彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
なぜ人々はイエスの前から去って行ったのか。誰も石を投げる資格がない事を自覚したからか。ならばなぜイエスの言葉を待っていた人たちまでもイエスの前から去って行ったのか。誰もイエスの言葉を待っていなかったのか。いずれにしろ、イエスでさえ、群衆の思う所を変えることはできなかった。ただ石を投げるのを留めただけだ。
戦後、フランスでは何人もの女性が丸坊主にされた。フランス人自身の手によって。「戦争に負けたお前たち男が悪いんじゃないか、負けたお前たちの後始末をして生きてきただけじゃないか。」
正義を無条件の善と見做すことは危険だ。しかし正義がないのも危険だ。では何をもって正義と呼ぶべきか。
空の高い所に木の枝が伸びている。それに人類の誰か一人でも触れる事ができたなら、人類は新しいステージに進む事ができる。
人は一生に一度だけその枝に触れようとする事ができる。失敗すれば命はない。その枝に向って飛び上がってみるのだ。もし触れる事ができなければ崖の下に落ちて必ず死ぬ。
昔から理想を追うものは死を厭わず枝に触ろうとした。まだ誰も触れたものはなく、多くの人は飛び上がろうともせずに、ただ生きた。そういう人たちは理想を追わぬ敗北者であろうか。
いいや彼等は自分ではそれに触る事ができぬと知っている。自分で枝に飛びつこうとする代わりに、静かに石を積み上げている。自分達では届かぬとしても、次の子へ、また次の子へと託そうとして。
もし不幸にして子が持てぬ者も、社会の中で、誰かの子に触れ、静かに石を積み上げている。いつか、誰かが枝に触れる。それが自分である必要はない。
人は自分を悪人と信じて生きて行けるものではないし、不満を抱えて生きて行けるものでもない。だから罵倒には必ずその根底に正義が潜んでいる。
罵倒、侮蔑、誹謗中傷の特徴は、他人への強制にある。全ての罵倒がそういう構造をしている。罵倒は意見でも議論でもない。
考え方が人の間で異なるのは当たり前だが、違うと表明するには、違いを説明する必要がある。異なる意見には、そう考える根拠や前提がある。経験から得られた理念が違えば、考え方は異なりうる。
違うとか間違えているとか言いたいのであれば、説明がいる。自分の方が正しいと言いたいのであれば、聞く方に分かるように伝える必要がある。どうして違うのか、何が違うのか。それを相手に推測せよと強制しても、理解が通ずるとは限らない。自分は理解してもらえると信じる事は、寂しさかも知れない。
何かが気に食わない、そう思うなら、そこから始めて何かを語るならば、それは自分自身を語る事だと気付くはずである。
マスコミはこのニュースを流す時に、最初は躊躇していた。どう世論が反応するか分からないというスタンスであった。世間はこれを拒絶するのか受け入れるのか。だから世論の動向を見て、自分達の立ち位置を決めようとした。マスコミの仕事は権力の監視ではない。可能ならば誘導してでも、世論を最大に増幅する事だ。マスコミは世論の増幅器である。幾つもの反応を見ながら、より巨大な増幅器であろうとする。
その時のとっかかりになるのが敏感過ぎるセンサーな人たちだ。それは例えば火災報知器のようなものだ。もしそれが煙草を吸っただけで反応するなら役に立たない。台所で天ぷらを揚げているだけで警報が鳴っては使い物にならない。50 ベクレルの放射線量で避難しなければならないなら実の用を成さない。
そういう敏感すぎるセンサーな人に注目する (逆に鈍感すぎる人もいる)。そういう人の反応がどれだけ広がるかに注目する。その広がり方で方針を決めるわけだ。どのような事も最初は小さく始まる。それがどれほど巨大な流れになるか、ならないかは誰にも分からない。それでも最初の警報を見逃さない方がいい。どうなるかは分からなくとも。
耳をすまし、まだ対応する必要はない、何故ならこういう理由があるからだ、と説明できる態度でいる。聞かなければならない、無視してはならない、だが鵜呑みにしない。
我々は誰かを奴隷とするような権利を持っているだろうか?もちろん権利はある。したければしてみるがいい。そのためには現在の法制度と世論と非難を封じ込めるだけの財力や武力があればいい。それだけの話しである。誰かを奴隷にすることは決して不可能ではない。そういう立場にある者は、その権利があると言って良い。
われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。
アメリカ独立宣言
基本的人権は無償で我々に与えられたものか。もちろん否である。だから「信じる」と書いてある。生れながらにして有している権利とは、トマス・ホッブス (Thomas Hobbes, 1588 - 1679) の唱えた自然権であるとか、
自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。
トマス・ホッブズ
ジョン・ロック (John Locke, 1632 - 1704) の自然状態や
自然状態下において、人は全て公平に、生命、健康、自由、財産、所有の諸権利を有する。誰もが自由であり、誰もが他の者の諸権利に関与する権限はない。
ジョン・ロック
ルソー (Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778) の自然状態への考察
人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態は既に社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している
ジャン=ジャック・ルソー
で明白にされた考えだ。これは大切な概念であるが権利は無償ではないし無制限でもない。
例えあらゆる権利が無償で無条件に与えられているとしても、その権利の行使までが無償で無条件ではない。権利はあってもそれを行使するには対価がいる。それが払えなければ行使できない。社会契約や抵抗権があっても無償で結果を得られるものではない。もし権利を行使するために国家が必要なら税を払い選挙を行い社会を営んでゆかねばならない。
では子供を産む権利はどうであろうか。この権利も無償ではないし制限がある。生まれてきた子供が有する権利も無償ではないし無制限でもない。あらゆる権利には、対価が必要であり、それを払わねば行使できない。もっとも簡単な対価は、食べる事だろう。権利があっても食べ物がなければ死んでゆくしかない。
では誰が誰に対して払うべきものか。子供を産む産まないは地球に生まれた生物が獲得した能力であって、どこの馬の骨とも分からない男と子供を作って、のら猫のように子供を産む、という話しは枚挙に暇がない。まぁこれが正解。妊娠、出産というものは、基本的にそういうものだ。太古おそらく 5 億年も続いた生命のシステムである。人間の自由にはならない。
それをコントロールすべきと主張する人がいる。もちろん、自分がそう考え、そう行動するのは自由である。それは権利である。それに対して払う対価は自分の人生である。
だが、他人に対してそう主張したければ、その権利の行使にはもっと多くの対価を払う必要がある。彼女に対して、どういう代価を払う事で罵倒する権利を得ているのか。彼女は有名人であり、私達の応援で生計を立てている、それを言う権利があるはずだ、彼女には税金が投入されている、それを払ったのは私なのだから。
なぜその程度の代価で、彼女の出産や新しく生まれた子供を罵倒する権利があると思えるのか。それは 100 円を払ったらどんなものでも買えると信じているのに等しい。それでは罵倒の対価を払っていない。
そう考えると罵倒というのは、必要な対価を払わずに権利を行使していると言える。それは窃盗だ。対価を払わずに権利を行使しているのだから。罵倒する人がいる。彼等は自分の感情をコントロールできず、相手の主張も理解できず、今後の人生で罵倒した人と交わる事さえ想像できない。
対価を払っていない以上、それは正義とは言えない。逆に言えば、正義とは対価によって決まると言えるだろうか。正義とは代価を払った権利の行使であると。
それでも罵倒する人は、まだ優しい人だ。どういう形であれ、誰かとコミットメントしようと努め、どういう形であれ繋がりを持とうとしている。人はあくまで社会的な動物であるというひとつの現れと思われる。
興味がないも権利の行使である。そこに代価を払う価値を認めないと言う事だ。ところで無視もまた対価を払う必要を認めていない。興味がないは行使しないという選択であり、無視は行使を拒絶する選択だ。無知は無視でさえない。そして無知である事は悪人にならぬ優れた方法である。
誰かが子供を産もうが生むまいが、誰の子であろうがあるまいが興味はない。彼女の子供と同じ日に生まれた子が世界中に何人いるのか。そのひとりひとりに、父と母がいる、そこにある関係が幸せなものとは限らない。
無視は恐ろしい。だが、無視もまた人の繋がりである。罵倒の傲慢さは恐ろしい。だが、誰かとそれでも結び付こうとする優しさがある。
イエスでさえ誰かの考えを変える事は出来なかった。それでも彼は対価を払えと言ったのだ。そう言ったのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿