ソ連の参戦と原爆投下がなかったら…その後の世界はどうなっていただろうか。
原爆投下もなくソビエト参戦もなかった世界。原爆はどこか他の場所に落とされ、満州国は失われ、樺太、北方四島は日本の領土として残り、台湾、朝鮮は独立した世界。今と大きく変わらない気もするし、全く違う世界になる気もする。
1945 年 7 月よりもっと早く、カイロ宣言の前に講和が成立していたらどうだっただろうか。帝国憲法はそのまま残り、戦前の欠陥が是正されないまま続く。憲法改正はされず、民主化も今と異なり、女性参政権もなく、農地改革も行われず、財閥解体もない世界。GHC がこれらの戦後のレールを敷いた。それが戦争の原因と考えたからでもある。そうならず天皇の統帥権が独走し、機関説を排除し、特別高等警察が取り調べをする世界が続いていたとしたら。そのような社会体制で戦後の経済成長が可能であったかは疑わしい。
早期講和により国際連合には加盟してもアメリカとは同盟せず民主主義も構築できず軍部の統帥権を巡る争いが空軍の参加で更に激しくなる。そんな国は遅かれ没落したであろう。経済疲弊を起こしアメリカに軍事基地を置いてもらい発展途上国として生きる道しか残されない。アメリカと敵対を続け、膨れる軍事予算と人員の損失で経済発展のできない国になる可能性もあった。
早期講和では日本の中にある問題が何ら変わらず、再び中国大陸に派兵した可能性さえある。軍部を統帥しきれずにクーデターが起きた可能性もある。いずれにしろ戦後の世界に対応できず、経済発展もできず、古い統治システムからも脱却できず、兵装も次第に古くなり、核兵器の開発に苦労して着手するしかなかった可能性がある。
戦後の経済発展はアメリカを巨大市場とした結果である。それはアメリカと同盟を結び軍備を解体し西側の橋頭堡としてアジアに存立したから可能であった。それに幾つもの幸運が重なった結果である。焼野原を見た日本人は 100 年は二等国として生きていく覚悟であった。復興など遠い先だと実感していた。
中国大陸の状況はどう変わるだろうか。講和により軍部が中国大陸から撤退できたとすれば、国共内戦の行く末は分からない。日本が作り出した中国大陸の均衡に真空地帯が生まれ、そこに中国の人たち、中国国民党か共産党かの争いが入り込む。
この戦争によって中国に東西の境界線が引かれ、自由主義の中国と共産主義の中国が生まれた可能性もある。そこには東西ドイツを遥かに超える巨大な冷戦の壁が築かれる。朝鮮半島はすべてを共産圏に取り込まれてしまうだろう。大陸に西側の防波堤にたる国が誕生した以上、朝鮮半島に西側の拠点を築く必要はなくなった。任那と同様に半島の先だけに存在する国家を維持するのは困難だ。アメリカは中国大陸と日本を橋頭堡として東と対立する。
この大陸に生まれた資本主義国家中国はアジアでも重要な中心的な役割を演じる。日本は発展途上国となりアメリカの援助を受ける立場に没落してもおかしくない。ソビエトを封鎖する目的でアメリカは北海道に基地を置く。このシナリオでは、中国に生れた巨大な資本主義市場がアジアの戦後経済を牽引する。現実の世界ではこの架空資本主義国家中国の代わりに日本が発展した。
だがこのシナリオは空想すぎる。そんなに早く講和する事はないし、軍部の撤退も不可能であった。それが出来るくらいなら支那事変も起きず、アメリカと対立もせず、仲良く中国の利権を山分けできた。
7 月に講和をしていたとして変わらないものがある。GHQ の占領も東京裁判も行われる。帝国憲法は改憲され支配地域も失う。中国には共産党政権が誕生しただろうし、冷戦構造が変わらぬ以上、朝鮮戦争も勃発する。日本は、戦争放棄と経済への特化により朝鮮特需の恩恵を受け取れたであろう。
しかし原爆が日本に使われていなかったので、その後のどこかで使われるのは確実であった。その可能性は朝鮮戦争にある。広島長崎よりも遥かに徹底してどこかの戦場を破壊しただろう。だが世界にその悲惨さを訴える人たちは登場しなかったかも知れない。戦争において核兵器の有効性が証明される前例になったかも知れない。それは遠からず冷戦を第三次世界大戦へと導いたかも知れない。少なくとも「はだしのゲン」は生まれなかった。
日本という小国は、ロシアへの恐怖から逃れるためにアメリカと戦争をした。地政学的にロシアへの恐怖があり、アメリカと戦争をし敗戦する事で、日本はアメリカと軍事同盟を結んだ。それによって初めてロシアの恐怖から解放された。アメリカと同盟するために日本は敗戦したさえ言える。
日本は常にロシアへの恐怖に怯え日露戦争の勝利も問題の解決に至らなかった。アメリカとの戦争も根っこにはロシアへの恐怖があった。軍部の独走もロシアへのヒステリーであった。
もし日本が早期講和を出来たのならクーデターの可能性を排除できていたという事である。4 月に発足した鈴木貫太郎内閣もそこに腐心した。そこにだけ腐心した。一番警戒すべきは陸軍であった。
アメリカと講和するなど何ら難しい話しではなかった。クーデターさえなければ。クーデターを起こさずそこまで持ち込む事が非常の困難であった。当時の日本にとって講和でさえ外交問題ではなく、内政問題であった。あの戦争は日本からすれば単なる内政問題の延長でしかなかった。
もし軍事クーデターが起きていれば講和は出来なかった。その時に天皇、政府がどうなっていたか分からない。その後の歴史も全く違う。独立さえ失われている可能性だってある。
このような狂信的な行動を 20 世紀のアジアで最初にやったのは日本である。おまえら滅びる気か、としか思えぬ中で困難な舵取りをしたのが鈴木貫太郎とその内閣であった。彼は首相に就任してそうそう、ルーズベルトの死去に対して哀悼の意を表する海外向けの放送を行った。と同時に国内に向けては、戦争継続、一億火の玉を語っていたのである。
何故か。彼らは軍部によるクーデターだけを恐れた。それに死を賭した。その暴走さえ押さえ付けられるなら、沖縄で何人が死のうが、広島長崎で何人が焼かれようが、どこそこで空襲があろうが構わなかった。それらの悲しみもクーデターよりは耐えられた。彼らはアメリカと戦争をしていたのではない。軍部のコントロールに躍起になっていた。その片手間で戦争をしていたのである。
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