなら、ルージンを破滅させるべきか、それともそれを見過ごしソーニャが監獄に入るべきか。残された家族は破滅し死に至るとしたらどうすべきか。あなたならどうしますかと。

ソーニャは其れに答えていう。

たってわたし、神様の御心を知るわけに行きませんもの。

誰は生きるべきで、誰は生きるべきでないなんて、いったい誰がわたしをそんな裁き手にしたのでしょう? P221

泣き始めた彼女を見つめていた。そこには憎悪があり愛があった。彼は呟いた。

何だって僕はお前ばかりを苦しめに来たんだろう? P223

彼はなぜソーニャに告解しようとしたのだろう。ラスコーリニコフはアリョーナを殺しそれを隠した。しかしソーニャに予告し、いま告白したのだろうか。それをラスコーリニコフの意識から知ろうとする道は閉ざされている。彼の意識を通してそれは理解できない。彼はなぜ語りたかったのか、ただ語る事で己を理解しようとした、としか言い様がない。

ラスコーリニコフはソーニャの味わった屈辱を知っていた。その屈辱が彼を告白へと誘う。彼はソーニャの苦しみを試してみたかった。それが彼女と苦しみを分かち合う事だと知らずに。彼は告げる。老婆を殺害したのは自分であると。ソーニャはそれを聞き、慄いたがすぐにラスコーリニコフを抱きしめた。少なくともラスコーリニコフは二人きりであったから秘密を共有できたのだ。

「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャはいった。「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く!おお神様!ああ、わたしは不幸な女です!なぜ、なぜわたしはもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう!なぜあなたはもっと早く来て下さらなかったの? P228

飢えていた為に殺したのだとしたら、ナポレオンになるために殺したとしたら、学費のために殺したのだとしたら。ラスコーリニコフは幾つもの思い付く限りの理由をソーニャの前で語った。渇きを癒すために殺した。

僕は今、ついたった今、昨日お前をどこへつれて行こうといったのか、はじめてわかったよ!昨日ああいった時には、僕自身もどこかわからなかったんだ。僕が頼んだのも、ここへやって来たのも、目的はたった一つだ。P231

『人間は虱かどうか?』などという問いを自ら発する以上、人間は僕にとって虱じゃない、ただこんな考えを夢にも頭に思い浮かべない人にとってのみ、何ら疑問なしに進み得る人にとってのみ、初めて人間は虱であることを、P240

俺はふるえおののく一介の虫けらか、それとも権利を持つものか・・・」
「人を殺す?人を殺す権利を持ってるんですって?」P241

自分が虱であることを証明するために人を殺した。その試験をするためだけに犯行に及んだと告白する。そしてラスコーリニコフはソーニャに対して問う、僕はどうしたらいい?と。彼に対してソーニャは謂う。

お立ちなさい。すぐに今すぐ行って四つ辻にお立ちなさい。そして身をかがめてまずあなたが穢した大地に接吻なさい。それから世界中四方八方へ頭を下げてはっきり聞こえるように大きな声で。P242

そこへレベジャートニコフがソーニャを訪問し母カチェリーナの発狂を告げた。カチェリーナは往来で発狂したかのように子供達を踊らせている。それは踊り乞食になろうとする哀しみであった。そこへスヴィドリガイロフがやってくる。彼はソーニャの子供達を金銭面で援助することを約束した。

往来で倒れたままソーニャの母カチェリーナは死んだ。死を看取った部屋の隅でスヴィドリガイロフはラスコーリニコフにソーニャへの告白を盗み聞きした事を告げる。


第六編
ラスコーリニコフは混乱していた。ふたりの秘密がそうではないと知ったから。ラズーミヒンが訪れてポルフィーリイから犯人が捕まったと聞く。彼は急に霧が晴れたように気になった。

ポルフィーリイのところでミコールカの一件を見て以来、おれは出口もない狭くるしい中で、息がつまりそうだった。ミコールカ事件の後で、同じ日にソーニャのところでも一番あった。おれはその一幕を、予期したのとは全然ちがった結末にしてしまった・・・つまり瞬間的に、急激に心が弱ったのだ。P285

一人になったラスコーリニコフのもとへ不意にポルフィーリイが来訪した。これが最後の対決だった。

そりゃあなたが殺したんですよ。ロジオン・ロマーヌイチ。P303

あなたは今ちと空気が足りない。空気が、空気がな。P310

あなたはいつ僕を逮捕するつもりです?
さあ、まだ一日半か二日くらいは、あなたに散歩させて上げましょう。P311

二人は話しを終え別れた。ラスコーリニコフは勝利を確信していたが、確かめなければならない事があると考え、自分の有罪を決定的にする事ができるスヴィドリガイロフを訪れた。スヴィドリガイロフはその秘密を誰かに話す気など毛頭ないと告げる。

あなたが何者かですって? P327

彼は秘密をある事に使う計画を企てていた。

シルレルよ、シルレルよ、わがシルレルよ。P349

ラスコーリニコフは彼が妹に何かをしようとしている事に気付いた。

さあ、あなたは右へ、わたしは左へ。でなければ、その反対かな。とにかく、adieu, mon plaisir. (さらば、わが喜びよ) またお目にかかりましょう。P350

スヴィドリガイロフはエラーギン島に行くふりをしてラスコーリニコフを撒いた。そしてまんまとふたりきりでドゥーニャと密会したのだ。兄ラスコーリニコフの秘密を使ってドゥーニャを自分のものにしようと画策した上での行動だった。自分はこれでドゥーニャに愛されると彼は信じ込んでいた。

あなたが、わずかあなたの一ことで、兄さんは救われるんです!P369

しかしドゥーニャはそれと対峙し決別しはっきりと別離する。

したけりゃ告訴するがいい。一歩たってそこを動いたら!撃ってしまうから。お前は奥さんを毒殺したじゃないか、わたしはちゃんと知っている。お前こそ人殺しだ。P372

拒絶されたスヴィドリガイロフは茫然とする。

もし仮にそれが真実だとしても、それもお前のためなんだ。P373

ドゥーニャはスヴィドリガイロフに向かって銃を撃つ。

「じゃ、愛はないの?」と彼は小声に訊ねた。P375

はっきりと悟ったスヴィドリガイロフはドゥーニャを帰した。ふたりの間には何の秘密もなかった。

中にはまだ弾丸が3つと雷管が一つ残っていた。いま一度撃てるわけだ。P377

スヴィドリガイロフはその夜にソーニャを訪れた。彼女の金銭面での問題を解決した事を告げる。

なあに、アメリカまで行こうというものが、雨を怖れていてどうしますか。P382

そういって雨の中に出て行き一晩飲み明かした。そして最後の夢を見る。それは5つの女の子を助けようとする夢であった。しかしその女の子は絡み付くように彼を締め付けた。

何かしらずうずうしい挑発的なものが、まるで子供らしくないその顔に光っている。それは淫蕩である。それは娼婦カメリアの顔である。P395

スヴィドリガイロフはその夜を苦しんで過ごした。

夜が明けた。スヴィドリガイロフは陽気に通りに出た。

スヴィドリガイロフはピストルを取り出して、引き金を上げた。

いい場所じゃないか。もし聞かれたら、アメリカへ行ったと答えときなさい。P398

彼は引き金を下した。そのピストルだけがドゥーニャと彼とを結ぶ唯一つのそして絶望の中に残った最後のものであった。彼は死んだ。


ラスコーリニコフは母親を訪ねた。そこで彼は母への愛の告白をする。

僕はね、お母さん、僕がいつもお母さんを愛していたことをはっきり知って頂くためにやってきたのです。P404

旅に行くんです。P405

ドゥーニャに告げる。

僕はこの恥辱を逃れるために身を投げようと思ったんだよ。もしおれが今まで自分を強者と思っていたんなら、今だってこんな恥辱を怖れるものかってね。P409

罪?一体どんな罪だい? P410

僕は人類のために善を望んだんだ。P411

「実はね、僕はこの女を相手に度々あのことを話し合ったんだよ。ただこの女ひとりだけと」P413

この女とは熱病で死んだ下宿のお主婦の娘である。

この女もお前と同じように同意はしなかったよ。だらか僕は、あの女がいまいないのを喜んでいる。P414

思い出に中にいる彼女だけが彼を愛したただひとりの人かも知れなかった。

なぜ今そのほうへ進んでいるのだろう? P415

ラスコーリニコフはソーニャの部屋を訪れて言う。

俺はやくざな卑劣漢だ、卑劣漢だ!P421

日が明けた。ラスコーリニコフはソーニャが言った言葉を思い出しその通りにする事に幸せを感じた。

土の面に頭をかがめ歓喜と幸福を感じながらその汚い土に接吻した。P423

それから警察へと入った。そこで自首しようとした時に、しかし自分に気付かぬ警察に彼はまだ助かると思い警察から出てきた。そこで

死人のように真っ蒼な顔のソーニャが立っていて、何とも言えない恐ろしい目付きで彼を見つめていた。P432

それを見つけたラスコーリニコフは

彼はしばらく立っていて、やがてにたりと笑うと、また階上の警察へと引返した。

そして自らの犯行を警察に告げたのである。


エピローグ
シベリアで 10 年の刑を受けたラスコーリニコフの後を追ってソーニャも刑務所の近くに居を構えた。彼女はラスコーリニコフの近況を手紙でドゥーニャやラズーミヒンに書き送っていた。

突然、彼の傍らにソーニャが訪れた。P455

彼女はついに悟った。男が自分を愛している。しかも限りなく愛しているという事は、彼女にとってもう何の疑いもなかった。ついにこの時間が到来したのである。

突如としてエピローグは小説史上でもっとも甘美で美しく終わる。作者はここで勝った、とそう叫んでいるはずである。

しかしそこにはもう新しい物語が始まっている。P458

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳


(退屈かと問われれば退屈、だがこのエピローグは小説史上 No.1)

2013年8月9日金曜日

もし7月に敗戦したりなば

ソ連の参戦と原爆投下がなかったら…その後の世界はどうなっていただろうか。

原爆投下もなくソビエト参戦もなかった世界。原爆はどこか他の場所に落とされ、満州国は失われ、樺太、北方四島は日本の領土として残り、台湾、朝鮮は独立した世界。今と大きく変わらない気もするし、全く違う世界になる気もする。

1945 年 7 月よりもっと早く、カイロ宣言の前に講和が成立していたらどうだっただろうか。帝国憲法はそのまま残り、戦前の欠陥が是正されないまま続く。憲法改正はされず、民主化も今と異なり、女性参政権もなく、農地改革も行われず、財閥解体もない世界。GHC がこれらの戦後のレールを敷いた。それが戦争の原因と考えたからでもある。そうならず天皇の統帥権が独走し、機関説を排除し、特別高等警察が取り調べをする世界が続いていたとしたら。そのような社会体制で戦後の経済成長が可能であったかは疑わしい。

早期講和により国際連合には加盟してもアメリカとは同盟せず民主主義も構築できず軍部の統帥権を巡る争いが空軍の参加で更に激しくなる。そんな国は遅かれ没落したであろう。経済疲弊を起こしアメリカに軍事基地を置いてもらい発展途上国として生きる道しか残されない。アメリカと敵対を続け、膨れる軍事予算と人員の損失で経済発展のできない国になる可能性もあった。

早期講和では日本の中にある問題が何ら変わらず、再び中国大陸に派兵した可能性さえある。軍部を統帥しきれずにクーデターが起きた可能性もある。いずれにしろ戦後の世界に対応できず、経済発展もできず、古い統治システムからも脱却できず、兵装も次第に古くなり、核兵器の開発に苦労して着手するしかなかった可能性がある。

戦後の経済発展はアメリカを巨大市場とした結果である。それはアメリカと同盟を結び軍備を解体し西側の橋頭堡としてアジアに存立したから可能であった。それに幾つもの幸運が重なった結果である。焼野原を見た日本人は 100 年は二等国として生きていく覚悟であった。復興など遠い先だと実感していた。

中国大陸の状況はどう変わるだろうか。講和により軍部が中国大陸から撤退できたとすれば、国共内戦の行く末は分からない。日本が作り出した中国大陸の均衡に真空地帯が生まれ、そこに中国の人たち、中国国民党か共産党かの争いが入り込む。

この戦争によって中国に東西の境界線が引かれ、自由主義の中国と共産主義の中国が生まれた可能性もある。そこには東西ドイツを遥かに超える巨大な冷戦の壁が築かれる。朝鮮半島はすべてを共産圏に取り込まれてしまうだろう。大陸に西側の防波堤にたる国が誕生した以上、朝鮮半島に西側の拠点を築く必要はなくなった。任那と同様に半島の先だけに存在する国家を維持するのは困難だ。アメリカは中国大陸と日本を橋頭堡として東と対立する。

この大陸に生まれた資本主義国家中国はアジアでも重要な中心的な役割を演じる。日本は発展途上国となりアメリカの援助を受ける立場に没落してもおかしくない。ソビエトを封鎖する目的でアメリカは北海道に基地を置く。このシナリオでは、中国に生れた巨大な資本主義市場がアジアの戦後経済を牽引する。現実の世界ではこの架空資本主義国家中国の代わりに日本が発展した。


だがこのシナリオは空想すぎる。そんなに早く講和する事はないし、軍部の撤退も不可能であった。それが出来るくらいなら支那事変も起きず、アメリカと対立もせず、仲良く中国の利権を山分けできた。

7 月に講和をしていたとして変わらないものがある。GHQ の占領も東京裁判も行われる。帝国憲法は改憲され支配地域も失う。中国には共産党政権が誕生しただろうし、冷戦構造が変わらぬ以上、朝鮮戦争も勃発する。日本は、戦争放棄と経済への特化により朝鮮特需の恩恵を受け取れたであろう。

しかし原爆が日本に使われていなかったので、その後のどこかで使われるのは確実であった。その可能性は朝鮮戦争にある。広島長崎よりも遥かに徹底してどこかの戦場を破壊しただろう。だが世界にその悲惨さを訴える人たちは登場しなかったかも知れない。戦争において核兵器の有効性が証明される前例になったかも知れない。それは遠からず冷戦を第三次世界大戦へと導いたかも知れない。少なくとも「はだしのゲン」は生まれなかった。


日本という小国は、ロシアへの恐怖から逃れるためにアメリカと戦争をした。地政学的にロシアへの恐怖があり、アメリカと戦争をし敗戦する事で、日本はアメリカと軍事同盟を結んだ。それによって初めてロシアの恐怖から解放された。アメリカと同盟するために日本は敗戦したさえ言える。

日本は常にロシアへの恐怖に怯え日露戦争の勝利も問題の解決に至らなかった。アメリカとの戦争も根っこにはロシアへの恐怖があった。軍部の独走もロシアへのヒステリーであった。

もし日本が早期講和を出来たのならクーデターの可能性を排除できていたという事である。4 月に発足した鈴木貫太郎内閣もそこに腐心した。そこにだけ腐心した。一番警戒すべきは陸軍であった。

アメリカと講和するなど何ら難しい話しではなかった。クーデターさえなければ。クーデターを起こさずそこまで持ち込む事が非常の困難であった。当時の日本にとって講和でさえ外交問題ではなく、内政問題であった。あの戦争は日本からすれば単なる内政問題の延長でしかなかった。

もし軍事クーデターが起きていれば講和は出来なかった。その時に天皇、政府がどうなっていたか分からない。その後の歴史も全く違う。独立さえ失われている可能性だってある。

このような狂信的な行動を 20 世紀のアジアで最初にやったのは日本である。おまえら滅びる気か、としか思えぬ中で困難な舵取りをしたのが鈴木貫太郎とその内閣であった。彼は首相に就任してそうそう、ルーズベルトの死去に対して哀悼の意を表する海外向けの放送を行った。と同時に国内に向けては、戦争継続、一億火の玉を語っていたのである。

何故か。彼らは軍部によるクーデターだけを恐れた。それに死を賭した。その暴走さえ押さえ付けられるなら、沖縄で何人が死のうが、広島長崎で何人が焼かれようが、どこそこで空襲があろうが構わなかった。それらの悲しみもクーデターよりは耐えられた。彼らはアメリカと戦争をしていたのではない。軍部のコントロールに躍起になっていた。その片手間で戦争をしていたのである。

2013年8月1日木曜日

姦通の女 - 罵倒すること、無視すること、権利について、正義とは何か

ヨハネによる福音書第8章
彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

なぜ人々はイエスの前から去って行ったのか。誰も石を投げる資格がない事を自覚したからか。ならばなぜイエスの言葉を待っていた人たちまでもイエスの前から去って行ったのか。誰もイエスの言葉を待っていなかったのか。いずれにしろ、イエスでさえ、群衆の思う所を変えることはできなかった。ただ石を投げるのを留めただけだ。

戦後、フランスでは何人もの女性が丸坊主にされた。フランス人自身の手によって。「戦争に負けたお前たち男が悪いんじゃないか、負けたお前たちの後始末をして生きてきただけじゃないか。」

正義を無条件の善と見做すことは危険だ。しかし正義がないのも危険だ。では何をもって正義と呼ぶべきか。

(これからの「正義」の話をしよう - マイケル・サンデル)

空の高い所に木の枝が伸びている。それに人類の誰か一人でも触れる事ができたなら、人類は新しいステージに進む事ができる。

人は一生に一度だけその枝に触れようとする事ができる。失敗すれば命はない。その枝に向って飛び上がってみるのだ。もし触れる事ができなければ崖の下に落ちて必ず死ぬ。

昔から理想を追うものは死を厭わず枝に触ろうとした。まだ誰も触れたものはなく、多くの人は飛び上がろうともせずに、ただ生きた。そういう人たちは理想を追わぬ敗北者であろうか。

いいや彼等は自分ではそれに触る事ができぬと知っている。自分で枝に飛びつこうとする代わりに、静かに石を積み上げている。自分達では届かぬとしても、次の子へ、また次の子へと託そうとして。

もし不幸にして子が持てぬ者も、社会の中で、誰かの子に触れ、静かに石を積み上げている。いつか、誰かが枝に触れる。それが自分である必要はない。

人は自分を悪人と信じて生きて行けるものではないし、不満を抱えて生きて行けるものでもない。だから罵倒には必ずその根底に正義が潜んでいる。

罵倒、侮蔑、誹謗中傷の特徴は、他人への強制にある。全ての罵倒がそういう構造をしている。罵倒は意見でも議論でもない。

考え方が人の間で異なるのは当たり前だが、違うと表明するには、違いを説明する必要がある。異なる意見には、そう考える根拠や前提がある。経験から得られた理念が違えば、考え方は異なりうる。

違うとか間違えているとか言いたいのであれば、説明がいる。自分の方が正しいと言いたいのであれば、聞く方に分かるように伝える必要がある。どうして違うのか、何が違うのか。それを相手に推測せよと強制しても、理解が通ずるとは限らない。自分は理解してもらえると信じる事は、寂しさかも知れない。

何かが気に食わない、そう思うなら、そこから始めて何かを語るならば、それは自分自身を語る事だと気付くはずである。


マスコミはこのニュースを流す時に、最初は躊躇していた。どう世論が反応するか分からないというスタンスであった。世間はこれを拒絶するのか受け入れるのか。だから世論の動向を見て、自分達の立ち位置を決めようとした。マスコミの仕事は権力の監視ではない。可能ならば誘導してでも、世論を最大に増幅する事だ。マスコミは世論の増幅器である。幾つもの反応を見ながら、より巨大な増幅器であろうとする。

その時のとっかかりになるのが敏感過ぎるセンサーな人たちだ。それは例えば火災報知器のようなものだ。もしそれが煙草を吸っただけで反応するなら役に立たない。台所で天ぷらを揚げているだけで警報が鳴っては使い物にならない。50 ベクレルの放射線量で避難しなければならないなら実の用を成さない。

そういう敏感すぎるセンサーな人に注目する (逆に鈍感すぎる人もいる)。そういう人の反応がどれだけ広がるかに注目する。その広がり方で方針を決めるわけだ。どのような事も最初は小さく始まる。それがどれほど巨大な流れになるか、ならないかは誰にも分からない。それでも最初の警報を見逃さない方がいい。どうなるかは分からなくとも。

耳をすまし、まだ対応する必要はない、何故ならこういう理由があるからだ、と説明できる態度でいる。聞かなければならない、無視してはならない、だが鵜呑みにしない。

(歴史は「べき乗則」で動く - Mark Buchanan, 水谷淳)

我々は誰かを奴隷とするような権利を持っているだろうか?もちろん権利はある。したければしてみるがいい。そのためには現在の法制度と世論と非難を封じ込めるだけの財力や武力があればいい。それだけの話しである。誰かを奴隷にすることは決して不可能ではない。そういう立場にある者は、その権利があると言って良い。

われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。
アメリカ独立宣言

基本的人権は無償で我々に与えられたものか。もちろん否である。だから「信じる」と書いてある。生れながらにして有している権利とは、トマス・ホッブス (Thomas Hobbes, 1588 - 1679) の唱えた自然権であるとか、

自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。
トマス・ホッブズ

ジョン・ロック (John Locke, 1632 - 1704) の自然状態や

自然状態下において、人は全て公平に、生命、健康、自由、財産、所有の諸権利を有する。誰もが自由であり、誰もが他の者の諸権利に関与する権限はない。
ジョン・ロック

ルソー (Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778) の自然状態への考察

人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態は既に社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している
ジャン=ジャック・ルソー

で明白にされた考えだ。これは大切な概念であるが権利は無償ではないし無制限でもない。

例えあらゆる権利が無償で無条件に与えられているとしても、その権利の行使までが無償で無条件ではない。権利はあってもそれを行使するには対価がいる。それが払えなければ行使できない。社会契約や抵抗権があっても無償で結果を得られるものではない。もし権利を行使するために国家が必要なら税を払い選挙を行い社会を営んでゆかねばならない。

(リンカーン - Doris Kearns Goodwin, 平岡 緑)

では子供を産む権利はどうであろうか。この権利も無償ではないし制限がある。生まれてきた子供が有する権利も無償ではないし無制限でもない。あらゆる権利には、対価が必要であり、それを払わねば行使できない。もっとも簡単な対価は、食べる事だろう。権利があっても食べ物がなければ死んでゆくしかない。

では誰が誰に対して払うべきものか。子供を産む産まないは地球に生まれた生物が獲得した能力であって、どこの馬の骨とも分からない男と子供を作って、のら猫のように子供を産む、という話しは枚挙に暇がない。まぁこれが正解。妊娠、出産というものは、基本的にそういうものだ。太古おそらく 5 億年も続いた生命のシステムである。人間の自由にはならない。

それをコントロールすべきと主張する人がいる。もちろん、自分がそう考え、そう行動するのは自由である。それは権利である。それに対して払う対価は自分の人生である。

だが、他人に対してそう主張したければ、その権利の行使にはもっと多くの対価を払う必要がある。彼女に対して、どういう代価を払う事で罵倒する権利を得ているのか。彼女は有名人であり、私達の応援で生計を立てている、それを言う権利があるはずだ、彼女には税金が投入されている、それを払ったのは私なのだから。

なぜその程度の代価で、彼女の出産や新しく生まれた子供を罵倒する権利があると思えるのか。それは 100 円を払ったらどんなものでも買えると信じているのに等しい。それでは罵倒の対価を払っていない。

そう考えると罵倒というのは、必要な対価を払わずに権利を行使していると言える。それは窃盗だ。対価を払わずに権利を行使しているのだから。罵倒する人がいる。彼等は自分の感情をコントロールできず、相手の主張も理解できず、今後の人生で罵倒した人と交わる事さえ想像できない。

対価を払っていない以上、それは正義とは言えない。逆に言えば、正義とは対価によって決まると言えるだろうか。正義とは代価を払った権利の行使であると。

それでも罵倒する人は、まだ優しい人だ。どういう形であれ、誰かとコミットメントしようと努め、どういう形であれ繋がりを持とうとしている。人はあくまで社会的な動物であるというひとつの現れと思われる。

興味がないも権利の行使である。そこに代価を払う価値を認めないと言う事だ。ところで無視もまた対価を払う必要を認めていない。興味がないは行使しないという選択であり、無視は行使を拒絶する選択だ。無知は無視でさえない。そして無知である事は悪人にならぬ優れた方法である。

誰かが子供を産もうが生むまいが、誰の子であろうがあるまいが興味はない。彼女の子供と同じ日に生まれた子が世界中に何人いるのか。そのひとりひとりに、父と母がいる、そこにある関係が幸せなものとは限らない。

無視は恐ろしい。だが、無視もまた人の繋がりである。罵倒の傲慢さは恐ろしい。だが、誰かとそれでも結び付こうとする優しさがある。

イエスでさえ誰かの考えを変える事は出来なかった。それでも彼は対価を払えと言ったのだ。そう言ったのだ。